もう【糸】は絡め取られてたんだよ
四ツ葉が【縦の糸】に、五十嵐が【横の糸】に、それぞれなってしまった、その翌日。
ふたり揃って、それぞれのベッドで目を覚ます。
ふたりして洗面台で顔を洗い、ふたりして鏡を見ながら髪を梳かす。
……洗面台を使う順番は、四ツ葉が先といつも決まっている。
いつもの朝。
この日常も、1ヶ月後には壊れてしまうらしい。
ならば、こんな時間すらも、惜しむように過ごさなければ……と、そう思ってしまう。
まだ寝起きのぼやけた思考でそんなことを考えながら、朝食を摂るためにリビングダイニングに入ると、
「おはよう、よく眠れたか? まぁ、すべては1ヶ月後だからな、今はまだ案ずることはあるまい」
口やかましい蓄音機がテーブルに鎮座していた。
「「………」」
「なんだ? ふたりしてそんな渋い顔をしおって」
「そらぁ……。朝からこんな、まだピンときてないことを、まくし立てられても」
「こちとら寝起きなんだって……」
「そうかそうか。人間、朝餉を食べねば始まらぬと言うものな」
「そーだよ……んじゃ作ろっかね」
「私のことはお構いなく」
「ったりめーだ!」
「構うとして蓄音機に何用意しろってのよ……」
ふたりとも料理はできるが、朝は基本的には五十嵐が料理担当で、その間に四ツ葉は皿やお湯を用意するのが常だった。
「あー、とりあえず目玉焼きかな、失敗したらスクランブルエッグにすりゃええか」
もっとも、五十嵐の料理は……思い切りがいいものばかりだった。とはいえ、四ツ葉が作っても慎重すぎて大体似たような出来栄えになってしまうし、時間という意味でも、素早く調理する五十嵐のほうが朝ごはんの担当なのだ。
「皿、置いとくから」
「さんきゅ」
そうして、五十嵐がフライパンから目玉焼き(今日はうまくいった)を皿へ移そうとした時だった。
「あ"っ」
五十嵐が手を滑らせて、フライパンが床を叩く。
目玉焼きがスクランブルエッグにも成りそこなう。
そして、熱せられたフライパンが五十嵐の脛を直撃した。
「ちょ、ちょっと!?」
「うあああっ!!!」
熱さと痛みで五十嵐の身体が暴れる、跳ねる。その拍子に腕が辺りを薙いで、キッチンの道具類が乱れ舞う。
転がったおたまがシンクで耳障りにビートを刻み、手放されたフライ返しが皿を叩き、皿が床へ落ちて一回きりのシンバルになる。
そうした、ただ煩いだけの合奏にのって――
包丁が宙で剣舞を演じた。
そしてそれは、狙い澄ましたかのように、五十嵐の喉に刺さった。
ガラン、とフライパンが最後にひと鳴きし、合奏はフィナーレを迎えたらしかった。
床に、フライパンと、割れた皿と、ゴミになった卵と、死んだ五十嵐が倒れている。
「……………」
四ツ葉は、あまりに突飛なこの出来事を前に、呆然としていた。
(なんだそりゃ???)
(いくらなんでも、そんな事あるか?)
「はて、おかしいな。まだ1カ月ある筈なのだが……」
場にそぐわない朗々とした声で、我に返る。
「そう、だよ。……そうだよ! なっ、なんで死んでんだ!?」
「わからん。そして、私に出来ることが無いのも確かだ」
「は!?!?」
「力を使うのはまさに今だぞ、【縦の糸】よ」
言われてハッとした。
まさしく今、【縦の糸】としての力で、過去に戻れるのなら。
この事故が起きる前に戻って、事故を防げるのかもしれない。
「さぁ、目を閉じろ」
言われた通りに、自分の目を閉じる。
瞼を閉じて、暗闇。
眼閃は浮かんでこない。
代わりにひとつ明確なイメージが、暗闇に浮かんでくる。
――糸。
自分の足元。縦にスッと伸びる、1本の糸。
自分の前と、後ろにも伸びている。
それは、これまでとこれから。
自分は今、前を向いている。未来を見ている。
糸は果てしなく続いている。まだまだ、終わりは見えない。
この糸には、よく見れば、無数に結び目がついている。
――縦糸に絡みつく、横糸。
数えきれないほどの横糸が、絡み、もつれて、結び目をつくる。
その横糸が、どこから伸びてきているのか、自分にはわからない。
結び目の横に目をやっても、すぐに暗闇にのまれて行方をくらましている。
きっとこれが、【縦の糸】としての限界。
横の糸の事は、【横の糸】しかわからないのだ。
後ろを振り向く。
後ろの糸にも、やはり結び目が数えきれないほどある。
過去にも、世界が分岐するタイミングはいくらでもあったということか。
とはいえ、今はそこまで戻る必要もない。
とりあえず、今朝のベッドに戻ろう……。
ぱち。
ふたり揃って、それぞれのベッドで目を覚ます。
時間にして、30分前に戻ってきたといったところだろうか。
横に、五十嵐が居る。
いろいろ確認しなければならないことがある。
まずは――そもそもちゃんと戻れたのか? この五十嵐は、生きてるのか?
「……ねぇ、五十らs「ありがとな」え?」
無事に時間遡行できたことが、その一言で実感できた。
五十嵐は生きている。
五十嵐が死んだ、あの時間から、ちゃんと戻ってこれたのだ……!
「よかった……キッチンで死んだときにはホントどうしようかと」
「ホントだよね、自分でもビックリしたわ」
「わかるの? 覚えてるの!?」
「……まぁ、サイアクな感覚だけどさ」
2つめのの確認事項、記憶の有無――これも、有ると確認できた。
「となると……」
「わかってる、このままじゃ、またキッチンで五十嵐は死ぬな」
最後の確認事項、【横の糸】で運命を変えられるのか。
「そこで、【横の糸】である五十嵐の出番ってわけだ」
おちゃらけた調子で、五十嵐がそう言って目を瞑る。
目を瞑ってしばらくは「ふーん」なんて言っていた五十嵐だったが――暫くして、眉をひそめた。首を傾げた。顔を支えるために、布団から手を放す。
考え込んでいる。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
チク。
時計の針だけが動く。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
タク。
やがて、目を開いた五十嵐の顔からは、表情が消えていた。
「……ど、どしたの?」
問いかけても、返事が無い。
こちらを見て、何かを言いかけて、すぐに口を閉じて、目を逸らして、瞳に諦観を浮かべて、何かを決意したように、少し歯を食いしばった。
「ねえ、何がみえたの?」
五十嵐はそれにやはり答えずに、ひとつ息を吐いて、目を閉じた。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
そして、五十嵐が目を開けたとき、いつもの笑顔が浮かべられていた。
「よし、運命は変わったよ。とりあえず、コンビニ行こっか」
キッチンだと死んじゃうし、と言って立ち上がる五十嵐。
その顔に浮かべられた笑顔は、水面に浮かぶ花筏のようだった。