◇弐◇(2)
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彼は私の歩幅に合わせてくれている。私は右手を手すりに、左手を彼に預けてふらふらと降りてゆく。
私の肩には貸してもらった鶯色の羽織。羽織に染みついたこの香りを、前に嗅いだことがあるような気がしてならない。
◇
「お待たせしました。たまご粥です」
「あ……、ありがとうございます……」
ことりと置かれたお椀には柔らかなお米が光り、二日のまず食わずの私でも食欲をそそられる。
「さて、食べながらで構いませんが、まずは自己紹介と行きましょう。私は溯る雨と書きまして、溯雨と申します。貴女のお名前を伺っても?」
口に運びかけていたれんげをいったん離し、少し俯く。溯雨……綺麗な響き。天は二物を与えないというが、とんだ嘘だ。見た目だけではなく放つ言葉も名前も美しいなんて。
溯雨さんは相も変わらない優しげな微笑みで私を覗き込む。それがちょっと恥ずかしい。
「わ、私は宮野水泉といいます。実はここに来るまでの記憶があまりないのですが……、状況を説明してもらってもいいですか?」
そう言うと、彼の顔を見ないように無心でおかゆを頬張る。出汁がきいていて優しい味。まるでお店で食べているみたいだ。
それから彼は、ずっと俯いている私にゆっくり説明してくれた。
私が河川敷で座り込み虚空を見つめていたので心配になって近づいたこと。長く走っていた様子で身体も冷え、今にも意識を失いそうだったために、私に声をかけ自分の家に運んできたこと……。
「な、なんというか……すみません!ご迷惑をおかけしました!あの、急いで帰る準備を……。あ、お礼は別日にさせていただきますから!」
唐突に私は理解した。この人にどれだけ迷惑をかけているか。理解した途端申し訳ないやら情けないやらで泣き出しそうだった。
これ以上醜態をさらす前にここを出て行かなければ。
借金まみれの風俗嬢が逃げ出した上に、見ず知らずの人に拾われて丸二日看病を受けていたなんて。社会に迷惑しかかけていない。本当に情けない。
急に立ち上がった私の腕を、溯雨さんは握った。
「えっと……」
これは何だろうか、こんな優しそうに見えて、お礼は体でとかいうやつだろうか。相当に失礼なことを考えいているのは自覚しているが、今のところそれ以外にこの状況を理解できない。
「何だかおかしな勘違いをされている気がしますが、それはともかく」
微笑みを崩してくすくすと笑い始めるところをみると、かなり顔に出ていたらしい。恩人に向かって申し訳ない。
「あのね、水泉さん。もし私に申し訳ないと思ったりしているのなら、気になさらないでください。先ほども申し上げましたが、滞在する間はあの布団を使っていただいて結構ですし、おせっかいかもしれませんが、貴女はかなり疲れているようにお見受けします。今戻っても同じことになるのでは?」
くい、と掴まれた手を引かれて、私はまた座り込む。
正論だ。今私が戻ったところで何ができるわけでもない。
どうせ私のことだから、怖がって店に連絡できるわけでもないし、花屋のおばさんに合わせる顔もない。家に帰ればきっと親からは質問攻めにされるだろう。そうすれば私はまた疲弊し、今度は何も手につかなくなるかもしれない。
私だけじゃないだろうけど、心が弱れば弱るほど体もつらくなる。
溯雨さんは、握っていた私の腕を離して自分の両の手をぽんと合わせた。そうしてまた彼は笑う。
「貴女がどうしても戻りたいのであれば、戻れるはずです。一度試してみましょうか」
「もど、れる……って?」
私が問うてもこの銀髪の彼は微笑むばかりで答えてくれない。それどころか、さあ行きますかと立ち上がって玄関を出てしまう。
どうすればよいかわからずおろおろしていると、慌てて彼が私のもとへ駆けてきた。
「申し訳ありません。もう夕方ですし、先ほどお貸しした羽織では寒かったですよね。今生地の厚いものを用意しますので」
「え、いや……」
違う、そうじゃない。
すごく突っ込みたかったが、これはこの人の素なのだろうか。ちょっと面白い。
それから、分厚めの羽織を着せてもらって、後をついていった。
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弐はもう少しだけ続きます。