9章 ブラック・レイン
61 いずれ誰もが15分間だけなら有名になれるだろう
最終戦争にはもっと敵の情報が必要だ。
「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」
敵を知らずして戦をすることを孫子は厳しく戒めている。ここでテレビが有益な情報をもたらした。
「親分! てえへんだ! やつらがテレビに出てますぜ」
齢53にしてまだ丁稚奉公のマサ(上がつかえているせいだ)がひざまずいてサムソンギャラクシーの画面を指差した。マサは古くさいタックの入った芥子色のスラックス、黒い襟のとんがったシャツを身につけている。30年組に尽くしてきた。なぜかと言えば、ほかに行く当ても無かったからだ。
サムソンギャラクシーの画面にオオハラと4人組が食らいつく。「やつらテレビ番組をつくったみたいですぜ」。
「渋谷TV」。トーク番組だ。坂の上の王宮での収録。渋谷王十世は成金趣味のスーツに身を包んだ。右手にマティーニ、左手に葉巻、金縁のきざな眼鏡をしばしばずり上げた。サクセスの仕方をつまびらかにしている。
「サクセスしたい、したいと言う人は多いが、あなたはそのための努力をしていますか? サクセスの神様は適切な努力を積み上げていかなければあなたに微笑まない。いいかい、最も初歩的なことから言うとだね、ひとつのことに集中するのが、サクセスのコツなんだ。そうすれば、いい結果が出て皆がハッピーになれる。例えば、嫁さんをもらったら、その1人に集中する。もう1人、2人と欲張るとだめだ。波風が立ち、船がひっくり返る。ただ2人いても『集中している』ならばオッケーなのだ。私の場合、妻が1人、妾が29人いる。この30人にわたしのすべてが集中されている。だから大丈夫。でもこれは常人にはまねできないからね」
「いやあ、ためになりますねえ」。聞き手はそつのない中堅人気タレント。2人を挟むテーブルには新著「サクセスの秘訣」(渋谷書房刊)が置かれている。十世の片隅には2人側近らしきものが控えていて、ロイヤルミルクティーの入ったカップをかちゃかちゃやりながら、十世が失言しないよう神経をとがらせた。
右側のスキンヘッド、とオオハラは言う。「こいつはスーパーコンピューター。略してスパコン。異様に頭が切れる。どんな問題も瞬く間に正解を導きだす。アメリカでロボット工学を勉強した後、なぜかチンピラの一味になった。渋谷王国の成功はこいつのおかげだ。ただ怒りやすい。いうことをきかないとなると、産業用ロボットアームで、チェーンソーを動かして、ぶつ切りにしちゃう。やばすぎるぜ」
左側は武闘派のロッキー。「毎晩浴びるように飲んで、タバコを3パック吸いながら、WBAヘビー級世界王者になった強者だ。こいつは引退後、青龍刀を使うようになった。おれの子分30人くらいがからだを真っ二つにされた。ただ頭の中は空っぽだ。足し算もできないし、クリーニング屋の使い方も知らない。サッカーをみても試合が理解できない」
王様は見た感じバカ以外の何者でもない。この2人が王国をここまで大きくしたのだろう。
渋谷王国と刃を交えた老人たちは、彼らの実態にかなり詳しい。これは彼らが失地を回復しようと臥薪嘗胆していることを意味している。「やつらのコングロマリットはだなあ。かなりのものだ。賭博、麻薬、売春、エンターテイメント、闇金融、グレーゾーン金融、ラブホテル、そういうのを傘下におさめている。それだけじゃない。ホテル、不動産、商業施設、アパレル、レストランからファストフード、居酒屋、運送……。なんでもありだ。
これらが60数社にまとまっている。いろんなところで妙な取引をごまんとやっている。それから得体の知れぬ幽霊会社もある。おそらく数百社ストックを持っている。時々によって使い分けるし、都合が悪くなればすぐにほっぽる。幽霊をほかの誰かにプレゼントすることもあるんじゃ。
このコングロマリットはなにもかもが無茶苦茶じゃ。税金もしっかりおさめてない。許認可をもらわないでビジネスを始める。麻薬は売る。女は売る。人は売る。臓器は売る。しょばも売る。賭場は経営する。もちろん、人のことを言える筋合いなど無いがな。この百鬼夜行のグループをまとめるスポークがある。渋谷王国銀行じゃな。銀行が各子会社の株式を保有する構造じゃ。ここもまたひどい。政治家のへの密やかな献金、やばい影の銀行、マネーロンダリング、怪しい新規株式公開となんでもありじゃなあ。ここの頭取なんてのはものすごい権力を持っていやがる。会社の経費で乱交パーティをやっているくらいだ」
じいさんは「こんなヤバい渋谷王国がどうして無傷でいられると思う?」ときいた。「それは文字通り王国を築いているからじゃ。区議会の全議席、都議会の半分に息をかけている。影響力のある国会議員への献金は莫大で、王国の横暴が話題に上ることもない。政治家もヤバい金の無心は渋谷王国に頼むことが多かった。メディアへの広告もたくさん打つ。一部の勇敢な週刊誌以外は彼らに牙を向かないどころか、歯の浮くようなどっこいしょすらやる始末だ。彼らのヤバい部分を突く奴らはほとんどいなくなった。それどころか、彼らは彼らのすることなすことを正当化する法律の成立をもくろんでいる。金がまたぐうんと動き出しそうじゃなあ」
オオハラは老人特有の遠い目をしてとうとうと説明する。「彼らは合法的にデモクラシーの中に王国をつくることに成功しているんだ。とにかくたくさん金がある。それが動き出せば、何もかもが蝶のように舞うんだな。とにかく民主主義ってのは買収可能になってきた。買い手は企業か投資家、世界を回遊するホームレスマネーだ。これに対して、有象無象のものたちがデモをしたり抗議したりすることが非合法になってきている。これでは、金がものを言う世界であり、階級が存在する近代以前の時代のようじゃあないか。金があれば犯罪の量刑も、政府の規制もなにもかも自由にできる。金があれば魅力的な異性を簡単に手に入れられるし、社会的な信用も得られる。奴隷をひざまずかせることができ、付和雷同の中途半端どもがスタンディングオベーションしてくる。
コントロールされる側の国家エリートたちもじたばたやってはいる。だが、彼らの命運ももう尽きそうだな。いろんなものが国境を飛び越えちゃう。国家が成立する要因ががたがたになっている。国家が中間層に雇用を提供できる時代は終わった。もうそんなに人間は必要ないんだ。少数のグローバルエリート以外はねえ。くそったれ!
