7章 ロスト・ハイウェイ
47 戦士に休息は必要不可欠だ
マサカズの自宅は「バベルの塔」と呼ばれるタワーマンションだった。ソフトクリームを地面に突き刺したかたちをしている。そこの地下1階から4階までが巨大な駐車場だ。どれもこれも高級車だ。車泥棒にそこをを教えて上げたいくらいだ。恐ろしい数の監視カメラ。それは彼らの一挙一動を追いかけた。エレベーターもマサカズの指紋、光彩を認証すると自ずと彼の部屋のある階を目指した。招待されない限りは自分の部屋のほかの階にはアクセスできなくなっているのだ。
マサカズの部屋もまた、グローバル経済ゲームの上層階級の願望をかなえていた。グリナ・ボー・バルディのボールチェア、ベーカーアンドストーンハウスのソファ、アレックス・マッカーサーのテーブル、テクニクスのDJセット、ジョインド&ジョインテッドの棚、その他もろもろ、すべて高級品だった。
「いやあつらい行軍だったな。戦士には休養が必要だ」
Vは軍曹的な物言いで(実際、軍曹止まりの軍人のにおいがした)、部屋に入るなり、ダブルのスーツを脱ぎ散らかして、スーパーマーケットで3枚250円で売っていそうなしょぼいトランクス一丁になった。「やっと生まれたままの姿になれたな。今日のおつとめはおしまいだ」彼はそういうと、ウイスキーの小びんを空っぽにして床に放り投げる。それがエーロ・アールニオのボールチェアに命中し破砕した。それから思い出したようにマサカズの手足をバスタオルで縛り付けて、浴槽に閉じ込めた。
青はVがトランクス一丁でそこらへんを歩き回るのを、彼なりの女の誘惑方法かと身構えもしたが、もちろんそうじゃなかった。単純に暑く、トレンディじゃないだけだ。実際、彼がさらした裸は滝のような汗をまとっていた。彼は失われた水分を、蛇口の下で上方を向いて補給した。冷蔵庫からハーゲンダッツを見つけるとそれもあっという間に平らげた。そのあと、ナイスなソファに寝そべって、一心不乱に本を読みはじめる。その本の背表紙にはヴィトゲンシュタインと書かれていた。
「ヴィトゲンシュタイン? まさか、そんなはずは」
青は極めて困惑した。彼がそれを読んでいるという事実は間違いなく、想定の範囲外だった。彼はまた新しいウィスキーの小びんを取り出し、ちびちびやり出した。
青はテレビを点けて、トータルな情報収集しようとした。このペアには間違いなく、世界の情報が足りていなかった。世が情報の時代に突入したのはもう昔の話だ。いまや情報の世界が現実を飲み込んですらいる。人はすこしでも時間があればスマートフォンをにらめつけた。目の前にある世界がまったく重要でもないというふうに。そんなときにこの二人はそろいもそろってローテクなのだ。
だが、テレビを点けると、彼女は鈍器で後頭部をしたたかに殴られた気がした。テレビは廃棄物の見本市だった。プレスされたペシャンコの板が、もとはなんだったのかをあてるゲームのようだった。
歌番組。派手な眼鏡をかけた出っ歯の男と美少女たちがお話をしていた。それは数夜越しの悪夢。その後、喜び組がステージで歌った。用意された聴衆は手を振るなど画一的な動きで盛り上がっている。商業空間の表層をさらりとなでつける歌詞。幼児趣味の衣装。いやにアクロバティクなカメラワーク。こんな人間が何人も来ては歌う、来ては歌うを繰り返す。オークションみたいだ。
番組は端的にこういうことを教えてくれた。人間は消費する機械だ、と――。こんな宣教がアムステルダムからブエノスアイレス、香港、ラゴス、ヨハネスブルグ、シアトル、ムンバイ、イスタンブール、ロンドン、上海のどこでも繰り広げられている。信者はどんどん増えている。消費は少なくとも悪い気分にさせられるものじゃあない。彼女はニュース番組をつける。ニュースは政府広報の色彩に染まっている。政府のなかで官僚の勢力が圧倒的になっている。テレビはそこと手を結んでいるのだろうか。官僚はテレビに対してかなり優勢のようだ。
彼女は重たいため息をついた。
何かしら病的な段階に足を踏み入れ始めてしまった、と思った。その憂鬱は彼女を一晩眠れなくさせそうだ。だが、休息をとる必要がある。彼女は眠り際、カーテンをめくりゲーティッドエリアを俯瞰した。素晴らしいユートピアが広がっている。でもそれは自分が望んだものだったのか。それとも、誰かが押し付けがましくこれを渡したのではないだろうか。
