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夢見るカオス  作者: 夏川慧
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2章 大脱走

7 刑務所のなりたち、そして大脱走


 その刑務所の運営は、打ち込まれたプログラムを完全にそのまま自動演奏するシーケンサーのように平たく、簡潔に、反復的に行われた。あるいは優秀で去勢されたテクノクラートが、寸分の違いも認めないままに回す、「未来世紀ブラジル」に出てくる機械仕掛けの行政機関のようでもあった。

だが、いつまでも続くかにみられた砂漠の晴天は、突然の台風のダイナミズムに吹き飛ばされた。それが発した暴風は常軌を逸しており、刑務所を二度と戻れない地点へと誘うほどだった。

 囚人の間で非公式な結びつきが強まっていった。全知全能の神のごとき監視と、権力が発し続ける抑圧のエネルギー(発されなくなればそれは終わりだ)のもとで、それは成し遂げられた。ちょっとした奇跡だ。

 囚人の、“人種”も多様だった。それこそ特権階層もいれば、猟犬もいたし、アウトキャストやゲットーの棄民もいた。これらの人間たちをつなぐ輪が存在した。彼らは突然捕獲され、自分が持っていた何もかもを突然奪われ、刑務所に放り込まれた。そのため、すべてを喪失した感を共有していたのだ。

 彼らは「もう今生は諦めました」という顔をしながら、その裏でペルシャじゅうたんを織るようにじっくりと、権力から不可視のコミュニケーション網を作りあげた。そこでは無数の情報が飛び交い、飛び交うごとに洗練化することを彼らは可能にした。刑務所をめぐる多くの部分が囚人たちの知るところとなった。

 囚人たちは集合的な考えというものを形作る。それは個々の考えを坩堝るつぼに突っ込んでできる類のものだ。

 集合的な考えは自然とあるベクトルを持つようになった。

 それは〈非公式な刑務所〉から脱走するというベクトルだった――。



 それは自然とグループと呼べるものになってきた。それで彼らは自分たちに名前をつけた。

――〈囚人連〉。

 それは1月30日に行われた、密やかな住民投票ならぬ“囚人投票”で78パーセントの圧倒的な票を得た(2位「月と太陽」18パーセント、3位「ゴルフ階層に感じる爆発的な憂鬱」4パーセント)。なかなかシンプルでいいと評判だった。

 

 〈囚人連〉はあらゆる面で特徴に恵まれた。

 一番大事なのは、彼らはリーダーを持たず、“古典的な”上位下達の仕組みも持たず、指揮系統などという“一時代昔の遺物”も持たなかった。官僚組織的な部分は何もなかった。

 アメーバ的な構造は取り込み、分裂し、切り離し、膨らむことをランダム(無作為)に繰り返していく。すべての最小単位が思考し、最大単位の思考は常に更新され続けていく。それが“集合的思考”を生み出し絶えず更新していくのだ。

 これらの考えの下には川が流れている。その川はものごとを無難に乗りこなしていくという消極的なことになんのセンチメンタリズムも持っていなかった。そういうものはけっ飛ばすべきだと考えた。ぎたぎたにして燃やしてしまうべきとも言った。なぜなら、世界=状況は常に変化している。どんな大きさで世界を区切っても—おもちゃ箱の大きさでも、ディズイーランドの大きさでも、ブラジルの大きさでも—それはその最果ての刑務所でさえも同じだった。誰がどう管理しても“変化”を封じ込めることはできなかった。それは自然の中で「変化しない=恒久」という状況が極めて異常だということを示している。だから、その川は変化に手を当てて自らも変化し続けていかなければいけない、という論理でできていた。

 〈囚人連〉はすぐにある驚異的な達成に至った。アメーバのつながりを〈非公式な刑務所〉の外まで広げたのだ。その触手は静かに海を渡り山を越えた。暗闇をさまよいまさぐり続けた末にある剣呑で怜悧で過激な“やばいグループ”との連携に成功したのだ。そのグループもまた古典への郷愁とは距離を置いていた。

 二つのグループが結んだその総体は、ゆるやかで伸縮自在な広がりだった。その網状のものは神がかり的な速度で、地球という球体のほとんどにまで伸びるようになる。

 この二つの結びつきの力は、刑務所の支配を解きほぐすのに十分だとみなされた。すぐにコミュニケーションの端々で“囚人の解放”が命題になった。その実行には綿密な準備が図られることになる。

 そして、ある日の真昼間。

 どこからともなく現れた武装集団が数分で〈非公式な刑務所〉を占拠したのだ。

 さあ「大脱走」の始まりだ。



8 ホテルまでの案内


 スピードボートの上の風景は、大友克彦のGペンが表したかのような直線的かつ繊細な描線でできていた。瞼にぶつかる風はあまりにも激しく、ボートの行き先を直視するのは難しい。緑色の海がへさきに切り裂かれこなごなの白い泡を吐いていた。空気を切りつけるやかましい風の音が耳に飛び込んでもくる。そのボートはものすごい速度の中にいた。つまりどこかを目指している。

