表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢見るカオス  作者: 夏川慧
6/9

6章 インセプション

39 月夜の晩

 

 青が記憶を失くしたことは、Vは折り込み済みだった。「外の世界からここに入るとくまなくそうなる。でも大丈夫だ。それを解決するしかるべき方法があるんだからな」彼はそれを手配すると約束した。彼はその前に、生まれたての赤ん坊のように何にも知らない青にレクチャーをすることにした。二人の関係は青が依頼主、Vがその実行者だ。Vはそれに忠実だった。

「おれはあんたを探していたんだ。これはあんまり簡単じゃあなかった。だが、いま、おれはやっと君を見つけたわけだ。なぜなら、おれは依頼にはとても真面目に向き合うんだ。決められた仕事はしっかりこなす。生まれてこの方、これを裏切ったことはない。職人なんだなあ」

「そしておまえが依頼主の青だ。電話では話したことがある。こんな月のきれいな晩に会えると、はじめてあんたのかっちりとした、きれいな正三角形のような声を聞いたときから思っていたんだ。あんたの狙いを聞いてぼくは腰を抜かしそうになった。〈かぎ〉を頂こうなんて大それたことをやろうというんだからねえ。そんなことをしたら、あいつらが黙っちゃいないし、仮にそれが成功したら、この世界はとんでもないことになるし、あっちの世界だって一緒だ。だけど、これは面白いな、って思ったんだ。こういうクレイジーなことは人生で何回かある。その1回がきやがったぜ、さあてどう始末をつけてやろうか、と武者奮いを起こしたんだ。さあて、そんなクレイジーなことをやろうと思う女だからさあ、ぼくはどんな筋肉質で不細工で気ちがいなナオンが出てくるかとかんぐったが、

いやはやこんな美人がやってきちゃう。やっぱり世の中分からないもんだねえ」

 しわがれ声の主は口の右端を吊り上げた。

 だが、青は怪訝な表情をするだけだ。Vはそれを気にも留めず話し続けた。「もちろん。これはビジネスだ。あんたが美人だろうが、そうじゃなかろうが、それはあんまり関係ない。おれは金をもらったからには、一丁前の仕事をやらねえと気がすまないんだ。繰り返すが、ぼくは職人なんだ。自分の仕事はまっとうする。それだけなんだな」

 青い月の光も湛えていた。

「いまの話で気になるところがあったの。『〈かぎ〉を頂く』ってあんたは言ったわよね」

 そのしわがれ声の主は教え諭すように話した。「いいかい。あんたは〈かぎ〉を探している。〈かぎ〉ってのはマジでヤバいもんだ。触っちゃいけないたぐいのものだ。その案内役であんたはぼくを雇ったんだ。ぼくはこの〈ルービア〉っていうややこしい名前のついた世界に詳しいからねえ。だからぼくはここにいる。わかるかな」

 遠くからサイレンが聞こえてきた。さっきの爆発で誰かが、警察を呼んだのだろう。さて、とVは手をたたいた。「ここを離れよう。われわれはあまりにも注目されすぎたみたいだ」



40 〈かぎ〉


 さて、〈かぎ〉というものが示された。読者諸氏はまだ理解していないと思うが、この〈かぎ〉はとても大切なものだ。

 〈かぎ〉が〈ルービア〉に隠されているのは公然の秘密だった。人間は隠されたものを見つけ出すのが大好きだ。〈かぎ〉は冒険主義者の主たる目的になり続けてきた。だが、それを探そうとするものは最近になって、ぱたりといなくなった。

 それもそのはず、あらゆる警告が発せられるようになったからだ。宝探しの業界誌「トレジャーマガジン」2032年冬号の著名探検家アントニオ・イルクーツク氏はインタビューでこう語っている。「わたしは全世界の同胞にこう警告したい。〈かぎ〉を探すな、と。〈かぎ〉はそれを探した人間を殺さないではいられない存在なのだ。わたしはすでにそれで友人を3人も失っている。皆、かなりの手練だったのだが、どうやら死んだ、とともだちから知らされた。あれは究極に危険なのだ。しかも、その高いリスクに対して、〈かぎ〉がなにをもたらすかは明確にされていないのだ。よくこう吹聴される。『〈かぎ〉があれば神を超える力を得ることができる』『〈かぎ〉を持つものは宇宙のすべてを支配できる』。こううたう書物をわたしは山ほど知っている。

 だが、精査して欲しい。その本たちは明確な理由を語ったことがあるだろうか。それはただただ、『〈かぎ〉はすごい、超越的だ』と繰り返す以外のことをしたことがあるだろうか。わたしたちは〈かぎ〉への考え方を改めるべき時期を迎えている。わたしは率直にそう思うんだな」

 このインタビューの効き目はてきめんだった。〈かぎ〉をめぐるリスクとリターンの関係が明らかになり、誰もそんなばかばかしい仕事をしようとは思わなくなった。探検先はほかにたくさんある。

 アントニオが言ったことで最も大事だったのは、「〈かぎ〉が何かは分からない」ことだ。〈かぎ〉が何であり、どんな機能を持ち、どんな性質を持ち、どうして作られ、どうして隠されているのか、このすべてが謎の中にある。これは全然フェアじゃない。

 業界にはこういう奇説すらあるくらいだ。つまり「〈かぎ〉はそもそも存在すらしないんじゃないのか、誰かの豊かな創造物の産物じゃあないだろうか、どこぞにその姿形を見たものがいるのだろうか」。確かに〈かぎ〉の存在を裏付ける“確かなもの”は皆無だ(不確かなうわさや、根拠無き断言はあふれるほどあるが)。この説は豪州のいくつかの研究グループが主張し、著名な研究者からも支持が出て、最近とてもイキが良い。