「あなたの理想はこれでしょう。わたしがあなたの代わりにつくってあげたの。自分の理想を形にするのは誰にでもできるものじゃない。専門家がその粋を凝らして実現していくものなのよ。わたしはその専門家だし、ほかの専門家とも恊働して、あなたがここで幸せになれることを保証してあげる。しかも、信頼できる人たちがこのユートピアを維持してくれる。だから、あなたは何もしなくていいのよ。自分がしたいことをして、のんびりしていれば良いのよ。『問題』を起こさないようちょっと気を使ってくれれば良いのよ」
青はある歌を思いつく。
それはちょっと昔のポップソングだった。
完璧な計算で造られたこの街を
逃げ出したい壊したい
真実はあるのかな
完璧な計算で造られた楽園で
ひとつだけうそじゃない愛してる
どうしてねぇコンピューター
こんなに苦しいの
あーどうしておかしいの
コンピューターシティ
パフューム「コンピューターシティ」
48 切れ者のスチュアートさん
翌朝から事象はすべからくその主たる目的へと突進を始めた。
二人は目を覚まし、マサカズに注文させて、タワーマンションに入居するビストロが提供する朝食を食べた。サンドウィッチ、サラダ、卵、フルーツ、コーヒーという簡素なものだがなにやら美味しい。
ボールチェアを4台、テーブルの回り置いて話し合いを持つ。いわゆる「パワーブレックファスト」(朝食会議)なるものである。議題はもちろん「どうやって〈かぎ〉を手に入れるのか」だ。
会議には闖入者がいた。それは「変身する前の仮面ライダー」的なあくのない美青年だ。そのスチュワートという英国人もまた全身をハイブランドで固めている。スーパーマーケット帰りの主婦が、困っている彼に声を賭けられたら、ものすごい勢いで親切をするに違いない。そういう「好青年」感を漂わせている。
これらはこのマンションに入るためにスチュワートが施した偽装だ。彼はここの住人でもないのに、いつのまにか部屋までたどり着いていた。どうやってここに来たのだろうか。それは誰も分からない。「忍者のようなことは得意なんだ」。彼はそう説明している。
Vはコーヒーにウイスキーを混ぜながらスチュワートの服装をからかった。「おいスーちゃん。おまえ、本当に似合わねえ服着てやがるなあ。いつものジーパンはどこいったんだ?」
彼は苦笑いした。「ぼくだってこんなアホみたいな服を着ていたくない。ここに入るための偽装なんですよ」それから低砂糖のガムを口に放り込んだ。「あなたがなぜかこんなところに迷い込むからね。困っちゃってますよ。ぼくはこういう富裕層の悪ふざけが大嫌いなのね。クリーニング屋のクーポンを集める、つつましい人だからさ。本当にいやだね。はやくここを出ようじゃないか。ここはテキが攻めて来たら、逃げ出しづらいと思いますからねえ」スチュワートはVのいでたちをなじる。「その縦じまの貧相なトランクスは本当に考えられないよね。金のネックレス。これは原子力潜水艦の動力が完全にダウンしたような事態だね。最悪だ。そのどてっ腹は年齢に負けてたるんでいるし、貧相な毛を数本蓄えた胸板の薄さはチェーンレストランでメニューの写真と実際の料理が別物過ぎるときの失望感に似ているね」確かにVの裸はまあなんともかわいそうな裸だ。ああ、かわいそうだ。それは見せ付けるもんじゃあない。
スチュワートはVの〈協力者〉だった。Vとは旧知の仲で気が合えば恊働する。コンサルタント会社〈株式会社ヤシマ〉の上席フェローだ。若くて好奇心に満ち溢れ、その分飽きっぽく、東アジアの女を愛し、いつでも元気だった。頭がよくてこれは厳しいそうだということを、ひょいひょいといとも簡単にクリアしてしまう。思ったことはいつだって明確な言葉で話すが、週に一回はセンチメンタルの病にかかる。
見た目はお坊ちゃま風だが、ハイファイな美容室でほどこした過装飾な髪型やその独特の目の光が、彼をたんなる好青年の枠に留め置かなかった。たまに言葉が宮本武蔵がライバルに不意打ちをかけるかのように激することがあった。口癖は「いつもなにか新しいものを探している」彼のことはVに習い「スーちゃん」と呼ぶことにする。
スーちゃんはV、記憶を失った青、ボンボンのマサカズという面々を見て概況から簡単に説明を加えねばなるまいと考えた。
