第1話 『脱出』
――――どうなった?
数秒前の事象を辿る。
突然視界が闇に染まり、そして次の瞬間に高所から落下した様な浮遊感と風圧が身体を襲った。
――――まさか俺、死んだのか?
固い地面に触れている足の感覚から察するに、少なくとも死んだ後に空中を彷徨う幽霊にはなっていないらしい。
――――っていうか、寒いな。
夏だというのに妙に冷えた空気が辺りに満ち、落下の緊張で汗ばんだ身体にひたひたと纏わりついてくる。
耳を澄ませると、遠くの方から誰かの声の様な音も聞こえてくる。
加賀屋は固く瞑られた瞼から力を抜き、ゆっくりと開いた。
「ここは……」
閑静な住宅街などどこへやら、円状の巨大な広場の中心に加賀屋は立っていた。
「う……」
ふと横から声が聞こえ、咄嗟にそちらを向く。
自分のすぐ側にスーツを着た男性がうつ伏せに倒れていた。
「だ、大丈夫ですか?!」
意識の無い状態の男性に声を掛けようとして、すぐに違和感に気が付いた。
たった今声を掛けた男性の向こうに女性が倒れている、そのまた向こうには加賀屋と同じくらいの青年が倒れている。
「……!!」
辺りを見回し、加賀屋は驚愕に目を見開いた。
自分の居る広場の地面には老若男女様々な人間が所狭しと倒れていた。
千人は優に超えているのではなかろうか。
「はは……なんぞコレ」
悪い夢かと思い目を強めに擦るが目は覚めず、手の中に握られたライトノベルが入ったビニール袋がガサガサと音を立てるだけだった。
「あれ、皆どこ?」
「何処だここ、母さん!」
辺りから人を呼ぶ声や困惑の声が上がる、何人かの人々が目を覚ましたようだ。
「ここはどこだ?!早く元の場所に返さんか!」
「わ、私は何も知りません!!」
「何コレ、ドッキリ?」
「分かんなーい。でもでも、こんなに人がいるとかライブ以外で見たことないし、メッチャ新鮮だね。映えそうだから写真撮っとこ!!」
「…………」
パニックになる者。物珍しさに写真を撮る者。ただその場に立ち尽くす者。
騒ぎが人の間を伝播し、気絶している人達の目が次々に覚めてゆく。
「……う、ぐ」
小さな唸り声。
自分の側に倒れていたスーツを着た男が目を覚ましたようで、苦しそうに唸りながら起き上がろうとしている。
「だ、大丈夫ですか?」
どこか憔悴した男を助け起こしながら声を掛ける。
「ああ……済まないな、君」
起き上がった男は酷く憔悴した様子だったが、か細く笑みを浮かべるとこちらにお礼を述べ、先程の加賀屋と同じ様に辺りを見回し始めた。
広場中の人が全て目覚めたのか、ざわめきが辺りに満ちている。
「なんつう量……ライブ会場かよ」
その人の数と騒がしさに面食らいつつも、加賀屋は自らの手に握られたスマートフォンの画面へと目を向ける。
電波の欄には【圏外】という二文字が刻まれ、この広場が隔絶された場所である事を明確に提示していた。
それに気が付いた人は自分だけでは無いようで、一見すると閉ざされた様に見える広場の端には、出口を探している人の一団が見える。
大勢の人が目覚めた事でこの空間の不気味な雰囲気はほとんど消え失せた。
だが現状の意味不明さは相変わらずだ。
「ドッキリ?集団催眠?拉致監禁……いや、違うか……」
奇妙な実情を目の当たりにしつつ、ポケットにスマートフォンを仕舞い込む。
――――こういう場合は順番を確認するのが一番だな。
自分はこの広場にいる理由を、自らの行動の前後から探そうと思案する。
「もし、君……」
「は、はい?!」
突然の隣の男からの呼び掛けに思考を遮られ、声を裏返らせながらも返事をする。
「扉を見たか?」
男は遠くをぼんやりと見つめながら。しかし、しっかりとした口調で問いかけた。
「扉……」
加賀屋はその問いに復唱する事で答えた。
見た、確かに見た。どこかで見た事のある鉄の扉だ。
まさにその扉を通って自分は今ここにいるのだ。
「ふー……」
加賀屋に向き直り、その様子から答えを受け取ると、彼は深く息を吐いた。
「見たのだね、そして扉を通ったと」
「ああ、はい。あなたも扉を通ってここに?」
「そうだよ。そして恐らくは、ここに居る全員がそれに該当する」
彼は加賀屋から離れ、任せていた身体を自分で支えて歩いてゆく。
「待っ……どこに――、」