 だが、これも仮説の粋を出なかった。だからいまだに謎のベールに包まれているのだ。だが、実のところ、この小説はある仮説への支持にもとづいて書かれている。それをいますぐ開陳するなどという馬鹿をやらない。後々読者の前に明らかになるので、伏せておこう。

 さて、Vの一人暮らしの独身男性の部屋のように雑然とした説明は〈かぎ〉のことを青に思い出させた。彼女は〈かぎ〉の存在を現実世界で耳にした。彼女には〈かぎ〉の使用で実現したいことがあるのだ。彼女が〈かぎ〉を手に入れることは、あるプロセスを経るなかで一種の使命になった。だが、その目的も彼女が記憶を失ったいまそれがなんだか分からない。ただ〈かぎ〉を手に入れるという第一段階の目的だけがそこに残っていた。

 Vが青に渡した領収書にはこう記してある。「青側がVのクレディ・スイスの口座に500万ドル振り込んだ。Vはそれをしかとうけとりました」。その領収書は簡潔にそう伝えていた。

 ただ、奇妙な点が存在する。

 領収書のあて先は「青」とは書かれていない。「ダイナミックドラゴン興産」と書いてある。ダイナミックドラゴン興産? そんな名前は聞いたこともない。なんにせよ、怪しい名前だ。ただ、Vの言うことが本当ならば、わたしはこの「ダイナミックドラゴン興産」の側なのだ、それが“まとも”なことをいのるほかない。

 

41 橋の上 


 Vと青の旅が始まった。目的は〈かぎ〉を手に入れることだ。ただ〈かぎ〉を得るのは危険を伴う。誰がそれを持っているのだろうか。それはまだわからない。

 とりあえず、二人はその人工的な海辺を脱出することにした。乗り捨てられていたママチャリで静まりかえった人工島をぐんぐん横切り、大きな橋に達した。橋は東京の陸とつながる。

 橋はかなり悲劇的だった。吊り橋のような設計で両方に3車線あり、下層には歩道があるが、車一台も通らず、人っ子一人いなかった。路面は長く整備されてないため凸凹だ。測道には悲しいオブジェが並ぶ。ぶっ壊れた車、バイク、自転車、ブラウン管テレビ、エアコン、街頭看板などの残骸が敷き詰まっていた。海風は絶え間なく鉄筋の間をすり抜け、悲しい音楽を奏でていた。

 橋の半分に差しかかったところに、警視庁と書かれた白黒のトヨタがとまっていた。そのフロントバンパーに疲れ果てたフロックコートの男が腰を落としていた。

 男は「おい、V、遅かったじゃねえかよ」と言った。パトカーの脇には新しく配備されたロボット警察官が二台立っていた。ロボットは頭が悪いらしく、動きが異様に鈍い。それでも、自転車二人乗りを察知するとすぐさま検挙に乗り出そうとした。「おいおい、やめなさい、やめなさい」と警察官はリモコンで制御した。

 Vはママチャリを止めて「時間通りだ、馬鹿野郎」と言う。警察官は「かなりみなみなさまの注目を浴びているぞ。気をつけないとあっという間だからな。ちょんの間。ハイ御愁傷様だ」

「うるせえ、お前は『ここほれワンワン』をやってればいいんだ」Vは再びママチャリをこいだ。警察官は「そんなことができれば、こんな橋の上にはいないわな。どっかの立派なデスクの前でふんぞり返ってるわなあ」と吐き捨てた。

 さらに進むと東京の陸が見えてきた。

 無限のごとき夜景である。摩天楼が竹林のように生え、頂上に飛行機などに警戒を呼びかける赤いライトをつけている。その間を蛇のようなフライオーバーが心地のいい曲線で貫いている。そのすべてが数多の種類の光を発していた。それは無数の生き物たちが聖なる力に引き寄せられ、一つに溶け合わさったようだ。風景はあまりにも膨大だ。読み取るべき対象は数限りなくあり、見方を変えれば、驚くべきことに何にもないのだ。

 Vは後者の意見の側だ。あざけ笑いながら「あそこは空っぽだ。がらんどうじゃあないか!」と叫んだ。

 でも、少なくともそこには一つの生き物がいる、青は思った。原理的に研ぎすまされたエコノミーが、その無数の塔の周りを自由自在に踊っているのだ。彼女にはそう見えた。ただ彼女もまたうんざりを感じずにはいられなかった。「あれは一つのプレートに無粋に山盛りにされたポテトフライにどこか似ている」



42 やっとわかってくれたか


 東京の陸地につくとチャリを捨て、彼らは無人電車に乗って都市の中央部を目指した。車窓から見える夜景は洗練されている。高層ビルの森林は圧倒的だった。それは年々密度を増し、高くなっているという。その下を走る整理されきった小綺麗な道路。大小そろいにそろった交通インフラストラクチャー。さりげなく、そうではないようなかたちで置かれた監視カメラ。優越する側のグローバル都市だった。世界から集めた富がこういう建築物につながる。人が歩いていてもまるで人造人間に見える。走っている自動車も誰も乗っていない自動運転ではないか、そう勘ぐってしまう。

 彼らは新橋で降りた。そこで戦略的に重要な事態に直面する。経済的苦境である。何をしようにも金が足りなかった。

 Vはその派手な見せかけとは逆に一文無し。「先立つものがねえなあ、ほうら」。Vはスーツのポケットの中身を引っ張り、がさがさの黒ずんだ生地を見せつけた。いかにも古めかしい仕草だ。「ぼくは人間が古いんだ。こう言う稼業やるからには、『宵越しの金は持たない』って決めてるんだ」言い訳じみたことを言うけれど、Vに悪びれた様子などどこにもなかった。東京の明かりに本格的に照らされた彼は貧弱な部分が目立ち初めていた。スーツの背中にはフケが積もり、ところどころ糸がよつれていた。すその痛みもひどく、エアマックスのつま先には大きな穴も開いていた。青も身に付けているワンピース以外、持ち物など何にも無かった。