 強い日差しがゆらゆら波打つ海面を突き刺していた。向こうに見える水平線の上にはもやもやがある。誰かの不安のようだ。その上の真っ青な空。地球と同じ大きさがありそうな入道雲が浮かんだ。くっきりと白くギリシャの彫刻のようなくっきりとした輪郭をしている。まだ雨の匂いはしない。でもい“いずれ”だろう。

 ボートの上には囚人が20人ほど乗せられている。二列で向かい合わせだ。誰も口を利かずうつむき、次に来るできごとに備えている。20台のコンピュータは自分の得られる分をどうやって最大化するかに知恵をしぼっている。みな顔は険しい。

 それに比べて、彼らを導く武装集団の男たちはなよなよしている。芸術大学に入って夢に挫折する方の若者のようだ。そんな男たちが思いのほかてきぱきと常に何かをこなしている。は虫類系の目は囚人の様子をちらりと見つめていた。

 ハヤタの腹の底からあらゆるものがふったぎる。それは宇宙ロケットが発射される瞬間のポジティブで前向きさを持っていた。暗い牢獄の中ではついぞこんな感情をもたなかった。たとえそれがおれに死をもたらそうとも、おれはこの感情を前向きに捉えたい、と彼は思った。

 なくなったはずの未来はそのとき、よみがえる可能性を得たのだ。

 それはどんなに控えめに言っても、「好機」だと言えた。




 昼は過ぎ去り夕を通り越し夜だ。かなり長い夜。それも超えてやがて東雲を認めた。ボートはやっとこさ小さな廃れた港に入った。

 ハヤタはくだびれはてていた。寂れた空っぽの船着場の、ぼろぼろのコンクリートの上にしゃがみ込んだ。武装勢力からもらったはっか煙草を吸ってからだのなかでいろんなものが不足しているのを知った。煙草を吸うのが久々すぎて頭のなかで渦巻きがおきたが、なんだろう、娑婆の味がした。それは素晴らしかった。自由を象徴している気すらする。

 しかも朝日がまぶしい。囚人たちは冷凍マグロ出荷の手際の良さでばらばらに車に乗せられていく。

 そのとき暗闇から現れた妙な女がハヤタの肩をテレビドラマ的なニュアンスで叩いた。モデルのような女だった。「こんばんわ。はじめまして、私が添乗員のレナよ、受刑者番号176番、ハヤタさん」

 つるつるした声。女は顔を斜め12度傾けてハヤタの顔をうかがった。ハヤタはぴりりと警戒した。女は彼を知っている。だがハヤタは女を知らない。

「…添乗員だと?」

  ハヤタはまゆを吊り上げてそう言った。

「そう添乗員。あなたに快適な旅を保障するわ。あなたを血眼になって探している人間から自由にしてあげるためにね」

 レナは彼の手に冷たい手をあてがい、にこりと笑顔を浮かべた。その笑顔はあらゆる人間の想像を超えていた。形而上学的な凶器の類にも思えた。彼の落ち着きをぶっ壊してしまった。こめかみのなかに太い棒を突っ込まれてこねくり返される。脳みそがとろけて外にこぼれだす。

 だが、なんとか彼は再び態勢を整えた。彼は好機に接している。ふいにするわけにはいかない。必要に駆られ女を観察することにした。

 その顔はものすごくきれいで、ものすごくサイボーグのようだった。「大人の女の子をはじめた女子大生風」。目はぱっちり、二重まぶた。黒々としたタランチュラ的なまつげがぴんとのびている。鼻は小さく「私わんわん自己主張する女じゃないの」といわんばかりだ。唇はどうも欲情をうっすらと誘う透明な桃色で塗られていた。暖かいオレンジ色に染められたロングヘアはきらきらと光り、柔らかく肩にかかっている。

 でも、このすべてが絶望的なまでにうそくさい。あまりに完璧に整い、動物的な匂いが存在しない。身体つきもマネキンの理想的な造りにカミサマをも恐れぬ肉感を与えていた。赤いゴルフパンツからのぞいた足は、南洋の緑色の海でとれた真珠のように白く、5月の雨が描く斜線のように細かった。しかも目を凝らせば、そこには赤と青の血管の小川が何本も通っている。それほど彼女の肌は若く透き通っていた。

 さらに尻はおおぶりだが厳格さも認められた。やたらと大きいのではなく、内部に厳しい自律の網が走り、その中国産の陶器のごとき曲線が維持されているようだ。それは細い足とのアンバランスのなかで、不可逆のポイントすれすれのバランスを守った。腰骨の先はとても深い急崖だ。さらに上るとそこには幾何学的な曲線がある。丸いふくらみはファストファッション的素材のサマーツイードが押さえつけているにもかかわらず、十分な存在感を放った。抑圧されているせいでむしろ解放の欲求がそこに生じているふうである。


 そこで彼は最も重要なことに気がつくことになる。

 だらしなく垂れ下げられた両腕の先。細くて長い指だ。それが見たこともない複雑な形を作っていた。メビウスの輪を三回捻ったようである。彼はそれを解読しようと目を見張った。