「私は私のすべき事をする。君もしたい事をするといい」
端的な拒絶の言葉。男は静止しようとする加賀屋を真っ直ぐと睨みつけた。
「っ……?!」
その両眼に捉えられた瞬間、ぞわりと身体の内から凍える様な感覚に襲われて足が止まった。
男はそんな加賀屋の様子に「それでいい」とでも言うように笑みを浮かべた。
「選別が始まる。生き残れよ、君。く、くくく……」
歪な笑い声を上げながら、男は人混みの中へと消えていった。
「選別、生き残れ……?」
あまりにも意味深な言葉を残して消えた男に得体の知れない恐怖を覚え、加賀屋はただ彼の言葉を反芻した。
◆◆◆
あの男が何処かに行ってから三十分は経った。
壁に出口を探していた一団は目的を達成出来なかったようで、次は床を調査し始めている。
だかそれも無駄な労力に終わるであろう事は、加賀屋も広場に集められた人々達にも薄ら予想が付いていた。
「どうしたもんかな……」
加賀屋はヒヤリと冷たい石の床の上で胡座をかいていた。
圏外の今、スマートフォンはただの光る石版と化し、ライトノベルなど読む気になれない。
陰鬱な雰囲気が広場を包み、少しの苛立ちが加賀屋の頭の片隅に駐留する様になった。
それに呼応する様に近場から怒号が上がる。
「だから、お前の携帯を寄越せ!電話が繋がらんのだよ」
「変わんないよ、アンタと同じで俺も圏外だって」
「アンタとはなんだ、この若造が!?ええい、良いからこっちに寄越さんか!!」
「ちょ、この、やめろって!」
ヒートアップした若い男と中年の男が揉み合いになり、喧嘩を始めてしまった。
そこそこ広いとはいえ、壁に囲まれていて出口も無い閉鎖空間に閉じ込められているのだ。停滞した事態に苛立った人々が問題を起こしても不思議はない。
幸い暴力沙汰に発展しているのは彼等だけのようだが、人数が人数だ。どう事態が転ぶか分からない。
――――ここは止めるべきだよな。
牙を剥き出しにして取っ組み合いをしている男二人の間に入るのは中々酷だが、そうは言っていられない。
加賀屋は立ち上がり、二人に駆け寄りながら静止の言葉を投げかける。
「止め――――、」
「君達!離れなさい!」
加賀屋が静止しようとした瞬間。
人々の間から男性警官が現れ、馬乗りになっている若い男の手を取り、中年男性から引き離した。
「違う、コイツが先に!」
「なんだと若造……!」
「喧嘩は後にしなさい。今は皆で協力するべきだろう。お父さんも、落ち着いて行動して下さい」
「ぐ……」
警官はそう言って、手際良く二人を引き離し協力を促し始めた。
「任せた方が良さそうだな、巻き込まれないように、離れとこ……」
その様子を見て加賀屋は安堵の息を吐き、元の場所に戻ろうとした。
――――目覚めよ《十の神器を遣いし者》。
「っ?!」
頭の中に奇妙な声が響き、それと同時に激しい頭痛が起こる。
頭蓋骨が軋むような苛烈な痛みに思わず膝をつき、頭を抑える。
「何、が――――」
地面にポタリと何かが落ちる。
生暖かい感覚。自らの鼻元に手を当てる。
眼前に持ってきた手には赤黒い血が付着していた。
「なんで鼻血が……っ?!」
その時に、加賀屋は気が付いた。
自らの左手の甲に黒い目玉の様な刺青が刻まれている。
「は……え?!」
突然の出血と刺青の出現に頭が追い付かず、ただ仰天する事しか出来ない。
「ちょっと、怖い怖い!」
焦りからゴシゴシと手を服で拭うが消えない。
微塵も色が薄れない結果を見るに、身体に本当に刻まれているのだろうか。
次から次へと起こる身体的異常。
それに追い打ちをかけるかの如く、背後で驚嘆の念を含んだ叫び声が上がる
「――――っ!!」
どうにか冷静さを取り戻し、血の纏わり付く鼻元を手で拭いながら振り返る。
人々が避ける様に遠ざかり、不自然に開いた空間。
そこには先程まで存在しなかった小高い祭壇が生まれ、その上には黒い玉座がそびえていた。
黒を讃えた玉座、その側には日本式の甲冑を身に着け、腰に刀を差した謎の武者が立ち。玉座の上には闇の様な黒とは真逆の、純白に輝く法衣を身を包んだ人物が鎮座していた。頭部をすっぽりと覆い隠す様なフードの隙間からは金色に輝く瞳が覗いている。
『転移者諸君、ようこそマグナへ』
鈴の音の様に、美しく、それでいて厳格さを感じさせられる言葉。
