8章 猿の惑星
52 猿楽町のファンキーテクノクラート
代官山・猿楽町。そこで「家賃高すぎだよ」と言いながら服飾店を経営しているやつがいた。そうは言っても彼が売る服は、エッジの立った若者にかなり売れていて、懐具合はよかった。コンセプトは「オフィスで着れるスライ&ザ・ファミリー・ストーン」。ぎらぎらとしたふくれ上がるギャラクティックさ、オフィスで魂を失った労働機械のムードというそう反する要素を合体。「ファンキーテクノクラート」というキャッチフレーズでアピールするわけだ。
やつのセールストークは意味不明だった。だが案外こういうのが好まれるから、とかく世の中は分かりづらい。
「この宇宙を記憶することがたぶん、われわれの生活に足りないコンセプトなんです。そういうコンセプトをサプリメント的に、ときには強く押し出していくことが必要です。たぶん世の中にはこういう面白いやつがたくさんいます。普段の生活がロボットみたいなのに、頭のなかが宇宙になっている。その宇宙はもちろん無限で何ともつながれる。彼は現代人にして、われわれの始祖のこころを持っているアンテナの立った『先端人種』なんです。そこではイノベーションがアブストラクトな領域で爆発しています。『2001年宇宙の旅』の猿のごとき状態ですね。こういうアトマスフィアをパスするのがブランドの仕事。このアトマスフィアをどうするかはあなたの仕事。こういうことです」
何かは間違っていたが、これが商売としてはあたった。何があたるかわからない。人間は理性的になったと言われるが、そんなの脳みそのなかの小さい場所でのできごとだ。それ以外のところは、衝動で動いている。それが悪いというわけでもない。
彼の服は頻繁にメンズノンノとかGQとかに登場するようになる。ある有名なファッションライターは「オフィスカルチャーのパラダイムシフト」と褒めそやす。彼は値段を工夫した。普通よりもむしろかなり高くした。普通の人がそれを見るとアゴが地面まで落っこちそうだった。だが、そうすることで、狂気じみたガキや若作りのおっさんたちはそれが「値段相応の素晴らしいもの」と勘違いして財布をひいひい言わせてでも買っていき、後生大事にそれを着ることになるのだ。商品経済の先端部分はこういうミステリアスな部分が多かった。
でも実のところ、やつのブランドの服の質はかなり低かった。その筋の人がみると頭を抱えてしまうほどだ。原材料費、人件費などのコストはかなり安く押さえてある。目に付くとこだけしっかりしているふうな顔つきをするが、鉄骨を抜かれた建物のようだった。
ただ天才的に見た目だけよくする。そのためにどんな無茶もやりおおせる。だから服はすぐさまへなへなになり、雑巾と区別がつかなくなる。最初の数週間、服は素晴らしく輝く。がそこから旧崖を下っていく。得意先の成金なんてナイトクラブに行く前に買って帰るときにコンビニのゴミ箱に放り投げていた。
「やつは本当にあこぎなことをやっている」と業界の皆が口をそろえた。「金持ちから金をむしり取っているんだ」そこには軽蔑も嫉妬もないまぜになっている。
でも彼は余裕綽々、こう開き直った。「最近は田舎者が増えている。ファッションはデザインがすべて。デザインの前では耐久性は問題にならない。その最高のときを楽しむのがファッションというものだ。そういうことをわからない人が多くて困っている」。とある広告だけでできた雑誌のインタビュー。4ページ分の特集のためのお金も彼は惜しむことがなかった。
このかなり高い値段設定はブランドが抱える多くの問題を次から次へとぶっ倒した。常にボディブローのように効いていた代官山の店舗の家賃もらくらくと払えるようになる。労働法規なんてもちろん守っていない状態で雇っていた従業員。いつも不満を溜め込んでいたが、これも給料を増やし、人を増やし、「かつかつ」からいきなり抜け出せた。
さらに彼はしばしば丸金マンションの一室でドラッグパーティをやるようになった。ファッション界の重鎮やら新鋭、ミュージシャン、俳優だとかを呼んで、コカイン、グラス、エクスタシーを大判振る舞いした。女子大生限定の高級売春婦をあてがう。そのマンションには寝室が3つあり、ばりばりのシーツがかぶさっていた。催淫性の香がたきしめられてもいる。それから比較的広いトイレも2つあった。皆さんバカ幸せな様子になり、やつに感謝の意を示した。
これはたいそう効果があった。コネが出来上がると、新参でバカ稼ぎする彼への圧力はなくなり、いろんな道が開けるようになる。ブランド同士の「コラボ」が次々と生まれ、雑誌のコラムを依頼され、妙な「ファッション業界の未来セミナー」で基調講演し、ミュージシャンのプロモーションビデオに登場し、俳優がやつのブランドの服を普段着にしてそれが雑誌に載る。世界がひっくり返るような好循環が生まれ、金が彼の元にどんどん寄りつくようになる。やつには頭のおかしいコカイン中毒のファッションモデルなどガールフレンドが常時数人いた。
53 ギャラクティックモンキー
やつの野望はこれにとどまらない。少なくとも枯れかけている黄河の水を再び満杯にするくらいはある。計算高いやつはスライのムードとシリアスなテクノミュージックを混ぜこぜにして、近々音楽業界に殴り込もうと考えている。
