第27話 『心の闇』
表紙に書かれている文言を読み上げると、黒い本はそれに呼応した。
俺はパラパラとひとりでに頁を捲っていく本を、ただ呆然と眺めていた。
「お、おいエリス……これって─────」
いきなり始まったイベントに付いていけず、助けを求めた俺は視線をエリスに向ける。
「カガヤ!!すぐにその本から離れろ!!」
彼女は尋常ではない様子で叫ぶ。
「え─────」
その言葉を脳が知覚した時には遅かった。
本から夥しい量の、何かが溢れ出た。
周りの光が霞む程黒く、不安になるくらい不定形で、しかし動物みたく精巧に蠢く何か。
あえて言葉にするならば、生きた闇というのが適切だろうか。
その生きた闇は、みるみるうちに蛇の形に収束した。
「─────」
エリスが逃げろと叫んでいるのが聞こえる。
分かっている、明らかにコレは危険だ。
ゴブリンやウェアウルフと相対した時と同じ、こちらに明らかな悪意を向けている。
しかし、足が言うことを聞かない。
焦燥感が走る身体とは裏腹に、頭の中で俺が考えていたのは、なんのことはない諺の事だった。
(今の俺の状況、なんて言ったっけ。身から出た錆?違うな。後悔先に立たず?これも違う。ああ、そうだ……)
蛇に睨まれた蛙だ。
そうして、答えに行き着いた哀れな俺の心臓を、真っ直ぐに闇は貫いた。
俺の意識は、闇に呑まれ─────、
◆◆◆
生暖かい風が頬を撫でる。光を感じ、瞼を開く。
その光の正体は、日々の終わりを告げる様に輝く夕日の物だった。
「─────」
その眩しさに思わず顔を顰める。
今の状況が理解出来ずに数秒間、ぼんやりとその夕日を見つめていたが、
「…………っ?!」
我に返り、今しがた貫かれたであろう心臓の辺りを慌てて手で触れて、自らが生きている事を慌てて確認する。
胸に穴が空いているとかの外傷は無いみたいで、心臓の鼓動を感じて安堵する。
「助かった、けど……ここどこだ?」
辺りを見回す。
自分は今の今まで、エリスの屋敷の書庫にいたはずなのだが、俺はどこかの屋上に居るみたいだ。
また違う世界に転移したのかと不安に感じたが、遠くに見えるビルと、近場に見える住宅地はどこか懐かしい気分にさせられる。
俺は理解した、ここは元居た世界。日本だ。
「はは……戻って、これたのか」
笑みを浮かべ、わざとらしく言葉を紡ぐ。
戻れた訳では無い事は、本当は分かっているのに。
「帰って来れたんだよな……いやぁ、良かった良かった!さ、とっとと帰ってゲームでもしよっかな!」
誰に言うでもなく虚勢に塗れた声を上げる、本当は恐怖に震えて足を動かせないのに。
自分が何に恐怖しているかは、明白だ。
見覚えがあるからだ。
この場所は、この夕日が照らす屋上は、あの時の、あの場所で─────、
「は、はは……」
乾いた笑いが零れる。
忘れられる筈も無い。風化することなど無い。
日が傾き、自分の影が引き伸ばされてゆく。
それに重なる様に、もう一つの影が背後から伸びてくる。
「ぅ……」
悲鳴にも似た、声と呼べるかも定かではない小さな呻き声を上げた。
後ろに誰かがいる。
呼吸が乱れ、嫌な汗が滲む。喉が渇く。
俺は覚悟を決め、振り返った。
屋上を囲む手すりの向こう。
そこに彼女の姿はあった。
彼女は俺の視線に気が付いたのか、ゆっくりとこちらを向いて─────、
『お前のせいだ』
耳元で声がした。
◆◆◆
「うわあああぁぁあ!!」
恐怖に身体を無理やり起こす。
「ぐはっ?!」
「痛えっ!?」
ゴツンという鈍い音と共に、俺の頭に衝撃が走る。そして自分とは別に誰かの悲鳴が聞こえた。
鈍痛を感じながらその悲鳴の方に目をやると、そこには頭を抑えて悶絶しているエリスの姿があった。
「この……!急に起き上がる奴があるか!」
彼女は涙目でガミガミと抗議し始めた。
意識が未だにはっきりしないが、どうやら彼女の頭と俺の頭が衝突したらしい。
「……悪い」
「謝って済むなら王都騎士隊は要らない!」
どこかで聞いたようで、少し違う言い回しをしながら憤慨する彼女の姿を見て。徐々に意識がはっきりしてきた。
今自分が見ていた悪夢は一体何だったのか、耳元で聞こえた声が頭の中で反響している。
「安心しろ、目立った外傷は無い」
エリスは俺の表情から何かを察したのか、励ますように告げる。
「……あの黒いのは、どこいった?」
書庫の中を見渡す、あれは明らかに危険な存在だ。逃げ出したら屋敷にいるカーラや、村の人達に被害が及ぶかもしれない。
「あれは─────、」
エリスは俺の質問に複雑そうな表情を浮かべると、そっとこちらを指差した。
「お前の中だ」
◆◆◆
夜風が木々を揺らし、森の中には深い暗闇が広がっている。
そんな森の中心には、巨大な屋敷がそびえている。その広大な敷地は、住まうものが相応の地位を持っている事を辺りに知らしめていた。
そんな屋敷の出入口、侵入者を拒むように佇む鉄の門。
その向こう側に白い髪と左目に傷を携え、黒いスーツを身に着けた男が立っている。
彼は門の向こうに存在する屋敷を眺めながら、語りかける。
「まったく……こんな夜中に仕事とは、心底嫌になる。お前達もそう思うだろう?」
彼の言葉に呼応する様に、赤い瞳が暗闇に次々と浮かび上がる。
「返事くらい返せよ……まあいい。さて、あの屋敷にいるのは城からの逃走、更には魔獣を退けた者だ。何らかの能力を持っているらしいが詳細は不明。決して殺すな、生きた状態で回収しろ。ただし─────、」
彼は人差し指を立てる、暗闇の赤い瞳が蠢く。
「転移者以外は、殺しても構わない」
そう言いながら、目の前にそびえ立つ門に近寄る。
─────彼はそれを片手で軽く押しのけた
それに反応する様にグシャリと、いとも容易く門はひしゃげて吹き飛んだ。
風が吹き荒び、歓喜にも似た唸り声が響く。草をかき分ける音と共に赤い瞳が一つ、また一つと消えてゆく。
「さぁ、お手並み拝見と行こう。加賀屋とやら」
笑う様に歪んだ口元から、鋭い牙が顔を覗かせた。