いまやエコノミーの時代なんだ。21世紀ってのはなあ。エコノミー、エコノミー、エコノミー。地球の球体がまるまるエコノミー浸しになったんだ。吐き気がするぜ、くそったれ!」
オオハラは部屋の済みにあったソニーのゲーム機プレイステーション5を頭上にかかげると床に叩き付けた。その未来的な雰囲気を漂わす球体のボディがばらばらに崩壊した。あああああ、幹部の1人が頭を抱える。彼はグランド・セフト・オート13をプレイするのが好きだった。やりそこねた悪徳をゲームの中で実現していた。
「うるせえ、こんなくそゲームやるんだったら、稼業なんかやめてマクドナルドで働け!」
62 汝OLになるなかれ
「じゃあその渋谷をどうやっつけるかでしょう?」
長らく沈黙していた青が、突然口を開いた。幹部の目線が彼女に向く。彼女が何者かを探っている。けれど彼女は冷たい氷でできているように動じない。「われわれは〈渋谷鹿〉がほしい。〈渋谷鹿〉について知っていることはないかしらん」
オオハラは丁稚奉公のマサが持ってきたマクドナルドを、ほおばった。コーラを一気に吸い上げてげふっとげっぷをやる。いいかい、要するにね、とオオハラは言う。
「〈渋谷鹿〉はなあ、俺らの頃はさあ、道玄坂とかセンター街だとかをぶらぶらしてたんだ。仕事なんかしない流浪人でさあ。でもものすごく魅力にあふれているんだ。しゃべると人が笑い出し、腹を抱え、笑い転げて、道元坂を転げ落ちた。おしゃれな青山方面はどうもうまが合わなかったみたいだな。人から飯をもらうのがうまくてねえ。自分で自分の飯の面倒をみなくていいんだから。よくシネマライズで小難しい映画を見ていた。ブーツを履いた日本人女性が好きだった。酒を飲むと、『いやあサンタクロースから仕事を干されてねえ、渋谷に流れてきたんだ』、と冗談を言う陽気なやつだった。一時期はホステスのクミといい仲になって彼女の五反田のマンションに住んでたんじゃないか。それでも昼になると渋谷にきてねえ、『やっぱ渋谷がいいわ。〈五反田鹿〉にはなれねえなあ』とかうそぶくんだよな。おれたちはあいつをとっちめるなんてことはしなかった。万人に対する自由を保証しているんだ。『鹿の権利』を尊重しようとなったわけだ。
みんないつの頃からかしらないけれど、彼のことを〈渋谷鹿〉と呼ぶようになったんだ。彼は自分がフィンランド生まれのトナカイだ、と言い張っていた。だから鹿じゃない、って言い張るんだ。でも、現役のサンタクロースが渋谷に着たとき、彼とはちあわせた。サンタは『おお、この街には鹿が住んでいるんだね』と彼の頭をなでた。すると、人々は『やっぱり、鹿だった。あいつはうそつきだ』と叫んだ。すぐに渋谷中がざわざわした。彼は格好がつかない。『うるさい、ばかにしやがって、ばかやろう!』。彼は冬のさぶい日だったが、新宿まで1人走り、ゴールデン街でいっぱいやった。『ちくしょう、ちょっと格好つけてみたかったんだ。いいじゃあねえか、いいじゃあねえか、バカヤロー!』とその日はコップ酒29杯も飲んだ。次の日新宿二丁目で鹿が寝転がっているのに仰天した警察官に追いかけ回され、ほうほうの体で渋谷に帰還なさった。
それでも、彼が渋谷の人気者だったのは間違いない。かれもまた渋谷の水を飲み、渋谷の空気をすってきた。このままずっと渋谷にいてもいいかなと思い込んだようだ。やつがストリップバーにいったときに、こんなことを言ったことがある。『おれはこのままずっと渋谷でぶらぶらしていたいよ。うまくいけばそうできる。〈導かれる者〉が現れない限りはね。現れちゃうなら、おれは道先案内人を買って出ないといけないんだ。ツアーコンダクターとはわけがちがう仕事なんだよ。とってもやばいやつだ』」
「その〈導かれる者〉ってのが、たぶん、この姉ちゃんなんだよ」Vが話した。「〈渋谷鹿〉とこの姉ちゃんを引き合わさないといけないんだ」
オオハラは目を丸くした。鳩のような目だ。全員の視線は青に集中した。でも白いワンピースを着た彼女のたたずまいは揺るがない。彼女の周りだけ、古い写真のなかの風景のようだ。彼女は夏の夜に見たうっすらとした「どこかここではない場所」に関する夢に似ていた。それは目覚めた瞬間、1パーセントの残像以外は消え去ってしまうのだ。
オオハラは「M」と大きく書かれた紙袋に手を突っ込んで、新しいビッグマックを取り出した。
「まあ、これを食いねえ」
「懲りたところなの」
「懲りたところだとぅ?」
「最近食べてがっかりしたのよ」
