『始まり、始まり』
夏の日差しの中――――。
朝から昼に変わり、煌々とアスファルトを照りつける太陽が空高く登っている。上下から来る暑さに挟まれ茹だりながら人々が街中を闊歩している。
「このガキ、待ちやがれ!」
「ハァ、許してくれるなら、止まりますが?!」
「許す訳ねぇだろが!」
「ですよねー!」
そんな中で、なりふり構わず逃走劇を繰り広げている青年の姿がそこにはあった。
彼の名前は加賀屋尽。
目下、不登校中の高校三年生である。
「ちょっと、すみません!通ります!」
何事かとこちらに訝しげな視線を向けてくる通行人をかき分けながら、彼は背後に迫る魔の手から逃れる為にひた走る。
「こんな筈じゃ無かったってのに……ハァハァ……俺の馬鹿!」
息を切らしながら加賀屋は数分前の自分の行動を思い出しながら恨み言を吐いた。
◆◆◆
毎週金曜日、ライトノベルを適当に買い読みふけるという人生のルーティンをこなそうと立ち寄った古本屋。
そこで買い物を終えたまでは良かった。
近くの駐車場で気の弱そうな自分と同年代くらいの青年に詰め寄っているガラの悪い二人組の男達。
それを認めたのが間違いだった。
「ん……」
ぐるりと辺りを見回す。
周りの人々は恐怖心か、あるいは単純に興味が無いのか。一瞥はするが、誰も助ける素振りが無かったのも相まって妙な義侠心に駆られたのも大きな間違いだった。
「よっ!」
ほんの少し注意を逸らそうとして地面に落ちていた酒の空き缶を、男達の足元に向けて蹴ったつもりだったのだが――――。
「痛っ?!」
「冷てっ……」
缶は見事に放物線を描き片方の男の頭に当たった。そしてどうやら飲みかけだったらしく辺りに酒を撒き散らした。
男達、なんなら絡まれていた青年すらも驚いた表情を浮かべながら、びしょびしょに濡れた顔をこちらに向ける。
「あ……すみませんでしたっ!」
「「なに晒しとんじゃコラァ!」」
少し所ではない注意を引き付けた事を理解し、加賀屋は一目散に駆け出したのであった。
◆◆◆
「ハアッ、ハァッ……」
突然の走りに呼吸は乱れ、酸素がうまく頭に回って来ない。
半ば掠れた思考を巡らせ、事の経緯を繰り返し思い出しながら、加賀屋は大通りの脇に薄暗い細い路地を見つけた。
「っ!!」
咄嗟に身を潜める。
すぐに後を追ってきた男達の走る音が聞こえ、乱れる息を抑える為に口を手で塞ぐ。
「どこ行きやがった」
「あっち探すぞ」
頭に血が上っているのか男達は、加賀屋がすぐ側に隠れている事などいざ知らず。路地に目もくれずに大通り真っ直ぐ走り抜けて行った。
「――――」
何秒、何分経ったのだろうか。緊張感に時間感覚を狂わせながら、ゆっくり路地の影から顔を出し様子を見る。
疎らな人通りの中にあの男達の姿は見えない。
――――待ち伏せをする様に賢く見えなかったよな。
恐らく撒いたのだと断定し、加賀屋は口から手を離した。
「っ……は、はぁ……ゲホゲホッ。あぶ、ねえ……」
彼は肩を落とし、息を落ち着かせながら男達が向かった方とは逆に歩き出す。
目的地は、先程青年が絡まれていた駐車場だ。
「あの人にも缶の中身かかっちゃってたからな。謝らないと……」
男達に警戒しながら恐る恐る駐車場に辿り着く。しかしそこに青年の姿は無く、空になった缶が風に揺られて転がっているだけだった。
「まぁ、いるわけないよな」
当然と言えば当然だ。
微妙なモヤモヤを胸に抱えつつも加賀屋は缶を拾い上げ、ゴミ箱に投げ入れ駐車場を後にした。
◆◆◆
「……」
大通りに面した喫茶店で優雅な昼下がりを演出しながら、加賀屋は購入したライトノベルに目を通していた。
内容は、異世界転移した男が魔女と共に世界を救うという感じだ。
「…………」
街中に設置されている大型モニターや、家電製品店のテレビから昨今の最新情報をニュースキャスターが読み上げる声が聞こえてくる。
『――は外交問題に発展して』
『――国の行方不明者は100人を超え』
「……む」
『――警視庁は新たな組織を立ち上げ、』
『――婚約が発表されました。』
「……むむむ」
加賀屋に耳に雑多な情報が音となり流れ込んでくる。
「駄目だ、全然集中して読めねぇ!」
先程の駐車場での失態も頭から離れないのも相まってか、頭がいまいち文字を認識してくれない。