広場に響く声は、あの法衣の女性の口から発されているらしい。
『さて……諸君等の頭には様々な疑問が浮かんでいるとは思うが、生憎、長く時間は掛けていられない』
玉座に座りながら、白い法衣の女性は、困惑する人々に宣言した。
『今より、選別を始める』
◆◆◆
上空から降り注ぐような女の声が人々に向かって投げかけられた。
周りの人達もその声が聞こえているようで、広場にざわめきが広がる。
その異様な彼等の風貌、更にはその突拍子もない言動にドッキリの演出だと断定し、安堵した人々が声を上げる。
だが――――、
「ドッキリ、なのか……?」
たった今告げられた選別という言葉、スーツの男の言っていた選別を生き残れという言葉と重なり、加賀屋は不安感を取り払えないでいた。
『喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。人間は、日々生きゆく中で様々な感情を生み出している』
そんな彼の不安を煽る様に再び降り注ぐ様な女の声が響く。
『希望、絶望。優越感、劣等感。愛憎……感情に良いも悪いも無い。それを押し殺す必要は無いのだ。何故ならば――――』
「君がここの責任者かね、もういいから、帰らせたまえ!」
中年の男性が大声を上げる。
先程喧嘩騒ぎを起こしていた人だ、と加賀屋は見覚えのある男に視線を向ける。
その男の一言に追随する様に、人々は行き場を失っていた怒りを法衣の女性に向けてぶつけ始める。
飽きた、家に帰らせろ、目の前から失せろ、今すぐ帰りたい。
日常を乱された群衆は怒りの矛先を法衣の女性に向ける。
だが彼女は彼等の声を気にする様子は無く、淡々と続ける。
『選別の概要は単純だ。ただ、生き残るだけで良い』
「ええい、訳の分からん事を!」
中年の男は白い法衣の女性の座る玉座に向かう為に、階段に足を駆け上がる。
だが――――、
「う、ご」
階段の半ば辺りで男は立ち止まる。そして小さな声を上げ、身体から炎を吹き出した。
「ぎゃああああああああああああああ!!」
彼は全身に炎を纏わせ、断末魔と共に階段から転げ落ちた。
周りの人々は、その様子を呆気に取られた様子で見つめている。
「――――」
加賀屋も、その光景を前にして立ち尽くす事しか出来なかった。
たった数秒で男は黒く変色し、動かなくなった。
――――人体発火現象。
オカルト雑誌の一面を飾っていた記事が頭を過ぎる。突然人が何の脈絡も無く燃え上がり、死亡する。加賀屋はあまりにも胡散臭い見出しも相まって、その記事を見かけた時には鼻で笑ったのだが――――。
「うっ……」
肉の焦げる様な酷い匂いに咄嗟に口元を抑える。
たった今、目の当たりにした現実は鼻で笑う事の出来ない程に生々しく、残酷だった。
『ふむ』
白い法衣の女性は動かなくなった男を見つめながら、不満げに頬杖を付いた。
『――――ドーマ、良いぞ』
その言葉に呼応する様に、日本式甲冑の人物は階段を降り、死体の前に立つと腰に差し込まれた刀を抜く。
――――まさか。
加賀屋の脳裏に嫌な予感が過ぎる。
そしてその嫌な予感は的中し、甲冑の人物は男の胸部に深く刀を突き刺した。
「きゃぁぁあああ!」
一つ命が終わった事を認め、誰かが絶叫する。
それが伝播し、人々が次々に逃げ場の無い広場に散り散りに逃げて行く。
まさに阿鼻叫喚。だが加賀屋はその人混みに押されながらも、事の顛末から目が離せないでいた。
男に刺された刀が紅く輝いて見える、死体から何かを吸い取っているようだった。
「動くな!!」
その時、群衆の中から警官が声を上げ、姿を現した。
手には拳銃が握られ、甲冑の人物に向けて真っ直ぐ構えられている。
「人殺し、殺人だ!君達を、現行犯で逮捕する……っ!」
震えながらも、真っ直ぐと殺人者を見据え、警官は甲冑の人物にゆっくりと近づいて行く。
「……憐れよな」
くぐもった声が甲冑から男の声が響く。そして甲冑は拳銃に臆する事なく警官に向かって歩き始めた。
「止まれ、止まるんだ!」
静止を無視し、甲冑は刀を構え突き進む。
警官は拳銃を強く握り、乾いた音が木霊する。
三度、四度。
甲高い音を立てて甲冑に銃弾が撃ち込まれる。
だが、弾丸を撃ち込まれた手、足、胴体に穴が空いてゆくというのに甲冑は足を止めず――――、
