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喉笛の塔はダミ声で歌う  作者: 翁まひろ
最終章 楽園の涯
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第六十五話 魂の所有者

「水に、弱い――」

 そんな話、聞いたことがない。

 いや、それどころか〈汚染〉は水をも腐らせるのだ。飲み水や生活用水が確保できているのは、水源及びそこからの水の流れが〈汚染〉を免れているからだと習ったことがあった。

 だが、そう思いかけたオースターの脳裏に、下水道で目にした光景がよぎった。アキとロフの策略で、旧水道に閉じこめられたときの出来事だ。

 あのときオースターは下水道で〈汚染〉を目撃した。直後に鉄砲水に呑まれ、さらに今日までつづいている大騒動もあって、記憶から消えてしまっていたが……。


(あの〈汚染〉は、水に呑まれたあと、どうなったんだろう)


 もし水流に乗って、下水道中が汚染されていたとしたら、とっくの昔にフォルボス局長がそれを報告しにきているはずだ。

「わかった、トマ。これからすぐに大公宮に向かおう。けど、その前にもうひとつ、トマに頼みたいことがあるんだ」

「いいよ。なに?」

 オースターは目線だけでバクレイユ博士の居所を確かめる。博士の姿は中庭中に貼りめぐらされた太いケーブルの向こうに隠れて見えない。

 つまり、こちらの姿もあちらからは見えないということだ。

「塔の中の喉笛を外に出すことはできる? 喉笛をいったんみんなに返したいんだ」

 トマは目を瞠る。わずかにマシカたちの様子を伺うが、すぐにうなずき、塔を振りかえった。

 柔らかな声でなにかを囁く。すると、しばらくして壁に開いた大穴から色とりどりの無数の光が飛びだしてきた。それはふわふわと心許なく浮遊し、やがてマシカや、ルゥ、アキ、そのほか大勢のホロロ族の――喉笛の本来の持ち主のそばに舞いおりた。

 この場にいないホロロ族の喉笛は、助けを求めるようにトマのそばを浮遊する。

「おい、なんでそっちに行くんだよ」

 ふと、アキが不機嫌そうに言った。するとすぐさま、銀色の光がトマのそばを離れ、アキの掲げた手の上に舞いおり、ころんと転がった。

「そうだよ、ロフ。オレのそばのほうが楽しいよなあ?」

 アキがくっくっと笑って、ロフの喉笛を自分の分と一緒に両手で包みこんだ。

 そして、おもむろに二つの喉笛を口に運ぶと、まったくの躊躇もなく、バリッ、と噛みくだいた。

 オースターは目をまん丸にして、それを凝視する。

 トマまでがぽかんとして、アキが喉笛をバリボリと噛むのを見つめている。

 最後にごくんと呑みこみ、アキはべっと舌を出した。

「んじゃ、これでお別れだ。さようなら、ご主人さま。じゃあな、鳴くしか能のない鳥ども」

 アキの青白い顔が皮肉たっぷりに歪む。そしてアキはオースターに背を向けると、足を引きずって歩きだした。ルゥの横を通りすぎる時だけ、ルゥの手の中の小さな喉笛に目をやり、「ちっさ」と吐き捨てる。その姿はやがてケーブルの向こうへと消え、見えなくなった。

 多分、もう二度と、アキに会うことはないのだろう、とオースターは思った。

「……わりと食べやすそうな音だったな」

 トマがまだあっけにとられながらつぶやく。

「そうだね。……えっ、まさか」

 オースターがぎょっとしているうちに、トマは自分の喉笛を手の中に転がし、いきなりそれを口に放った。アキのようにかじることはせず、思いきったようにゴクリと呑みこむ。

「それって、食べたら元通りに〈喉笛〉になるの?」

 トマは喉をおさえながら、きれいな声で「知らね」と肩をすくめる。

「明日になったら、クソになって下水道を流れてるかもな」

 そう答える声は、清々しいほどに澄みきっていた。


「待て! 待て、待て、待て! 今、私の美しい〈喉笛〉になにをしたんだね!」


 不意に、狂った九官鳥のような声が響きわたった。

 甲高い声でわめきながら、バクレイユ博士が複数人の職員をともなってトマのもとに駆け寄ってくる。

「その〈喉笛〉は私のものだ。私の可愛い〈喉笛〉……なんてことだ。それで……それで、どうだね。なにを感じる? 食べてみて、なにか異変はあるかね。気持ちの高ぶりや、あるいは力の漲りを感じるなど。おお、教えておくれ、私の可愛い小鳥!」