「あの人にも缶の中身が引っかかるとは……」
声を出して項垂れた為、再び辺りから訝しげな視線を向けられる。それに気が付きライトノベルをビニール袋に仕舞いコーヒーを一気に飲み干し、喫茶店を後にした。
「でも結果的に助けたし、うん、良い事したよ……多分」
大通りを歩きつつ、自分の功績を言い聞かせる様に呟きながら、ポケットからスマートフォンを取り出し時刻を確認する。
「もう夕方か……」
思いの外経っていた時間に面食らう。
「まだ家に帰れないしな、ゲーセンは……」
近所のに新しくできたゲームセンターに寄ろうとも考えたが、生憎金の持ち合わせが無い事を思い出す。
「駄目か、静かな場所で本を……」
だが外はどうしても情報が多すぎて落ち着かない。家で読んだ方が良いという意見が加賀屋の脳内会議で可決されてしまった。
しょうがない、と溜息を吐きながら加賀屋は先程自分を匿ってくれた路地へと足を向けていた。
「いつも通ってる場所でも、意外と知らない道があるもんだな」
路地に辿り着き、改めて相対する。薄暗く誰かが通っている所をまるで見た事が無い。奥には閑静な住宅街が広がっている。
「ちょっと冒険してみるか」
そう独り言を述べ、路地へと足を踏み入れた。
この選択が自分の運命を大きく分ける事になるなど知る由もなく。
◆◆◆
路地裏に入ってから五分ほど経った。
いつも通る街道と違い、人通りなど無く、自分以外に気を使わずに歩く事が出来る。
今度から散歩に使ってもいいかも、などと思いながら道の中心を歩いていると――、
「ん?」
ピタ、と順調だった足取りが止まった。
ソレは周りの風景から逸脱していながら。さも当然の様に、ふてぶてしく、道の真ん中に、行く手を阻むかのように鎮座していた。
「扉……?」
ソレは一枚の扉だった。
鉄製の少し錆び付いたその扉は、決して支えがある訳でも無いというのに、まるで猫型の友達が出したドアの様に直立していた。
――――怪しすぎる。
そう思い、距離を開けて観察する。
反対側に回り込む、やはり支えとなるような物は無い。
「どっかで見たような……」
微かに記憶に覚えがあるその鉄の扉。奇妙に感じながらも懐かしさを感じ加賀屋は近付き慎重に手で触れる。
手触りは完璧に鉄の扉だ。
ドンドン、と強め叩いてみたりしたがまるでビクともしない。
「押してダメなら引いてみろ、ってか?」
ドアノブを捻り、扉を引き、開く。
しかし、扉の枠組みの向こう側には変わらず住宅街が広がっているだけだった。
一通り扉を調べたがまさに何の変哲もない、普通に不気味な只の扉であった。
演劇の小道具か何かかだろうか、などと考えながら加賀屋は扉の前に立ち尽くした。
もしかしたら扉の向こうには異世界が広がっていて、潜ればチート能力が手に入り、ハーレムは言わずもがな、現地人相手に無双できるかも。
なんて馬鹿な想像をしていたのだが。
「はー……ラノベの読みすぎだな。ま、記念に写真だけでも撮っとくか」
夏のヒヤリとする奇妙な体験を記録しようと、スマートフォンを構え、写真のボタンを押した。
しかし微妙にズレた指先は動画ボタンに触れ、扉と自分を撮影し始めた。
「あ。ハハ、これはこれでいっか」
馬鹿らしい行為を後から見返して、自分だけ恥ずかしい思いになるのもまた一興というものだろう。
そう考え至った加賀屋はキメ顔でカメラに向かってピースサインを送った。
「イェーイ、それでは今からあの扉を通って異世界に行ってみたいと思いまーす!」
そうカメラに向けて告げ、加賀屋は開いた扉を軽くジャンプして通り抜ける、
だが着地する筈の地面に足は触れず、妙な浮遊感に身体が強ばる。
「う、わっ……」
微かな悲鳴は途切れ、音をたてて扉は閉まった。
たった今、扉を通った加賀屋尽という青年は姿は何処にも伺えず、その通りには扉が直立しているだけだった。
そして彼を飲み込んだ扉は軋むような音を立て、霧のように形を失うと跡形もなく消え去り、辺りには静寂が流れるだけだった。
これは己の意志とは関係無く、過酷な運命と悪意に翻弄される転移者の物語。
それが今、ここから始まったという事を知る者はいない。
――――少なくとも、この世界には。