盲目の少年と声の出せない少女と
俺は生まれた時から目が見えなかった。ぼんやりとした光の明暗だけは辛うじて判別できたけど、色や形は少しもわからなかった。俺の世界には視覚が欠けていて、けれどそれを他の感覚が補ってくれていた。人の感情は表情の代わりに声で、物の形は見るのではなく触れることで、歩く時は杖で地面に触れてその感触と音を頼りに。見えないものはたくさんあったけど、その分見えるものもたくさんあった。音と香りと感触と味が俺が知る鮮やかで美しい世界の全てだった。
その中でも一番鮮やかだったのは音だった。人の話す声、葉の擦れる音、雨の水滴が落ちる音、人が歩く時の様々な足音。俺の周りはたくさんの綺麗な音で溢れていて、俺の世界を彩っていた。
ある日、俺の住んでいた孤児院にピアノというものがやってきた。新しいものを買ったから古いピアノを寄付しにきたんだと言っていたのが聞こえてきた。ピアノが何かはわからなかったけど、俺にも楽しめるものだといいなと思った。他のみんなもピアノのことを知らなかったみたいで、俺達は先生が使い方を教えてくれるまで待っていようと思った。すると、すっと俺の横から誰かがピアノの方へ移動する気配がした。
「ダリア?」
誰かの声がその人を追いかけて、ピアノの方からはカタリと何かを動かす音が聞こえてきた。ダリアと呼ばれた子は何も言わずに、すうっと大きく息をした。そうして俺はとても美しい音を聞いた。
今までに知った世界の鮮やかさを全て集めたような音だと思った。朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、晴れも曇りも雨も雪も雷も。たくさんある音の連なりには今までに知った全ての世界が詰まっていた。世界は音で音は世界だった。そうして俺が一番好きなものはピアノになった。ピアノから流れる音が俺の一番大好きな世界になった。
ドの音は春風の間から降り注ぐ優しく暖かい太陽の陽射し。レの音は長く降り続いた雨が纏う少し湿った落ち着く空気。ミの音は雨上がりに水たまりの中へ足を入れる一瞬の爽やかさ。ファの音は照り付ける太陽の下で走り回った後に香る汗。ソの音は突き抜けるほど澄んだ森の中で感じる葉のざわめき。ラの音は炬燵の中で微睡む時の穏やかな呼吸。シの音は雪解け水が混じった小川に手を入れた時の冷たい温度。混ざりあった音は次々と別の世界を覗かせて、飽きることなんて一度もなかった。
たくさんの世界を見せてくれるピアノが大好きで、俺は暇な時間はずっとそのピアノの側で音を聞いていた。一番ピアノを弾いていたのは最初にピアノに触れたダリアと呼ばれた子だった。ダリアはたくさんの曲を知っていて、それを他の子にも教えているようだった。ダリアは俺が居ることに気がついていたみたいだったが、俺に話しかけてくることは無かった。
いつものようにピアノの音を聞いていると、誰かが肩に触れてきた。
「誰?」
触れた誰かの方を向いて尋ねてみたけど、その誰かは何も言わずにどこかへ行ってしまった。そんなことが数度続いたある日、シモンが話しかけてきた。
「あれ?ダリアじゃん。オルトに何か用事?」
どうやら俺の肩に触れていたのはダリアだったらしい。けれどどうして何も言わなかったのだろう?疑問に思いながらしばらく待っていると、ふんふんあーなるほどとシモンが何か返事をしているのが聞こえてきた。ダリアの声は聞こえなかった。そんな一人だけの声がする会話が少しの間続いてから、シモンがまた俺に話しかけてきた。
「ダリアな、お前が気になってたんだって。いつもここで楽しそうに曲を聞いてくれてるから、お礼が言いたかったんだって」
ああ、なるほど。俺がいつもダリアを気にしていたように、ダリアも俺を気にしていたらしい。お礼を言われることじゃないけれど、その気持ちは嬉しいなと思った。
