掌編小説・影武者
月刊歴史ファンタジー ミス&テリー 20◯◯年◯月号より抜粋
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現代においても独裁国家の権力者が影武者を用意してるというのは公然の秘密だが、我が国ニッポンにおいても影武者はお家芸であるのは本誌の読者諸兄ならば当然周知の事実と思う。
そこで今回当コラムは近年新事実の発見も著しい、戦国時代の影武者事情についてレポートしてゆこう。
まず有名なのが武田信玄であろう。自身の弟はじめ背格好の似た家臣を影武者に仕立てていたのは江戸時代の頃より言われていたらしい。有名な入道姿の肖像も実は本人に似ていないとも言われている。写真や絵画などもなく、容姿が伝わりにくい中世では影武者の利用価値も高かったことだろう。
その信玄を手本とした徳川家康もまた影武者を用いたと噂される。しかも家康はかなり早い時期に他界しており、ほとんどの功績は影武者のものだとする説、講談本もあったほどである。もちろん江戸時代にはそんなことを口にするのもタブーだったことだろう。
明智光秀もまた影武者説が囁かれる人物である。山崎の戦いで敗北した後、農民に殺されたのが史実となっているがそれは影武者で、本人は落ち延び南光坊天海となったという都市伝説はあまりにも有名である。これが事実なら影武者が効果を発揮した一例と言えるだろう。
その光秀に討たれた信長にも影武者説があるのはご存知だろうか? 本能寺で討たれたのは影武者で、実は本人は内緒で宣教師に連れられ海外旅行に行っていたものの、そっちの方が楽しくてそのまま居ついた、というユニークな説である。これなどは信長の死を惜しむ後世の人達の空想の産物であろう。
さらに豐臣秀吉にも影武者説がついて回る。本人は九州征伐の時点で病没しており、それを隠蔽したい石田光成が影武者を仕立てたというのだ。が、突然権力を握った影武者は次第に増長。晩年の奇行もこれで説明できるかもしれない。とかく権力者と影武者は切っても切れない関係なのだ。
その石田三成にも影武者疑惑がある。関ヶ原の敗戦で斬首されたとあるが、その実力を惜しんだ家康に赦免され、密かに生きながらえ、後に忠臣蔵で有名になる浅野家の顧問に収まったという説がある。
その参謀、島左近にも影武者の影がちらつく。そもそも武田家で軍学を学んだ兵法者というからには影武者の重要性を認識していても不思議はない。
武田家といえば真田幸村も忘れるわけにはいかない。大阪夏の陣で本陣突入を敢行した武勇は有名だが真田十勇士という影武者集団を率いていた事実は無視できない。
夏の陣の後、九州に落ち延びたという伝説もある。
その九州には天草四郎もいるが彼もまた影武者説が噂される。四郎が秀吉の遺児、国松説はもう有名だがその国松自身がすでに影武者であり、周囲の人間の陰謀によって天草四郎に仕立てあげられたというのである。
その天草四郎の乱に関わりのあるかの剣豪、宮本武蔵もまた影武者ではないかと言われる。若い頃は真剣勝負で負け知らずだったが仕官した途端に武勇伝が聞こえなくなる。実は仕官したのは養子、伊織の方ではないかと言われている。
そのライバル佐々木小次郎にも影武者疑惑がある。巌流島の決闘で敗死したのは影武者で、本人は細川家指南役として天寿を全うしたという説がある。考えてみれば地位も名前もある剣客がどこの馬の骨ともつかない野武士と決闘して得られるものなど何もない。
かように、我が国では影武者はお家芸どころか、国の成り立ちさえも影武者によって支えられるところ大なのである。この我が国の優れた影武者文化をいま一度世界に向けて発信するべき時期に来ているのではないかと筆者は考えるのである。
ほんまスンマセ〜ン。




