「あれか、これか」
「ユウタ!みてみて!でっかいかぶとむし!
「ほんとだ!ミカ、すごい!いっしょにつかまえよ!」
「うん!」
ぼくとミカは、むしとりあみをつかって、かぶとむしをつかまえました。にげないように、むしかごにうつすのが、むずかしいんだよね。
「やった!できた」
「ユウタすごい!おとーさんとおかーさんにみせたげよ!」
2008年、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングスの経営破綻からいわゆる「リーマン・ショック」が起きた。世界のそんな大変さも知らぬまま、無邪気にカブトムシを追っていたのは、未就学児の特権と言わずして形容しがたい。もっとも、在来線で東京まで4時間半かかる田舎の我が家-新幹線を使う筋もあるんだが、1時間程度しか早くならない-には大して関係がなかった。歴史的に見ても、農家の集落は危機に強い。戦時は都会から食糧を求める者が田舎に殺到した。やはり原労働たる農業には「第一次」産業と呼ぶに相応の価値があるに違いない。人間だれしも、食という行為からは逃れられないのだ。
カブトムシに躍起になっていた僕「早川裕太」と幼馴染「下部美佳」は同じ小学校、同じ中学校、同じ高校に進学した。腐れ縁、というには良好に過ぎる関係だ。「カップル」扱いをされて面倒に思う時期もあったが、そんなのは過去の話で、安心感のある相方という感じだろうか。のび太に対するドラえもん的な?実は僕のほうが成績がいいのでこのたとえはミスリーディングかもしれない。とはいえ、最近ちょっと食い違いが顕わになってきている。きっかけは、進路希望書をめぐる会話だった。
「ねえ、裕太は卒業したら何するの?」
「うん?急に真面目モード?どういう風の吹き回しだ?」
「あのねえ、私はいつも真面目だよ!そりゃ、頭のいい裕太様には成績じゃ敵わないけどさ。…進路希望書。来週までに提出って言われてたでしょ?」
「あー、あれか。俺は地元で農家って書いたよ。美佳は?」
「私は大がk…って、えっ!裕太大学行かないの?その成績で?」
「そんな驚くことか?俺はじいちゃんのことも心配だしなあ。孫にできる孝行なんて顔見せることくらいしかないし。あとは結婚して曾孫見せられたら言うことなしだけど」
「いや、もったいないよ!東京出たいーとかないわけ?私みたいなポンコツが大学に行くのに裕太が大学に行かないのはおかしいよ!てか考えが昭和。いまもう令和だよ?時間狂ってる?」
「おかしいとまで言われちゃうか。うーん、農家以外にやりたいこともないしなあ。東京はたまに観光すればいいかなって」
「裕太、ほんと年より臭いよね。おじいちゃんと話してる気分だわ」
「うーん、そんなもんかなあ」
美佳は東京に出たがっている。まあ自然と言えば自然だ。新天地への憧憬はきわめて普遍的な感情だろう。僕がその感情を完全に持たないといえば、きっとそれは嘘になる。僕はキルケゴールを想起した。彼の思想には異性関係とかキリスト教とかの含意があるが、それを無視したうえで話すなら、美佳はおそらく「あれも、これも」段階にいて、僕は「あれか、これか」の段階にいる。いずれにせよ来るべき〈絶望〉がために宗教へ回帰するというのが彼の論旨だが、まだ僕にはこれは分からない。この町に日蓮宗総本山がある、何度かそこにも行ったが、僕はたぶん若造にすぎるのだろう。キルケゴールは「あれも、これも」の次に「あれか、これか」があると語るが、僕の人生には「あれも、これも」段階が欠如したままなのかもしれない。
光陰如矢。あっという間に卒業の季節になった。雪被る山々。手を洗うにも顔が歪んでしまう。やはり冬は好きではない。
「裕太!みてみて!私受かったよ!」
色でいえば赤色、そんな声。寒波も美佳には効果がない。陽気、陽気、気というのもあまりバカにならない。道教か、やはり宗教は理解しがたい。
「おめでとう。下宿とか決まった?」
「女子寮があるっぽくて、そこにする!あー、早く大学始まらないかなー」
成績がよくはなかった美佳だが、なかなかに追い込んで頑張ったらしい。陽気以外の「気」も持ち合わせているようで、どうも彼女には勝てない部分がありそうだ。
「裕太は最近どう?」
「親父から大豆畑の管理を本格的に教えてもらってるよ。手伝いは小さい頃からしてたし、あまり新鮮味のあることじゃあないけどね」
「じゃあさ、大豆余ったら私に送ってよ!食費ちょっとは浮くだろうし」
「餓死されたら困るからな、きっと送るよ」
卒業から半年。じいちゃんが他界した。享年80。傘寿の祝い直後のことで戸惑いもあったが、孫の孝行を果たしたことが妙に誇らしかった。葬式、その他諸々のバタバタが収まったところで、さて美佳に我が町の名産を送ってやるかなと準備をしはじめた。ちょうどそのとき、美佳から送られてきたLINEに少し動揺してしまった。
「彼氏できたよ!ほめて!」
美佳は見た目も悪くないし性格も明るくいいやつなんだが、今まで一度たりとて浮いた話を聞いたことがなかった。この彼氏は、美佳の初めての彼氏と見てほぼ間違いない。この文面を見たときに、東京に出ていくまでの美佳の記憶が走馬灯のように駆け巡った。カブトムシを捕ったとき、カップルと揶揄われたとき、進路について話したとき…。放課後に一緒にアイスを買ったのも、算数を教えてやったのも、運動会でのヘマを慰めたのも、時系列すらぐちゃぐちゃになって脳裏に流れ込んできた。
失って初めて気づくことがある。僕は、美佳が好きだった。今までの自分の「あれか、これか」がいかに浅いものであったか。抑えることすらままならない、涙すら零れそうなこの感情にこそ「あれか、これか」があるんでないか。「あれも、これも」というには、他が目に入らない。世間で「メンヘラ」と軽蔑される人間の気持ちが分かった。ああ、これこそ〈絶望〉か。
「おめでとう。お祝い代わりに大豆送るわ。太るから彼氏と分けて食べろよ」
僕の涙を吸った大豆。その隠し味など、バカ舌の彼女には分かるまい。