そうか、というと彼は忙しく床の上を歩き回った。考え事をしているスティーブ・ジョブスのように。それから、ちらちらと女の様子をうかがった。
「どうしてキミはOLにならなかったの?」
じいさんには彼女がしていることがわからない。時代はとっくに彼のことを置いていってしまった。「ほら、『ランチなににしようかなとか?』『営業二課の諸藤さんってかっこいいよね』とかやるんじゃろ? わしはよくドラマ見るんじゃ。そういう、ありきたりなやつ。でも、キミはちょっとほかの人と雰囲気が違うから、だんだん孤立していきそうだ。で、女たちから仲間はずれにされてキビシイいじめをうける。すると、自分のことなんか知りもしないという素振りの諸藤さんが、『大丈夫? 相談に乗ろうか?』とか言って君のことを夕食に誘うわけ。なぜか、かなり陽気なメキシカンレストラン。バンドがご機嫌な音楽を鳴らすと、もうみんあ必死の形相でサルサを踊るんだ。『わたしこういうの苦手なの』北国うまれでシャイなキミはものすごく照れちゃう。『大丈夫。流れにのるだけだよ。僕に任せて。渡し船に乗って対岸にいくようなイメージさ』彼はコロナビール720ミリリットルびんを3・7秒で飲みほして、キミの腕を引っ張った。キミは激しい踊りの中で我を失う。目を覚ますと五反田のラブホテルのベッドの上だ。真っ裸。隣で諸藤さんが鼻提灯をつけている。キミは彼との素晴らしい性交を思い出しうっとりする。もごもごもご。もごもごもご。諸藤さんが寝言を言っている。シンプルだけど凝りに凝った七三ヘア。陶器のようなつるつるした顔(苦労をしたことがないのかもしれない)。切れ長の目。かっこいい。もごもごもご。またやった。キミは耳を近づけて澄ました。
『やめてください、女王様、ああ! 女王様、もう下僕は我慢できません。あああ! 熱い! 熱い!!! 女王様! おうう!! 女王様!!!』
キミは血の気が引いていくのを感じたのでした。
めでたしめでたし」
ぎゃっはっはっはっは! 老人たちが笑い転げた。だが、彼女は動じないままこう返した。
「わたし、OLとか嫌いなの。もろ支配されて、飼われている感じでしょう。わたしは自分自身の人生を自分自身で生きたいの」
彼女の声はアイスランドの氷山を連想させた。老人の笑いがすっと引く。
「そうか、そういう考えなんだな。なるほどキミは見た目とはまったく違う者が頭の中に宿っているわけじゃなあ〜」
オオハラはアゴをなでなでしてにやりと笑った。
63 怪人カニバブラー北海道に現れる
話は〈渋谷鹿〉に戻ってくる。
「そうか、それでだな、渋谷王が渋谷を制してからというもの、鹿の人生は急転直下だ。鹿はスペイン坂のクレープ屋で女子高生の恋の悩みを聞いてあげていた。その女子高生は色が白くて細いきれいな子だった。鹿は『あわよくば』だったが、そこに金属バットを持ったチンピラがやってきて連れさられた。それ依頼、数十年行方知れずだ。たぶん、渋谷城に幽閉されているだろうって話だ。いまやつが生きているかわかんない。鹿の寿命ってのはそんな長くなさそうな気がする。もしかしたら獄中でぽっくりいっているかもしれない」
Vは割って入る。「いや、たぶん大丈夫だ。不死に近いという情報を得ている。おれらは〈渋谷王国〉をやっつければいいんだ。こっちは鹿を得る。そっちは古い庭に帰れる。どっちも得ができると思うんだが」
「そのとおりだ」
オオハラは満足げな笑みを浮かべる。
「じゃあどうやっつけるかだが、ムカデの頭をやっつけるのが手っ取り早い。渋谷王国銀行だ。こっちの戦力はこころもとない。白いダブルスーツを着た妙な4人組、白い銭ゲバ猿、それから老人ばかりのやくざ。これはもう、銀行への奇襲攻撃しかないだろう?」
「セオリー通りいくと、そうだな」とVはウィスキーの小びんをあおりながら答えた。
「それでわしはな。よりシンプルな方法を考えたのじゃ」
「なに?」
「銀行強盗じゃ! やつらの資産を根こそぎ奪えば、ムカデの足も動かなくなる。おれたちは組の再興費用としてそれを頂戴できるんじゃ。これほど理にかなった方法はないだろう。そうだろう、みんな?」
オオハラは立ち上がり拳を突き上げた。幹部どもも老体に無知を打ってよろよろと立ち上がり、「そうじゃあ!」と叫んだ。
「おいおい、ちょっと待てよ、計算がざっくりとしすぎてちゃいないか?」
Vの異論は彼らに聞こえなかった。
やってやるぞ!
やってやるぞ!
やってやるぞ!