「だが、心配はご無用だ。君子策を打つってもんだ。おれにはとっておきの秘策があるんだからさあ~」Vの自信はなかなかのものだ。

 だが、彼が提示した「策」はかなりローファイで伝統的な錬金術というほかなかった。すなわち、Vはセブンイレブンを強盗することを提案した。「あそこをやるぞ!」彼の指先の延長線上には、世界中のどの系列店とも変わらない、何の変哲もないセブンイレブンがあった。

 セブンイレブン。

 それは海の近いオフィス街の一角のくすんだ真夜中のなかで一味違った。赤、緑、オレンジの看板。内部の煌々とした蛍光灯が周囲を白く照らし出している。その四角い店内にはあらゆるものがそろっていた。しかも24時間開いていた。ものによっては小さな商店よりも安いのだ。このビジネスモデルはとても獰猛で強かった。それはひとたびある文化圏に入り込むと、宮本武蔵が吉岡一門をなで切りにしていくように増殖した。似たものたちもいるが、やはりこの赤、緑、オレンジの軍団が一番強いのだ。その入り口にこういう垂れ幕が踊る。「セブンイレブン、いい気分!」。韻を踏んだ素晴らしいキャッチコピーである。

「いいか、あいつらは儲けに儲けまくっている。おれたちは現代のねずみ小僧だ。富めるものから頂き貧者にそれを分けるんだ」

 青はかなり呆れた。「なんでこんなことから始めなくてはいけないの? もっとスマートな方法があったと思うんだけど」

 「うるさいなあ、もう、まったく、つべこべいうなよ、いやになっちゃうぜ!」。Vは露骨に不機嫌な顔をした。それだけこの方法に確信を抱いていた。「あんたはわかってないよ。入り口は何でも良いんだ。それこそ暗渠のどぶとコンクリート板の隙間でもいいんだ。出口さえ正しければそれでいいんだよ。いつだって結果が手段を正当化してきたじゃないか。勝てば官軍だ。勝ちさえすれば何をやってもいいんだ。それは善と悪の話じゃない。優れるか、劣るかの話なんだ」Vはかなり感情が籠り熱くなっていた。

 青はVの口から飛んだ唾液をふいてちょっと考えてみた。まず越えるべきは経済的苦境なのは確かだ。Vの不手際をなじることはできるが、この男はどうにも面倒臭い。この調子でずっとわめき続けるかもしれない。セブンイレブンを強盗することは、わたしとVには赤子の手を捻るようなもんだ。倫理的なことはお腹がいっぱいになってからでいい。

 彼女は「わかったわ」と言った。

 Vは政敵を打ちのめして満足した政治家のような笑顔を浮かべた。

「やっとわかってくれたか」



43 セブンイレブンのフランチャイジーの受難


 ここで、強盗の受難者に視点を移そう。

 そのセブンイレブンは開店15年だ。駐車場は乗用車12台を収容できるスペースがある。周囲のタワーマンション、リッチな道路事情が運んでくる乗用車、客入りは悪くなかった。不思議なことにそのセブンイレブンには立ち読み客というものがなかった。客はおしなべて富裕層で、そんなことをするまえに、雑誌を買って、部屋のウン十万だか百万だかするナイスなカウチの上で読むことを選んだ。つまらなかったらゴミ箱に放り投げればよかった。これらの行為は経済に寄与するため、オーソリティも奨励する。

 そのセブンイレブンはフランチャイジー(加盟店)による経営だった。セブンイレブンビジネスにはおおまかに二つの形態がある。直営店とフランチャイズだ。

 そのフランチャイジーはウン十年前に臨海地域の開発で漁業権を手放した代わりに土地持ちになった漁師の孫、赤羽根宗助(38)だ。その祖父はすでに亡くなっていた。両親は銀行からがちがちの契約で金を借りて10階建ての雑居ビルを建てた。その一階をセブンイレブンにして当座の金を得て、ビルの賃料収入は借りた金を返すのに当ててきた。

 両親はついに借金から自由になると、セブンイレブンと雑居ビルの権利を息子に譲り、新潟に田んぼを買って自殺覚悟で農業を始めた。そのころには関税撤廃で勢いを得た輸入米が市場を席巻していて、国産米というものは完全に時代遅れの産物になり果てていたが、彼らには余りある蓄積があったので、「なんとか葬式は開けそうだ」という具合だ。輸入米とは別のセグメントで活躍するハイスペック米をつくろうなどという気概はありゃしなかった。

 で、その夫婦には三人子どもがいたが、長男の宗助が二人の弟を押しのけて、セブンイレブンを継いだ。宗助は高校のサッカー部の三軍になって彼女ができなかった経験に打ちのめされ、「どうせおれなんか、社会にでてもいいところになんかいけない」と深く確信した。それからというもの、弟二人にはことあるごとに「独力で生きていかねばならぬ時代だ」と教訓をたれたり、「おれは何をやってもだめだからなあ」と憐憫をこうたり、手を品を替え圧力をかけ続けてきた。弟たちは兄貴のなみなみならぬファイティングスピリッツに圧倒されて、息苦しくなってきた。彼らは職を見つけると逃げ出すように家を出て行った。

