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喉笛の塔はダミ声で歌う  作者: 翁まひろ
最終章 楽園の涯
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第五十四話 穏やかな朝

 鳥が鳴いている。チチチ、と軽やかな澄んだ声で。

 オースターは薄く目を開け、窓のほうに目をやった。薄手の白いカーテンを透かして、柔らかな日の光が差しこんでいる。カーテンに映りこむのは、見慣れた形の梢と、枝から枝へと跳ねるように移動する鳥たちの影だ。

 クラリーズ学園の寮にある、自分の部屋だ。

(朝かな)

 オースターはぼんやりと思って、くんくんと鼻を鳴らす。

 いい匂いがする。穀物を煮こんだような香ばしい匂いと、あとは……鶏肉?

「いっ……」

 寝台から体を起こそうとして、オースターはうめいた。

「……たぁ」

 猛烈な筋肉痛と、筋肉痛ではなさそうな全身の痛みに襲われ、ぱたりと寝台に逆戻りした。

 悶絶するほどではないが、息が詰まるほどには痛い。眉間にしわを刻んで、オースターは痛みが通りすぎてくれるのを待つ。

(だいぶ無茶やったもんな)

 病み上がりで、よくあれだけ動けたものだと思う。下水道掃除の仕事で体力がついていたとはいえ、必死だったからこそできたことだろう。気が緩んだ今となっては、「もう一度やれ」と言われても、「無理です!」と全力で拒否したいところだ。

 けれど――気分はすっきりしていた。

 朝の光に照らされて、天井がやたらと輝いて見えた。秋の風に揺れるカーテンも、その隙間から見える澄んだ青空も、雨露に濡れた木々の葉も、すべてが途方もなく美しい。

(きれいだな……)

 嘘の重みから解放されたからだろうか。

 かつて感じたことがないほどに穏やかな気分だ。

 かちゃり、と扉の開く音がした。顔をそちらに向けると、エプロン姿の従者ラジェが簡易厨房から出てくるところだった。オースターが起きていることに気づいて、はっと目を見開く。

「目を覚まされたのですか、オースター様!」

「うん。おはよう。ラジェ」

 なにを言っていいものやら、オースターはとりあえず朝の挨拶をする。

 ラジェは急いでエプロンを外し、律儀に畳んで椅子の背もたれに置くと、両手を上にやったり、下にやったりと、謎の動きをした。

「部屋に運んでくれたの、ラジェ?」

「はい、わたくしめです、オースター様。あの、お熱は……いえ、先にお水を……お着替えが先……いや、タオルを……」

「おちついて」

 オースターは笑ってたしなめた。

 ラジェがそばにいるとわかって、ほっとする。ふかふかの枕に深く頭を沈めると、枕からもいい匂いがした。安眠用の香り袋でも入っているのかもしれない。深呼吸をすると、鍋で沸かしたミルクのような甘い香りが体いっぱいに広がる。