 その視線を感じて、そうね、と女は言った。

「目を凝らして、耳を澄ませて、鼻を嗅がせなさい」

 彼女はその形を彼の目の前に持ち上げた。



9 夜

 

 二人は荒野にぽつんと建った安ホテルに逗留した。全長170センチの短いベッドの上に、いやに赤いがさがさの毛布がかけられている。テレビは頭頂にアンテナをくっつけたビクターのテレビだった。裏側をみると犬が蓄音機に耳を澄ませているおなじみのマークがついている。それが移す画像はゴーグルを忘れて入ったプールの中のようだ。何となく大枠はわかるのだ。洗面所の蛇口はもちろんさびついている。注がれる水もさびのにおいを含んでいる。クローゼットの中には蜘蛛が住んでいる。それからロバの毛のにおいの悪い部分を強調させたにおいも立ちこめている。

 ハヤタはなぜか昔、炭坑夫的なホワイトカラー仕事をしていたときに出会った最悪の人間のことを思い出した。あのころはなにもかもが確かこんな感じだった。つまりいろんなものが生半可にだめになっていた。だけど、それは絶命せずものごとは無茶を繰り返しながらも進んでいった。いつも、どんなときもへとへとだった。将来のことをいつも悲観していた。彼の人生のなかのかなり暗い時期だ(もちろん刑務所には勝てないが)。

「わたしは宇宙人がじつはこっそり地球を支配していると考えている男は受け入れがたいんだけど。あんたはどうなのよ?」ぶっきらぼうな口ぶりで女はきいた。その口ぶりはホテルになじんでいた。

「大丈夫だ。そんなに信心深くないよ」ハヤタは両の手のひらを上にむけた。

 女はばたんとそのぼろぼろのダブルベッドの上に座って、靴をほっぽった。それから靴下もほっぽった。生白い足が露出した。それは赤いがさがさした粗暴な毛布の上をなでた。執拗になでた。しばし2人は黙り込む。

「わたし、は虫類と地球人のあいの子が、月にある基地から、ラジオ無線で地球人を操っているとか、そういうのをいう奴は耐えられないの。あなたそれじゃないの?」

 足はその間も壊れた乗用車のワイパーのようにゆっくりと毛布の上を掻いた。それから細長い煙草をピンク色の口紅を塗ったうるうるとした唇の間にくわえた。そのホテルの名前が書かれた安っぽい紙マッチが擦られる。緩慢な煙が浮かんだ。

「おれは、それは面白いほら話だと思うな。『月にある基地』。素晴らしい。地球を支配するのに、そういう遠隔地を利用する感じがたまらない。ロマンチックだな。たぶんロマンチシズムにはたぶんに『非合理性』が関与してくるんだ。感情とか趣向とかが合理なものを叩きのめすのに溜飲をさげるんだよ、みんな」

 ハヤタはせまい床の上をスティーブジョブスみたいに行ったり来たりする。「例えば、愛。ここにはかなり理屈じゃないものがあるでしょう。なぜ人がのめり込むか。世の中を理屈に合うものばかりが支配しているからだ。理屈に合うものってのはなにかって? 簡単だ。金だ。中央銀行が印刷する架空の価値が、この世にあまりにも蔓延しているんだ。いやだねえ」

 女は煙をはいた。

「いやだねえ」調子を合わせる。2人は目を合わせ言葉を発しなくなった。 

 ということで2人は抱き合った。ということで。それは最初から決まっていたようだった。氷の上を滑るシロクマのようになめらかなことの成り行きだった。

「たぶんこれは生まれる前からきまっていたことなんじゃないか」と男は言った。「そういう気がするんだ」男はさっきまで体を貫いていた悦楽の味を何度も反芻した。映像が音声が、触った感覚が再生、巻き戻し、再生を繰り返した。自由だ。これが自由だ。自分が「生きている」証拠だ。あの最中は頭の中が何度も真っ白になった。それこそ雪原のど真ん中に真っ裸で迷い込んだ自分を、上空から眺める映像を何度も見た。不思議なものだ。娑婆をぶらぶらしていたときはこんなに楽しくなかったのに。

 女は裸のまま彼の胸の上に指で何かを描いていた。目線はぼうっとしていて何にも見ていないふうだった。その顔は何度見ても造り物のようだった。床に落とせばこなごなに割れるんじゃないのか、と思えてくる。しばらくしてから女はやっと答えを返した。「そんなくだらないことはいわなくていいのよ。昔の映画みたいな台詞じゃない。そういうの好きじゃないの。あんまり美しくないと思うわ」



10 物腰柔らかい方が聞き入れられやすいだろう


 翌日から二人は荒野を駆け抜けた。荒野はどこまでも荒野だった。そこにある荒野が、フロントガラスの向こうにある荒野をつくっているんじゃないか、と思えるほどだ。「荒野の拡大再生産」と呼んだらどうか。経済学の言葉「拡大再生産」。生産で得たもうけを再び生産にまわして、生産の総量を増やしていくことだ。