ものすごい大声。葉隠組伝統の「やってやるぞ!三連唱」が数十年ぶりに響き渡った瞬間である。奥からマサが白い粉の入った透明なビニール袋を持ってきた。米袋ほどもある。中身を机にぶちまけた。幹部どもが先を争い、群がる。鼻に千円札の筒をあてがいしきりに吸い込んだ。男たちが咆哮を上げる。胸をゴリラのようにたたき出す奴がいる。フレディのように踊りだす奴もいる。殴り合いをするやつもいる。TNT爆弾的なものすごい熱狂が雑居ビルの一角を満たした。
「マサ、あれを持って来い!」
オオハラが雷に似た興奮しきった声で叫んだ。
どたどたどたどた。マサがわざとらしく足音とともに、奥からスピーカーを載せた台車を持ってきた。「ハイ、スイッチオン!」。どんどこどこどこ。どんどこどこどこ。スピーカーが和太鼓のイントロを鳴らす。次にシタールの思慮深い響きが重なる。昔作曲家のそば屋に造らせた任侠曲「葉隠組、やってやるぞ!」のはじまりはじまり。男たちはスーツを脱いで上半身裸になる。多種多様な俱利迦羅紋紋があらわになる。でも、それは衰えた肌のせいでだらしないにもほどがある。引き出しの奥で死んでいた元カノとの写真のように色褪せている。青は大海の上で火を噴いている遊覧客船を見ているような気分になる。
老人たちは机やソファの上に乗り、歌を唱和する。組がぶいぶいいっていたときにつくったその曲は21番まである。同じさびが21回繰り返される。21回目に限っては無制限に続けられる。昔、敵対していた服部組をこてんぱんにやっつけたときは、ホステスを全員裸にさせて、うたいにうたった。うたい終わったときは夜が開けていた。「葉隠組80年史〜太く長く勇ましくかけ抜けた任侠道〜」にそう記してある。
歌うときにはルールがある。ゴリラのように胸をたたくことだ。たたくたびに「侠気が弾ける」と彼らは信じていた。信じることは大切だ。信じることで多くの問題をクリアすることができる。
「ようし、野郎どもいくぞ!」オオハラは日本刀を天にかざした。彼らは疾風のごとく雑居ビルを出て行った。
*
翌朝。かにのごとく泡を吹いたオオハラ組長が担ぎ込まれてきた。「組長〜!」役員が叫び声を上げている。黒壇の机の上にブリーフ一丁のじいさんが置かれた。1人がせわしなく心臓マッサージをやっている。胸を押すたびにものすごい量の泡を吹いている。「組長〜!」「いろいろと無理したからだ」「組長、まるで怪人カニバブラーみてえだな」「なんだよ、カニバブラーってのは?」「仮面ライダーに出てきた奴だよ。北海道で暴れるんだ」。雑談に花が咲く。役員はぼけとドラッグの残り香のせいで正気じゃない。なかにはタバコのフィルターに部屋の角っこにゲロを吐いたり、死んだ嫁が憑依していたりする幹部もいる。どたどたどた。マサがやかましい足音を立ててやってくる。よぼよぼの白衣姿の老人を連れてきた。
「闇医者を連れてきたぞ!」
彼は聴診器を胸に当てる。いろんなところにぴたぴたぴたと当てる。顔をしかめる。瞳にライトを当てる。
「午前6時32分、ご臨終です」
「組長〜!!!」
幹部が阿鼻叫喚した。
64 銀行強盗の手引き
渋谷王国銀行(渋王銀)の本店は渋谷城(元NHK)の一角にあった。英国植民地スタイルの建築。女性行員がずらーと蝋人形のようにカウンターに並んでいる。空調には常にジャスミンのお香がたきしめられ、大口顧客、融資先には「ウェルカムドリンク」なるものも興ぜられた。
このとき渋谷は金融特区になっている。渋王銀は金融庁のチェックなんか受けなくていいのだ。独自の独立機関が監査の役割を担うようになっている。もちろん、ツーツーだ。渋王銀はほかの銀行が嫌な顔をしなければ、フリーハンドでなんでもやれた。「世界中のかなりヤバい金が、渋王銀に寄り付いている。あそこはかなりやばいんだ」。まことしやかにそうささやかれた。
天井でセーリングファンが回転する店舗に白い猿が入ってきた。エジプト王的な服を着て、頭上で棍棒をぐるぐるまわしている。猿の仮面をかぶった4人組も突いてくる。中国雑技団の服、それぞれ腹の前に括り付けたガムランを鳴らしている。スティーブ・ライヒ的な演奏をやらかしている。客と行員はぽかんとそれを眺めた。
「なんだこの野郎、ここから出て行かないか!」えせストリートギャング上がりの警備員たちが彼らを制止した。もみ合いになる。白い猿が棍棒でギャングをぶん殴る。1人2人とノックアウトする。くんずほぐれつじゃあないか。
「君たちやめなさい!」
銀行から通報を受けた警察官がドタドタと駆けつけた。 数十人いる。これで安心だ。彼らはもみ合いに突入する。もちろん猿どもをやっつけるかと思いきや、逆だ。警察官は警備員を全員縛り上げた。警察官は全員老いぼれどもだ。胸にオオハラという名札をつけた警察官は、銀行員を脅かした。手製コントローラーをかざす。
「この銀行に爆弾を仕掛けた。ボタンを押したらここは爆発するよん」
65 王座をめぐる闘い
――渋谷城本丸王座の間。
こういう一大事のときに、仲間割れが起きていた。ロッキーがスパコンを天井から逆さ吊りにしていた。スパコンの頭の下の床には水が中国の化学工場の排水がたたえられた釜がある。「この野郎!、裏切り者め! 謀反を起こそうたってそうは行かないぞ」。ロッキーは縄を少しずつ緩めて、スパコンを汚水に近づけていく。「馬鹿野郎! これは〈渋谷王国〉を陥れようとする何者かの謀略だ。お前は偽情報をつかまされているんだ! ロッキー! ボクを信じろ!」
「だまされるか! 馬鹿野郎!」ロッキーはびんに入ったアンフェタミンの錠剤をぼりぼり食った。「この通りネタはあがってんだよ!」彼は「暗号化されたメールの解読文書」とされる紙をひらひらさせた。そこには「今度、(富裕層向け超高級マンションの)渋谷セレブリティタワー建設の地鎮祭があるから、そのときに、渋谷王の頭に杭打ち機を突っ込んでやればいいじゃない。やるってのは殺すってことだよ。PS 最近杏仁豆腐にハマってる。僕が王になったらキミは大臣にするからね」