 宗助はどんなに控えめに言っても、ロクでもない馬鹿野郎だった。友達もいないし、ガールフレンドもいないし、彼の部屋にはカーテンだってなかった。彼はセブンイレブンビジネスの完璧な計算がたたき出す利益に依存した寄生虫とも呼ぶべき生活を送っていた。たまに店に顔を出したり、フランチャイジーたちの会合で居眠りをしたりする以外の時間は、大森のどうしようもなくしけたスナックでロクでもない酒におぼれ、カネ以外のものに価値を見出せない30半ばのホステスの佐間ミキ(26歳と主張している。可哀相なことに宗助はその主張を鵜呑みにしている)に対して、自分とマークザッカーバーグがマブダチだとかぬかしたり、レディオヘッドの6人目のメンバーは自分であると吹聴したりしていた。

「あなたって、『やっぱり』、すごいのね」

 ミキはそういう猪口才な言葉を使った。いつも細長い煙草を吸って足を組んでいた。「いつもわたしにお小遣いくれるのも、宗ちゃんのやさしいところだよね」彼女はこういうたぐいの暗示を常々かけてくるのだ。

 彼はそういうのを鵜呑みにして、彼女の先進国の都市生活者としての奔放な消費生活を“サポート”していた。二人の関係をつなぐものはカネ以外のなんでもなかった。彼はミキがたまに思い出したようにくれるセックスにありついて、ばかげた幸福感と無意識にこころを蝕むつらさの両方を感じていた。アンビバレントだった。

 そんな宗助はその悪夢の瞬間に奇跡的に居合わせた。彼にはやらなくてならぬことがあった。それは週刊誌の「脱いだ歯科助手サチコ」の袋とじを、地上50メートルで作業する鳶職の慎重さで破ることだった。その「サチコ氏」は彼が片思いをしていた中学校の同級生ナカジマアイコに17パーセント似ていた。彼は興奮を隠せず、ひざが震えた。次第に残りの似ていない83パーセントに目が向かなくなり、ナカジマアイコ方面へとトランスフォームしていくのである。 サチコの顔はぐにゃぐにゃゆがみながら、ドラスティックな変化を遂げて、やがて二つは一つになった。そう、二つは一つになったのだ。宗助はアドレナリン注射を受けた有様だった。卒業式にうたった、校歌の退屈で平板なメロディがよみがえるのだ。「レッツサーチフォートゥモロー」。日本語の曲なのに、サビが英語で「明日を探そう」とわめく曲である。傑作だ。

 だが、その至福の瞬間はそう長くは続かなかった。

 暗闇が襲ってきた——。間髪いれず強盗が行われた。彼はあっという間にそれに屈し、なすがままにされた。

 その時の様子を、宗助は湾岸新聞の独占取材に対して克明に語っている。彼は目を充血させ、ほおはげっそりとこけ、いかにも意気消沈した様子だった。

「私が本棚の前で作業していると、店の電気がふっと消えたんだ。そのとき店にはわたしと、レジの中にアルバイトの大学生が二人いるだけだった。わたしは混乱した。間髪いれず凶暴なやつらが店になだれ込んできて、『強盗だ。安全でスマートなほうの強盗だ。安心しろ』と叫んだ。ちょっと狂気を含んだ、落語家みたいな感じの声だと覚えているよ。それで大学生の1人が『抵抗しません。全部持っていってください。時給950円で殺されちゃかなわんわい』と叫んだ。もう1人も『おれも同感だ』と宣言しやがった。ちょっと経営者としていらっとしたが、すぐさま、わたしにはものすごい速さの影が迫ってきた。

 うわあああ。

 どすん。

 ごろり。

 こういう具合でぶっ倒された。うつぶせにされて両手を背中の後ろで拘束された。イタイイタイと叫んだら、その口に硬い鉄の塊を突っ込まれた。そいつは拳銃だったと思う。それでわたしは観念した。『参りました』。レジの中のカネ、金庫のなかのカネ、財布の中のカネ、全部上げてやった。やつらはものの2分くらいの間で消えた。丁寧なことに店にいた全員の携帯電話とか、タブレットとかをぶっ壊した。パソコンももちろんぐしゃぐしゃにされた。すぐに警察を呼ぶことはできなかった」

 被害額は52万円、警察は千葉の貧困地域を拠点とする青年ギャング団の犯行とみて、慎重に捜査を進めている。新聞はそう書いていた。 

 新聞には載らなかったが、彼は警察が到着するまでこんなことをやらかした。彼は手を縛られたまま高校の校歌を歌って、ナカジマアイコという女の子の記憶を愛でた。そして、ミキみたいな女とは金輪際関らないと誓った。その後、彼はたちの悪い女との縁を切ることができた。とりあえず、盗んだ側と盗まれた側に実りがある強盗事件だったともいえる、かもしれない。



44 21世紀の本質的な空腹


 金の次は飯だ。

 中年男と若い女は腹を空かせている点で完璧に共通していた。飯を買うための金は十分にある。農耕民族の血が流れていない感じの二人には、さっきのセブンイレブンで、なにか食い物も拝借すればよかったなんて思わない。カンバン方式を生み出す国の効率主義的な思考から、外れたところにいた。もうなんでもいいから、そこらへんで食おう。警察におびえる感じもない。

 タクシーを捕まえ、しっちゃかめっちゃか海辺郊外に進み、複合開発地域を見つけた。某米系ハンバーガーとスターバックスとツタヤが軒を連ね、駐車場がその目の前に寝転がる。よくあるやつだ。

 二人はひたすら大きい田舎者を満足させるために考案されたようにも思える無粋なハンバーガーを食べた。そのハンバーガー屋のターゲットは常に「腹を空かせた若者」だ。そこのマーケッティング取締役の口癖は「量は質を制す」だった。そのためどでかいハンバーガーの体積はアドバルーンし、やがて両手でつかんでも構造的崩壊に至るという欠点を抱えるようになる。それをその取締役は「われわれの努力のしるし」と誇りさえした。実際、それを喜ぶ客は少なからずいるのだ。