構想だけは地球の核に達しそうなほど深まっている。バンド名は「ギャラクティックモンキー」だ。デビューアルバムの名前はすでに決まっている。「ギャラクティックモンキーとの邂逅〜すべてが等価な世界〜」だ。スライのようにメンバーはたくさんいる。メンバーは世界中から集める。名前を売りたい奴には目立たせてやる。飢えている奴はむちゃくちゃができるのが強みだ。むしろ無茶をしなければいけない。私生活も常軌を逸していて毎週ゴシップ紙を賑やかさなければいけない。
メンバーの中には役割がわけわからない奴もいる。アメリカンフットボールの防具を来て走り回るシアハーンって奴とか、ただ飛び跳ねているだけのボビーって奴とかだ。一方で必死にベースを引く三太夫って奴もいる。「ドラムの神」は片手で36分の連打ができる。玉石混淆のムードだがギャラは絶対に山分けにする。ギャラなんてものは問題の種にしかならないから、早めに手をうっておくのだ。ただそれとは別におれはものすごい割合のプロデュース料を頂いている。当たり前だ。おれがいなければ絵に描いた餅なんだからな。
サウンドは宇宙的なシンセサイザーにファンキーなベースライン、飛び跳ねるようなビート、テルミンの憂鬱、サンプラーが社会批評的な剽窃音をふんだんにまぶす。コンセプトは「新しいハッピーなダンスミュージック、だが異様に思慮深い」。そこにコンピュータボイスの声が「自分でいられるきがしない。そもそもの自分がわからない。おれは誰かの夢の中を生きているんじゃないか」というような意味深な歌詞を歌うだろう。歌詞はしばしば「魂の喪失」「アイデンティティの消失」「終わりなき日常」をテーマにする。これで知ったかぶりたい人々の心をわしづかみにするんだ。
最初の2枚は評論家に評価こそされるが全然商業的に成功しない。そこで方向転換がある。すると3枚目「グローバルライオット」の一曲目「もうロボットごっこはやめだ」が大ヒットする。おかしいグループ構成と奇抜なコンセプトに、意味深なサウンドと人々を喜ばせる要素はたくさんある。ちょっとリベラルぶりたい支配層から流行が生み出され、鬱憤をためた被支配層が追随し、熱狂的な支持に回るだろう。これらは絶対ソーシャルメディアを通じて起きる現象じゃなくちゃいけない。アラブの春、ガンナムスタイルのころから常識だ。すぐに世界ツアーに出て、世界中の女とおれは豊かな婚姻を遂げるのだ。
「ちょろいもんだぜ!」
ちょろいもんだぜ、それが彼の口癖だった。
彼は夢を見るのが大好きだ。「ミランダ・カーとかチャン・ツィイーとか上戸彩のような女がわっと寄ってくるんだ。みなおれの女になりたくてしょうがないんだ。おれはちょっと待ってね。キミは合格、キミは不合格って選ぶんだ。まじで最高だろう」彼はドラッグがきているときは下品な舌なめずりをしていつもこんな話をやった。
彼は普通にやっていても女の子にはもてないのだ。なんか趣向を凝らす必要があった。それがごちゃごちゃいろんなことをやるうちにどんどん大きな欲望のボールに育った。それは黒くて、光っていて、ぱんぱんだ。東京の上にたくさんの人のボールがいくつもあって、ぶつかり合ったり、くっついたり、下手をすると融合したりする。彼のはかなり大きく、妙な液をしたたり落としていた。
とにかく、彼の狙いは音楽とアパレルの二重展開である。さらに名声を生かして将来的にはレストラン、クラブも経営したいと思っていた。「アパレルの人間がビジネスを広げていくにはこうでなくてはなるまい」と思っているわけである。そのためには代官山にくる中間層のこどもたちにもっともっと儲けさせてもらわないといけないなあ。あいつらは“いい子ちゃん”だから頭をなでなでしてあげないといけないなあ。そうすれば“いい子ちゃん”はすぐに財布のひもを緩めちゃうだろうよ。ちょろいもんだぜ。
やつは圧倒的な特徴の持ち主だった。人間じゃなかった。白猿だ。人々はかれを〈猿楽町の白猿〉と呼んでいた。彼は極めて普通の二足歩行ができ、自分のブランドでその真っ白な毛で覆われた体を隠した。顔は週1でメンズ美容サロンに通い、むきたてのゆで卵のようなつるつる感、品のありそうな雰囲気をかもちだしている。指にはカルティエの指輪がはめられ、香水「サムライ」のにおいをぷんぷんさせている。
彼の野望は代官山にアパレルビジネスの王国をつくることだけにとどまらなかった。彼は自分の店を渋谷にも出したい。友人と共同出資でクラブもつくりたい。渋谷にもうけの網を張り巡らしたいと思っていた。なにせ渋谷はぶったるんだ今にも地面に落ちそうな熟れた柿みたいだからな。
だが、彼の野望を邪魔するのが、〈渋谷王国〉だ。渋谷では王国が首を縦に振るわなければ、なにごとも前に進まないのだ。隣の代官山でちょっとはしゃいだくらいでは、相手にもされない。王国は冊封態勢をつくり莫大な上納金をおさめるよう求める。そんなものを収めていても、外様の自分は全然浮かばれないだろう。勝者がパイの3分の2を持っていくルールなのだ。残りも近しい人たちで分ける。それ以外の人々は浮かばれるはずもない。
だからこそ、彼は〈渋谷王国〉が崩壊するのを望んでいた。あの丘と川の街がオープンになるのを心待ちにしているのだ。Vらが渋谷を滅ぼせばもちろん、漁父の利を頂こうと思っている。そういう思惑が絡んでいるんだ。
54 レクチャー
「さあて、よく来てくれたね」