49 スーちゃんによる現状把握
「まず我々の目的は〈かぎ〉をみつけることです。そのためにこの〈ルービア〉という仮想現実に入りました。〈かぎ〉がなぜ〈ルービア〉に隠されているかははっきり言って謎です。諸説いろいろあります。ただ〈かぎ〉の盗難を恐れるのは、世界的な新しい帝国主義者のネットワーク〈リキッド〉だ。〈リキッド〉は国家、企業、非政府組織、国際的なネットワークを介して、世界を密やかに支配しようとしています。彼らは新しい世界権力になろうとしています。もし彼らが権力を確固たるものにすれば、少数の人間が地球中の膨大な人々を制することになります。多数の人間が異議申し立てしようとすれば、それは国家、例えば警察機構などを利用して『合法的』に弾圧する世界が実現します。声の大きい少数はこういった方法で、すべての欲望をかなえられるようになるでしょう。富を独占するんです。
〈リキッド〉の特徴は『よく見えない』ことです。その実態が常にうまい具合に見えないようになっているんです。これはかなり画期的な方法です。「見えない敵」とどう闘えばいいのでしょうか。拳を振り回してもあたるはずがありません。彼らが現実の領域に何かを及ぼすときはいつでも、何かを媒介させています。
例えば、米国のウォール街を占拠する運動がありました。1パーセントのスーパーリッチが残りの99パーセントを富から疎外することに抗議しました。あれは警察当局が取り締まりました。その後『公共』の場で何かを訴えることが『違法』になるような法令が米国の中央、地方各地でできあがりました。いま、以前と同じような活動をすることはできません。 『違法』だいうことで警察に逮捕されるからです。
あるいは彼らは政治的決定に強い影響力を誇ります。多くのロビイスト、利益団体のチャンネル、政治家、官僚機構のチャンネル、たくさんの金が突っ込まれています。『合法的』な範疇でそれは行われるようになってます。
ですから、民主主義なんてものには二つの基準が存在するのです。ひとつは平民さん、貧乏人さんに選挙という機会を与えることで、なんとなく納得してもらう部分。『反論があるなら投票に行け!』という論法ですね。そのもう一方で、グローバルな特権階級の意思を、非公式に政策に反映させる『密やかな政治』があるわけです。これらはいわゆる『民主主義的』なプロセスなんて踏みもしない。彼らがそうしたいとき、そうするんです。そこでバランスの取りっこと小さな暗闘を経て、それは実現されます。カメレオンのように変化自在な方便がそこで使われます。それを真に受けてはいけません。テレビとか新聞とかも信頼できないものはたくさんあります。
だから投票に言ってもすでに意味が無い。意味はすべて骨抜きにされている。意思決定はすでにほかの場所でされているんです。民主主義なんてもううそっぱちです。民主主義って書かれているブラックボックスがあるだけ。そこに少数の人が手を突っ込んでがらがら動かしています。民主主義を実現している国民国家という仕組みもどんどん弱っています。いつかノックアウトされるかもしれませ ん。
このように〈リキッド〉は国家、その機構、企業、非政府組織、非公式のグループなどに溶け込んでいるんです。そういう少数の特権階級の密やかなサークルが〈リキッド〉だと思います。また権力という力学が、時代の変化のなかで現代的な姿をとるのも〈リキッド〉の相貌になるでしょう。力学は20世紀までの直接的で、上から下につらぬく形に絶望しました。地球規模まで広がり緩やかかつその大事な部分はいただく、網の形に希望を見いだしたんです。これが21世紀の権力をめぐる千夜一夜物語になるでしょう」
彼はそこでため息をついた。彼は現実世界で繰り広げていた、見えない相手との闘いを思い出したのだ。
「〈リキッド〉は既に多くを達成しています。しかし、いまその力をもっと強化しようとしています。力はさらなる増幅をほしがります。それはグローバル化、国際基準などの仮面をかぶって猛威をふるうのです。彼らはとても強く、冷酷です。