「水とか、着替えとか、タオルはあとでいいから、枕もとまで来てくれる? 体が重たくて、そっちまで行けな」

「喜んで!」

 右往左往していたラジェが枕もとまで吹っ飛んでくる。小さい頃に飼っていた愛犬アリーシャが餌に飛びつく姿そっくりで、危うく笑いそうになる。

「母上は?」

「シティ・ハウスにお戻りになりました。ルピィ・ドファールの命です。私がこちらに残ったのもルピィ様のご指示です」

「そっか……」

 重荷を全部ルピィに押しつけてしまった。ずいぶん最悪な目に遭わせてしまったとも思う。それでいて、こちらは軽やかな気持ちでいるのだから申しわけない。

「サロンの奥で倒れているあなたを見つけたときには、心臓が止まるかと思いました」

「部屋の鍵が開いてなくて。とりあえずサロンに入って、そのまま……」

 ラジェはうなだれ、枕もとの椅子に腰をおろした。

 毛布のうえに乗せたオースターの手にそっと触れる。冷たい手だが、手の甲を撫でる仕草はまどろみたくなるくらい優しい。

「ルピィ・ドファールにすべてを話したのですね?」

「……うん。全部」

「よく頑張りましたね。このラジェめが花丸を差しあげます」

 ふっと笑う。なにを言っているのだか。

「ひどい話だけど、すごく軽やかな気持ちなんだ。ずっと嘘の重みに押しつぶされそうだったのに、いまは身軽で、どこにでも行けちゃいそう」

 言ってから、苦笑する。

「体がぜんぜん動かないから、どこにも行けはしないんだけどさ」

「……お気持ちが軽くなったのなら、ようございました」

 ラジェがほほえむ。悲しそうにも、苦しそうにも、安堵しているようにも見える。

「柔らかく煮こんだ鶏肉のスープと、消化によい麦粥を用意しました。食べられますか?」

「食べてみる。すごくいい匂い」

「食後にお薬をお飲みください。鎮静剤と、右腕のお怪我の化膿止めです。怪我が悪化している様子はありませんでしたが、念のため」

「わかった」

「それから、注射を」

 オースターが言葉を詰まらせると、ラジェが「ちがいます」と首を横に振った。

「わかっています。注射をご自身の判断でおやめになったのですね? 体の不調はそのせいもあるでしょう。何年も体に入れつづけた薬を抜くのです、体が驚かぬよう、慎重の上にも慎重を期さねば」

「少しずつ減らしているよ」

「では、あとで減薬の配分を教えてください。私のほうで、改めて最適な減量を考えますから。できるだけ体に負担がかからないよう最善の注意を払います。……ただでさえ、もう臓器はぼろぼろなのですから」

「わかった。じゃあ、お願いする」

 オースターは部屋の扉に目をやった。ラジェが意を汲んで言う。

「いまは軟禁の状態です。扉には外から鍵が。今後の沙汰は、追って通達があるそうです」

 軟禁ということは、オースターが皇太子の座からおりたことは、ある程度、周知されたと思っていいのだろうか。大公殿下亡きいま、次期大公であるオースターを拘束するには、相応の理由が必要なはずだから。

 オースターが女であることは、もう学内に広まっているだろうか。

(そのわりには静かだ)

 平穏だと勘違いしそうなほどに。

「静かだけど、三階全部、人払いをしているの?」

「どうでしょう。私が部屋に来たのは夜半すぎですから、それ以降の外のことはなにも知らないのです」

「じゃあ、ルピィが〈喉笛の塔〉に行ったかどうかはわからない?」

「〈喉笛の塔〉ですか? ……はい、なにも存じあげませんが」

 オースターは顔を曇らせた。

(ルピィは、トマをバクレイユ博士の手から救いだせたかな)

 今となっては、気がかりはそれだけだった。

 きっとルピィは〈汚染〉の対処で忙しいだろうから、役立たずの罪人はしばらくここに放置されるだろう。トマのその後を知るのはずっと先になってしまうかもしれない。知ったところで、自分にはもうできることはないのだが――それでも心配だった。

「……ルピィ様のことですが、すこし見直しました」

 おもむろに、ラジェがそんなことを言う。

 ドファール公爵家の嫡子相手に「見直した」とは不遜すぎる物言いだが、ラジェにとってルピィはオースターに散々いやがらせをしてきた張本人なのだ。ほとんどが取り巻きの仕業としても、ルピィもわかっていて止めなかったのだから、好ましい印象を持っていないのだろう。

 それを「見直した」などと言うので、オースターは目をぱちくりさせた。

「どうして?」

「実は、サロンで倒れているあなたを見つけたのは、ルピィ様です」

 オースターは驚く。

「ラジェが見つけてくれたんじゃないの?」

「いいえ。私はオースター様のご指示で、奥様のそばにいましたから」

「あ、そっか……」

「経緯はわかりませんが、ルピィ様がオースター様を見つけ、貴賓室にいた私のところにいらっしゃったのです。すぐに部屋に運びいれ、休ませるようにと。今後の沙汰は追って知らせるが、体調が万全に整うまでは、心穏やかに過ごせるよう手を尽くせ、とお命じに」

 オースターは目を見張った。


 ――恥を知れ!