ロッキーは端っこの紙の出所らしきものに指を差した。NSAと書かれている。NSA??? 米国の国家安全保障局? どうしてそんなところから出てくるのか。
「いいか! これはNSA提供なんだ! 絶対に確かなもんだ。この裏切り野郎!」
スパコンの体は釜のなかに沈んだ。42秒そうされた。スパコンは魚のように水をはいている。異様にトロピカルな色彩をした水をだ。
そこで輿に乗った渋谷王がやってきた。「おい! なにをしているんだ、ロッキー。スパコンを殺す気か?今すぐやめたまえ」
「こいつ裏切りやしたぜ」
「なんだと〜?」
「この紙を見てください」
王様がそれを手にするまで、4人の召使いが中継した。王様はそれをみるやいなや手がわなわなと震えだした。
「このくそったれ野郎が! ぶっころしてやる! 杭打ち機を用意せよ!」
スパコンはじたばたする。「やめてください! 親分、これはうちを奈落の底に落とそうと考えるやつらの謀略です。ボクがいなくなったら、この国はまわらなくなります。一石一朝で回るもんじゃないんです。どうかお考え直しください!」
「うるさいこの裏切り者があ〜!」
「王! なんにもできないあんたみたいなバカを転がしてきたのはボクですよ。ロッキーは敵をやっつけるときだけ、うまく機能する。デストロイヤーですよ。積み木のお家もつくれないほどの破壊者なんですよ。なにかをつくることはできないんです。ボクがいないと王国はすぐにダメになるんだ! 王! 決断を!」
王はすぐに決断を下した。
「おい! あれを持って来い!」
原発のやばい汚染水が釜の中にどぼどぼと突っ込まれた。
「人々が漠然と、常識と呼んでいるものは、実はわれわれが崇拝する高度技術のほとんどよりも複雑なのだ」
それがスパコンの最期の言葉になった。彼の体は釜の汚染水の中に落ち、やがて動かなくなった。
66 渋谷城の陥落
この末路が、渋谷城の陥落だった。極めて機動性の低い老人主体のグループに、玉座の間はあっさり制圧された。地上178メートルにあるガラス張りの王座の間にたどり着いたとき、老人たちは激しく息切れし122名(準構成員含む)は救心182錠を摂取した。
「よくもやってくれたな、この野郎!」
縄でぐるぐる巻きにされた渋谷王10世とロッキーは怒りをあらわにしている。城を守っていた親衛隊どもはあっという間に恵比寿方面の山手線に乗って逃亡した。もともとは茨城のヤンキーだった。スーちゃんは「今頃、常磐線にのっているだろうよ」とわらう。その隣でナボコフというロシア人はKGBの内部文書を静かに読んでいた。「なるほどこうやるんだな」と意味有りげにつぶやく。
さて、4人組の頭目、「割れた腹筋」を約束するメンズ健康雑誌を読みながら、そばをすするVという男はタフだった。彼はその白いダブルスーツの見た目とはまったく一致しない精緻さで、〈渋谷王国〉の独自サーバーに溜まったデータをかっさばいていく。マグロを解体する職人のごときである。「ほらほらどんどん、汚くなってきたなあ、汚くなってきたなあ」彼は東京地検顔負けのアグレッシブさを持っている。彼はデータの裏を取ったり、伸びしろを伸ばしていくため、国会議員になる前のマニー・パッキャオを意識したシャドーボクシングをやらかすのだ。それでもお黙りをしていると、ガムテープでナイフをくくりつけたぼろぼろのエアマックス95が元支配者の目の前で風を切った。彼の脅し文句「この野郎! 委託生産にされてえのか! この野郎! 低賃金だぞ!」は余りにも意味不明だが、なんとなく効果はある。
リサーチはかなりうまく行く。栓が抜かれ風呂の水が抜けていくみたいだ。渋谷王国の底があらわになる。ううむなんて複雑な仕組みなんだ。電線やら電話回線やらが地中でぐちゃぐちゃになった感じだ。予期せずして、混沌をつくり出したというのがありありとわかる。お金をあちこち動かし、上前をはねて富を築くなんてことを、一丁前にやっている。一度そういうのをやると、うますぎてやめられない。そういう過程をサーバーのデータがあきらかにしている。スーちゃんはこう楽しんだ。「一冊の本ができそうだ。こういうタイトルはどうだろう。『〈渋谷王国〉の興亡』?」「いやあ、まじめすぎる『渋谷の王国、悪党気取り』とかは?」まあまあまあ。
でももっと大事なことは何にもわからなかった。銀行の本店と城を奪ったが、〈渋谷王国〉はまったく支障無く動いている。それから、彼らの主たる目的の〈渋谷鹿〉もどこにもいない。これでは、城を陥落させた意味が無い。これらを王に尋ねても知らぬ存ぜぬの一点張りだ。もしかしたらスパコンが知っていたのかもしれない。でも彼は鬼籍に入ってしまった。
「この王国はゾンビ状態じゃないか。死んだのに生きていやがる。大事な者はもっていない」とスーちゃんは言うけれど、どうやら、渋谷の中心部はほかにあるようなのだ。「ちがうぜ、銀行が金という血液やあらゆる便宜を足に供与する機能はほかのところが代理しているんだ。銀行とこのクソ王族どもは切り離されたんだ。ロケットのブースターみたいな感じだ。こいつらは宇宙ゴミより価値がないぜ」
「確かめてみよう」。スーちゃんは腐れ友達と連絡を取り合う。仲間はある機関と恊働している。霧の中に沈んだ森の中にいる森の妖精のように見えづらい渋谷王国の構造がありありとみえる。そんなポジションにいる。アタッシュケースに入れたモールス信号。NSAの傍受をかいくぐれる。警視庁のそれも同じだ。トン・ツー、トン・ツー……。「どうだ。渋谷王国は崩壊したか?」
「いや、そんなこたあないな」
「やっぱりそうか。なんでだろうな?」
「たぶんコアに達していないんだよ、キミ」
「どこにコアがある」
「キミから近いとだけ言っていこうか」
「鹿はどこだ?」
「やはりキミから近い」