わたしは〈リキッド〉が達成しようとすることにかなり問題を感じています。それを防ごうと思っています。そういう人々が集うアジト、表向きコンサルタント会社の〈株式会社ヤシマ〉の上席フェロー、Vはアドバイザーです。〈株式会社ヤシマ〉は明確に〈リキッド〉の敵です。巨大な〈リキッド〉は無数の小さな有象無象と闘っている。〈ヤシマ〉はその有象無象の一部に過ぎません。有象無象は中心なきグループをつくり闘っています。グループを〈つながり〉と呼びます。この〈つながり〉は〈リキッド〉を戸惑わせることに成功しています」
そこでスーちゃんは青を指差した。
「この青さんは〈梁山泊〉と呼ばれるチームを早くから組織し〈リキッド〉との「見えない戦争」を闘う〈つながり〉のなかで有名な闘士だった。活動は匿名的でその実態はずっと知られなかった。彼女が〈かぎ〉の存在がおもしろいと思った。彼女はわれわれと協力し、〈かぎ〉を手に入れることで一致した。
問題は〈かぎ〉が何を及ぼすかです。これに関しては〈ヤシマ〉のほか〈16奉行〉と呼ばれる連中が現実世界で、激しく調査しています。〈かぎ〉の入手と調査は同時並行でやります。入手までに調査が終わっているのが望ましい。
『効果が未知数のものによくそこまでするな』と言われている気がします。その通りです。でも可能性のあることは突き詰めていくべきです。われわれはじわじわと〈リキッド〉に優越を許している。こっちには打開策が必要です。われわれは、〈リキッド〉が〈かぎ〉へのアプローチをかなり嫌がっていることを嗅ぎ付けました。ここに勝算があります」
スーちゃんはサンドイッチをぱくついて、それをコーヒーで流し込んだ。ぎょろつき始めた病的な目を、周りに向けた。
「〈かぎ〉はかなり巧妙に隠されている。でも、われわれは〈かぎ〉の在処への手がかりを得ました。それは〈渋谷鹿〉です」
「〈渋谷鹿〉ねえ……」
Vは檻から出たばかりの獣のような笑顔をした。スチュワートは微妙な笑みを返すだけだ。Vは例によってダイニングテーブルの上に足をほっぽり出してウイスキー入りのコーヒーを飲んだ。
「〈渋谷鹿〉は正真正銘の鹿です。姿形は鹿となんら変わりません。誰かのニックネームではありません。四本足で歩き、植物を好んで食べます。
〈渋谷鹿〉はもちろん渋谷にいます。でもそれは鹿が望んだからではありません。鹿を恐れた連中が、そこに抑留しているのです。ずっとそこに留め置かれているうちに〈渋谷鹿〉と呼ばれるようになりました。でも渋谷で生まれたわけじゃありません。中国内陸部の山中が彼の故郷です。そこから紆余曲折がありました。
〈渋谷鹿〉を抑留している連中の名前を〈渋谷王国〉と言います。その名の通り彼らは王国を築いているようです。渋谷族という民族を想像し、その歴史を自分自身で描いているんです。その中身は謎に包まれています。かなり不思議で暴力的で怪し〜い奴らです。そしてその王国の背後には〈リキッド〉がいると見られます。彼らは短期間のうちにみるみる強くなっているんです。渋谷の半分くらいをうっすらと支配しているという説すらある。
〈リキッド〉が背後にいる以上、仲良くなるのは難しいでしょう。〈渋谷地下会〉は〈リキッド〉の支配下にあると考えた方が良さそうです。池袋での抗争で追い出されたのに、渋谷に来たときには様変わりして強くなりました。われわれは〈渋谷鹿〉を盗み出すほかないのです。その際に暴力が必要なら、それはふるわれる必要があります」
スーちゃんはビストロのコーヒーでは足りなくなり、タンブラーに入れたスターバックスのコーヒーを飲み始めた。それからカリブ海に浮かぶ ケイマン諸島に思いを馳せた。青い海、白い砂浜、簡単な会社登記。彼は咳払をした。ポケットのアップルのアイフォンを取り出して、メールが入っていないか、ちらっと確認した。アップルがどこに存在するのか、どこで納税しているのか、考えた。彼は咳払いをした。
「じゃあ、〈渋谷王国〉とは何者なのか? どういう相手なのか? というのが当然の問いですね。これに関しては、極めて詳しい人物との協力関係を得ることができました。その人は渋谷の隣の代官山・猿楽町にいます」
50 ロシア人との邂逅
彼らは代官山に向かうことに決めた。その瀟洒なタワーマンションの一室を捨てることにした。マサカズは再び体を拘束され、全裸のまま便器の上に座らせた。便器とも完全に結びつけられた。マサカズがトイレに行きたくなったときのための配慮だ。でも、食事はどうするのだろう。
もごもごもご!