漁夫の利を狙う白猿は、いかにもクールな業界の人間だと主張するようなイントネーションを使った。カボチャ大のアフロヘア、ぎらぎらした裁断はきっちりとしたサイケ柄シャツ、真っ白なパンツ、かかとの高いブーツを身につけている。白猿という人間ではないものが目の前にいて、日本語を話しているという違和感はまったくと言っていいほどなかった。白猿が代官山の水を飲み、代官山の言葉を話していることが効いているんだろう。
猿楽町の服屋。二階にあるオフィス。スタイリッシュな代官山的なオフィスだ。おしゃれなロイド眼鏡をかけた事務員がいそいそとマックをいじくり、店員らしき痩せた女性が黒いマジック片手に服の収まった段ボールたちの間をきびきびと行ったり来たりしている。道路側の壁はすべてガラス張り。異様に洗練されたブラインドから柔らかい外の明かりがこもれ入る。
Vたち4人と白猿はカラフルなテーブルを挟み、素晴らしきパントンチェアに座った。外資系ブランドのファンシーなドーナツと、あったかいコーヒーが興ぜられた。作戦会議である。
白猿が口火を切った。「あなた方に踏まえてもらいたいことがあります。まずそこからお話し致しましょう」白猿は一流コンサルタントのごとき、ハイテクな縁なし眼鏡をケースから取り出し、かけた。そしてゆっくりと四人の顔を見渡す。はったりがはじまりそうだ。
「あなた方はたぶんこの〈ルービア〉の渋谷を知らない。知っているのは現実の渋谷だけだ。〈ルービア〉は現実世界とシンクロナイズすると信じられている。だから『何もかも現実と一緒なんでしょ。所詮現実のコピーなんでしょう』と考える人も少なくない。でも、実のところはそうじゃない。そうじゃないことはたくさんある。渋谷もまたそのひとつなんですねえ」
白猿は両手をテーブルにおいて、手のひらを組み合わしている。米国の管理職がヒラ相手に自分の威厳を見せびらかそうとするように。静かに息を吐いて間を持たせた。「あなたの知る渋谷はどんなところでしょうか」
この問いがVのみずみずしい感性を直撃した。「おじさんでも、渋谷がどんなところかは知っているよ。ポップでクールな消費の先端を行く街。若者を引き寄せてその若さを吸い取って若々しさを保っている街。中学生のばかどもしかいない街。あるいは、東急の創業者、五島慶太の底なしの欲望が結実させた街。それが渋谷だろう」
「そう、いわゆる『若者の街』だよな」ナボコフが調子を合わせる。
「アンディウォーホルのキャンベルスープがづらりと並ぶところだ」とスーちゃんも答えた。
「その通り、渋谷はまるで人間動物園みたいな街だ」Vは指を突き立てた。「それは宇宙人にとって格好の研究材料になるだろう」
ここでVは自分の妄想を開陳した。長ったるい話である。
55 Vの妄想
もしとても研ぎ澄まされた頭脳を持つ宇宙人が、地球を侵略しようと思いつき、その手始めにスパイを送り込むなら、おれは間違いなく渋谷をお勧めするだろう。渋谷は人間の奇妙さを語りうる存在だ。だから、スパイがするべきことは、中国とアメリカの中に協力者を作って機密情報を盗むことじゃないし、国連が対宇宙人用に結成させる「地球連合軍」の戦力とその展開力を計算することでもない。渋谷という街を解析することなんだな。
シブヤ。宇宙人諜報部員はそこにいる人間を根こそぎ冷凍して、ウルトラ・スモーラライズ(縮小化装置)をかまして、人間のカタログを作らなくてはならない。
スパイ宇宙人―ここでは江戸時代風に留蔵ということにしよう―はかなり難しいミッションにさらされている。地球に関するありとあらゆるデータを収集して、宇宙人の親玉に報告しなくちゃならない。地球を侵略するかどうかを決める瀬戸際に立たされている。
だが、親玉はうさんくさいユートピアを造ることを目論む超巨大コングロマリットの総帥で、ありとあらゆることに手を出していた。地球なんてのは彼にとって『爪切り』くらいの重要性しかないのさ。ほかにも洗顔とか、ひげ剃りとか、目玉焼きを焼くこととか、いろいろとするべきことがある。
もちろん親玉は火が出そうなほど多忙だ。スケジュールは常に1分、2分を争っている。留蔵に与えられた時間はたったの2分かぎり。その間に侵略予定先の地球について、総帥に目が覚めるような説明をしなくちゃならない。
ここで渋谷のカタログが役に立つ、というわけだ。
そこは総帥の執務室。午前9時半。恐縮して、ひざまずいている留蔵。総帥が1メートルくらいの厚さがある書類のすべてを自動署名機にかけろ、と女性第二秘書マネーペニーに命じる。「次は何だね?」
「次は地球であります、総帥」
70年代の韓国にいたような忠実な73分けの男性第一秘書が乾いた声を出した。「留蔵、2分でブリーフィングしなさい」という。
「はっ、留蔵、了解しました。まずはこれを見てください、総帥」。留蔵は余裕満々でカタログを開いた。縮小された人間が数千人と納まっている。「ふうん、これは興味深い。いろんなのが収まっているなあ。とても多様なコレクションじゃないか。おおなんだこれは! いやはや、びっくりした。おい、そち、これは何なんなんだ?」
留蔵はそれを確認するとボディビルダーのような自信に満ちた声を出した。「それはキャバクラ嬢です。そいつらは金のことばかり考えてます。嘘八百で男を誘惑します。キャバクラ嬢も地球の支配者の一種です」
総帥はいままでの官僚的なご機嫌お伺いにうんざりしていた。その分、留蔵のやり方は面白い限りだった。彼の能面のような顔がにこにこしている。「そうか〜。今度はこれはなんだねえ?」