 そのアプローチは的確かつクリエイティブなマーケティングだった。その死んだ飯の提供者のレストランでは、あらゆるものごとが利益のためだけに計算されていた。店の中は、「腹を空かせた若者」の好みに合わせて、プラスティックで作られたキッチュなデザインで統一される。そういう若者はあらゆる実りある話題に通じているから、長居をしがちだ。長居は客の回転率を削ぐことになり、飲食店の商売として致命的だ。それを防ぐため、座席は意図的に硬くされお尻が疲れるようになっている。

 店内は煌々とした蛍光灯が焚かれ清潔そのもの。店員は無駄な会話なんて交わす気なんてさらさらなくて、ただただ半世紀かけて培われた極めて近代的なマニュアル通りの「接客」に終始した。何度話しかけても同じ言葉を返してくるテレビゲームの登場人物のようだ。

 若者。若者。若者…!。真夜中だというのに、店の中はつるつるとしたファストファッションに身を包む若者でいっぱいだ。その服たちはバングラディッシュのとっても就労条件の厳しい工場(時として工場が崩壊して生き埋めにされる可能性すらある)で製造された可能性があったが、若者たちはそんなこと気にやしない。

 彼らには話すべきことが山ほどある。雨後の筍のごとき勢いで登場する最新のポップミュージック、いま一番クールな着ているだけで異性が寄ってくるファッションブランド、最近はまっている課金制で中毒性の高いネットゲーム、アイフォンを買うかアンドロイドを買うか、フェイスブックによるプライバシーの開陳の洗練されたやり方、誰と誰が付き合って誰と誰が別れたか、とある異性がセックスの最中にどんな振る舞いをするか、「崩壊した」年金制度へのいまいち盛り上がらない不平不満、日本が抱える巨大な借金を政府がどう始末しようとしているのか……。そういうところである。

 Vと青はあいにく、その空間になじまなかった。駐車場に並ぶふざけたスポーツ・ユーティリティ・ビークル。そのガソリン食い虫を飼いならせられる「中間層」のみがその地域の住民として認められる。富裕な両親を持ち、将来への保険を有した「安心な若者たち」は、たったいまセブンイレブン強盗を成し遂げた二人に、好奇と猜疑の入り交じった目を向けた。一人の眼鏡をかけた細長い顔つきの男がこう話した。「あのダブルのスーツはないよなあ。あれじゃあまるでヤクザだよ。ヤクザが外国から連れてきた女を売りに出そうとしてるんだ。ああ怖い怖い。それにしてもあの女かわいいな。わはは」

 Vは聞こえないのかコーラをストローでちゅうちゅう吸い上げるのみだ。

 

「どうもあいつらは怪しいなあ」

 遠くにある不眠不休のオフィスビル。画面を16分割し表示する監視カメラの映像を、過労の男性、坂城(仮名)が眺めていた。顔と眼鏡のグラスはモニターの光で白くなっている。彼は注意深く映像から読み取れる情報を精査した。ダブルのスーツは悪夢のような代物だ。そのとなりの女も古い映画から出てきたかのような白のワンピース、ロングヘア姿。化粧もうっすらとしたくらいだろう。そんな女が東京にいるとは思えない。ここではみんながみんなサイボーグのような感じなのだから。

「フシゼンなんだよなあ。なんか怪しすぎるよ」

 彼は独り言を言った。

 ハンバーガー会社はそのシステムを提供、維持する会社にかなり払っていた。それでもそれが十分にペイしているとみていた。彼らはそのシステムの正当性を問われると「お客様がお楽しみいただける環境を整えることにその身をささげる」という常套句をよくやらかした。でもどうにもやり過ぎだと思われるところもある。

 坂城は意を決しその店のマネジャーに電話かけた。

「しもしも」

「しもしも、坂城だな?」

 二人は旧知のなかだ。昔はよく合コンをやった。首尾が悪いとコンパの後そのまま風俗に直行した。そういうマンダムな関係を築いている。

「そうだ、大石、ちょっといまカメラ観てんだけどさ。怪しい二人がそこの17番卓あたりでハンバーガーをがっついているよ。一人なんかもう白いダブルスーツだよ。紫のスカーフ。やばいね。ヤクザ的なムードをかもち出しているよ。連れのねーちゃんもなんかおかしい。ああいうのは面倒だからさあ。早く追い出しちゃいなよ」

「おいおい、そんなの知らなかったぜ。たく、時給900円のやつらは『ほうれんそう』ができてないなあ」

 ほうれんそう(報告、連絡、相談)……。このクソくだらないものを発明したのは誰だろうか? 一面的にはいいが自分の力でものごとを進められない食らいつきを生む制度である。奴隷をつくるシステムである。創造性を殺すことにもつながるだろう。

 そのとき「坂城くんちょっと」。坂城はそりの合わない上司に声をかけられた。その上司は坂城を殺したいと覆うほど憎んでいる。彼を閑職に追いやるためのあらゆる方策(低評価報告、偽情報の流布)を打っていた。上司の机に向かうとき、坂城は高寺と目が合う。高寺はどうしようもないくずで、坂城の足を引っ張ることに楽しみを見いだしていた。普通にやったら、坂城の方がデキるのが簡単にわかっちゃう。上司が坂城を嫌うようになったのもこの高寺の謀略によるものである。毎日悪口を吹き込まれていると、例え嘘であろうとも、そのうち真実味を帯びてくるもんだ。

 さて、お店にいる出世知らずの大石マネジャーは時給900円の新入りにその二人の周りで盛んに掃除をするよう命じた。新入りはあまり意味がわかっていなかったが勤勉にその任務をこなした。