口にタオルを突っ込まれたマサカズは何かを主張しようとしたふしがある。でもそれはよく聞こえなかった。
スーちゃんはさらに新しい仲間がいると告げた。桃太郎のような展開だな、と青は思った。自分は次々に現れる仲間への「きびだんご」を持っているだろうか。あるいは仲間と称する彼らは私を利用しているだけかもしれない。奈落の底に落とそうとしているかもしれない。注意が必要だ。
しかし、とにかく彼らは恊働してくれるのだ。その新しい仲間は地下駐車場にアルファロメオのセダン「ミトー」で乗り付けていた。ソビエトの国旗のように赤い車体のウィンドーが滑らかに開いた。その奥にはロサンゼルスのギャングスタ的なでかいサングラスをつけた欧米人が現れた。いかにもタフそうなその男は同じキーを守って話した。
「ズドラーストヴィチェ、タバーリッシ(おはよう、同志よ)」
ナボコフ。〈株式会社ヤシマ〉のフレンド(拘束されない社員)であるロシア人だ。彼の過去は南極の溶けない氷の中に隠されていると言われる。つまりちょっとやそっとじゃ表に出ないようになっている。青は大きな坪のなかにひとりでに死んだねずみを見つけたような気分がした。その男の様子にはなにかしらそういうところがある。
だが、事態はそうじゃない方向に向かった。「お土産だよ。V同志」ナボコフはぐしゃぐしゃの茶色い紙袋の中からウォトカ「デルジャブナヤ」の500ミリリットルびんを取り出した。その女性の体に似た素晴らしいびんの裸体を目にすると、Vは相好を崩し、けしからんなあ〜とポケットに突っ込んだ手をもぞもぞ動かした。やがてその美女を握りしめる。
「いやあ〜やばいな、すごいな、うれしいな。需要と供給とはこのことだな。市場の機能はやっぱり無敵だ。ほしいものは適正な対価でほしいものを受け取れる」。するとナボコフはちょっと気色ばんで言い返した。「確かにわれわれも市場経済を受け入れなくちゃいけなくなったよ、同志。でもぼくは『市場が完璧だ』なんて言い草は認めるわけにはいかないんだよ、同志。市場はいつだって失敗している」
「うわっはっはっは。それは悪い。おれだってそうだ。市場で起きるのはしばしばいかさまだ。ビッグプレーヤーが大手を振るい、小さきものは片っ端からぶっ倒れる」
Vはさっそくウォトカをあおった。うわーお。喉がTNT爆弾で吹っ飛んだ。これほど退廃の味がする飲み物はないぜ。
「きくなあ、相変わらず。おい青よ。こいつはなかなかの傑物なんだよ。見上げた男だよ」。Vは酒臭い息を出しながら、ナボコフの肩をばんばん叩いた。するとナボコフはいかついサングラスを外し素顔を見せた。ブルドーザーのような顔をしている。「よろしく」彼は表情を0・1パーセントだけ揺らした。その容貌はハリウッド映画が描くのが好きな、人を殺すときにも表情をぴくりともさせない冷酷なロシア男性のイメージに似通っていた。青はランボーに拷問をかます、血の凍ったソ連の軍人を連想した。拷問となるとアドレナリンが爆発し体中の血がパワーをみなぎらせるタイプだ。
からだも熊みたいに大きく、丹念に鍛え上げられているように見えた。銀髪は雷に打たれた直後の逆立ちを示し、ディヴィッド・リンチの映画の登場人物のようだ。独立旗と「Right(権利)」をあしらったパプア島独立派のTシャツ。ジーンズは炭坑での重労働を経たような色あせ方をしている。足下はVと同じエアマックス95でまとめた(Vがプレゼントした)。腰にはしゃれこうべをあしらった銀のチェーンがじゃらじゃらぶら下がり、指にもやはりしゃれこうべの指輪だ。