「去ね」
警官に向かって刀が振り下ろされた。
鮮血が飛び散り、彼はゆらゆらと揺れて崩れ落ちた。
その間近にいた人が悲鳴を上げる、甲冑は素早く近づき切り伏せた。
度重なる殺人に人々のパニックは更に広がる。
『目覚めたか不明な者はあまり殺すな、選別に介入し過ぎては本末転倒だ』
「知らぬ、不必要と判断した者は殺す」
『はあ、まったく……勝手にしろ』
人を二人殺したというのに、少しも感情の機微を感じられない彼等の態度。
それに加賀屋は忌々しさと怒りを感じたが、どうにか心の内に仕舞い込む。
「とにかく、すぐに逃げなきゃ――――」
自分のすぐ前に立つ、炎上した男と争っていた若い男から空気が詰まる様な異音が鳴る。
それを認めた次の瞬間、彼の身体から夥しい量の水が溢れ出た。
「ご、ぼ、」
苦しそうに悶える男は、目、口、あらゆる場所から水を吐き出しながらこちらに手を伸ばしてくる。
「だず……げ……」
すぐに駆け寄り、男を助けようとする。
しかし、そんな加賀屋の行為を嘲笑うかの如く、固いものがヒビ割れる音が木霊する。
「――――っ!!」
男の首に黒い何かが巻き付いていた。
彼の水に濡れた身体は、糸の切れた人形の様に力を失うと、地面に崩れ落ちた。
彼の身体の周りの地面には、闇の様に黒い染みが出来ている。
「……は?」
思わず気の抜けた声が漏れた。
その染みの中から巨大な黒い蛇が姿を現したからだ。
《シュルルル……》
舌先をチロチロと出しながら、血の様に赤い目で獲物を探すように周囲を見回すと、その異形に驚き逃げ惑う人々を追っていった。
「なんだよ、コレ」
疑問に答えてくれる者はいない。
血を流して倒れる人々の側には黒い毛に覆われた狼の様な何かが何匹も立っている。
その手には鋭い爪が見え、血を滴らせている。
辺りの地面には至る所に黒い染みが生まれ、中から続々と大小様々な黒い化物達が這い出てくる。
彼等は逃げ惑う人々に襲い掛かり、血を啜っている。
《グォォオオオ!!》
大気が揺れる。
遠くの方で、十メートルは超えている黒い巨人が雄叫びを上げ、地面を逃げ回る人々をその巨大な拳で吹き飛ばし、叩き潰している。
「……なんだ、そりゃ」
その場に崩れる様に尻餅をつく。
俺は幻覚でも見ているのだろうか、と加賀屋は頬を何度も抓る。
だが彼の痛覚は現実である事を繰り返し宣うだけで、この空間から逃げる事を許してはくれない。
逃げ場の無い、閉ざされた広場には数百を超える悲鳴が合唱の如く響き渡っている。
玉座の上で、白い法衣の女性はその様子を頬杖をついて眺めていた。
今からあの玉座の元に向かっていったら、この惨劇は止まるのだろうか。
視線を向けたの先には、玉座を守る様に立つ甲冑武者の姿があった。彼の足元には先程より死体が増えている。
この事態止めにいった者か、或いは逃げ惑う内に玉座に向かった者か、いずれにしろ近づく者を全て殺している事は明らかだ。
よろよろと立ち上がる。
とにかく今は逃げるのだ、とそう自分に言い聞かせた。
その瞬間、目の前に何か巨大な物体が転がって来た。
尋常では無い地面の揺れと風圧。
反射的に瞑った目をゆっくりと開く。
「嘘だろ」
その正体は加賀屋の三倍はあろう大岩だった。
岩が転がって来た方向を見やると、先程とは違う黒い巨人が地面や壁を引き剥がし、岩を広場の各地に投擲している姿があった。
逃げ惑う人々は吹き飛び、押し潰される。動けなくなった者は次々と他の黒い化物に殺されてゆく。
じわりと、岩の下から赤い水が溢れてこちらに流れて来た。誰かが潰されたのだろう、と冷静に考える事の出来た自分を加賀屋は呪った。
「は、はは」
――――地獄だ。
乾いた笑いと共に、ただ小刻みに震える事しか出来なかった。
そして――――、
《シュルルルル……》
空気が漏れる様な鋭い音に息を呑む。
一体何の音か、などと分かりきった疑問の答えを求めて振り返る。
そこにはこちらを見つめながら舌舐めずりしている黒い大蛇の姿があった。
ぬらぬらと鱗が光る胴体と顔には、誰かの抵抗の跡だろうか、血の付いた引っ掻き傷が幾つも付着している。
「…………」
悲鳴もあげられず、ただ眼前に迫る大蛇を見つめ、じわりと浮かび上がる汗を感じながら加賀屋は思考する。
――――逃げるか?