 だがその二人にはまったく効かなかった。

 これらの敵性感情に対して、Vは持ち前の弾力性を発揮した。何しろ純白のダブルに身を包みそれを誇りに思う男である。彼はまずSUVキッズたちに言った。「なあに見てんだ、おう?やんのかこのやろうっぱちが」。あごをしゃくらせて周りを威嚇すると、プスティックでできたテーブルの上に、いかにも「おれさまは乱暴だぞ」という感じで足を乗っけて、口をねちゃつかせて田舎ハンバーガーをむさぼった。

 それどころか、懐からサントリー角の小瓶を取り出して、キャップ酒をやった。

 ぐびっ。ぐびぐびっ。

 ここで大石マネジャーが目で新入りに指示を飛ばした。「おっ、お客様……」。時給900円はぎこちない様子で注意に及ぼうとしたが、桶狭間の合戦での織田信長に匹敵する逆襲が待っていた。

「なんだ、坊や! やんのかこのやろー!」

 ひいいいい。これでかわいそうな新入りは何も言えなくなった。彼は清掃の対象をSUV側へと移行させていった。大石マネジャーは面倒ごとはすべて下に押し付けるタイプの人間だったので、火中の栗を拾おうなんて根性はない。

 奥の事務室に引っ込み、パソコンにしがみついた。監視カメラのネットワークに入り、映像を見る。がくがくおびえた。ダブルのおっさんが周りのガキどもにくだをまいているのがばっちり映っていた。立て続けにウイスキーを飲みながら。これでもしかしたら自分は「処分」を受けるはめになるかもしれないと思った。上が言う常套文句はかんたんに想像できた。「あなたがとるべき判断をとらなかったことが、店舗に多大な損害を与えました。これはあなたの責任です。その分はあなたが自分で負担する必要があります。仕事には責任が生じることを肝に命じてください」。

 もともと少ないボーナスがカットされたり、給与が切り刻まれたりするかもしれない。最悪だ。

 とにかく彼は傷を深くする前に警備会社を呼んだ。5分で来ると喧伝しているやつだ。彼は自分自身がこのいざこざに関与する気はなかった。彼はただただ心地よく生きていられればそれでよかった。家に帰ってユーチューブで漫才でも見ていたい。

 幸いにも、Vの燃え滾る闘魂は下降局面に向かう。そのかわり食欲がぶり返してきた。お騒がせな二人ではあったが、売り上げ面ではちょっぴり貢献した。宇宙遊泳の後で腹を空かせたVはハンバーガー一つでは足りず、3つ追加。青も2つ増やした。海辺で目を覚ましてからこの方、何にも食っていなかったからだ。だが、彼女はフライドポテトという無粋なものが許せなかった。それはただ単にカロリーを補填するための食べ物だと考えた。こんな粗末なものを食っていたら、帝国主義的になるのもうなづける。これが21世紀の混迷の諸悪の根源じゃあないか、とすら思えてくるのだ。

 それから、青は着替えの必要性を痛感した。自分の着ているワンピースはなんだろう、古い写真のなかの誰かが身に付けている類のものだ。妙にこの都会から浮き出てしまう。

 相棒もまた然り。だって純白のダブルのスーツだもの。あんなものを着ていたら、わたしたちを見つけてくれと言っているようなものじゃあないか



45 SUVキッズの悲劇


 そのハンバーガー屋で仲間とだべっていたSUVキッズのマサカズはおうちに帰ろうと思った。あのおっさんは理解不能だ。ジャングルから出てきたみたいにワイルドで力強すぎる。どうも波長が合わない。同じ空気をすっていたくない。

 マサカズのおうちは21歳にとって分不相応だった。港区の瀟洒なタワーマンションで一人暮らし。彼の父親が相続税を節税するために購入して寝転がしていたのを、もうすぐ大学卒業の近い息子の「自立」のためと母が言い含めた。

 マサカズはその3LDKでしばしば、ラクシュアリーなパーティを開き、彼の持つ財産に目がくらんだ、特権階級的専業主婦層になりおおせることをもくろむ頭の弱い女子大生を好き勝手にしていた。女子大生は火星で育ったみたいだ。お嬢様系の女子大に通い、胸くそ悪くなるようなスポイルされた価値観に磨きをかけ、ときに些細なことをめぐって激しい場所取り合戦を繰り広げている。そんな子がはやりの服に身を包み、化粧をするとほれぼれとするくらいきれいになる。カメレオン的事象だ。

 それがマサカズが知るすべての女だった。彼はスノッブな中高一貫の男子校にいたころから同じように中高一貫の女子高の女の子とだけ付き合ってきた。外はない。価値観は火星に置いてきぼりだった。友人たちも社会のエリート層になっていく。彼らは世界もことも知らず、世界を操縦するようになっていく。自分たちが独り占めにしている利益の尊さをとうとうと説く悲しい人種が量産されていく。おれたちってエリート、みたいな。

 さてハンバーガー屋の真夜中の駐車場はかこんかこん踵が鳴る。コンクリートの舗装は黒々していて完璧だ。彼のかっこいいローファーのつま先は星々の光をはじいてきらきら。ドルチェ&ガッバーナで全身をくるんだ男は確かに悪くない顔立ちをしていた。ポールニューマンとサンタクロースを足して2で割った。髪型は意匠の凝らされたアシンメトリーだ。

 遠くに埠頭があり、海が見えている。

 それは黒く、ライトの光がもやもやと揺らいでいた。あれは何かに似ているといつも思う。具体的なものじゃない。抽象的な何かにものすごく似ている。

 彼は精悍な顔つきをしたゴージャスなSUVアウディQ5に乗り込んだ。内装も人間工学の観点から考え尽くされているらしく趣味が良い。彼はダッシュボードにある男性ファッション誌「メンズノンノ」を後部座席に放り投げた。足下にある誰かのパンティーも後ろに投げた。それからハンドルを触る。独特の重量感に安心する。その間も、彼の心は黒い海の水面のことでいっぱいだった。あの光の特異な揺れが心に引っかかるのだ。