 混乱と同時に、ふくれあがる好奇心に、バクレイユ博士の唇が笑みの形にめくれあがる。

 だが、「小鳥」という言葉を聞いた瞬間、トマが顔を険しくした。

「おれは鳥じゃないし、誰かのものでもない」

 直後、トマの周囲に突風が吹きあれた。オースターが思わず腕を掲げ、顔をかばったとき、中庭の四方を囲んだ監視所のガラス窓が一斉に音を立てて割れた。

「おれはもう二度と、魂を手放さない。どうしても喉笛が欲しいなら、奪ってみろ」

 風が一瞬にしてやむ。オースターは周囲に目をやり、ぞくりとする。

 割れたガラス窓の破片が中庭の上空に浮きあがり、その切っ先のすべてをバクレイユ博士に向けていた。

 魔法だ。喉笛を守るために、トマが力を使ったのだ。

 だが、前のときとはちがう。暴走させたのではなく、抑制的に力を操っている。

 己のほうが無力であると悟ったのか、バクレイユ博士がいきなりうなり声をあげ、トマに掴みかかった。

 トマがぎょっとしたように目を見開いた。上空のガラスの破片がぴくりと蠢くが、実際に破片が博士の体に降りそそぐことはなかった。トマが顔をゆがめ、その隙に博士がトマの胸ぐらを掴みあげる。

 オースターは「ラジェ!」と叫んだ。

 ラジェがすかさず博士の背後に身を寄せる。すると、博士の体が唐突にぐらりと揺らいだかと思うと、その場にどっと倒れこんだ。

「甘いですよ、トマ」

 ラジェが手袋を嵌めた手の先で、小さな注射器をくるりと回して言う。

「そうやって力を誇示するなら、相手を傷つける覚悟を、最後には殺しおおせる覚悟を決めてからになさい」

 目をまん丸にしていたトマは唖然とラジェを見つめ、不意に頬を羞恥にか赤らめると、こくこくとうなずいた。

「そうする」

 上空の破片がゆっくりと上空からおりてきて、中庭の草地に音もなく着陸した。




 深夜をとうに越えた時刻、大公宮の謁見の間には大勢の人間が集まった。

 ほんの数日前までは、一堂に会することなど考えられなかった者たちだ。

 オースター、従者のラジェ、コルティスと父親のグランス・モーテン男爵。

 ホロロ族の衣装合わせをし、戴冠式にも付きそったオルグ。戴冠式に、アラングリモ家の名代として参列していた遠戚のジプシール。

 トマをはじめとしたホロロ族――マシカ、ルゥはもちろんのこと、戴冠式に登壇した五人のホロロ族、それに長老もいる。

 そして、ルピィ・ドファール。彼の周りには、これまで大公宮では見たことにない若い貴族たちや、〈北の防衛柵〉護る機甲師団の制服を着た者たちもいた。どの者たちも、ルピィが長年にわたって培ってきた、彼が信頼を置く者たちだろう。

 いまだ停電はつづき、大広間にはあたたかな火をともしたランタンがたくさん並べられていた。

「汚染は水に弱い――そう話したそうだな。トマ」

 ほのかな明かりに照らしだされたルピィの顔が、トマをまっすぐに見つめる。

「そうだよ、ルピィ・ドファール」

 トマはそれを真正面から受けとめ、答えた。その澄んだ声音を聞き、ルピィは片眉を持ちあげる。

「なるほど。魔道大国アモンの貴族どもも、フラジアの研究者どもも、この声に惑わされ、侮ったあげくに、みずからの国を滅ぼしたというわけか」

「――あんたも、おれを飼いたいか」

 トマが挑むようにして言った。

 だが、ルピィは口端を皮肉げに持ちあげる。

「安心しろ。私は人間を『鳥』だとうそぶき、鳥かごで飼うような趣味はない。それよりも、その〈汚染〉の件、なにをもってそう確信した?」

 さっさと本題に移るルピィをすこし驚いたように見つめてから、トマは首をかしげた。

「オースターにも言ったけど、確信してるってわけじゃない。そうなのかなって、思ってるだけだ。ただ、〈汚染〉を地下水道で見かけたって話は、ホロロ族の間じゃそこそこ知られてた」

 オースターはマシカに顔を向ける。マシカは困惑したようにうなずいた。

「はい。見つかった場所からすこしも動かないんです。……地上の方々は把握しているものと思ってました」

 ホロロ族は地上に出ることを禁じられてきた。地上ではどういう認識がされているかなど、考えたこともなかったろう。

 彼らにとって、下水道に〈汚染〉が入りこんでいるというのは、当たり前の認識だったのだ。

「〈汚染〉が水に弱いというのは、どうやら確かなようです」

 ふいに、大広間の入り口から声が聞こえた。衛生局のフォルボス局長だ。

 いつもはきっちりとした背広姿のフォルボスだが、今は作業着姿のままで、後ろになでつけた髪もほつれ、ほったらかしになっている。

 丸めた紙を小脇にはさみ、大広間の中央にもうけられたテーブルへと向かう。そこには軽食がいくつか用意されていたが、あとに従ってきた局員たちがそれをどかすと、局長はすぐさま紙をそこに広げた。