だがその後、青は度肝を抜かれた。彼が表していることと彼の車の中身の違いは半端なかったからだ。Vはその車の内装を「相変わらずチャーミングな車だな、おい」とからかった。「ありがとう。ぼくは表現の自由を謳歌しているんだ。万歳~!表現の自由~!」ナボコフの声のトーンはいきなりレディガガの高さまでせり上がり、顔は菊池凛子のごときチャーミングな笑みを浮かべるのである。
青は混乱した。混乱して当然だ。車内は「ドラえもん」の王国だったのだから。そうそこはなにもかもがドラえもんでできている。苔を敷き詰めた庭園から雑草をはぶくように、ドラえもんに関係しないものは排除されている。シートはアンコールワットの仏塔の外壁を埋め尽くすラーマーヤナの物語の彫刻のようだ。無数のドラえもんのストーリーが踊った。あるところではドラえもん一派は宇宙空間を探索し、あるところでは海底の城を攻略する。あるところでは恐竜との友情を育み、あるところでは迷宮から抜け出せなくなった。
ドラえもんを彩る数々の不思議な道具も所狭しと描かれている。自由自在に空を飛べる「タケコプター」、どんな言語もはなせる「ほんやくこんにゃく」、なんでも小さくできる「スモールライト」。科学に夢を抱いた時代の空気がありありとアイデアに映り込んでいる。なにしろ「みんなみんなみんな、かなえてくれる」だもの。もちろんナボコフはその道具すべての名前と機能をそらんじている。それにまつわるストーリーだって要約して話せた。ウィンドーの昇降スイッチにはそれを開ければどこにでも行ける「どこでもドア」が描かれている芸の細かさだ。
ぬいぐるみもめまいがしそうなほどたくさんある。後部座席の片側、ダッシュボードの一部、リアガラスの一部らへんに砦を築いた。カーステレオからはドラえもんのテーマ曲、映画の主題歌がぐるぐる回る。歌詞の一つ一つに関してうんちくが言えた。彼はこれらの曲について、子どもを意識するせいか低温が少ないとの不満を持っていた。したがって彼は運転席横に搭載したイコライザーと社内後部のウーファーで無理矢理低温を多く聞こえるようにしていた。あのアニメチックな音がどうもギャラクティックに聞こえてくるから不思議だ。「今度は自分で低温、超低温部分のベースを足そうと思ってます。曲のミックス前のデータを開示してくれればいいのになあ」。そう二次創作は極めて当たり前の時代になっていた。著作者のオーソリティなどもうどこ吹く風である。
それらの曲のムードはアルファロメオがすり抜ける都会の光景とどうもマッチしなかった。大福にバーベキューソースを塗ったくる感じなのだ。
とにかくここで青から「ドラえもんのユートピア思想」ということに関して問題が提起された。「歌詞は『あらゆる願望がかなえられる世界』について歌っている。なんでも実現できるテクノロジーがあり、それが自分らを幸福にするためだけに使われることを信奉している。もちろん、そうありたいものだけど」
すると、ナボコフがかなり燃え滾ってきた。「その通りです。あなたは鋭い視点を持っていますね」と趣味を共有するものに対してだけみせる、素晴らしい笑みを見せた。人間が日常的に使う仮面の笑みではなく。
「でも、ぼくはこれが平板な願望だとは思いません。20世紀だけを見てもテクノロジーはあらゆる失敗を果たしてきました。鉄腕アトムもゴジラも原子力エネルギーの利用と危険性を踏まえたヒーローあるいは怪物ですね。ドラえもんもまたそういう危険性を踏まえて、テクノロジーの安全利用を訴えているんじゃないでしょうか。
『のび太とブリキの迷宮』という長編があります。そこでは、機械頼みになりすぎたせいで、動力のついたカプセルに入らないと動けない人間が登場します。文明が発達したほかの惑星の社会は、ロボットに支配されています。そういう可能性を視野に入れながらも、あえてユートピアを唱えているのではないでしょうか。深みがあります。そこが私がドラえもんの好きな理由の一つです」
