番外 『通りすがり』
男は走る。
脇目も振らず、息を切らし、疾駆する。
周りでは悲鳴や怒号が響き渡っている。
家々では火の手が上がり、纏わり付く夜闇を煌々と照らし、退けている。
「くそっ、くそっくそっ!」
自らの口から発されるのは、現状に対しての諦観から来る物かは分からない。
住人達が行き交っていた大通りは姿を変え、血と死体が点在していた。
人々は、悲鳴を上げながら自分とは反対方向に逃げてゆく。
男はその中に視線を向けて、彼等の中に何かを探すがまったく見当たらない
「いない……」
彼は歯噛みしながらも、ひたすらに駆ける。
しかし、それを妨害するかの如く、小鬼が目の前に立ちはだかった。
《ヒヒヒヒ……》
その小鬼は、その手に小さな石製の武器を携え、醜悪な笑い声を響かせながら飛びかかってくる。
「このっ!!」
彼は咄嗟に足元にある木片を拾い上げ、横殴りに振り抜く。
《ゲ─────》
空中で軌道を無理やり変えられた小鬼は、抗う事も出来ずに火の手が上がる民家の中へと吹き飛んだ。
《ギャアアアア!!》
小鬼は悲鳴を上げながら燃え、朽ちてゆく。それを一瞥しながらも男は再び走り出す。
魔獣─────、
この村を襲っている小鬼……ゴブリンたちはそう呼ばれている。
男が狩りから村に戻って来た時には、既にゴブリンの大軍が村を取り囲んでいた。
そんな危険な状況を目の当たりにしたら、普通は近付こうなどと思わないだろう。
だが男は村に足を向けた。
彼の頭の中に愛する家族の姿が浮かんで、離れなかったのだ。
「頼む、頼む。無事でいてくれ……!」
曲がり角を通り、自分の家を視界に収める。
幸い、火の手はまだ伸びていないようだった。
だが─────、
「………!」
男は表情を変えた、いつもならば施錠されている筈の玄関の扉は無残に外側から打ち破られていた。
すぐさま、家の中に突入する。
床には血の跡が点在しているが、誰も見当たらない。
「はぁ、はぁ、は、─────」
走った影響で汗が頬を伝う。
男は乱れる呼吸を整えながら、先程拾った木片を力強く握りしめる。
ドン
何かを叩く音が二階から聞こえた。
唾を飲み込み、慎重に階段を登っていく。階段にも血痕が付いている、誰かが居るのは間違いない。
ミシリミシリと階段を軋ませながら彼が階段を登りきると、再び何かを叩く音が、目の前の部屋の中から聞こえた。
「ふー……」
男はドアノブに手を掛け、扉を僅かに開き、中を確認する。
そこには一匹のゴブリンが存在し、部屋の押入れを蹴りつけていた。
その行為の度に押入れの扉が歪み、内部から小さな悲鳴が漏れ聞こえる。
「─────」
男は木片を一層力強く握りしめた、
そして─────、
「おおおおぉぉっ!!」
扉を開けると同時に部屋の中心に向かって駆け出し、再び押入れに蹴りを打ち込もうとするゴブリンの頭に、木片を振り下ろす。
《ブ、ゲ─────》
潰れる様な声と共にゴブリンは頭から壁に激突し、ピクリとも動かなくなった。
男は手に残る気持ちの悪い感触に、吐きそうになってしまう。何とか嘔吐感を堪えつつ、彼は慎重に押入れを開ける。
「ぁ─────」
男は気が抜けた様な声を漏らした。
そこには身を寄せ合う、妻と娘の姿があった。
彼女達は固く目を瞑っていたが、恐る恐る目を開け、驚愕と感激が入り交じった表情を浮かべた。
「お父さん!」
「う、あ、アナタ……」
「無事だったか、良かった……良かった……」
男は安堵の息を漏らし、この地獄の中で生きていてくれた事に感謝する様に、二人を抱きしめた。
そして、十秒程経った後。彼女達から離れて立ち上がる。
「すぐに逃げよう、ここに居たら危険だ」
いつ魔獣が来てもおかしくない。すぐにこの場から逃げなければ─────、
「ええ、すぐ……に……」
同意の言葉を紡ごうとした妻は、突如としてその表情を凍らせた。その視線は男の背後に向けられていた。
「お父さん!逃げて!!」
娘の悲痛な叫びと共に、男の右脇腹に衝撃が走った。
宙に浮く身体、鈍い痛み、ガラスが割れる音。
空が見えた次の瞬間、背中に尋常では無い痛みが走る。