 数日、荒野を貫いた一本道を十数時間なにもせずに進んで、ぼろい宿に逗留する日々が続いた。彼女はシンクに水をためて、そこにスマートフォンを落とした。画面が無機質な真っ黒になり、黙り込んでいる。細かい気泡がいくつか現れ、水面に消えた。ハヤタはそのできごとを「スマーフォンの悲劇」と呼んだ。それからハヤタはきいてみる。「なんでスマートフォンを沈めたの?」

 女は「ここから変なものが出てきて、わたしに絡み付こうとしているのよ」と語り、アサヒスーパードライの夏のキャンペーンガール的な笑顔を浮かべた。その不自然さにハヤタはのけぞりそうになる。「彼らの手を切り離す必要があったの」。彼女は代わりにホームセンターでトランシーバーを二つ買い、片方を彼に渡した。

「これなら“悪霊”がやってこないわ」


 そんなことがいくつも起きる。例えば、ある渓谷では、乗用車をわざと崖下落とした。車は崖を転がるうちに団子虫のように丸くなる。近くに新しい別の車種が隠されていた。例えば、あるホテルでは1ヵ月分前払いしたのにもかかわらず、その10分後にはホテルを出て次の街を目指していた。ドアには「ドント・ディスターブ」の掛け札を残していた。

 そうこうするうちに、件の「クエストホテル」に辿り着いた。そのころには2人の間柄は酸っぱいものになっていた。

 そのさえない部屋に入るやいなや彼女は乗り気のしない提案をした。正確にはそれは命令の類だった。

 「いい、ハヤタくん。ここから出ないでね。絶対ここにとどまりつづけるのよ。部屋の外には一歩も出ちゃダメよ。出たらすぐにあなたの居場所は彼らにかぎつけられ、捕まってしまうわ。捕まったらどうなるかは火を見るよりも明らかよ。ハヤタくんは体の八ヶ所に縄をくくり付けられ、引っ張られるのよ。すると体は裂けちゃうの。赤い血がたくさんこぼれて、赤い肉がむきだしになる。

 でも安心してね。ここにいればあなたは守られるの。彼らの手が届かないように細工してあるの。あなたをわたしと一緒に連れまわすのも難しいわ。すぐに彼らは嗅ぎつけちゃうから。彼らの鼻はハイエナのようにきくのよ。

 そういうことだから。食べ物は冷蔵庫にかなりたくさん用意してあるから。ずうううと食べ続けてもなくならないわ。相撲取りでも根を上げるほどの量よ。ベッドの下にはあなたの大好きなピスタチオがたっくさんある。たっくさんね。それからDVDもたくさん置いておいた。腐るほどある。少なくとも全部見終わるのには7年かかるくらいね」

 レナは笑った。その態度のなかには、これまで彼が彼女に認めたことのないものが紛れ込んでいた。それは侮り、と呼べるものだろうか。自分の立場の強さを見せびらかしたがっているように見えた。そうだ。確かに彼は解放させられた囚人に過ぎないのだ。それをエスコートしたのが彼女、もっと正確に言うなら「彼女たち」、である。「あなたは冬眠する熊のようにならなくてはいけないの。穴を掘ってそこでやり過ごすのよ。あなたを狙う人間はとても多い。だから、この“冬眠”はとても長いものになるということを覚悟してもらいたいわね。分かったかしら?」

 彼は尋ねた。「どれくらい長いんだ?」

「火星に生物が存在したことが完全に立証されるまでの長さ、と言えばいいかしら」

「なんだと?」

「あるいはこうとも言える。リスが中身が腐って空洞になった木のなかに、胡桃の実を完璧に貯めるのに要する時間、くらいよ」

「はあ?」

「つまり、それは計りようがないのよ。常に不確定なものなのよ。あんたにちょっと教えてあげたって数秒で状況は変わっちゃうの。その度に教えるわけにはいかないじゃない。

 それから、あんたはわたしとあんたの間にある権力関係に無頓着すぎるのよ。わたしが上、あんたが下。わかる? わたしが太陽、あんたが地球、そんな感じかしら。だから、わたしの言うことを聞いていればいいのよ。自分でなにか決めようとされる迷惑なの。将棋盤の駒が勝手に動き出したら困るでしょう。わかった囚人君? 誰があんたを逃がしてあげたか、お分かり?」

 ハヤタは頭に血が上った。彼は人から頭を押さえつけられるのが本当に嫌いだった。眠りから覚めた熊のように雄叫びを上げて、世界をひっくり返す暴言を吐きつけ、純粋なる暴力をはたらこうと考えた。その後、「純暴力批判」と言う難解な本を書くんだ。からだに力がみなぎった瞬間、彼女は意味ありげに手をかざした。その手は妙な感じで震えていた。すると、彼の怒りの根本がすうと消えてしまった。彼の感情は梯子外しを喰らって、むなしくしぼんでいった。