「これは、ギャル男です。とにかく女が大好きです。女以外のことが頭にありません。まさしく女の捕食者であり、パンサーであり、ライオンであります。女を捕まえるためにこのようなとんがった髪型をし、革のパンツを履いています。暇なときは腕立て伏せや腹筋をして体を鍛えたりもします。すべてが女への欲望により素晴らしい三角形構造をつくり上げるのです」
「そうかい、なるほど〜」総帥はもう興奮を隠せなかった。質問はIT長者、ノンキャリ警察官、マクドナルドの店員、109のカリスマ店員などにも向き、その都度留蔵がくわしく説明した。制限時間の2分をとっくにオーバーした。「総帥、そろそろお時間です」とマネーペニーがたしなめた。「うるさい、この年増! だまらっしゃい!」と総帥はカウンンターパンチ。そのまま没頭の限りをつくす。
そして最後の段になると、留蔵は拍手しながらしたり顔で話した。「その支配者たちをまとめてニンゲンといいます。やつらはワルぞろいです。めっちゃ愚かで、残虐で、うそつきです。やつらには慈悲なんていらんのです。総帥、やっちまいやしょう」
総帥は扇の先をちょっと噛んで考えるふりをする。実際は芸術的なくらいなんにも考えてなんかいやしないのだが、大人の世界はとかく表面的なメンツというものが優先される。読者諸氏もご存知の通りだ。
総帥のシベリア猫のような声が聞こえた。「うん、そうだね、君、やっちゃえばいいじゃない」「まかせてつかっさい」。留蔵は無事、総帥のゴーサインを取りつけることに成功することになる。将来の立身出世も確約されたも同然だ。すべては渋谷で作ったカタログのおかげである。地球は宇宙人が侵略した。これを「解放」と呼ぶ。留増は独自のガバナンス「ラブクラシー」で地球の問題を解決していくのだ。めでたしめでたし――。
スーちゃんとナボコフ、白猿は腹を抱えて笑った。椅子から体が崩れ落ちそうになるほど。ここでがらっと一転、スーちゃんが現実の話に揺り戻した。ぼくはこう思うな、と彼は言う。冷たい声、目はぎょろっとし始めた。
「実際のところは、人々がほとんど変わらなくなるのが渋谷だ。確かに彼らは微差を持つことには持つが、その中核的な特徴は真逆でとても均質的なことだった。大量生産の産物で、交換することができて、どれをとってもまるで同じで、ひとつひとつは完全に特別じゃない。渋谷にはため息が出そうな綺麗な女がそこいらへんを歩いている。万年思春期の男たちの視線を集めている。それは彼女の美しさを評価したことに他ならない。だけど、同じ瞬間に、彼女にとっても似た女が渋谷に100人はいて、そこらへんを同じように歩き、同じように視線を集めている。雨もしたたるハンサムな男がいるとする。これも代打は渋谷に100人はいる。まったくおんなじのヘアスタイル、テレビドラマ風の仕草、最新のファッション、笑っちゃうくらいにどいつもおなじだ。全部が全部そんな感じだ。彼らは互いを似せあおうとしている。アンドロイドを自分の容貌へと似たものにしたいという欲望(?)に似ているんじゃないのか」
56 渋谷王国の説明
ふうむ、というと白猿はハバナ産の葉巻を加え、ターボライターでその先端を焼いた。ちょっとしたアクセントで尋ねたのに巨大な答えが帰ってきた。どう考えてもさばききれないような話だ。彼はオメガの腕時計をちらっと見て内心、焦燥感を覚えた。何でもかんでも、さっさっさっ、トントントンで、もうけましょう。万事そんな感じでやってきた。だが、どうも暗い洞窟に入ってしまった。簡単に片付かないすべてを嫌っていた。
彼の言動はすべてもうかるか、そうでないかに収れんされている。一銭にもならない人間が話しかてくると「ああ、ちょっと」「そうだったなあ」などとぬかして逃げ出すのが常套手段。逆に自分に利益をもたらしうる相手にはもみ手すり手で近づいた。体中からエネルギーが沸き上がり36時間連続でおべっかをふりまける。どんな歯の浮くようなおべんちゃらだって真顔で言える。彼に利益をもたらす人間の多くはそういうのが嫌いじゃなかった。ただその様子は遠くから見ていると犬がご主人様にお愛想を使っているようにしか見えないので哀れだ。
じゃあ、目の前の4人はどうなのか。間違いなく、普段は絶対に関わらない奴らで、においが全然合わない。白猿のおれの方がよっぽど、人間のにおいがしている。こいつらはどっかのジャングルで大火事が起きて焼けだされた動物のようだ。
だが、いまは緊急事態なのだ。こいつらは、あの憎い奴らと闘う意思があり、その手のプロなので、うまくいけば奴らはおしまいだ。そう、この白猿はただただこのV一派を利用することに自分は道を見いだしている。V4人組を有利に導くのが大事だ。“くさいもの”と“くさいもの”がぶつかり合ってとも倒れになればいい。さっさとゴミは始末して、その後のきれいな青芝に最初に滑り込むのはもちろん「おれ様」だ。ちょろいもんだぜ。
ここで白猿は画期的なことを言っているふうな態度でものを言う。むかつく限りだ、とナボコフは真顔のまま思った。おれがジャイアンだったら、こういうのは真っ先にシメるんだけどな。でも、こういうのにだまされるちょろい奴はたくさんいる。人は誰かに導かれる(だまされる)ほうが楽なのだ。自分の頭を使うのはいやだ。頭は痛くなるし、疲れちゃうものね。だからのび太もすぐにドラえもんに飛びついちゃうわけだ、とナボコフは思った。それでいいのか。いやだ。「人間を羊化する技」が進化するのを防がないといけない。
