表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喉笛の塔はダミ声で歌う  作者: 翁まひろ
第四章 〈喉笛の塔〉監視所
38/70

第三十七話 科学者の哄笑

〈喉笛の塔〉が〈汚染〉に浸食された――?


 オースターは浅く呼吸をしながら、蠢く黒い手を凝視する。

 いつ。どこから侵入したのか。いつの間に〈北の防衛柵〉を突破し、首都にまで進行したのか。

 機甲師団はなにをしていた。〈汚染〉の侵入を見すごした? まさか、ありえない。第一、ついさっきまでオースターは地上にいたのだ。〈汚染〉の気配など微塵も感じなかった。〈汚染〉が接近していれば、いくらなんでも気づく。


(でも、今日は濃霧が視界を邪魔していた……)


 わなわなと震えだす手を、固く握りしめる。

 大丈夫、首都は守られている。〈汚染〉がふたたび拡大をはじめたなら、もっとはやくに〈北の防衛柵〉から報告があったはずだ。オースターが地下に入ってから経った時間は、せいぜい一時間。その程度の時間で、地上の状況が劇的に変わるなんてありえない。

 ――けれど、少し前の新聞記事にはこう書かれていたじゃないか。『〈汚染〉の進行が再加速か』と。

〈汚染〉の正体はいまだに謎なのだ。「状況が劇的に変わるなんてありえない」なんて誰も保証できない。突如として〈汚染〉が雪崩のごとき速度を得て、首都に襲いかかってきたとしても、なんら不思議ではないのだ。

 そう、もしかしたら今まさに、地上は〈汚染〉に呑まれている最中かもしれない。

 地下にいる自分たちにはわからない。地上が今、どうなっているかなんて。


 背筋に冷たいものが走った。

〈汚染〉は、この十年間、常にそばにあった脅威だった。

 けれどオースターは、このときはじめて〈汚染〉の存在に慣れきってしまっていた自分に気がついた。


 苦悶のダミ声が聞こえた。

 ラクトじいじが腕を押さえ、鉄橋に頭をこすりつけている。

 さっき黒い手につかまれた腕が、ずぶずぶと音をたてながら黒く爛れていくのがわかった。

「どうして……なぜ、ここに〈汚染〉が」

 かたわらに膝をついた長老がうめく。

「ようやく逃げおおせたのに。みなの亡骸を置き去りにしてまで、やっと南の楽園に……」

 そうつぶやいて、長老は気の抜けた様子で肩を落とした。

 ラクトじいじは苦痛にあえぎながら、バクレイユ博士に顔を向けた。額には血管が浮きでて、そこを脂汗が伝い落ちていく。

「この塔はもうだめじゃ。逃げてくだされ、バクレイユ。あなたさえいれば、〈喉笛の塔〉はまた再建できる。……アジル、すぐに町に戻って、みなを安全な場所に逃がすのじゃ。塔の〈喉笛〉を失っても、みながいれば、また新しく生みだせる」

 甲高い哄笑があがった。

 博士は爛々と輝く眼で、鉄柵の向こうの黒い手を見つめた。

「逃げるだって? 馬鹿なことを。ああラクト、我が友よ、我らはついに見いだしたのだぞ。ここを真の楽園とする術を!」

 この状況下で笑える博士が信じられず、オースターは声を震わせ言った。

「博士、〈汚染〉が侵入してきたんですよ、わかっているんですか!?」

「侵入ではない。この〈汚染〉は〈喉笛の塔〉の底で生じたのだ」

「塔の底で生じた? いったい、なにを言っているんですか!」

「まったくだ! 私とて信じられん。まさか本当にこんなことがありえるとは」

 前髪をくしゃくしゃに指でつぶして、博士はオースターを振りかえった。

「わからんかね、アモンとフラジアを壊滅させた〈汚染〉の正体を、我々はついにこの目で見きわめたのだ! まさか、あの最後の電信に書かれていたことが事実であったとは……」

「電信? 〈汚染〉の正体って、いったい……」

 博士は手に掴んでいた手帳のページに挟んであった紙切れを、乱暴にオースターの胸に押しつけた。とっさに受けとるが、博士はその紙がなんなのか説明もせず、ふたたび計器にかじりついた。

 目は異様に血走り、鼻血で汚れた口元はこらえがたい笑みで引きつっていた。

 まともじゃない。オースターは博士の腕をつかんだ。

「博士、ここは危険です、いったん退避しましょう。ラクトさんの手当てもしないと」

 バクレイユ博士は手を振り払い、なおも計器が示す数値を凝視する。

 ふいに、その顔がゆがんだ。

 喜びが困惑に、そして憤怒へ。ぎりっと歯を噛みしめ、吐き捨てる。

「……危険など、なにもない。見よ、この黒い靄どもが放つエネルギー量を! みみっちいほどに微弱だ。この程度のエネルギーではなんの役にも立たん。大公宮の昇降機を動かすのもやっとだ」