 レナはバッファローを狩るハンターのように冷たい声で話した。

「あなたに必要なことは我慢よ。いつか次のランナーが来て、あなたを安全なところに連れて行く。それまでの辛抱よ」

 女は背中を向けた。ドスン。乱暴なドアの音。閉まった。彼は駆け寄りそれを開いて、周囲を見回したが、からっぽの廊下。静寂がぎゅうぎゅう詰めにされているようだった。彼はそこから出ようかどうか考える。女は「部屋の外にでるな」と忠告していた。それは彼の胸の中に小さな刃を突き刺している。体はしびれ動かなくなった。彼はまったく死にたくなかった。その狭いホテルの一室だって、あの囚人部屋に比べてどれほど過ごしやすいことか。自分はおそらく、女を媒介とする何者かに“生かされている”のだ。彼らが手を話すと奈落の底に落ちてしまうんだ。だから、彼はドアを閉じ待つことにした。

 彼が長い間そこに滞在する準備が整えられていた。冷蔵庫は像2匹分の大きさがあり、壁にべったりと塗りこめられた。そのなかには山賊の一団が一冬越せるくらいの量の食べ物が鎮座していた。どれも自分の優秀さをアピールするよう、凛とした姿勢を保っている。「わたしを食べて」とそれは言っている気がした。彼は蓄牛場で不本意ながら牧舎にくくりつけられ、やがて大量の食料を与えられ、太らされていくことに慣れていく肉牛のようだった。味の事なんか気にせず――そんなこと気にしなくとも刑務所のどんな傑作よりもうまかった――、肉牛冷蔵庫の中の食べ物をどんどんたいらげた。

 あるときから彼は食事の後、入念な筋力トレーニングに励むようになった。それは自分が肉牛化していくことへのささやかな抵抗だった。そのせいで、彼の体は鋭さと力強さを手に入れた。

 時間はあっという間に過ぎていく。「外」では夏の思い出が去り秋のせつなさが来て冬の凍てつく寂しさが訪れ、春のささやかな期待がやってきた。だが、待てども待てども〈囚人連〉からの連絡は来なかった。どこかで問題が生じているのか、それとも、自分は見捨てられたのかと彼は推測した。自分をめぐる状況が、不時着を迫られた旅客機になった気がした。できればソフトランディングがいいのだが、と彼は思った。

 なによりも彼は権力に捕まることをものすごく恐れていた。何度も痛い目に合わされてきた。彼らは一度目をつけると容赦するということを知らない。

 彼は経験を理論武装することに成功していた。いわくこうだ。「権力は一度敵に回したら終わりで、反逆者に何をするかは、新宿東口の紀伊国屋で10分くらい本を探してページをたぐれば、簡単にその理由を列挙できる。人類の歴史は、そういった権力があらゆるものに対して荒れ狂う物語である。歴史の教科書は人類が現代で理性の時代に達したとうたう。だが本当にそうか。ほかの太陽系に住む異性人が教科書を読んだら、腰を抜かしてしまうかもしれない。『なんて、人間ってのはばかで野蛮なんだ。あいつらこそバーバリアンだ。支配し啓蒙しなくてはいけない』と叫ぶんだ」

 この権力へのおそれについて、周囲から“偏った思想”の持ち主だとやゆされてきたけれど、その信念はいつも一貫してきた。だから、一度権力による捕縛から逃れたが、執拗に追われているとみられる状況のせいで、彼は不安になりひどく混乱していた。ロムに異常をきたしたインベーダーゲームのような有様だ。混乱した(バグッた)画面、腹を空かせ泣き叫ぶ赤子のような電子音の鳴き声、はんちくになったプログラム……。

 彼は誰かがこの部屋に突入してこないかと考えて、おちおちと眠れなくなった。



11 暗闇


 日々は無為に過ぎていった。やがて桜が散り春がさらなる生命の萌芽へと舵を切ったとき、誰かが冷蔵庫に置いていった食べ物は、ついにグランドフィナーレを迎えようとした。壁に敷き詰められた北欧製の冷蔵庫のなかは、倒産した田舎のプラスチック製品工場の倉庫みたいな有様だ。がらんどう。

 食い物がなくてはもう篭城はできない。選択肢はほとんどないのだ。ハヤタはその状況を、“偶然”の変数を著しく変化させるチャンスだと思った。さあて、そろそろ外部との接触を試みるべきか、とハヤタは考えながら、野球帽を被った少年のころのわくわくがよみがえるのを抑えることができなかった。草いきれ、粘土質の土、さびた鉄筋、河川敷、雑木林、どぶ、そんなもののにおいまで、記憶と一緒にやってきた。それらは色彩に満ちて刺すように鮮明であった。彼は牢獄のなかで、このホテルクエストの密室のなかで、つまり、似たような囚われの身において、強く自由を希求してきたのだ。