白猿は少しアゴをもち上げて威厳を見せびらかす。「あなたたちの言うことは的を射ている。手放しで素晴らしいことだった。渋谷は今も昔も、ここでも現実でもそういう若者の欲望と虚構が混ざり合うところだ。ただしこれはステージ1にとどまるんだ。この後ステージ2があるんだろう。それがさっきから話に上る〈渋谷王国〉が占めている領域だ。これがかなりソリッドだ」彼は再びクールな笑みを見せた。わたしはあなたの知らないことを知ってますよ、といういちいち鼻につく態度である。
彼は後ろの本棚から、ブロック塀のように分厚い本をテーブルに投げ出した。どすん。それは「渋谷王国クロニクル」と書かれている。〈渋谷王国〉建国500年を記念して、渋谷族が仲間内で自費出版したものだ。Vはぱらぱらとめくってみる。そこには家紋に関する説明、歴代の渋谷王が愛でた芸術品の解説、脚色のきつい真偽のあやしい逸話などがずらっと敷き詰めてある。どれもこれもガラクタに見えた。
白猿はこれを要約。独自情報を付け加えた。するとかのようになる。
〈渋谷王国〉は「先端民族」の渋谷族による王国だ。渋谷族は渋谷川添いの「豊かな村落」を地盤に昔から独立国をつくっていた。江戸時代の徳川幕府の支配すら及ばず、昭和前半まで続いた。やがて日本が右傾化するにつけて日本政府への合併を強要される。抗うすべなどなかった。王国は7世までで絶えてしまう。渋谷川は暗渠にされる。鉄道駅ができるときは渋谷族とやくざものの間で血で血を洗う戦争が繰り広げられた。その命運も立たれたかに見えた。だが、8世は臥薪嘗胆し力を蓄え、9世が一族郎党の熱意で復興させた。その9世の長男アグストゥスが10世になり、ますます繁栄するばかりである。
10世はNHKから土地を買収しそこに城を建てた。それは丘の上から眼下の渋谷の街を飲み込もうとしている、たこのような形をしていた。彼の権力が渋谷のあちらこちらに張り巡らされていることを示した。建築界の風雲児、アデバヨールがデザインしたことで有名だ。
城には有名な水浴び場がある。渋谷王は気が向くとそこで100人くらいの女を、一糸まとわぬ姿で水浴びさせる。渋谷王は10メートルほどの距離のある尖塔のてっぺんからそれをながめる。必要も無いのに望遠鏡を覗き込んで、肌のきめまで見極める。その末に選ぶ。運が良ければその女は妾になる。
王は29人の妾を囲っていた。妾のための家を確保するため、代々木公園に侵略。あらゆる抵抗を強引にねじ伏せて自分のものにした。代々木公園を根城にしていたネオタケノコ族、ロックンロール族が追い出され、フリーマーケットの定期的な開催もできなくなった。このせいで原宿筋は渋谷王を毛嫌いするようになった。でも王は中学生のガキでにぎわう街のことなんか気にも留めてなかった。「くずども追い払って皆から感謝されている」と王は語っている。
「さて、じゃあ渋谷王ってのはどんな野郎だろうね?」白猿はゴージャスなジャケットの内ポケットからFBI的な写真を取り出した。テーブルの上に載せられる。渋谷王10世が金ぴかの椅子の上でふんぞり返っている写真だ。
気球のようなでぶだ。長い口ひげをはやし、1メートル長のとんがり帽子をかぶっている。大嘘つきの魔術師、という風体。ただ体中から金星と同じ体積の欲望がどんと噴き出ていた。その欲望は秘伝の妖刀の鋭さを持ち、空を浮かぶ雲を粉々にし、母なる大地を半分に割ることができそうだった。
「どうも、かなりタフそうな奴だね」とスーちゃんはほおづえをつきながらため息をもらした。
「タフだな。穴だらけだが落ちない気球のような奴だよ」
白猿はそういうと、葉巻を灰皿にさしたまま、コカインを透明なプラスチックの板の上にこんもりとまぶした。アメリカンエクスプレスのクレジットカードをカシャカシャやってラインを構成していく。千円札を丸めたものでそのラインのひとつを鼻のなかにおさめた。「ちょろいもんだぜ!」と叫び声を上げた。そのときは確かに猿のようだった。
57 渋谷族/〈リキッド〉/〈渋谷鹿〉
「さてさっき出た渋谷族の話があるよね。あれはでき損ないの作り話だ。やつらが渋谷川の集落出身の訳がない。やつらはそこらへんをぶらぶらしていたチンピラだ。かなりあこぎな金の稼ぎ方に精通していた。儲かりそうだったらすぐにやってみる。10のうち9は失敗したが、残りの1が積み上がっていく。警察は頻繁にしょっぴいたが、奴らの実態を把握することは叶わなかった。
それでも、大してはしゃいでいたわけじゃないよ。野球で言う8番って感じだった。塁に出ればもうけ物って感じのね。
そういうマイナーな期間に、“彼ら”は奴らに声をかけた。手を結んだ。“彼ら”から膨大な援助が注ぎ込まれる。奴らは指数関数的な速度で一気に膨らんだんだ。
この“彼ら”って言うのが誰かわかるかい?」
白猿はぺろと舌をのぞかせた。
「〈リキッド〉だな?」Vが言う。
「そうだ。チンピラ一味はいきなりコングロマリット(企業複合体)に成長した。無数の触手は渋谷で起こっていることのすべてに触れている。そして王国を自称し始めた、というわけだ。