「やっぱりあれは何かに似ている」

 でも、その詩的な感情が危機への対応を遅らせた。彼はキーをひねったときに異変に気づいた。誰かが後部座席に乗っている。でもそのときには首筋に鉄塊があたった。口元が皮手袋をつけた手で押さえつけられた。「動くな」

 野武士のような声。彼はバックミラーに目を走らせた。彼を脅かす人物はさっきの白いダブルスーツの男だ。「じゃあ、これからキミのおうちにいこうか。だまって俺たちの言うこと聞いていれば、君は安全だ。もし、君がちょっとでも『間違い』をやらかしたら、やば〜いことになるなあ。うっふっふっふっふ」男はウイスキーの小びんを空っぽにした。その尻でマサカズの頭をこつんとたたいた。

「さあ、みんなで考えよう」

 新しい小びんの登場だ。

 ぐびっ。ぐびっ。

「キミがのほほんと生き延びて、親の遺産で生きていける最前の方法は何かな」

 ぐびっ。ぐびっ。

 マサカズは小刻みに震えながら答えた。

「あなたの言うことをきくことです」

「おう、ぐびっ、良い答えだ。さすが坊ちゃんだ。ぐびっ。おれなんかとは頭の構造が違うな。ぐびっ、ぐびっ。ひっく。やっぱり生まれが違うんだ。育ちは似たようなもんなんだけどな。ぐびっ」

  Vは少し考えて、いや待てよ、と言う。「うそだよ。おれなんかゴミ山から生まれてきたようなもんだからね。育ちは違いすぎるほど違うだろう。階級がまったくと言っていいほど違うんだ。わかるだろう。ぐびびびっ。ひっく。資本主義は階級

を持っている。みんな中流だと思っている。本当にそうだろうか。そんなことはない。ぐびっ。

 いいか。人間はむしろ、そういうのをつくりたがる。支配されて抗議していた人間が、支配する側に回るとすんなりと現状を受け入れたりする。支配は楽しいんだ。気持ちいい。中毒になる。『支配』っていうのは人々がずっと向き合っていくことになる問題なんだよ。もし、これをやめられれば、かなりハッピーになると思う。だが、それをするにしては、人間は余りにも愚かしすぎる。それはそんな近い話じゃない。うたかたの夢だろう」

 Vはマサカズの首筋に拳銃をぐりぐり押し付ける。ひいいいい。マサカズは叫んだ。

 ぐびっ、普通なら、ぐびっ、キミが支配する側かもしれない。でも、今は状況は逆転している。暴力にものを言わせているからねえ。ぐびっ、支配はマジックみたいなもんだ。もし、支配される側が、意識を変えればねえ、ぐびびっ。ぐびびびび。うえええ。支配の半分くらいは無化できる。もう半分が問題だ。金とか暴力が支配を固定化している。ぐびっ、ぐゔぃぃぃ。まあいいんだ。きみ名前はなんていうの?」

「マサカズです」

「マサカズよ、いいか、おれの言うことをきけよ。わかった」Vは小びんで顔を引っ叩いた。その拍子にウイスキーがこぼれて、かわいそうなマサカズのナイーブな髪の毛の上にひっかぶさった。

「いいか、ぐびっ、キミは親が死んだときは遺産を相続しないで、そっくりそのまま、おれっちに渡しなさい。ぐびっ、げふぅ、きくぜえ、相続税対策はしとけよな。ぐびびびびっ、あと合法的におれに渡す手段をあとで、弁護士とかと詰めようぜ、わかったな? ぐびびび」

「………………、はい、わかりました」

 またVは小びんでたたいた。「お前いまちょっと考えただろうが? 死にてえのか?」首元の拳銃を揺さぶった。

 ひいいいい、とマサカズは叫んだ。

 そのとき警備会社のクルマがハンバーガー屋に入ってきた。「出しなさい」青がべったりとした冷たい声を出した。アウディは抜き足、差し足、そろりそろりと駐車場から出て行く。警備員たちは気づかない。わらわらとガラス張りの入り口に向かっていった。

「遺産をもらって何するの?」青はきいた。

 いいかあ〜、Vは大声を出した。

「そんなものいらないんだよ。全部現金にして、日本海にまき散らすんだ。プランクトンにでもなるだろうよ。価値なんかないんだ。価値なんてもんはないんだ!紙くずだろうが」



46 要塞


 車は道路をつらつらと滑る。車の動きに滑らかじゃないところなんてない。「おれが乗ってた軽トラとは雲泥の差だな」おっさんは助手席に移り、機器類をいじった。おもちゃを買ってもらったばかりの子どものように目を輝かせた。ラジオをつけた。とたんにジュニア・マーヴィンの「ポリス&シーヴス(警察と泥棒)」がかかったのでVと青は大笑いした。丁度コンビニに盗みに入り、民間警察の横をかすめたばかりだからだ。


  ポリス&シーブス 

  インザストリート

  ファイティング ネーション 

  ウィズ ゼア ガン アンド アミュニエーション


 その傍らでマサカズは肝を冷やしている。脈拍はマイク・タイソンの連打みたいだ。ハンドルを操る手が風船になったようにふわふわする。いまあるシチュエーションがまったくもって信じられない。まるで安っぽい三流アクション映画のようだ。これまでの満たされた半生に修羅場なんてなかった。ほめられることになれていた。逆に脅かされることにはてんで慣れていない。水槽の中の熱帯魚なのだ。