 彼はまるで、ねじが巻かれたばかりのおもちゃの車だった。それを押さえつける人の手が去れば、後はもう走りだすばかりなのだ。鼻息は荒くなり、体中が力んだ。「そうだ、もはや〈囚人連〉などは役立たずなのではないか」。彼は独り言を言う。その1年で独り言は日常以外の何者でもなくなった。なにしろ、個室で、1年である。我慢にも限界がある。いまこそ、自分で道を切り開くべきときだ。「犀は投げられた」。確信し始める。〈囚人連〉が自分を見捨てたということを。そして、事態はいきなり変わりつつある。さっきのニュースがその静かなるインディケーターなのだ。

 確かにその夜の状況は普通とかなり違った。夜明け前の森にふりかかるような豊潤でさわやかな湿気が立ち込めている。その湿気を伝ってホテルの外にある街の哀しげな騒音がきれいに聞こえた。その騒音が鳴り、そして響く、それが繰り返される様は、ミニマルミュージックだった。短い小節の繰り返し、その群れが絡み合い、静かに相がずれてまたもとにもどる。やはり循環し宇宙を構成している。それは惚れ惚れとするほど美しい構造をしていた。その音の風景と比べれば、世界にはあまりにも音が残されていない。

 長い間、ジャングルの真ん中にある刑務所にいた彼の聴覚は、狼のそれのようにとても研ぎ澄まされていた。彼は窓に近づき、カーテンの隙間から、夜空をのぞき見た。月は雲で隠れていたが、その分星たちがとてもきらびやかに光っていた。この一年この行為がどれほど、自分の鬱屈を慰めてくれたことか。自分が規定され続けている地面が形作る球体の外に、無限が広がっている。宇宙はひとつではなく、無限に並置されている可能性はいまだに否定されていない。自分はたまたまその一つのなかに含まれているが、もしかしたら違うものの方へと移行することも可能なのではなかろうか。「誰かぼくを“そちら側”へと誘ってくれまいか」彼は幼い子どもの心を未だに持っていた。それは素晴らしいことだ。

 長くそうした後で、彼はベッドに横たわって天井をにらんだ。そこには無機質な細やかな凸凹がある。映像が脳裏にこびりついていく。もう一つの頭は真空になっていた。それから、不思議なことが起きていく。どこかのうるさい換気扇の回転が聞こえてきた。それはカンボジアの森を焼くヘリコプターのように暴力的だった。それがある地点で突然止まると、彼の音像風景は見渡す限り真っ白な雪原になった。音もなく、しんしんと雪が積もっていく風景。音はそこにはなかった。

 それから、彼は奇妙な感覚に包まれた。すべての感覚が一つ上のレヴェルを経験していた。ベッドに横たわった体に、ほのかな温かみが宿る。得体の知れぬエネルギーが湧いてきた。なんだこれは。

 彼には自分の吐く息に含まれる二酸化炭素が、天井付近にたまっていくのが見えた。それはどんどん溜まり、風船のように膨らんでいく。ドアの上部ほどまで溜まると、角にたいまつを括りつけた牛に追われるように、排風口の外へと逃げ出していった。すると、彼は理由もなく――事象のほとんどは“本当は”理由など持たない――哀しさを感じた。哀しさは鯨の巨大さを持っていた。それは彼の心の海に潜り、どこまでもどこまでも深くに向かっていった。ウイスキーのボトルをいっぱいにするくらいの涙が彼の切れ長の目から零れ落ちた。

 長い哀しみの淵に沈んで、なんとか再び立ち上がれたとき、彼が見たものは、闇のかたまりだった。それは壁、床、天井の六面すべてからしみ出してきて、揺られていた。それは気が遠くなるような時間――彼に歯それが20時間にも30時間にも感じられた――をかけて増幅されていき、やがてベッドの上の彼の体を包み込んだ。彼は抵抗する力を奪われていた。あまりにも柔らかく濃かった。長い時間がたった。

 彼の体は闇のかたまりの中に消えた。

 あるいはそれとひとつになったのかもしれない。



12 猫の襲来


 ハヤタは目を覚ました。

 アンダーシャツと半ズボンは汗にまみれていた。彼は平静を失い部屋の中を見回して、何か“しるし”らしきものを探した。だが、部屋には特に変なところはなかった。彼は冷蔵庫の引き出しを引っ張ってみた。中身は記憶にある映像と一緒だ。どこかの倒産した会社の倉庫だった。トイレで用を足した。小便が水をたたく音に耳を住ませる。“いつもの”音だ。彼は何度も水を流してみた。その流れに目を凝らしても、特に変なことはない。その陶器には「TOTO」と記されている。特に変じゃない。「リチャード・マット」と架空の芸術家の名前が記されているわけでもない。彼は床の上で飛び跳ねてみた。からだは健康そのものだ。