〈リキッド〉は異次元の支援の代わりに王国に義務の鎖をかぶせている。それは〈渋谷鹿〉を縛り付けることだ。〈かぎ〉の在処へと導く役割を持つ鹿を、人の見えないところに隠しつづけることだ。王国はこれを律儀にやっている。鹿は渋谷の誰も知らないところで、かなり厳重に守られているとみられるんだなあ。この場所ばかりは『渋谷の外から』じゃわからない。
あなた方の目的は〈渋谷鹿〉の奪取だ。これに王国は怒るだろう。〈リキッド〉が課す強い義務だ。〈リキッド〉がいなければ王国なんて存在することすらできなかったろう。
したがって私はこう提案したい。王国をぶっ倒そう、とね。これが一番簡単だ」
白猿はにこりとして4人を見回した。なんとしても王国にけんかを仕掛けさせる方に持っていきたかった。4人は表情を変えず白猿の出方を伺っている。「実は王国のことが憎くてしょうがないやつがらいるんだ。君たちの素晴らしい味方になると思うな」
58 忠臣蔵っていいね
渋谷はかつてやくざ「葉隠組」の庭だった。葉隠組の組員は渋谷の路上を肩で風を切って歩いていた。でかくなりすぎた顔はどこの店の玄関も通れないなんて言われた。少しでも反抗的な態度をとる野郎が入れば、目を覆いたくなるくらい残酷な仕打ちをやらかした。人々は彼らの名前を聞けば、ピカソの「叫び」のような表情をした。葉隠組が駆りそろえた青い芝の上に横入りできるやつなんて、どこにもいやしないと思われていた。あの凶暴な奴らと争っても得るところなんて何にもないと思われていた。
あるとき、ちっぽけなチンピラが渋谷に流れてきた。やつらは〈渋谷王国〉と名乗った。サークル気分の馬の骨ともつかぬやつらと無視をしていた。だが、彼らは圧倒的な資金力と市場至上主義的なビジネスマインドを持っていた。やつらの振る舞いはウォールストリート的ビジネスライクに染まっている。異次元の物量作戦が展開された。「金のシャワー」を浴びせられた傘下の組織は、オセロをひっくり返すように寝返る。それは葉隠組の資金源が細ることを意味する。あっという間にかじり尽くされたリンゴのようになる。どこにも身が残っていない。
傘下の武闘派集団「雲隠組」が〈渋谷王国〉の阿呆をやっつけようと士気を高めていた。だが、たまり場の雀荘に外国人マフィアが奇襲をかけた。日本に流れ着いて原発作業員になったマイケルという名前のソマリア人が率いる暴力集団。小学校卒のマイケルは頭の中が空っぽな野郎だったが、多量の放射脳を浴びるうち何かが覚醒した。神懸かり的な戦闘能力を開花させた。「ポパイが缶詰のほうれん草を食うと力こぶの中で原子力爆弾が爆発するのをしっているかい。それで悪者をぼっこぼっこにしちゃうじゃない。つまりそれがおれに起きたことだ」。彼らはどこからともなく現れ、みるみるうちに人数が増えていくことで知られた。構成員はアフリカ、中央アジア、南アジア、東アジアの人々。人種のるつぼである。
最後の砦となった葉隠組自社ビルもあっさり陥落。渋谷を追い出され、隣の原宿の隅っこにちょこんと居座ることにした。残ったのは昔を知る古参だけだ。古参は日本の人口構成を繁栄してかかなりたくさんいるので重荷になる。食っていかなきゃいけない若者たちはみな、渋谷王国の元でやっている。王国と付き合っていれば、たまにゃぜいたくな思いもできるらしい。神通力のなくなった葉隠組には誰も見向きもしない。
渋谷族は若く獰猛でテック系らしい。やつらは事務所に村上水軍の旗を飾り、金を稼ぐことを愛した。その日のうちにベッドインが確約された合コンを毎夜のように開いた。テック系の経営者という態をとって、高層マンションの上階の風景で女を誘惑するわけである。
対照的に葉隠組は尾羽うち枯らしていた。渋谷を離れてから数十年の月日が経った。どこそこに隠した不明朗な金を食いつぶしてきてそろそろ限界が近づいていてきた。オオハラ組長は幹部を半分にするリストラを考えた。でも「リストラ」という言葉を使うと大反発が起きるに違いない。そこでちょっと小耳に挟んだ「ダウンサイジング」を使うことにした。
59 さあ、ダウンサイジングだ
10日前。
組の幹部会が開かれた。袴をはいた組長は両手をばんばんたたいて「組もかなり厳しい。ダウンサイジングに着手しようかと思うんやわ」と提案した。アメリカから輸入したその言葉には全然、幹部が全然ピンとこない。「親分、どうゆうことでっか? そのダウンなんちゃらてのは?」。ナカタ参謀長がきいた。彼はこれまでに何十人も拉致しては建築現場で徹底的にこらしめたことがある。そのうちの何人かは建築物のコンクリと一体化している。
「ああ悪いなあ。最近はダウンサイジングっていうんだ。んん、まあなあ、コンパクトにするということと近いかな」とオオハラは答えた。
「コンパクトにするにはどうするんでっか?」
「まあ、レガシーを残してくれた役員半分くらいには、このオポチュニティにリタイアしてもらおうかと思うんだ。そうすれば、なんっていうの、コンパクトだろ? で、仕事はどんどんアウトソーシングしちゃおうかと思うんだ。残すのはコアの部分だけだなあ」
ぴたっと誰も何も言わなくなる。それから怒号が沸き立った。
「なんてこった、この野郎!」
役員がずらっと立ち上がり親分をにらみつける。「親分、そりゃあクビってことじゃないですかおれたちさんざ組のために働いてきたじゃあないですか。それがなんですか。いらなくなったらポイですか。なんやダウンサイジングなんて言葉でごまかしやがってに。この野郎! この野郎!」