これで通信は打ち切られた。スーちゃんは頭を抱えた。「近くって言ったってなあ」
「じゃあ正門からまっすぐ入ろう」KGBの文書を読んでいたナボコフがそう宣誓した「まだまだ知っていることはあるだろう、キミタチ」彼はもちろん、彼の愛する曲を歌った。彼の覚悟を深く表している。
こんなこといいな できたらいいな
あんなゆめ こんなゆめ いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎなポッケで かなえてくれる
そらをじゆうに とびたいな
「ハイ!タケコプター」
アンアンアン とってもだいすき ドラえもん
67 砂嵐のなかに潜む影を見つけよ
王とロッキーにはとんでもない拷問が加えられた。彼らはかなり我慢していたが、人間の意思を飛び越える技が使われると、それは万里の長城を通り抜けて、4人組の元に渡されるのだ。
「おれたちは表層的なものなんだ。深層はもっと違うところに隠されている……。それは意外なところに隠されている。そうだ。ええ、そんなところかいな、というところだ。もちろん渋谷の中だ。これが限界だ。これ以上はいえないようなシステムがおれの中にほどこされているんだ。影絵芝居。おれたちは影絵だ。操り手のいる影なんだ。だれが操っているかって? それは言えないように仕込まれている。おれだって言いたい。この地獄から解放されたいよ。でも言えないようにおれは改造されているんだ」これが王の最期の言葉になった。彼の遺体は損傷がひどく、その場で井戸の下に落とされることになった。
老人たちは王座の間で、宴を始めた。解放された彼の妾どもと一緒にポルカを踊った。妾どもはどれもこれも成長していないガキの娘だった。制圧した城の頂点からながめる風景はとってもよかった。特にオオハラらにしたら格別だろう。いまいましき敵をぶったおしたからだ。もちろん彼らは鼻の先っぽを白くしながら朝まで「葉隠組、やってやるぞ」をうたった。彼らはもうかなり満足できた。
でも、 王国は問題なく機能している。その核心部分は「近くの意外なところ」に隠されている。4人組はまだ何も手にしていないのだ。
4人組がしたのは〈渋谷王国〉のサーバーの中身を再び洗い出すことだ。情報の9割がガラクタと言われる。それまではガラクタはゴミ箱に直行だった。そのぱんぱんになったゴミ箱をさらい直す作業だ。
やれどもやれども何にも見つからない。砂嵐の吹き荒れる砂漠に潜む影を探している。それがあるのかどうかもわからないのに。これにグループは4日かけた。ナボコフはずっと街の様子を探る役割を担った。その間、王国の手足はなにごともなく機能し続けている。何にも変化が起きていない。気持ちよく運動しせっせと汗をかいている。じゃあ渋谷城はなんだったのだろうか。ただの目くらましだったんじゃないか。そういう疑問を思い浮かべたくなる。人々の目を逸らすために造られたハリボテではないか。もっと大事な部分は別のところにある……。
この考えはすぐに共有された。残りの3人はそのデータの海のなかに潜り込んだ。その視界は悪く、相変わらずガラクタだらけだ。でも、素晴らしい部分がある。荘厳な静けさが満ちていることだ。世界とかなり激しく隔絶されている。潜る間、心は自分が行うことから離れ、一筋の光が指す暗い世界にいる。それはものすごい感覚だ。
やがて見えてきた。
砂嵐のなかに潜む影はどうやらある。ただ普通にやっても見えやしない。ずっと立ったまま、一点に目を凝らしたままにしていれば、それは十数パーセントの確率でうっすらと漂い始めるのだ。それは密やかに渋谷王国銀行とやりとりをやっている。誰の目も届かぬところを選んでいる。どんな角度から見てもやりとりの内実はきれいさっぱり隠されていた。そこまできれいに隠されれば疑りたくもなる。ゴミ山の中から一つの紙切れを探し当てるような努力で、彼らはついに行き当たった。
彼らの居場所についてこう言っている。
2―29―1 道玄坂 渋谷
68 雨が強く降りしきる
細長いポールが全面にたった未来的なデザインの銀色の建物。
カリスマ的な女性がカタカナのファッション語をわんわん叫んでいた。アメリカのポップミュージックががんがんかかっている。最新のファッションに身を包んだティーンエイジャーの女の子がじゃんじゃん回遊している。
まるで水族館のトンネル水槽にいるようだ。泳ぐのは可憐な少女たち。触ったら割れてしまいそうなデリケートな陶器のような。少女たちは一人一人服装がかなり違う。顔も違う。メイクも違う。髪型も違う。仕草も違う。そのすべてに手が入れられている。つくりこまれている。精巧なのもあるしおかしいのもある。自分が元あった姿をしている女の子なんていやしない。皆「何か」を演じている。演じる「何か」のイメージはある。常にあり、常に揺れている。イメージは洗練され強烈だ。でも彼女たちは絶対にその「何か」には辿り着けない運命にある。だって「何か」はイメージだから。虚構だから。うそだから。それはもともとありもしないものだからだ。
そういう虚構と戯れている彼女たちは、自分と外界の間に何か固いプラスティックのごときものを挟み込んでいる。それが彼女たちの傷つきやすい心を守っている。いつもさびしい。何かが足らない。相手が見えない。自分すら見えない。欲望に名前をつけられない。コップ一杯の消費を飲み込んだ後味。妙な苦みが残っている。恐ろしいまでの表層だけをかすめとるだけの感覚が体中を浸している。つらい。まいっている。もう何もかもをやめたい。でも、その抜け道を見つけられない。それは密やかに大嵐を待っている。すべてをぶちこわしてくれる何かを探している。
こぎれいだけどちょっと雑然としたフロア。人々の消費の熱気を逃がす排気口が意図的に取り去られているんじゃないだろうか。むんむんとして息苦しい。人は少しだけ躁状態になっている。そこでは古いポップソングがかかっていた。パフュームというガールユニットの「セラミックガール」というヒップな曲だ。それはこう歌っている。