ドラえもんはこの世界を読み解くための重要な素材だ、とナボコフは考えている。「ドラえもんは、近代特有のものごとが詰まっています。だから、私はドラえもんが好きなのです。ドラえもんを知らない読者には苦痛かも知れませんが、ちょっとグーグルで検索してみてください」
ナボコフのハンドルさばきは神がかっていた。あたかもサイババが起こす奇跡のようだ。
「ドラえもんの舞台はちょっとしたニュータウン風の街でしょう。みな一軒家に住んでいて、裏山という人工的な世界から自然なところへとまたがる境界線的場所が用意されている。極めて興味深いですよね。のび太くんは学校の社会の歯車選別システムが強制する『勉強しなくちゃ』という圧力から逃避しようと必死だ。のび太くんはあらゆる野生を去勢された典型的な『近代人』だ。権力におびえ、システムの一から外れることにおびえている。だから、どんなに既成のシステム=学校に怒りを覚えたとしても、学校自体には反旗をひるがえさないでしょう。羊なんです。なんだかんだ、システムのなかで『飼われている』のが心地いいんです。ともすれば、『ああ、きみはほかの羊より優秀だね。羊の上に立つ羊だよ』と褒めそやされたいんです。のび太は柵の外のワイルドな世界を知りません。そこは百鬼夜行です。怖がってすらいるでしょう。
そういう彼の状況が『みんな、みんな、みんな、かなえてくれる、不思議なポッケでかなえてくれる』猫型ロボットへのおねだりで明らかになる。彼はシステムと闘うのではなく、システムのなかで安穏とできる方法を探そうとしている。『この世界には出口なんかない』と思い込んでいるんです。これはたぶん学校の羊となり、その後会社の羊になる、『先進国の中間層』に共通の状況だと思います。これは古くからある議論。いまもかなり熱している議論です。
のび太とジャイアンの関係性は注目に値します。それはのび太=いじめられっ子、ジャイアン=いじめっ子という関係です。しかし、のび太くんはサラリーマン家庭。ジャイアンは八百屋というウォルマート、イオンなどのグローバルな大型小売店に息の根を止められそうな個人事業主の家庭です。つまり社会階層は逆なんです。特にサラリーマンを未だに『安定』として褒めそやす日本社会ではそうでしょう。
個人事業主の息子ジャイアンは、野球に夢中なふりをしているけれども、実のところはそういったじんわりと存在する階層に敏感なんです。『普通にやったら自分が支配される』と危機感を抱いている。これが彼に極端な闘い方をしいているんです。野球バッド片手の脅迫、音痴歌唱による継続的な聴覚への攻撃などの暴力によって、子どもの世界における階層の反転を目指している。彼の目は社会全体まで見通していて、社会階層が遺伝し、硬直化していくことに危機感を募らせているんです。
だから、専門家はジャイアンはあなどれないと口をそろえます。すなわち、ジャイアンは隠れたちょっとした反体制派だ、ということです。ジャイアンの母親はよく息子をしかります。『商売の手伝いをしろ』などと言って。これはかなり意図のある行動で、ジャイアンによる『階級反転』に注意を与えているんです。『そんなことやっていても、大人になったら支配者か、非支配者かで差がつくんだ。だったら手伝いで商売のやり方のひとつでも勉強しろ。しかも世の中の情勢を見る限りでは、あんたの反体制的行動はどんどん抑圧の対象になっている。世界の趨勢は拝金主義。思想が死滅していく。あんたそんなんじゃこれから幸せになれないよ』こういうメッセージである。『いいかい、カネを握るんだ。カネがあれば何でも買える。そして富を独占するマフィアの側につくのよ。マフィアになれば、愚民が知らない情報にありつける。それで世の中を自由に泳ぎ回れる』