そうだ、そうだ、と役員32人がオオハラを囲む。32人? そうだ。32人。みんな80オーバーで50年、60年選手。オオハラを囲むにも足がなかなかついてこない。杖を使うもの、若者が肩を抱くものがいる。
苦渋にまみれた原宿暮らしの間、皆が皆この調子だ。肩書きがほしくてしょうがない。役員にしないとおさまりがつかない。そんな圧力にさいなまれつづけている。それで、オオハラはこの数十年の間に妙なポストを量産してきた。例えば若頭代理筆頭顧問補佐。何をするのだろうか。もちろん何もしない。もっとヤバいのだと、水回り担当上席顧問。要するにトイレとか水道の調子をみる役員だ。それから、配車担当舎弟頭ってのもある。タクシーを呼んだりするやつだ。役員が増えるということは、あんまり働かない人で高級をとる人が増えるということだ。ちっこい所帯でたいした収入もないのに、32人も役員がいたらもう目もあてらない。
「違うんだ。もう組がもたないんだ。どう揺さぶっても金が出てこないんだ。おれっちだって、上野の兄から数億つまんじまった。このままじゃおれもけじめをとらされることになる」彼はばさっと組の帳簿を机の上に放った。役員がそれをぺらぺらとめくった。役員たちのはげ頭が一気に青ざめた。そこでは取り返しのつかない山火事が起きていた。それは一山にとどまらず、連なる山脈ごとすべて焼き払う大火だ。これはもうどうしようもないところまできている。
オオハラは大声をあげた。「だからこそ、ダウンサイジングしかないんだ。ダウンサイジング! どうだ。さっきよりも染み渡るように聞こえるだろうが! ダウンサイジング!」
役員どもを見渡し、昔からできが悪いのにプライドが高くてむかついていたノムラBBQ担当若中頭(主に年1の多摩川でのBBQパーティのアレンジを担当していた)を指差した。「ノムラ! お前をダウンサイジングだ!」
アンパンマン顔だがプライドは異様に高いノムラはわなわなと震えだし、すぐさま長口舌で仕返しだ。「組長! 忘れないでください。服部組との抗争のときです。おれは服部の若頭と合いにいきやした。魚民ですね。安居酒屋ですよ。でもそれなりにうまいもんも食えますね。ビール飲みました。枝豆つまみながら世間話もやった。極めつけは、おれはトイレに隠した銃で、やつをばきゅーんってやっつけましたやん。そのあとあちきはフィリピンで3年も身をかくしやした。女はいなくなるし、帰ってきたら日本の冬は耐え難く寒いとくる。大変苦労したもんです」
「うるせえ、てめえ、フィリピンで女5人もつくってたじゃねえか」
「それは誤解です。女はリスクヘッジのためです。独り身じゃ危険ですが女がいればいろんな逃げ道ができるってえわけです。こういう深淵たる計算のもと、私は組に尽くしてきました。
ダウンサイジング?
そんなことされる筋合いなんてないんです」
これでオオハラは面倒になって、今度は一番聞き分けのよさそうなササキ相談役を指差した。
「じゃあ、おまえだ、ササキ。おまえをダウンサイジングだ!」
ササキは組のカネを管理してきた。惨状を知っているから大人しく引き下がり、模範をしめしてくれるだろうと、たかをくくっていた。
だが、ササキもまたイラク戦争に反対するかのようなムードである。ものすごいビーンボールが帰ってきた。「親分。おれっちは親分と一心同体でやってきたと思っている。おれは組のマネーロンダリングを一手にやってきた。みんなが渋谷で飯を食い、渋谷のホステスを抱いてこれたのは、おれっちのおかげだよ。いいんだぜ。おれっちをダウンサイジングしたってさあ。でもそうすると、もしかしたらヤバい書類が1枚、2枚、ポリスにこぼれるかもしれんなあ。おれは手柄を立てたくて立てたくて、鼻息がふんふん言っている正義漢をしっているんだ。そいつにわたしちゃおうかな、あの紙。おれたち一心同体だもんねえ、親分?」
「ササキ、てめえ、おれを脅かしたな? どこぞの組に親分を脅かす子分がいるんだ?」
「おれっちはそんなことはしてないぜ? 自分の考えを表明しているんだ。キング牧師みたいにね。アイ・ハブ・ア・ドリームってね。そうだ。おれにも夢がある。アイ・ハブ・ア・ドリーム、ダウンサイジングの無い世の中をつくりたいんだ。そういうこと。ぎゃっはっはっは」
ぎゃっはっはっはっは。子分ともども大笑いだ。
「こ、こ、こ、コノヤロー!」
32人が32人ともこんな態度である。老人の椅子取り合戦は常軌を逸している。椅子とけつがくっついている。だれも椅子から離れなたくない。でもその椅子が全部ぶっ壊れそうになっている。
ここで、ナカタがアイデアを出した。「親分、忠臣蔵ってえのはみたことありやすか。自分の主君が不当な責めを負わされ処刑されたのを、苦節に耐えた忠臣が、復讐する話です。復讐は人々から賞賛され、忠臣たちはことごとく切腹していくのです。これです。これで行きましょう」
「どういうこったい?」
「〈渋谷王国〉に復讐するんです。それでみんなで果てましょう。おれたちはYouTubeで世界中のヒーローになるでしょう。現代の忠臣蔵ってね」
「でも、おれは死んでないぜ」オオハラは手をあおいだ。
「大丈夫、ひん死の大けがを負わされ、数十年間ベッドの上だったけど、奇跡的な回復力で復活。待っていた忠臣たちと渋谷王国への復讐に向かったって筋にすれば似てきやす」
「いいね、いいね、いいね」とオオハラはうなずいた。
60 最悪だ! 最悪だ! 最悪だ!