 煙草を吸いたい気がした。一度思いつくとそれは欲望を越えて、命題になった。彼はそれがないのは重々承知しているのに、部屋中をひっくり返して煙草を探した。

 もちろんそれはないはずだった。煙草の存在はその部屋に最初から最後までなかったのだ。

 だがなぜかそれはあった。電話機と壁の間にくしゃくしゃのソフトパックのラッキーストライクが挟まっていた。中身はずっしり詰まっている。それを握る込むときに手のひらに現れる安心感は、どうして生まれるのだろうか。彼は煙草を手にすると、ホテルの紙マッチでその先端に火を灯した。暗い部屋のなかで、その火の赤さは何かの告白みたいだった。彼は煙の行く先を追った。煙は室内にわずかに差し込む薄い光を吸い込んで、極めて淡く微差にとどまる七色をたたえていた。スローモーション。時間は誰かが止めたようだった。音は無音だ。そうだ、彼は気にもとめなかったがそこは美しい無音が満たしていた。

 煙はやがて天井に触り、ばらばらに解けた。

 その天井が突然、壊れた。穴が開いた。人一人分通れるくらいの穴だ。破片は床に転がっていた。

 

 その穴から影がすっと落ちた。柔らかく速く。

 彼は目を凝らした。

 それは……猫だ。

 

 猫だ。

 たぶん、そうだ。



13 さあ猫と話そうじゃないか


 突然の猫――。

 ハヤタの警戒心は真っ赤に灯った。ベッドサイドテーブルの上に置いた、ジャックナイフをつかみ、その鋭い刃をその猫とみられる物体に向けた。彼の神経は跳躍的な増幅をし、皮膚を突き抜けてそこに向かう。それは接した。接した。ありとあらゆるやり方で、さまざまな形をとって、その得体の知れぬ猫らしきものの正体を見極めようとした。

 それでも分かるのは“それが猫の姿をとっている”ということだけだった。もしかしたら猫に化けた怪物かもしれない。もしかしたら殺し屋かもしれない。もしかしたら使者かもしれない。もしかしたら「宇宙の意思」がそれに宿っているかもしれない。

 彼の脳みその一部はとても混乱し、もう一部は頑強に警戒を保っていた。猫は笑顔とも真顔とも知れない顔つきをして、にゃあ、と鳴いた。それから、ひたりひたりと彼に近づいてくる。ハヤタは想像する。その丸々とした腹の中に爆弾でも仕掛けられているのではないか……。それが勢いよく弾け飛ぶのではないか。

 けれど、もっと意外なことだった。猫がしたのは、しゃべることだ。しゃべることだって? まさか? いやそれは貧相なホテルの個室で起きた、一縷のうそも含まない事実だったのだ。彼の警戒心は丁寧な形でほだされていくことになった。

「あんた、ハヤタさん?」

 ハヤタは驚きのあまり答えられなかった。

「あんた、ハヤタさん?」

 猫は繰り返した。猫の声はワイキキビーチに浸り切った日本人の陽気さをはらんでいた。その声色はどちらかというと女に近く、おはぎとかお汁粉とか甘いものを作ってくれる親戚のおばあさんに似ているところがある。

「………」

 猫はさらにもう一回言った。妙に親しみがあふれている。「ねえねえ、ハヤタさん、つれないなあ」

「おいおい、やめてくれよ、まさか猫がしゃべりだすとは思わないぜ。おれはもうメローなんだ。とてもメローなんだ」

「今夜はそんな夜なのよ。そういう日が誰にでもやってくるのよ」

「あっはっはっは。なにを言っているんだ。あっはっは。どんな夜だよ、なんか理屈に合いそうないい方するけどねえ、おれは騙されないよ。理屈ってのはねえ、相手を屈服させるか、自分が屈服するかのどっちかまで続くんだ。分かる。お前は俺を屈服させようとしている」彼はすっと真顔になってナイフを突きつけた。「お前は猫だ。だけどしゃべっている。お前は極めて怪しいお客さんなんだ。たぶん誰かの刺客なんだろう。おれを、殺そうとか、あるいはうまい具合に利用しようとか、考えちゃってるだろうが。おれはそんなところで一生のほとんどを過ごしてきた。あのこの世の果ての刑務所のなかだってもちろんそうだった」

「まあまあまあまあ。まあまあまあまあ」猫は丸っこい手をくいくい動かして酔っ払った大阪のサラリーマンのようないなし方をする。しかも饒舌だった。「わたしにはさあ、あんたを屈服させようとか、そんな気なんか、これっぽっちもないのさ。そもそもしゃべる気だってなかったんだから。わたしゃあねえ一山いくらの野良猫で全然満足だった。好きなときに食べて好きなときに眠る。人間ちゃんのおかげで都市居住者のわたしの暮らしは大分ラクなんだ。どこにでも飯が転がっているし、雨の残酷さも、冬の無慈悲な寒さからも逃れられるからね。ところがあの男が現れて、わたしをたぶらかした。わたしの欲望はねえ、手玉にとられちゃった。わたしはあっさりやつの一味になっちまった。それでも今回は自分がキャスティングされるとは思ってもいなかった。わたしは下位打線だからね。こういうのに役に立つまいとたかをくくっていた。ドミノを友だちとやっていられればそれでよかった。