素敵な服を着て買い物に出掛けて
あたりまえのように刺激的で
だれかが思いついた人工の夢いっぱい
なにか違和感に気が付いた
柔らかできれいなスタイルでキラキラ
あの子みたいにかわいくなれたら
新しい世界で毎日夢いっぱい
たぶん でもね 私は
セラミックガール
そこはティーンエイジャーの女の子のショッピングスポット「109」だ。あの住所はここを差していた。それ以外に手がかりはない。テキはどこにいる。この無数のこじゃれた店のどれかなのか。だが、ここはジャングルみたいで何が何だか判然がつかないじゃあないか。ちょっといるだけでめまいがする。「ぼくは、いったい、誰だ?」。そんな感じだ。「おまえは、いったい、どこから、来た?」そうだ。自分が誰だかわからなくなるんだ。「わかる感じ」が喪失する。モードにうまくなじめない。そう、白いダブルスーツを着たVは完全に浮いていた。おじさんは戸惑いながらも「すっげえところだな、おい。いまどきのガキはこんな服を着やがるのが、すげえなおい」と野太い声を出した。飛んだり跳ねたりしてその異空間を楽しんでいる。ディズニーランドに来たガキみたいだ。ディズニーランド。あそこあそこでとんでもない世界だ。宇宙人が地球を侵略したら、あそこの敷地まるごと標本にして飾るだろう。「人類はこういうのをつくるのが好きだった」とかぬかすんだ。
少女たちは間もなくそのおやじを見つめ始める。まるで韓流アイドルがいるみたいだ。ただ視線は完全にネガティブだ。通り過ぎる表情、表情、表情、どれも曇っている。「なあにあのおやじ〜まじいけ好かない〜」。そこは誰かのお父さんが入ってくる場所じゃあない。どんな中年の入場もお断りだ。ティーンエイジャーの聖域なのだ。「ドント・トラスト・オーヴァー・トゥウェンティ」の世界だ。彼は聖域を置かしている悪霊だ。殺されてもしょうがない。
4人組のメンタリティはジャングルに迷い込んだ探検隊のようだ。遠巻きに見つめる少女たちは森の生き物たち。探検隊と生き物たちは言語が違う。通じ合わない。探検隊は生き物たちのことがよくわからない。ジャングルの構造だって謎に包まれている。自分が進んでいる方向が確かかわからない。彼らは何を探して良いかさえわからない。
現代の都会的事象だがジャングルにはやはり無数の監視カメラがある。カメラのレンズの表面は沈黙して何も語らない。カメラの映像はビルのなかのいくつかの装置で統合されている。映像は閉鎖的なネットワークを介してそこにいなくとも、彼らを眺めることを可能にできるのだ。カメラも人目につくものと環境の中にカモフラージュしているものがある。
それをつかって眺めているのは誰だろうか?
突然それは起きた。白に近い金髪の少女。ビビッドな装いだ。ピンク色のすごい短いスカート。無数のどくろをあしらった白黒のタイトなヨットパーカー。アイラインをめっちゃ引きまくった、鋭い目もと。青いカラーコンタクトをつけた瞳。ぴんとたった睫毛。「わたし、あなたたちのこと知っています」。彼女は「こっちにきて」と彼らを連れて行く。6F。背の高いまるで角材でできたような細い女がいる。 ジャクリーン・ケネディのようなゴージャスな髪型にヒョウ柄のジャケット、胸元がずばっと開いたカットソー、巻きタオルのような短いスカートという着こなし。胸に「みゆ」とひらがなで書かれている。店員のようだ。どこかの国の国防長官のようにものすごい険しい顔をしている。
彼女はVの耳元にこうささやいた。機能的な声だ。
「あなたたちはつけられている。遠くから見ているやつらもいる。それはとても危険な状態だ」
「まじかよ、全然気づかなかったぜ!」と白いダブルスーツがいった。
「彼なりの冗談なんだ」
スーちゃんが付け加えた。
「こっちに来なさい」
彼女は4人組を彼女が働く店の奥に引きずり込む。レジに入るギャルと目を合わせる。ギャルは要塞を守る陸軍兵士のように周りに警戒の目を走らせた。奥まったところにある試着室へと連れて行く。外からは見ることはできない。3つあるうちの1番奥の試着室。そこに4人を押し込んだ。小さなマシンを彼女はもっている。それは電動リール(電動で釣り糸を巻き取ることができる機械)を4倍ほど、かぼちゃの大きさまでにしたものだ。
「それはなんだね?」Vがきいた。
「秘密よ」
女の口はものすごく固かった。神社にある獅子の表情をして、追加の質問の余地を与えなかった。職人的な寡黙さをまとう。取っ手を右手がしかとつかんだ。緩慢にまわし始め、速度をゆっくりと上げていく。蒸気機関車が出発進行する時の車輪の動きのようだ。彼女の右手の回転がかなりの速度に達すると「ピピピピピ、ピピピピピ」と電子音を鳴らした。ぶるぶるとバイブレーションが作動し、いくつかのパネルの光が点滅している。「サーベイランスロンダリングを終了致します」と全自動雀卓的な声を出すのだった。
「これであなたたちの受けていた『監視』のリンクは一度ほどかれたわ。でもあれはハイエナのような鼻を持っている。すぐにあなたたちを見つけてしまうでしょう。だから急ぎましょう」
彼女は全身鏡の下の部分を押す。すると60センチ四方の正方形が、猫の通り道のように開いた。
バックヤードに出た。「外」がうそのように殺風景なコンクリむき出しの廊下が浮かぶ。いろんな設備、備品が少しばかりくたびれている。段ボールがいっぱい積み重なり疲れた顔をした店員がかつかつと歩いている。
その背の高い女は言う。「これであなたたちは少し時間を稼ぐことができた。でもすぐに奴らは嗅ぎつける。やつらは泡を食っているところだ。でも、すぐに立て直してくる。あとはキミが導くんだよ」妖精のような小さな女の子を指差した。可憐な少女は操り人形のようにこくりとうなづく。
「ねえ、あなた方、何者?」スーちゃんがきいた?