再び10日後の事務所。
「いまに至って、葉隠れ組にはねえ、最後の闘いを挑もうという機運が立ちこめてきたんだねえ。最後は派手にいきたい。尻窄みってのはすきじゃないんだ」。坊主頭のオオハラ組長の後ろには甲冑と日本刀が飾ってあり、「渋谷布武」(渋谷に武力を布く)と書かれた毛筆書がある。その隣にはワシントン条約を軽々と違反した大きな象牙が飾ってある。黒壇の机の上にはオオハラの自叙伝「なんでもやってみよう」が来訪者にわかるような角度で配置されている。この自叙伝は1年前に出版された。彼が集団就職で東京に出てから渋谷で成り上がるまでが、冗長な美文体で語られる。上野闇市で成り上がっていく若者をみて、自分もそうなってやると紫色に濁った隅田川の川岸で誓う場面が印象的だ。欄干に身を乗り出す彼の肩を抱いていたトキコは、4ヶ月後にほかの男と付き合うため、彼の元を去る。「この世界は諸行無常だ」。オオハラは若いながらにそう悟ることになる。その後彼は残酷の極みに走るのだ。そういう厳しい世界を生きてきたのだが、いまのオオハラにはその雰囲気は皆無だ。
オオハラは現代医療のおかげでかなり延命できている。年齢は100をゆうに超えている。白装束を着たじいさんはかりかりのきんぴらごぼうのようだ。細くてしわだらけだが、中にはエネルギーが満ちあふれている。じいさんはこう心中を吐露した。「自叙伝ができてかなり満足した。もうたくさんだ。心残りは渋谷だ。渋谷を取り返す闘いに出たい。そこをおれの死に場所にしたいんだ」。言葉には焦りや熱狂はこもってない。0でも100でもなく50。中庸の徳である。
しかし、Vたちは組事務所に入るなり大きな問題に気づいた。組長の前にずらーと並んだ幹部どもは全員、ど年寄りだ。揃いも揃って80オーヴァーかもしれない。日本は高齢化しているが、これは由々しき事態じゃないか。太く短く生きるのがやくざの信条じゃなかったか。実際はかなり細く長くなっている。彼らが渋谷に武を布けるはずもなかった。
若者は人っ子一人いない。
「ずいぶん年寄りばかりじゃあないか」
「うるさいんじゃ。わしらがどうしようと勝手じゃろうが。わしらはやくざだ。もちろん国民年金なんてばかげたものには入っていないじゃあ。わしらは露天商をやったり、原宿に来る外国人や中学生をだまくらかして、なんとか口にのりをしているじゃ。テキ屋じゃ。昔の杵柄に戻ってきたわけじゃ。わしらは十分苦労している。『生きるのがつらい』んじゃよ。なのに、若い奴らときたら、老人が社会の害のようにいいやがる。老人を養うのにたくさん金がかかる。社会全体の『老人費用』がふくれ上がっている。そんなことをいいやがる。それで用が済めば、老人ホームに厄介払いにしやがる。
老人ホーム?
ファック!
態のいい『老人監獄』じゃあないか! 最悪だ!
最悪だ! 最悪だ! 最悪だ!
老人は搾取されているんだ!」
彼は肘から下を黒壇の机にどんどん叩き付けた。顔なんか梅干しのように赤くなっている。老いをめぐる言葉のナイフが向かってくれば、彼はいつだってこれくらい怒った。
意義あり、とスーちゃんが割って入る。「ぼくはあなたの言うことの反対だと思う。日本は老人が支配している国だと思っていた。なにもかも老人が独り占めしている。すべて老人が決める。そう独裁だ。『温和なスターリニズム』とでも呼ぼうか。『老人機構』に逆らえば、終わりだ。個性的なやつ、独創的なやつ、とんがったやつはことごとくやられる。さまざまな『合法的』なやりかたで葬られるんだ。
若者は羊ばかりになっている。老人に殺されないように。でもこの老人支配は無意識に将来の芽を摘んでいるんだ。この羊の子どもたちはもっと羊になる。柵の中で草をはむことしか能がないんだ。柵の外に出ると、羊たちは統制の取れた野犬の群れや、ずる賢い猿、獰猛なジャガーに食べられちゃうんだ。一匹残らずね。かわいそうに。
なんと悲しい国だろう。この国は老人がすべてを握るんだ。それはずっと前からそうだったし今はもっとそれが強まっている」
「馬鹿野郎!」オオハラ組長は拳をどんと叩き付けた。「老人って言ってもなあ、いろんな奴らがいるんだ。いっしょくたにしちゃあいけねえんだ。お前が言っているのはなあ、『支配する老人』のことじゃ。こいつらはそんなに多くないんだ。だが、きやつらはこの社会を、金の流れを、国の意思を完全にコントロールしているんだのう。特権階級と呼んでも良いかもしれない。緩やかな寡占状態じゃ。その椅子に座るか、落伍するか、激しいレースがある。なかにはレースの外を一気に突き抜けるやつまでいやがる。そことここはどうしようもなく遠い世界なんじゃ。天体望遠鏡がいるようなもんだ。惑星と惑星ほども離れている。すべてが違うのう。金も何も情報も贅沢も権力も何もかもが違うんじゃあのう。
残りの大半は『普通の老人』なんじゃ。ただ数が多いからつるむわな。社会のつくりは老人に有利にできている。こいつらは『支配する老人』に追随して、ちょっとうまみを得ている。いわゆる真ん中だな。中が真空かもしれん。
『支配する老人』と『普通の老人』が貴様の言う『老人機構』にあたるだろう。確かにこの塊が、この社会で最も強い。ずっとずっと力を持っている。
だが、なあ、おれたちは「老人機構」とは違う。もっと下の部分があるんだ。そこは目を凝らさないとみえないんじゃ。それはなにか?」
彼は厳しい目つきで、スーちゃんをにらんだ。
「それは『忘れられた老人』だ! おれたちはもう忘れられているんだ。もう『社会』とやらに頼るのは考えない。そもそも『社会』とはなんだ? ちゃんちゃらおかしいじゃないか? なんだ社会とは? そんなもの存在するのか。だれかさんの都合が良いときにだけ登場するもんじゃないのか? 社会? うわっはっはっは。社会! 社会! 社会! うわっはっはっは!」
老人は黒壇の机の上で身悶えした。おかしくておかしくてしょうがないという様子だった。「もともとそうだし、これからも国家に頼ることはない。俺たちは仲間同士でつながり合うんじゃ。このつながりのためには命を投げ打つ覚悟があるんじゃ。そしてこのつながりたちはこう叫び始めた」
老人は一瞬固まった。ゆっくりとした所作でその手のひらを机の上に置いた。
「『最終戦争を始めよう!』ってな」
最終戦争。その言葉にまとわりついたやばさにギャングオブフォー(4人組)はしばしたじろいだ。とにかく桃太郎の一団と後期高齢者のやくざは連合をすることになったのである。