 思い起こされるのは、オースターの嘘を知って激怒したルピィの姿だ。

「私は、あの傲岸なルピィ・ドファールのこと、もっと悲惨な扱いを受けるだろうと思っていたのです。それが、思いのほかオースター様を気づかわれる様子だったので驚きました」

「……そうなんだね」

「奥様に対してもそうです」

 オースターは顔をあげる。

「すこしの時間ですが、貴賓室で奥様とお話しをされたのです。奥様は気が荒らぶっておいででしたが、ルピィ様はあくまでも奥様をアラングリモ家の貴婦人として扱ってくださった。……会話が成立していたとは言いがたいのですが、奥様の様子から医者が必要と判断され、奥様をシティ・ハウスに戻したあとで、ドファール家付きの主治医を手配してくださいました」

 オースターは苦笑った。

「それはルピィ流のいやがらせかもしれないよ。ドファール家の家紋を掲げた医者に診られるなんて、母上にとっては屈辱以外のなにものでもないだろうから」

 ラジェは「そうですね」と言いつつ、どこか悔しげに眉根を寄せた。

「丁重な扱いでした。私のこともお責めにはならなかった」

 オースターはうなずきながらも、目もとが熱くなるのを自覚して、ラジェから顔をそむけた。

 自分はどう扱われてもかまわない。けれど、母が罪人扱いされるのはやはり辛かった。たとえ母を貶めたのが自分だとしても、それが母の自業自得であったとしてもだ。その母を貴婦人として扱ってくれた――ルピィにはどれだけ感謝してもしきれない。

「ありがたいね……」

「はい。さすがは、オースター様の想い人です」

「うん……」

 生返事で答えてから、オースターは首がもげる勢いでラジェを振りかえった。

「……はい!?」

「ずっと不思議だったのです。なぜ、うちのお坊ちゃまは、あのような厚顔無恥な男をいつまでも想っておいでなのかと。慕う要素がどこにあるのか、このラジェめ、まったくわかりませんで」

「ば……っ」

 そんな話をしている場合じゃないでしょーっと怒りかけたオースターの脳裏に、昨晩の口論が映像となって再生される。さーっと血の気が引いた。

「あ、あれ、僕、ルピィにとんでもないこと口走っちゃった気がする」

 君のことが大事だ、とか、なんとかかんとか。

「とんでもないこと?」

 ラジェの目に剣呑な光が宿る。オースターは慌てふためいた。

「大丈夫! 僕は男なんだから! いやっ、男じゃないけど、あれを言ったときはまだ男で……変な誤解を招く発言じゃなかったはず! ううん、そもそもそういう意味で言ったんじゃないし。幼馴染として大事って意味で言っただけで――」

「まさか愛の告白でもなさったのですか? 私の許可もなく!?」

「ちが……って、なんでラジェの許しがいるんだよ! いや、そもそもしてないから!」

 声をあげて否定すると、しかめ面をこしらえていたラジェが、ふっと笑った。

「それだけ声が出せるなら、もう大丈夫そうですね。食事の用意をしてきます」

 どうやら、からかわれたようだ。オースターは顔を赤くしたまま「性格悪い」とラジェをねめつけた。それと同時に、なんだかおかしくなる。ラジェとこんな会話をするのは、本当に久しぶりだった。


 お腹がすいていると思ったが、あたたかい麦粥もスープも思ったより口に入らなかった。それでも優しい味といっしょに、熱量が体のなかに流れこんできて、すこしだけ活力がわいた。

