異世界 20
その日の早朝、いつも橘花達の世話を焼いてくれる青年が、いきなり一人の騎士を連れて現れた時、橘花は、とうとう、自分たちの運命が決まったのか、と覚悟した。例え、何が起ころうと、春日の傍を離れる事はしない、と、眠ったままの春日の手を強く握る。現れた青年は片言でこの場所が危険となったので、移動しなければならないと告げると、着替える時間すら与えられず、橘花と春日は、豪華な馬車に乗せられた。キャンピングカー程の広さの馬車の中は驚くほど快適で、ちらりと見た窓の外の景色が物凄い速さで流れていくのに、馬車の中は全く揺れない。
「馬車ってこんなに速く走るものなの?」
思わず、呟いた。体感は80km/h程だろうか、高速道路の規制速度と同じぐらいだった。
春日はこんな状態になっても目を覚まさない。戻って来たスマホを彼女の手に握らせて、そっと胸の上に置いた。不思議なことに充電は全く減らなかった。橘花のスマホはもう電池切れでただの板になっていると言うのに、春日のそれには時々、メッセージが届く。アンテナも立っていないのに不思議だ。最初の一報以外、橘花には開ける事が出来ないアプリに定期的に送信されてくるメッセージは、明らかに大和からのものだった。例え、読めなくても、それだけで、橘花の心は耐える事が出来た。
ちょっと恥ずかしい思いをしたが、あの時、泉に飛び込んでスマホを取り戻して良かった、と心から思う。
あの時、自分を泉の中から連れ出した騎士を思い出して、橘花は真っ赤になった。
早朝出発の慌ただしい中、銀髪の白騎士は、新緑の森を思わせる瞳を逸らしながら、橘花に一輪の花と色とりどりの何かが詰まったガラス瓶を恐る恐る差し出した。
〈れい。〉
〈れい?〉
日本語で話しかけてきた不審な言葉に警戒し、低くなった橘花の声に慌てて騎士が後ろを振り返る。
橘花と春日を何くれと世話をしてくれる青年が、石板の上に指を走らせ、何事か二人で話をしている。
小さなベル型のピンクの花が並んだスズランの様な花も、ガラス瓶の中の様々な色のビー玉の様なものも、とても綺麗で可愛らしかった。
〈わび。〉
そう言って、もう一度、花と瓶を差し出し、頭を下げた。
下着姿の橘花を抱きしめた事を言っているのだろう。あの時は、水に濡れて下着は肌に密着するし、透けて見えるしで、今思い出しても、羞恥で消えてしまいたくなる。まだ、武流にだって、あんな姿は見せた事がないのだ。目の端に、叱られてしゅんと小さくなっている騎士が見えてはいたが、自分もかなり動揺していたから、早々に逃げ出してしまった。
〈しゃざい。わび。〉
正しく伝わるだろうか、と心配が伝わってくる。あれは、間違いなく事故だったのだから、早く忘れて欲しい。そう思いながら、橘花は”わび”を受け取った。
輝くような笑顔を返され、一瞬、ドキッと鼓動が跳ねた。
「マウリ。」
そう言って騎士は花を指差す。一度、橘花に渡した瓶に手を伸ばし、そこから一つ、緑のビー玉を取り出した。
「ポロ。」
そして、それを自分の口に放り込んだ。軽く齧ってこくんと飲み込む。
そして、橘花の手に戻した。
『食べ物、って事?』
期待と不安の混じった瞳で見つめられ、橘花はその瞳をみながら、瓶から一粒取り出した。赤いそれをドキドキしながら口に入れる。
前歯で軽くかむと、薄い膜はパリンと砕け、とろりと濃厚でけれど綿飴の様に儚い甘さが溶けて消えて行った。
〈!?甘い!美味しい!〉
この世界に来て初めて味わう食感。それにこれなら、かむ必要も飲み込む必要も無いから、眠ったままの春日にも食べさせる事が出来る。
もう一つ、と口にいれた橘花は〈わ、味が違う!〉と満面の笑みを浮かべ、クラウスに頭を下げた。
早速、神子の口に赤いポロをそっと押し当てる。
そんな橘花と春日を見て、クラウスはほっと息をついた。
「謝罪は受け入れてもらえたようですね。」
生真面目な白騎士は、先日の聖なる泉での無作法を謝罪すべく、非番になったと同時に街に降りてプレゼントを買い込み、面会の許可をヨハン王子に取りに戻ってきていたのだ。
スタンピード対応の各種手続きが済んだ後、おずおずと申し出られた時に、ヨハンは思わず、吹き出してしまった。
「それにしても、花とお菓子とは、子供向けの選択では無いのかい?」
嬉しそうな少女の様子にそれは間違ってはいなかったのだろうと思いながら、ヨハン王子はクラウスに尋ねた。
「いえ、あの、私もそれは少し思ったのですが、ミランダ女官長が形の残らない物の方が受け取ってもらえるだろう、と。」
確かに、と、神子を封じている黄金の首飾りを思い浮かべ、二人の眉間に皺が寄る。
「ポロは、姪が、姉の子供が幼い時に、宝物の様に大事に食べていたのを思い出して。マウリの花は、花言葉が彼女に、とても、ふさわしい、と・・・。」
耳まで赤く染めて俯く騎士に、ヨハン王子はその先を聞くのは勘弁してやった。
「さあ、ゆっくりとはしてあげられません。行きますよ。」
この仮御座所から神子を連れ出す事を知っている人間は少ない方が良い。ヨハンは、自分は神子を抱き上げ、クラウスには橘花をエスコートする様に命じると、自分の旗下の青騎士数名と信用のおける侍女に後を託し、泉を後にした。
そうして着いた場所は、恐ろしい所だった。この時初めて橘花はここが自分たちが暮らしていた世界とは全く異なる世界だと心の底から痛感した。
馬車は戦場からかなりの距離を置いて留められたにも拘らず、魔物の血の臭いと体毛や肉が燃える臭いが馬車の中にまで、漂ってきた。思わず、口を抑えるが、同乗している侍女たちの顔色も徐々に悪くなっていく。
「春ちゃん。」
眠っている筈の春日の顔も悪臭に歪んでいるように見え、橘花は場違いにもちょっと和んでしまった。
いつの間にか、臭いは気にならなくなっていた。
その時、馬車の周囲の空気が澄んだことに、スタンピードに集中していた騎士達は、気付かなかった。ただ一人、その可能性を予想していたヨハン王子を除いて。