「か……」
肺から空気が強引に吐き出された。
混乱の中、彼は何が起きたか意外にもすぐに理解出来た。
自分は家の二階から吹き飛ばされて、外に落下したのだと─────、
「……う、ぐ」
痛みに震える身体に鞭を打ち、何とか立ち上がろうとした時、二階の割れた窓から何かが飛び降りてきた。
男は一瞬、巨大な黒い布が落ちて来たのかと錯覚した。
着地音を立てず、流麗な動作で現れたそれは─────、
「ウェアウルフ……!」
《グルルルルルル……》
地の底から響くような唸り声を上げながら、ウェアウルフはその赤い瞳をこちらに向ける。
そして、その唸り声に反応する様に、
《ヒヒ……》
《ヒャハハハ》
《ヒーヒヒヒ!!》
辺りから無数のゴブリン達が現れた。
彼等は男と家を取り囲む様に陣形を組んでいる。
「お父さん!!」
「アナタ!」
二階の窓から妻と娘の声からを上げる。
その声に、ウェアウルフは耳をピクリと動かすと軽く唸った。それに反応して、ゴブリンが三匹。家の扉へと向かってゆく。
狙いはすぐに分かった、妻と娘を狙って─────、
「やめ……っぐぁ!?」
声を上げようとした瞬間に首を掴まれ、怒声すらも中断させられた。
《グルル……》
既に、ゴブリン達が家の中に入ろうとしていた。
ウェアウルフはまるで、それを見せつけるかの様に男の顔を家の方に向ける。
「やめ……ろ。やめてくれ……」
悲痛な声を嘲笑うかの様にウェアウルフはニタニタと口元を歪めている。
「くそおおおおっ!!」
男の悲痛な叫びが木霊し、ゴブリンの一匹が家の中に入ろうとした。
ピシリ、と。
何かにヒビが入った様な音が鳴った。
家に足を踏み入れたゴブリンが、立ち止まっている。
《グル、ル?》
その姿に疑問に思ったのか、ウェアウルフは声を掛ける様に小さく唸る。
しかし、その呼び掛けにもゴブリンは反応せず。
次の瞬間─────、
ゴトン、とゴブリンの首が取れた。
《………!!?》
ウェアウルフは男から手を離した。
「ッゲホ、ゲホッ!!」
男は咳き込みながら足元に伸びる影に気が付き、屋根の上に目を向けた。
誰かが居る。
「殺しを楽しむとか、本当に……面倒臭い奴等だな」
再び、ひび割れる音が鳴った瞬間。扉の側にいた二体のゴブリンも動かなくなる。
そして、声の主は屋根から飛び降りる。通常ならば怪我を負うであろう高さだというのに、ガシャリと音を鳴らすだけで難なく着地した。
「はぁー……」
鈍く光る無骨な鎧を身に纏い、何も武器を携えていない、声からすると男であろうその人物は鬱陶しそうに大きく溜息を吐いた。
《グルォオオオオオオ!!》
その姿を視認したウェアウルフは、ゴブリン達に指示を出すかの様に唸り声を上げた。
《ヒヒャアアア!!》
そしてゴブリン達は一斉に鎧の男に飛びかかり─────、
『うるさ……静かにしろよ』
冷たい声が響き、全てが停止した。
時間が止まったのかと思ったが違う。
ゴブリンも、ウェアウルフも、周りで燃え盛っていた炎も、全てが─────、
凍っていた。
「はぁ……もう出てきていいぞ……」
鎧の男の声に反応する様に、家の中から妻と娘が出てきて、地面に座り込んだまま呆気に取られている男に駆け寄る。
「良かった……!」
「お父さぁん!!」
未だに何が起きたのか分からない男は彼女達を守るように抱きしめ、辺りを見回す。
ゴブリン達は飛びかかろうとした体制のまま、徐々にひび割れ、欠けてゆく。唸り声を上げていたウェアウルフすらも、ゆっくりと前のめりに倒れると粉々に砕け散った。
あっという間に、全てが終わった。
「そんじゃ……後は自分達で王都に連絡するなりして、助けを呼んでくれ」
この状況を引き起こしたのであろう鎧の男は、この場を後にしようとする。
「ま、待って下さい!」
「ン……?」
男の呼び掛けに、彼は面倒臭そうに振り返る。
「助けて頂いてありがとうございます、貴方は一体……?」
彼の言葉に、鎧の男は僅かに首を傾げる。
「そうだなぁ……俺は」
投げやりに、端的に、適当に、
「通りすがりの《賢者》だよ」
そして、面倒臭そうに答えた。