「ありがとう。ダリアの弾く曲はとても綺麗だから、俺すごく好きなんだ。またここで聞いててもいい?」
少し間があってからその問いに答えたのはシモンだった。
「いいよ、だってさ。ダリアもオルトが聞いてくれてるのが好きだからってさ」
そうして俺とダリアの静かな交流は続いていった。ダリアは何も話さなかったけれど、ダリアの奏でる音はとても雄弁だった。俺は時々ダリアに話しかけて、ダリアは時々俺の肩に触れた。シモンが居る時はシモンが俺達の間を繋いでくれた。そうやって俺達は次第に互いのことを知っていった。
ダリアは幼い頃の事故で声が出せなくなったこと。その事故で両親を亡くして孤児院に来たこと。両親は音楽の演奏を仕事にしていたこと。ダリアが一番好きなのがピアノであること。
俺は生まれつき目が見えないこと。そのせいなのか赤子の時に捨てられて、孤児院に引き取られたこと。シモンと一番仲がいいこと。ピアノの演奏を聞くのが好きなこと。
シモンは手話と言うものでダリアと話しているらしい。この孤児院には耳の聞こえない子もたくさん居て、それで覚えたのだとシモンは言った。目の見えない俺はそれを覚えることは難しくて、ダリアと話せるシモンが少し羨ましかった。
ある時シモンがこう言った。
「それだけ音がわかるならピアノの音で会話できるんじゃね?」
なるほど、音を言葉にすればいい。それなら俺とダリアも会話できるかもしれない。とてもいい考えだと思った。
それから俺とダリアとシモンでピアノを使って会話する練習が始まった。この音をこの文字でと一つ一つ決めて、それを弾いて言葉が伝わるのを確かめた。知らない単語はシモンに教えて貰った。近い音を間違えないようにしっかり聞く力を身につけた。ダリアは違う鍵盤を弾かないようにもっとピアノの練習をするようになった。そうして三人で何度も練習をして、俺達はピアノでお喋りできるようになった。それはとても楽しくって、幸せな時間だった。ずっとこのまま居たいと思った。
けれどそんな時間も長くは続かなかった。孤児院のある国で戦争が始まったからだ。お金がどんどん戦争に使われて、孤児院への寄付は減っていった。年少の子を育てるために、歳が上の子ども達から早く独り立ちするようになった。俺もダリアもシモンも、少し早い卒業をすることになった。俺はこの国の工場で働くことになった。目が見えなくても指先の感覚でできる組み立ての仕事がちょうど見つかったから。ダリアは少し離れた国でピアノを弾く仕事をするらしい。ダリアのピアノを気に入ってくれた人が居たと聞いた。シモンは頭がよかったから奨学金を貰って学院に入ることを決めた。卒業したらいい仕事について孤児院にたっぷり寄付するんだと張り切っていた。
そうして俺達は別れた。シモンは時々会いに来て、ダリアのことを伝えてくれた。シモンは来る度にダリア用の宛先を書いた封筒を置いていってくれた。俺はその封筒に短い言葉を詰めた点字の手紙を入れてダリアに送った。時々ダリアから返事が返ってきた。ダリアは元気にピアノを弾いているようだった。シモンとダリアもよく手紙のやり取りをしているらしかった。俺もダリアとたくさん話したかったけれど、点字で長い手紙を書くのは難しくていつも少しの言葉しか伝えられなかった。また音の会話ができればたくさん話せるのになと少し悔しかった。ダリアに会えないのが寂しかった。三人で会えないのが寂しかった。
そうして時間は少しずつ進んで、俺達を取り巻く環境も変わっていった。ダリアはもっと遠くの国へ行ってしまって、連絡が取れなくなってしまった。シモンは学院を卒業して、遠くの街で就職した。手紙のやりとりは続いてたけれど会いに来るのは難しくなっていった。俺は変わらず工場で仕事をしていた。ずっとこのまま変わることなく過ごすのかと思っていた。