無理だろう。こんなサイズの化物から逃げられても数秒がいい所だ。それに周りは阿鼻叫喚の化物の海なのだ、何処に行っても同じだろう。
強いて言うならば、この蛇の後ろにある扉を通るしか無いだろう。
「……扉?」
異変に気が付き、思考が止まる。
黒い大蛇の背後。加賀屋が裏路地で見たあの扉がそこにはあった。
明らかに異常な出現。
だが「ここを通れば助かるぞ」と、そう言われている様に思えた。
――――イチかバチか。
慎重に、大蛇を中心に外回りに扉へと近付いてゆく。
幸い大蛇はこちらを警戒しているのか、すぐに飛び掛っては来ない。
「ハァ……ハァ……」
心臓が高鳴り、呼吸が早まる。大蛇を刺激しないように、ゆっくりと扉に迫る。
『ドーマ!!』
広場に怒りに満ちた声が響く。
反射的に玉座に視線を向ける。玉座に座っていた法衣の女性は右手を抑え、苦悶の表情を浮かべながらこちらを見つめていた。
『あの男を止めろ、今、直ぐにだ!!』
「……把握した」
甲冑武者は振り返り、こちらを認識するとすぐに駆け出した。
自分が狙われている、という事は明らかだった。
そして、それはつまり――――、
「この扉が出口」
扉に向かって全速力で駆け出す。
《シュルアァァ!!》
すぐさま大蛇がこちらに飛び掛ってくるが、それを横に勢い良く飛び込み回避する。
背中を大蛇の身体掠めたのを感じながら、扉の前に到着した。
――――着いた。
恐らく、大蛇は目の前に現れた甲冑武者に気を取られる筈だろう。
チラリと背後を振り返る。
たった今加賀屋に飛びかかった大蛇は幾等分にも切り刻まれていて、その血と肉を浴びながら甲冑武者がすぐ側まで来ていた。
「マジかよ!!」
迫り来る甲冑の擦れる音、夢中で扉を開き――――、
「うぉわあああっ!!」
何かに足を取られ、その場に転んだ。
――――終わった。
迫る死の恐怖に身体が震え、頭を抱えてその場に蹲る。
「……くっ、うっ」
この後の展開など想像に難くない。
次の瞬間、あの化物武者に切り刻まれて殺されるのだ。
だが、何秒経っても身体を切り刻まれる事は無い。
弄ばれてるのだろうか。
獲物を追い詰め、痛ぶる殺人鬼などパニック映画でも最悪の部類だ。
安心して振り向いた瞬間にグサリ。なんて、実際にやられるのは洒落にならない。
「痛いのは勘弁してくれ……」
諦観を含んだ覚悟を決め、顔を上げてゆっくりと背後を確認する。
そこには、何も無かった。
広場も、黒い化物も殺人武者も、たった今通った扉すらも。
「…………」
辺りには美しい緑が広がっている。
心地よい風が吹き木々が生い茂る森林の中の、少し拓けた草原。
その中心に、自分は居た。
「助かった、のか、良かっ――――、」
歓喜した瞬間。
化物に襲われて死んでいく人達の姿と断末魔が脳裏に浮かび、息が詰まる。
「っ……ゆ、夢だ!落ち着け、あんなの現実じゃない。そうだ、俺は森に散歩に来たんだ。うん、そうだそうだ」
自分に言い聞かせる様に呟き、加賀屋はその場に倒れ、草原に身体を預けた。
「――――」
風の音、草がなびく音。空高くに飛んでいる鳥を見つめる。太陽の眩しさを手で庇おうとして、違和感に気が付く。
血が点々と付着したライトノベルの入ったビニール袋。
では無く、それを持つ左手の甲。
そこには黒い目玉の刺青がしっかりと刻まれていた。
「夢じゃ……無いのかよ」
彼の絶望に染まった声に返事をするかの如く、空を飛ぶ鳥が甲高く鳴いた。