なんという慧眼でしょうか。ポイントは彼女は個人事業主であることでしょう。羊化されたサラリーマン族、社畜と言うんでしょう、とは違って世間の波風には人一倍、乳牛の17倍は敏感なんでしょう」
ナボコフは再び、趣味を通わせる相手のための最高の笑顔を見せた。そして再びハンドルに魔法をかけ始める。ハンドルは岩間から溢れ出るわき水のように緩やかだった。
51 首都高を行く、そこから何かを導きだろう
アルファロメオはとても滑らかに首都高速1号羽田線に入った。首都高は誰かの苦悩を表象するがごとくゆらゆらと蛇行し、ウォーターフロントのどこかに虚ろな風景を塗っていく。隣を人もまばらなモノレールが通った。向かって右に見える埋め立てた埠頭には、クレーン、塔楼、倉庫などの港湾的な設備が見えた。その奥には奇怪な島が見えた。超高層摩天楼が数本立ち、その足下をツバメの巣のような構造物が覆っている。摩天楼たちもまたそれぞれに柱などを渡し合い、結びついている。
この羽田線は1964年の東京オリンピックに合わせてつくられた。玄関口の羽田と都心のアクセスをよくすることを急いだ。東京オリンピックは日本の高度経済成長の象徴的なできごとだった。これに合わせて羽田空港、新幹線などが整備された。こういうふうに教科書は記述する。それに合わせて「東京のデザイン」がやられた。施設の建設の裏側には、漁民の漁業権放棄、強引な立ち退き、現在よりもかなり劣悪な建設現場における出稼ぎ労働者の酷使などがある。激しい労働を強いられた結果、命を落としたものもいた。そんなことはもう誰も覚えていない。そういう負の部分をめぐる歴史はしばしば”忘却されやすい”。それが忘却されることを望む人々が多いためかもしれない。
その後、東京の無機質なビルの雑木林たちのなかに入った。首都高は文字通り都会を縫っていく。急なカーブ、妙なくねりもある。用地買収が難しいため既存の道路、川の上を通さなければ行けなかったからだ。
ビルたちの雑木林は一見くだらないが興味深くもある。「ユニバース・エクセレント・マグマ・プリンセス竹内」とかいう謎の名前の雑居ビル、一泊4980円のラブホテル「ホールインワン」、ビルの上に載った巨大なボーリングのピン。人は都会に無数の記号を書きたてる。
そのうち、ドラえもんの音楽がソールドアウトし、エイフェックス・ツインの「Xtal」が聞こえた。とんでもないパラダイムシフトだ。だが、東京の一側面である無機質さに、聴くものを氷山の中に閉じこめるような冷たい音楽はふさわしかった。機械的な女性の声の哀しい音像はすごかった。
上空をヘリコプターが飛んでいる。青には羽田線を走っているころからずっと羽のばたばたが聞こえていた。彼女にはそういう五感が人より優れているところがある。ヘリはかなり高い空を飛んでいて、爪楊枝ほどの大きさに見える。目を凝らしてみたが、それは何の変哲もない無個性なヘリコプターだ。くすんだ白い色をまとった。クラスに1人はいる無個性という点で強烈に個性的な奴みたいだ。言葉の受け答えは無難で、ワルいことは絶対しないし、かといって変な部分を隠し持ってもいなかった。家庭は中流ど真ん中。月賦払いの中流のマンションの3LDKに住んでいる。そんなふうだった。
だが、青のこころには何か引っかかるところがあった。魚介類を煮たときに出るあくのような感じだ。
それから青は車のなかに音の最小単位のサイン波が鳴るのが聞こえた。それはかなり極細音で出ている。一つだけじゃない。数百、数千ある。洪水と言っていいレベルだ。これがどこから来ているのかはまったくわからなかった。それがヘリと関係あるのかもよくわからなかった。