 薬を飲み、注射を打って、すこし眠って、お昼ごろにまた目を覚まして、ラジェと話をした。

 これまで黙っていたこともすべて――下水道での出来事や、〈喉笛の塔〉とホロロ族のこと、そして〈汚染〉の話もしてみた。

 話を聞き終えたラジェは、長々と絶句したあとで、

「私の目の届かないところで、なんと危険なことをなさっていたのですか!」

 滾々とお説教をされた。

 世界の秘密を知って、もっと驚くかと思ったが、ラジェにとって大事なのはアラングリモ公爵家であり、母であり、オースターであって、それ以外はどうでもいいことだったようだ。

 いずれにしてもオースターが死罪になるなら、ラジェも当然そうなるから、今さら世界の危機など気にならないのかもしれない。

「〈喉笛の塔〉はずっと黙ったままだね」

 朝目覚めてから四時間は経っている。

 以前なら二時間おきに聞こえていた「歌」は、すこしも聞こえてこない。

「これって、通電はしているの?」

 いまは昼で、部屋も陽光が差しこんで明るいから電気のことを気にかけていなかったが、もしかして停電をしているのではないだろうか。

 ラジェが部屋の隅にある室内灯のスイッチを確認にいく。パチリ、とスイッチを入れるが、天井の電灯は消えたままだ。

(電気の供給が絶たれている……)

 そのとき、廊下のほうから聞き慣れた音が近づいてきた。

 石床に杖をつく、硬質な音だ。

 寝台に横になっていたオースターは体を起こそうとする。だが、腕に力が入らず、うまく起きあがれない。すかさずラジェが上半身を抱きかかえ、助け起こしてくれる。背中のうしろに枕をいくつも重ねて置いてくれたので、そこに体を預けて座った。

 さすがに心臓が高鳴った。

 これから死刑が宣告されると思うと、やはり怖い。

「よろしいですね?」

 ラジェが肩に触れ、労わるように問いかけてくる。

 オースターは呼吸を整え、うなずいた。

「出迎えに行ってまいります」

 神妙に言って、ラジェが扉の前まで向かう。

 ノック音。応答すると、外から鍵をはずす音がし、扉が開かれた。

 入ってきたのは、案の定、ルピィだった。

 衛兵も一緒かと思ったが、ルピィの背後にいたのはひとりだけ――暗い面持ちをしたコルティスだった。

「ライエニー嬢。よくお休みになられましたか?」

 ルピィが皮肉げに言う。

 オースターは苦笑し、殊勝にうなずいた。

「はい。おかげさまで。殿下」

 ルピィは投げやりに息を吐き、居丈高に顎を反らした。

「死刑の宣告を期待しているならまだだぞ、オースター。〈喉笛の塔〉のことで話がある」

 オースター。身に馴染んだ名で呼ばれて、オースターはまじまじとルピィを見つめかえした。

「トマになにかあったの?」

「トマのことしか頭にないのか、お前は」

「でも……ほかになにが――」

「歩けるか?」

 どこへ。外に行くのだろうか。わからないが、なにかあったのだ。オースターはとっさに毛布をひっぺがして立ちあがろうとする。

「無理です」

 きっぱりと拒否したのはラジェである。ルピィをまっすぐに見据え、次いでオースターをじろりとにらむ。無茶を咎められたようで、オースターはいそいそと毛布を体の上に戻した。

「だろうな。――おい、そこの学者馬鹿」

 ルピィは背後のコルティスを振りかえった。

「ぼーっと突っ立っているな。ライエニー嬢が車椅子をご所望だ。運び入れろ」

「……ぼくは別に……」

 コルティスはむっと唇を尖らせながらも、渋々と廊下に出ていった。いったいふたりの間にどんなやり取りがあったのだろう。オースターが困惑しているうちに、コルティスが車椅子を押して戻ってくる。

「おまえに見てもらいたいものがある。なにかわかることがあれば、教えろ」

「……どういうこと?」

 オースターは寝台のそばまで車椅子を運んできたコルティスとルピィとを見比べる。

 ルピィは顔をしかめ、答えた。

 

「〈喉笛の塔〉が変異した」

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