女は完全に無視する。完全さの手本のようだ。台詞をはいた。「わたしはここでもう少しだけ時間を稼ぐ。少しでも可能性を上げなくてはいけない」。彼女はそういうとまた職人的な寡黙さを漂わせて猫の通り道を引き返した。びしっとした神経質そうな背中が見えた。
「こっちよ」
可憐な少女は声を上げる。階段で地下二階まで降りる。4人の足音が天然のミニマルミュージックをつくり上げる。まるでゲリラを撃退するためにしつらえたジグザグの廊下を20メートル進んでいく。従業員用の狭い女子トイレがある。無理な消臭剤がにおい、タイルの間の溝がかなり汚れている。その一番奥の個室に5人が入り込んだ。ものすごい狭い便器を据えた壁がぐるっと回転した。
…………。
………、…………。
暗い場所。
そう暗い場所がある。そこは完全な真っ暗だ。
光の量は0。
それから静寂―。
それだけしかない。
70 邂逅
その暗闇の中のなかに、ぼこっと浮き出た空間がある。木造の納屋だ。奥行きとか立体性とかがまるでかけている。真っ黒の方眼紙の上に納屋の写真を張ったみたいだ。よくみるとそれは歪んですらいる。しかも微妙に揺らいでもいる。なにもかもがリアルじゃない。そう、なにもかもがリアルじゃない。
Vはその引き戸を引くことに成功した。4人は納屋の中に入った。中もやっぱり奥行きのない平面的な様子だ。暖炉の中の火なんて幼稚園児がクレヨンで書いた絵みたいだ。煙突なんて天井に煙突の絵を書いたようだ。
でも、そのなかでとても立体感のあるものがいた。それは鹿のビジュアルである。
「やっとこさ辿り着いてくれたな。君たちのことを待っていたんだ」
〈渋谷鹿〉は言った。彼は何の変哲も無い鹿だった。首に鉄の輪がはめられ、鎖で「10トン」と殴り書きされたスイカ大の鉄球にくくりつけられていた。その「10トン」のニュアンスの愚かしさと言ったら目を覆いたくなるほどだ。
鹿には白い毛がたくさん生えている。しわのたまった目尻も崖崩れ寸前だ。老いているんだろう。表情は「もうどうにでもしてくれよ」というふうにうんざりしている。鹿は緩慢に立ち上がった。異様な落ち着きぶり、あるいは何かしらの達観に達している。ただその足は生まれたての子鹿のようにがたがたと震えた。長い間立ち上がる機会がなかったのだ。
彼は深い絶望にとらわれきた。やっといま一筋の光が指したばかりなのだ。状況の変化に自分が追いついてこれていない。「ぼくはかなりの時間をここで浪費してしまった。これは大きな間違いだ。間違いをもたらしたのは奴らだ。彼らが見えない手を使ってぼくの時間をこんな墓場のような場所で浪費させたのだ」
鹿はどっぷりと深いため息をついた。「だがそれももう終わったんだ。なあ、そこの斧を取ってくれたまえ」彼はアゴで壁に据えられた斧を指した。斧は歯が赤く塗られ、ずんぐりと重そうだ。「それでぼくをこの鉄球から自由にしてくれないか」。
Vは斧を取り外して鹿の前に立った。「そうか、そうか。あんたの言いたいことはわかったよ。あんたの言ったことをやることにするよ。つまり『生きて虜囚の辱めを受けず』ってやつだな」
「『生きて虜囚の辱めを受けず』?」
「そうだ、それに決まっている」Vは斧を振り上げて鹿の体に強く降りおろさんとする。その肉を今にもひきちぎりそうだ。ばっ、ばか! やめろ! 鹿が絶叫した。周りも止めに入ろうとする。斧はスローモーションでどんどん近づいた。あいにく斧は鹿の体の数センチ手前でぴたっと止まった。止まった。
「なんちゃってな」
Vがにんまり笑う。「お約束だろう、こういうの?」
全員が瞬間冷凍されたマグロのようになる。鹿が首をぶるぶる振った。「ふう、まったく面白くないな。まったく面白くないよ。こういうの!」。鹿はまた首をふりまたため息をついた。うんざりとした顔をする。「こういうシリアスなときにそういうのは良くないよ、あんた! 時と場合をわきまえてくれよ」
「わかったよ、馬鹿野郎!」
斧は振り下ろされ鎖をぶっちぎる。弾みで首の輪っかも外れた。
〈渋谷鹿〉は生まれたままの姿に戻った。彼は納屋の中をじっとりと歩き回り、自分が解放されたという事実を、ゆっくりと自分の中の事実にも染み込ませていった。それが一段落すると立ったり座ったりもしてみた。自分の体のすべてを一つ一つ丹念に眺めていった。彼は自由という事実にかなりたじろいでいるのがわかった。しかし、そのたじろぎは強い意志によりベルリンの壁のようにとりさられる。
「ぼくは自分の境遇を悲しんでいるよ。『役割』が与えられなければこんなふうにはなってはいまい」と鹿は言った。「でも、悲しがってばかりいるのはばからしい。さあ、これまでのいきさつを教えてもらおうか。ぼくが導くのはだれかな?」
「この女だよ、鹿じいちゃん」とVは青のことを指した。女は例によって氷のように動じなかった。
「そうね、わたしらしいわ。どうやら」
(完)