◇参◇(2)
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「あ、そういえば」
立ち上がり歩き出そうと私に背を向けていた溯雨さんが、くるりと振り返った。
……と思うと、私のほうへずいずい近づき、こつんと私の額に彼が額を合わせる。
「!?」
すう、と呼吸音が聞こえる。こんなきれいな顔のひとが、息のかかる距離にいるのが恥ずかしい。
それに一体何なのだろう、熱でも測っているのだろうか。すぐに、ごめんなさいねと一言だけ言って離れていく彼の熱が少し恋しい。
……このひとが人間ではないことや、現世や幽世のことを理解しきれていない私は、せめて状況を受け入れるしかない。
だからこそ、今この瞬間この場所で私の存在を唯一知っている彼が、心の拠り所。
離れていく体温への恋しさも、現世にいた時とは違う孤独感のせいに違いない。
恥ずかしくて閉じていた目を開くと、外がやけに騒がしく聞こえる。
「貴女が寝ている間に、一つまじないをかけていたのですよ。一度にいろんなことが起こると混乱するでしょうから」
「まじない?」
そうして彼は私の手を引いて、雨で湿り少し重くなった戸に手をかけた。
目の前に広がった世界は、信じがたいもので埋め尽くされている。驚いて声が出ない。
茶釜に足が生えているものもあれば、獣頭のものもいて、まるで人間のようにあたりまえのように出歩いている。かと思えばまるっきり人間と同じような容姿のものもいた。
もしかして……これが他の妖たち?
「私がかけていたのは、目隠しのまじないです。敷地を出てすぐこれでは、人間は驚くでしょうからね。順を追って説明するために、前もって見えないようにしていたのです」
まだ目をぱちくりさせて黙りこくっている私に、また彼はひとつひとつ教えてくれた。
茶釜の妖や物が動いているのはすべて付喪神、人間に長く使ってもらった物たちに魂が宿るのだとか。
獣頭は低級の比較的力の弱い妖で、人の形をとっているものは力が強かったり、由緒正しい妖の純血に近い者たち。
そして力の強い妖は妖術と呼ばれる力が使えるという。溯雨さんが私にかけた目隠しのまじないも妖術らしい。
……まるっきりファンタジーだ。未だ目の前に広がる光景が信じがたい。
でも説明してもらった内容のとおりであれば、溯雨さんはとても力の強い妖なのだろう。そんなひとに拾われたのは奇跡かもしれない。
聞くと、妖は人間に友好的なものとそうでないものがいるらしく、彼でなければ今私は妖のお腹の中におさまってしまっていたかも。
「あの、溯雨さん」
「はい、何でしょう」
銀の妖が金色の目を細めて優しく答える。そのさまは、まるで幼子を慈しむ母のように穏やかだ。
「助けてくれて、ありがとうございます」
深々と礼をする。彼への礼に、私が何をしてあげられるか今はまだわからないから、せめて言葉だけでも。
この一言に私の感謝の気持ちが山ほど詰まっている。月並みな言葉だけど……。
溯雨さんは私の顔を優しく上へ向け、何故か少し悲しそうに笑った。
「お礼を言われることなんて何もしていません。頭を上げてください。私は私の気まぐれで、私の都合であなたを助けたのですから」
「それでも、私にとっては恩人です。これから、どうぞよろしくお願いします」
開け放していた玄関の戸の先、私一人ではきっと生きていけない世界。
いつか現世に戻らなければならないであろう我が身の運命を、憂い続けることになるかもしれないけれど、今はこの妖のために何かできることがないかを考えよう。
そしてこの先、未来に光がありますように。
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今更ながら、溯雨さんの目は金色です。