 余談だが、マサカズは将来、父親が築いた財産を失う羽目になる。彼が親の事業を継ぐやいなやきりきり舞いを始める。古参はさじは出て行く。提携者もいなくなる。じり貧の末に破綻が待っている。すべてはマサカズに原因があった。

 とにもかくにも、アウディは港区の小洒落た富裕区に差し掛かる。ナイスなレストラン、バーがずらっと並ぶ商業地区が最初。金利生活者、オールドマネー生活者、既得権保持者、富裕な人間たちだけが集い語らい笑っている。金利生活者、オールドマネー生活者、既得権生活者……。富裕な人間たちだけで集い語らい笑っている。特殊な笑顔。目元が硬直し、口元だけ以上に持ち上げられた笑顔。エグゼクティブを演じるケビン・スペーシーがやりそうなやつだ。商業地区を城下街にして、その隣に金持ち専用のゲーティッドエリアがある。SUVキッズのおうちはそのなかだ。

 ゲーティッドエリアを「要塞」とも呼ばれる。高さ4メートルの「ベルリンの壁」に囲まれる。壁は横綱的な堅さをともなう。小型ロケット弾程度では破砕しない。壁の上に絡んだ有刺鉄線には高圧電流が流される(週に一匹のペースで野良猫を殺してしまう)。東西南北の四方に対し、櫓のような構造物が立ち、合法の「民間陸軍兵士」が24時間態勢の警戒をとる。

 隣り合う商業地区と「要塞」は監視システムを共有している。それは無数の監視カメラ、マイク、レーダー、航空カメラから得た情報を常に統合し続けることでできている。片方の問題、両者の問題、外的な問題、すべてに対して、民間警察、民間軍隊を動員するのだ。

 商業地域の各者が協力して構築した監視映像シンジケートに立ち入りが許されている。商業地域から問題が居住地域まで波及しそうなときは、いち早く手を打てるようにしてある。警察との協力もしっかりしているが、彼らの保有する民間警察、軍隊の実力はかなりの治安安定力を持っていた。

 システムはもちろん、アウディの助手席に乗るVに不信感を持った。その出で立ち、ふるまい、表情、言葉遣い、何もかもがその区域になじまなかった。要するに鼻つまみものの「異物」である。

 アウディは入り口のゲートでナンバープレート認証、ハイブリッド生体認証をパスしたものの、民間兵士が車をとめた。その男の顔は岩つぶてのようだ。体も岩つぶてのようだ。心ももしかしたら岩つぶてのようだろう。肩には物々しいマシンガンがかけられている。彼は眠るときもそれを抱き枕のようにして眠るんだ。下手をするとそれに股間をすりすりさせて悦楽にひたったりもするかもしれない。安全装置が外れて弾丸が自分のカントをぶっ飛ばすところ想像し、ぞっとするが、一方で妙にそんな悲劇を期待してもいる。恋愛とかはしたことがなくて、もちろんエドガー・アラン・ポーの詩「夢の中の夢」なんて聞いたこともないだろう。しゃべれば、カチコチの修飾節ばかりで構成された役人的言葉を話すのだ。   

 彼は北海道雪祭りの氷柱がごとき冷たい声で、「この人とはどのような関係を築いておられますか?」とマサカズに尋ねた。マサカズはどもったがなんとかその泥沼を抜け出し、それでも緊張しながら「か、彼は友人ですぅ。無二の親友なんです」と答えた。100点満点中37点。マサカズの土手っ腹には固い鉄の塊がぶつかっていた。それを握り込むVは呼応するようにニコッ〜と笑い「そうです。おれたち無二の親友なんです。心と心ががっちりつながり合っているんです」と話した。

 だが、全身をドルチェ&ガッバーナで包んだマサカズと、時代遅れのダブルのスーツを着たおっさんの友情なんて誰も信じることができなかった。もちろん、その民間兵士もそうだった。あるとすればそれは小説だし、映画だと思う。——内気なドルガバ青年が不良中年により人生を開かれる。青年は金だけが世界の支配原理じゃないことに気づき、旅に出る——。そんな感じだろうか。くだらない。だが、「事実は小説よりも奇なり」ともいう。

 兵士は苦々しい顔をして、しばし沈黙したが入場を許可した。そこには自分らが運用しているシステムへの過信があった。

 ゲーティッドエリアの中にたどり着くと、Vの歯はすべて根こそぎ抜けてしまいそうになる。そこが贅の限りを尽くした桃源郷だった。インフラストラクチャーが過剰なほどに完備され、すべてが快適だった。例えば道路の舗装はたったいま切り出された氷塊の断面の滑らかさを持っていた。例えば街路は自分のおうちへの到達路を光で導いてくれる。例えば各種のセンサーが危険や失敗の可能性を極小化してくれる。

 構造物のなにもかもがぴかぴかとまぶしい光を帯び、最高のパフォーマンスを体現しているようである。配置、デザイン、装飾には“完璧な計算”が使われた見込みがあり、どんな愚かしさも封じ込めることができると誇っているようだった。

 そこにいる人間はまぎれも無く「特権階級」なのだ。世界中の情報マフィアに通じ、愚民どもより数十歩先んじて新しい情報を得ることができる。彼らは適切な資本を適切な投資先に投入できる。それがまた新たな富を生み、支配の強度が増幅されていく。彼らはいかなる影響力からも自由である一方で、いかなる社会的、政治的アクターに影響力を行使できる。それがかなり彼らのゲームを簡単にしている。彼らは国民国家に忠誠心など持っているはずも無い。それが役立つのであれば使うし、邪魔をするのであれば、無視をすることができるかもしれない。

「この設備を謳歌する人間たちにここまで富を独占する正当性を問うべきだろう。こりゃあ胸くそ悪いぜ。いやになっちゃうぜ」とVは吐き捨てた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