 バクレイユ博士は機械を蹴りとばし、黒い手の群れに向かって叫んだ。

「どうした、〈喉笛〉ども! さっきの威勢はどこへいった、あの驚異的なエネルギーはどこへ消えたのだ! もう一度だ。歌え、叫べ、役立たずが!」

 ぐらぐらと煮えたつように、塔の底の闇が波打つ。次々と黒い手が生じ、触手のような腕を伸ばして、鉄橋の柵につかみかかる。

 だが、興奮に身を乗りだしたバクレイユ博士の表情はすぐに曇った。鉄柵をつかんでいた黒い手の群れが、力をなくしたように塔の底の闇へと引きかえしはじめたのだ。階段を這っていた黒い手も、疲弊したように段差を滑り落ち、するすると闇のなかへと戻っていく。

 博士は呆然と鉄柵の向こうに手を伸ばした。

「なぜだ。いったいどうして、こんなにも弱々しく……。ああ、せっかくの〈汚染〉が、これではなんの役にも立たんではないか!」

 役に立つ。その一言に、オースターは凍りついた。


(まさかこのひとは、〈汚染〉を発電に利用する気なのか)


 バクレイユ博士は計器をこつこつと指で叩きながらひとりごちる。

「いいや、落ちつけ。なにか秘密があるはずだ。さっき感じたエネルギー、あれをもう一度、再現できれば……」

 博士ははっと目を剥き、手帳を忙しくめくった。

「そうだ、いまこそ〈天然物〉の出番ではないか……!」

 博士は跳びあがり、さも愉快そうに両足でステップを踏んだ。

 オースターは愕然としたまま、手にしたままの紙切れに視線を落とした。


〈フラジア北方戦略戦線研究所〉。

 最初に目にとびこんできたのは、その名称だった。

 西の科学大国フラジアから受信した電信のようだった。

 印紙はずいぶん黄ばんでいる。それもそのはず、受信日はおよそ十年前の日付になっていた。

 一瞬で、オースターの意識は電信に釘付けになった。

 頭のおかしい科学者も、けがを負ったラクトじいじも、塔の底からわきあがる黒い手のことも、なにもかもが頭から消し飛んだ。

 電信は、フラジアにある〈北方戦略戦線研究所〉内で、「正体不明の黒いエネルギー体」が生じたことを伝えていた。

 発信者は研究員のひとりで、莫大な力を秘めたエネルギー体の発生を喜び驚くと同時に、その力が非常に不安定であることを危惧していた。

 いまは制御できており、所員の多くも絶対の自信を持って研究に臨んでいるが、発信者はエネルギー体を「手綱のない猛獣」と称し、いずれ制御不能に陥るのではないかと案じて、バクレイユ博士に知恵と助力を求めていた。


 また、彼は推論もしていた。

 施設内部にとつぜん生じた、謎の黒いエネルギー体――その正体を。


 オースターは我知らずあえいだ。

 呼吸が荒くなり、電信を打ちだした用紙を持つ手が震える。

「ラクト。208番を連れてくるのだ」

 はっと顔をあげる。バクレイユ博士がラクトじいじに命じていた。

 ラクトじいじは焦点のさだまらない様子で、不安げに顔をあげる。

「……この期におよんで、トマになにをさせるおつもりか……」

「歌わせる。それで不十分とあれば、痛苦を与え、悲鳴をあげさせる」

「どうしてわかってくださらぬ。トマの魔力は制御できるものではないのじゃ」

「私なら制御できる」

「制御できぬのです、バクレイユ。何度も言わせないでくだされ」

 バクレイユ博士の眉が不快そうに寄った。

「まさか私を信じられぬと言うのか、ラクト」

「あなたの力を疑ったことはありません。ただ〈天然物〉の魔力を侮ってはいけない。あれは、手懐けられない……あなたの小鳥にはならぬのです」

 息も絶え絶えに訴えるラクトじいじ。だが。

「そうか、私を信じられぬのだな。ホロロ族の長よ」

 ラクトじいじを見下ろす博士の目には、「友」であるはずのラクトじいじの怪我を案じる気持ちもなければ、あってしかるべき友情も信頼も存在しなかった。

 あるのはただ、己の足を引っぱる邪魔者を見つめる、冷徹な双眸だけ。

 バクレイユ博士はへたりこんでいる長老に顔を向けた。

「3番。208番を連れてこい」

 ラクトじいじの顔が悲しげにゆがんだ。潤んだ目を伏せ、力なくかぶりを振る。

「いけない、連れてきてはだめじゃ、アジル」

「3番、ほかの〈天然物〉たちもだ。いるだけ連れてくるのだ」

 呆然と膝をついていた長老は、真逆の命令を下すラクトじいじとバクレイユ博士とを見比べた。

 博士は自信にあふれた笑みを、長老に向けた。

「よいかね、〈天然物〉たちをここに連れてくれば、すべてがうまくいくのだぞ」

「……すべてが、うまくいく……?」

「ああ。ようやく、おまえたちが望みつづけた楽園を、この地に築いてやれる。これまでの名ばかりの楽園とは違うぞ、本物の楽園だ。十年以上も待たせてしまったが、許してくれ、友よ」