 ルピィとともに、オースターとトマもまた、テーブルに向かって紙をのぞきこむ。

 どうやら下水道の設計図面のようだ。

「〈汚染〉の侵入経路は、把握できたかぎりでは、ここ、ここ、それからここ……計三カ所でした。そこからこちらの水道を伝い、この地点まで流れこんできたようです。ただ、ホロロ族どもに話を聞いたところ、汚染はずいぶん昔から下水道に入りこんでいたが、水を嫌っているのか、ほとんどおなじ場所から動いていないようです」

「水を嫌っている、か」

 ルピィが反芻すると、フォルボス局長は「ええ」と答えてから、彼には珍しくわずかに興奮した様子でつづけた。

「正確には、流れる水、と限定すべきですが。溜まり水はいともたやすく腐らせてしまう。だが、ある程度の水量を前にすると、逆に動きが止まるのです」

 それは驚くべき話だった。

 つまり、下水道に侵入したと思われていた汚染は、侵入したというのはたしかだが、ここ数日で急に侵入してきたものではなく、ずっと昔に侵入し、以来ずっとそこにとどまりつづけているもの――ということなわけだ。

「ランファルドの上水は、北部のケーナ山脈から流れてきた水脈を利用している。よくぞ水脈が無事であったものと思っていたが……そういうことか」

 ルピィは納得したようにうなずいた。

 たしかに、流れつく水までが腐っていたら、ランファルド大公国はとっくの昔に滅んでいたはずだ。水脈をうまく避けてくれていたのかと思ったが、そもそも〈汚染〉は水脈を侵せないのだとしたら話は別だ。

 オースターはおもわず引きつり笑いを浮かべた。

「知らなかった。ずっと僕たちは〈汚染〉の上で暮らしていたんだね」

 つい昨日まで〈汚染〉が北の防衛柵を突破してくることを怯えていたのに、実はもうずっと昔から、ランファルドの民は〈汚染〉の上で暮らしていたのだ。

「地下の民と、もっとはやくに話ができていれば、ここまで危機的な状況に陥るまえに、なにかしらの手を打てていたのかもしれないな」

 ルピィが呟く。たしかに、〈汚染地帯〉とのあいだに水を流す堀でも造れば、あるいは汚染をもっと北部で食い止めることができていたのかもしれない。

 ルピィの言葉に、フォルボス局長の顔がわずかに歪む。ホロロ族と対話をしてこなかったという後悔からか、あるいはホロロ族を自分ひとりに押しつけた大公宮の無責任さに対する怒りか。

 だが、どうあれ後悔しても遅い。そして、時間の無駄でもあった。

「〈汚染〉は流れる水を前にすると動きを止める。その性質を利用し、南の海まで誘導し、そこで完全に動きを制止させる。それが、貴様の考えだな」

 ルピィに問われたトマは、わずかに顔をしかめた。

「べつにそこまで深く考えてねえよ。けど、あの〈汚染〉はそもそも南の楽園を目指してるんだ。だから海に連れていこうって思ってだけ。ここより南には、海しかないんだろう?」

 南の楽園を目指しているという非現実的な言葉に、ルピィはわずかに顔をしかめるものの、「そうか」と言うだけに留めた。

「待って。じゃあ、わざわざ南に行かなくても、〈汚染〉を地下に封じることができるんじゃ……」

 コルティスの言葉に、オースターもまた胸を躍らせてうなずいた。

 下水道は広い。網の目状に広がり、地下深くまで何層にも分かれて存在している。下水道は都市機能の維持に必要不可欠だが、旧水道や、ホロロ族が住んでいた坑道跡地は今は使われていない。せいぜいが地上から出たごみを捨てる場となっている程度だ。

 そこに汚染を流しこめば――そして、それらを水の壁によって封じてしまえば、汚染の動きを止めることができるのではないか。

「喉笛の塔をとりまく〈汚染〉については、それでいけるかもしれませんね」

 フォルボス局長がうなずく。

「が、北の〈汚染〉については、いくらなんでも博打が過ぎるように思えますが」

 局長の言葉に、ルピィは小さく嘆息する。

「ああ。しくじれば、首都は一瞬にして壊滅する。だとしたら、やはり海だ。海が〈汚染〉を食い止めるに足るという確信も持てんが……喉笛の塔の〈汚染〉を制御できたことで、時間稼ぎはできた。ある程度、検証の時間もとれるだろう。いずれにせよ、重要なのはルートの確保だ。〈汚染〉を海に誘導した場合、その通り道はもれなく汚染される。最小限の汚染だけで済ませられれば、少なくともランファルドの都の近辺だけは今の状態を維持できる」

 その言葉に、すぐさま大きなランファルドの地図が机上に広げられた。

 北の防衛柵を長年任されてきた兵団長や副長たちが、ルートの検討をはじめる。

「いちばんの問題は、汚染がどう動くかがわからないことだね……」

 オースターが言うと、ルピィは端的に答えた。

「だが、やらなければ」

 被害を最少に留めるとともに、どう動くかがまったく未知数の汚染について、できる対策がないかを、その場に集まった全員で話しあいはじめる。

 そこにはもう、種族や立場の違いなど存在しなかった。

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