 もちろんそりゃあ、ベンチ入りはしてたさ。ピッチの状態とか、自分のコンディションには目配りしてたのよ。だけど、監督がわたしを使うのは考えられない選択肢なわけだなあ。ハヤタさん。それがどうだ。いきなり肩を叩かれた。監督はこう言った。“キミがゲームの流れを変えるんだ”ってね。なんか聞いたことある感じの、使い古されかけのフレーズだけど、でも耳障りはすっげー良かったのよ。それでゴーだよね。ゴー。で、きちゃったわけ~」

 猫は二つの丸っこい手のひらを虚空にむけて、首をかしげた。

「今宵は猫ちゃんがしゃべりだしちゃうくらい奇妙なときなのよ。あなたにはすでにいろいろ起きたでしょう。あなたは暗いトンネルに入ったのよ。だけど大丈夫。そのトンネルには出口があるのよ。あなたは全速力ではしるしかない。それがトンネルから“救われる”コツなのよ」

 猫はぐるりと体を回して、それから招き猫の姿勢をとった。

「それであんたはハヤタさんなのかしら」

「振り出しに戻ってくるね」

「ええ、振り出しでつまずいたままなのよ、わたしたちわね」

「ふう、なんてこった」

「ねえそろそろ認めてよ。ハヤタさんでしょう?」

「ああ、まさしくそのとおりだ」

 猫は机の上に放り投げられたラッキーストライクの箱から、その丸っこい手を器用に使い煙草を取り出した。そしてくわえた。猫の上品で小さな口には、そのフィルターが茶色い煙草は、どうも大きすぎるようだった。

 猫は自分で紙マッチをすれないことに気がついた。

「ねえ、あんた、ちょっと火をつけてくんない」ホステスが開店前の店内で出すワイルドな声色。こびたところなんかこれっぽっちもありゃしない。

 ハヤタは目を丸くした。「猫の煙草に火をつける夜が来るとは、な。田舎に引っ込んでいるおばあちゃんに聞かせたら、ぶったまげて、そのままぽっくりしてしまうんじゃないかね」

「あんた、ごちゃごちゃうるさいわねえ、早く火をおつけなさいよ」

 だけどハヤタはむしろ、ごちゃごちゃ言った。「おれはこう考えるよ。お前の肺は人間のそれより全然小さいんじゃないかね。そこにそんな有害煙を入れちゃったら、よくないんじゃないかね。血の巡りが泊まって、『人間語操る猫吉さん死去、去年12歳、猫と人間の架け橋に尽力、今後の人間界との外交に影響か』って猫新聞の三面記事に載るんだ」。彼は時間を稼いで、戦略を練っていた。だけど、しゃべる猫をどうするかなんて、香港大学の入学試験をパスするくらい、天文学的に難しい問いだった。

 彼はとにもかくにも盛んに語らった。彼の頭のなかの参謀たちは、円卓を囲んで猫への対応策を練ったが、何一つ有効な答えを生み出せなかった。「そもそもおれは、小説の作中にしきりに煙草を登場させるのに反対なんだ。読んでいると吸いたくなるからね。煙草にはあまりいいところがない。百害あって一利なし。からだは悪くなる。性交の最中に息切れして相手を満足させられなくなる。社会保障の国家予算を膨らませる。金はかかる。葉っぱの産地はモノクロ経済になる。不作になればおしまいだ。もうけるのは昼間からソファの上でふんぞり返っている金融資本家か、政府の食らいつきだろう。最悪だ。なのに世界中の人間が、積乱雲でもつくろうとしているかのように、吸いまくっている。ばかげたことだ。(以下省略)」


14 ラッキーストライク


 さんざ時間を稼いだにもかかわらず、彼はなにも思いつかなかった。諦めて火をつけてあげた。猫は煙草をものすごくうまそうに吸った。そのいくらか人生を諦めた雰囲気のある顔がどうにか、ニコニコしていた。吸いっぷりは素晴らしかった。いちどきに4リットルの空間を白く濁らせられる質量の煙を、ふうと吐いた。そのときに不恰好に唇をひし形にするところなんて、親戚の大阪の塗装屋のおやじを連想させてしまう。暗闇のなかで、煙草の先っぽの明かりは真っ赤に輝いていた。


 実のところ、その煙草が場の主導権を象徴していた。その煙草が猫の小さい唇に挟まれ、そこに火が灯った瞬間、猫は主導権を我が物にしていた。もう一年以上個室に囚われた男は、簡単に自分の命運の操縦桿を相手にゆだねてしまった。

 そして猫はオプションを解き放つ。おもむろに猫はその丸い手をぐるぐる回したのだ。蚊取り線香の模様をなぞるように。すると、どうしたことか――。ハヤタはそのぐるぐるに酔い、持っていかれた。彼はどうしようもなく思い出にとらわれる。かれのこころは脳髄の中の上映室に閉じこもった。そこでは映画がやっていた。彼自身が作った彼自身を主役とした映画がやっていた。猫はまんまと彼を操り、夢の湖のなかに落とし込んだのだ。

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