でもどうしても寂しくて、またダリアに会いたくて、あの音が聞きたくて。俺はお金を貯めて旅に出ることにした。それをシモンに伝えるとシモンも一緒に行くと言った。ちょうど色んな土地の研究がしたかったんだと言って、研究所の上司をうまいこと言いくるめて旅の資金までちゃっかり貰っていた。
色々な国を渡って、色々な世界を知った。雨の降らない砂漠や、太陽の沈まない白夜の街、轟音鳴り響く大瀑布、冷たく寒い鍾乳洞、湿った熱気渦巻く熱帯雨林、打ち寄せる波の音が鮮やかな海、溶けることのない永久凍土。たくさんのものに触れて、たくさんの音を聞いて、それでもやっぱり俺の中での一番はダリアの弾いたピアノだった。
旅を初めてから三年か四年が経った。その時居たのは花香る常春の街だった。どこからか懐かしい音が聞こえてきて、俺は思わず駆け出した。焦ったように追いかけてくるシモンの声が聞こえていたけれどそれどころじゃなかった。これはダリアの音だ。俺とダリアとシモンの曲だ。三人で作った、三人の名前を入れた、三人の曲だ。途中でシモンも気づいたのか、この曲と呟く声が横から聞こえた。うん、と返してそのまま走る。早くダリアに会いたかった。また三人で笑いたかった。
ピアノの置いてあったのは街の中心にある広場だったらしい。人混みが邪魔でピアノの側には近づけそうになかった。俺は思わず叫んでいた。
「ダリア!」
その声に呼応するように曲が変わった。この曲は初めてダリアが弾いた曲。ダリアが一番好きな曲。横に居たシモンはダリアの姿が見えたようで、確かにあれはダリアだと確認してくれた。そのまましばらく演奏会は続き、最後に少し変わった旋律を弾いて終わった。
「"山裾の木蓮亭で会いましょう"」
俺とシモンの声が重なった。ああ、やっと会える。
木蓮亭は静かな宿屋だった。宿屋に入るとそこにダリアが待っていたようで、シモンがダリアと名前を呼んだ。側に誰かが近づいてきて、俺の肩に触れた。ダリアだった。
「よかったな」
シモンの声にああと応えてダリアを抱きしめた。ダリアも俺を抱きしめた。俺も混ぜろとシモンが混ざって、三人でぎゅうぎゅうと団子になって泣きながら笑いあった。幸せが戻ってきた。俺の大好きな世界がここにあった。
ダリアの持っていた小さいピアノを使って、たくさん話をした。今までにあったたくさんの事を話した。話すことはなかなか尽きず、話疲れて三人同じベッドで眠った。起きた時に俺はシモンの腹を枕にしていたようで、重いんだよと笑って怒られた。ダリアは俺の足を枕にしていて、足が痺れてこけたのをまたシモンが笑った。笑うなよと言った俺も笑っていた。声は聞こえないけどダリアも笑っているみたいだった。とても楽しくなってまた笑った。
俺はダリアに告白した。また離れるのが嫌だったから。ダリアはいいよと応えてくれた。シモンが俺は俺は?と言ったので、シモンともずっと一緒がいいと言ったら俺も!と抱きつかれた。その上からダリアが抱きついてきた。そうしてまた三人一緒になった。
俺は歌を覚えた。ダリアの演奏に合わせて歌うことにした。シモンは宣伝のチラシを作ったり、曲の説明をしてくれたり、前説をしてくれたりした。シモンが喋って、ダリアが弾いて、俺が歌う。笑って笑って三人でずっと演奏しながら旅をした。俺も、ダリアも、シモンも、すごくすごく幸せになった。また三人で笑えるようになってとっても幸せになった。
おしまい
三人でわちゃわちゃしてますが恋愛のつもりで書いたので恋愛ジャンルです。シモンはオルトもダリアも大好きですが恋ではなくて愛なので、たぶんそのうち別の人と恋して四人で旅すると思います。団子が大きくなります。わちゃわちゃぎゅっぎゅ。