「本物の、楽園、を……」

「その方の言葉を聞いてはいけない、アジル」

 止めようとするラクトじいじを無視し、バクレイユ博士は長老の肩をそっとつかんだ。

「そうだ、楽園だ。だがそれには〈天然物〉の力が必要なのだ。わかるかね、〈天然物〉だけでよいのだ。気が乗らんというなら、208番だけでもいい」

「208番……トマを――」

「そう、おまえたちが持てあましてきた”トマ”だ。そうすれば、もう哀れな雛たちの喉を裂き、〈喉笛〉をとりあげる必要もなくなる。3番、おまえが塔の底で、〈喉笛〉たちの悲鳴に心を痛めながら歌う必要もなくなる。おまえたちは自由を手に入れるのだ」

「自由……」

 長老がふらりと立ちあがる。その瞳に、やわらかな憧憬が宿る。

「誰にも傷つけられず、誰かに利用されることもなく、ただ己の心のおもむくままに歌える。快適な生活の場を地上にもうけてやろう。満足のいく食事も、そうしたいと願う者には仕事も与えよう。大公には文句を言わせない。あの木偶は私に逆らえない。……どうした? 喜べ、おまえたちはまもなく本物の楽園を手に入れるのだぞ」

 バクレイユ博士の表情には自信がみなぎり、甲高い声にはすんなり人を信じさせるだけの力強さと、なによりも魅力があった。

 この自信が、バクレイユ博士をこの国の頂点に据えているのだ。

 なんの根拠もなく人を信奉させ、強引に従わせるだけの、圧倒的な自信こそが。


「さあ、連れてくるのだ。今すぐに!」


 博士が叫んだ瞬間だった。弾かれたように長老が走りだした。鉄橋を渡って、奥の赤い扉をしがみつくように開け、外へ飛びだす。

 オースターは息をのんだ。ラクトじいじが切羽つまった眼差しを、オースターに向ける。

 その一瞬の、意思疎通。

「……っ」

 オースターはきびすを返し、長老とは逆側の赤い扉に向かって走りだした。

 扉を開け、通路に出る直前、バクレイユ博士を振りかえる。

 博士はオースターを警戒した様子もなく、ついに意識を手放したラクトじいじを支えることもせず、ただうっとりと、塔の底で心もとなく揺れる黒い手の群れを見つめていた。




 来た道を戻り、産業廃棄物置き場の通路を抜け、立坑の鉄梯子をのぼる。おりるときにはさほど感じなかった体力の衰えが、急激に腕の重さ、足のだるさとして襲いかかってきた。じれったいほど遠くに感じる頭上の四角い穴は、いまだ真っ白な霧に呑まれている。

「オースター!」

 息も絶え絶えに梯子をのぼりつづけるオースターの腕を、誰かが頭上から引っぱりあげた。コルティスだ。

「よかった、無事に戻ってきて。あんまり戻るのが遅いから、もうどうしようかと」

 オースターは肩で息をしながら、周囲に目をこらす。

 濃霧が霧雨のように冷たく体に絡みついてくる。見える範囲ではあるが、立坑のまわりには青い芝生が広がるばかりで、〈汚染〉は見られない。

「さっき、〈喉笛の塔〉がものすごく気持ちの悪い声で歌いだしたんだ。下で聞いてた? ……オースター」

 コルティスはオースターをひと目見るなり、顔をこわばらせた。

「君、血が」

 オースターはコルティスの二の腕を、疲労と動揺に震える手でつかんだ。

「コルティス。〈喉笛の塔〉の底に〈汚染〉が生じた」

「……えっ?」

 オースターは早口で今見たことをまくしたてた。

 見る間に青ざめていくコルティスの両肩をつかんで、オースターは言う。

「知らせにいって。博士は〈汚染〉を利用して、恐ろしいことを始めようとしている。止めなくちゃ」

「でも、誰に知らせたらいい? 元老院に知らせをやる権限、僕にはないよ。学長? それとも父に? 伝える相手をまちがえたら、大変なことになる」

 オースターはフラジアからの電信を、コルティスの手に握らせた。

「ルピィに伝えて」

 コルティスが驚いた顔をした。

「彼ならなにをすべきか的確に判断できる。職場学習体験先も〈北の防衛柵〉だし、機甲師団や〈汚染〉の現状にも詳しい。必要となれば、元老院にも知らせることができる。ルピィの父君は、元老院の一員だ」

「わかった。それで、オースターは……?」

 ラクトじいじのまなざしが脳裏をよぎる。

 たとえ、ラクトじいじが自分を促さなくても、オースターのやるべきことは決まっていた。


「下水道に行く」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=237334622&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