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喉笛の塔はダミ声で歌う  作者: 翁まひろ
第四章 〈喉笛の塔〉監視所
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第二十九話 母の人形

「奥様のご命令です。もう学園にも知らせてあります。すぐに別の職場体験学習先をみつくろってください」

 ラジェは自嘲するように言う。

「悔いております。もっと早くにこうすべきだった。ですが、オースター様もいけない。どうしてこれがルピィ・ドファールの策略だと話さなかったのです。それがどれほど危険なことか、おわかりにならなかったのですか」

 ルピィ? オースターは呆け、笑いだしそうになった。

 事の始まりがルピィの嫌がらせであることを、言われるまですっかり忘れていた。

 地下で起きた出来事を思えば、ルピィの嫌がらせなど、ほんのささやかないたずらにすぎなかった。

「なにがおかしいのですか」

 オースターは口もとから笑みを消し、首を横に振る。

「ルピィが仕向けたことだという証拠はなかったんだ。それに、ラジェに話せば母上にも報告がいく。ご心配をかけたくなかったし、母親に泣きつくような女々しい真似するわけにはいかなかった。――だいたい危険ってなに。事故のことを言っているの。あれはただの偶発的な事故だよ」

「衛生局の局長は、ドファール家と懇意の関係にあるそうですね」

 その局長は、いまやアラングリモ家におもねっているよ。

 そう言いかけて、ばかばかしくてやめる。

「オースター様を下水道に送りこんだ理由が、ただの嫌がらせとは思えません。仮にオースター様が下水道の暗がりで何者かに殺められたとしても、簡単に事故として片づけられるのですよ」

「なにそれ。ルピィが僕の暗殺をたくらんでいるとでも言いたいの?」

 ラジェは答えない。オースターはため息をつく。

「ルピィは確かにいやな奴だよ。僕のことも嫌っている。けれど彼もまたドファール家の家名を背負っているんだ。暗殺なんて卑怯な真似はしない」

「なら、従者はどうです」

 脳裏に、図書室で自分をにらみつけた従者の顔がよぎった。

「私なら主家の存続のためなら、どんな手だって使います。主君であるあなたに卑怯と罵られようともです。――奥様はたいそうお怒りです。公爵家にふさわしからぬ学習先を選んだオースター様の浅慮にも、奥様へのご報告を控えた私に対しても」

 ラジェは言った。

「下水道の鍵はもう衛生局に返却しました。ご承知ください」

「そんな……勝手に――」

「何者かが、オースター様の学寮のお部屋に侵入しようとしています」

 オースターは目を見張る。

 ラジェは疲れきった様子で眉間を揉んだ。

「最初は半月前。以降は三度、侵入を試みた形跡が。これまでのところ、未然に阻止できていますが、私とて四六時中、目を光らせていることはできません」

 アキとロフだ。彼らは本当に実行に移していたのだ。

「そんな話、いまはじめて聞いた」

「珍しいことではありませんので。弱みをさぐり、公爵家を意のままに操ろうとする者は大勢います。生徒のなかにも、教師のなかにすらも。……ただ、これまでとは違い、手練れの気配を感じます。下水道とは無関係と思い、お伝えせずにきましたが――関係があったようですね」

 オースターの動揺に目ざとく気づいて、ラジェは長く息を吐きだした。

「私の手落ちです。下水道とドファール家の関係にもっとはやく気づくべきでした」

「……ラジェのせいじゃない」

「オースター様は『下水道掃除夫は自分で選んだ職場だ』とそうおっしゃった。もちろん、私だけのせいではないでしょうね」

 オースターは返す言葉もなくうなだれる。

「掃除夫に怪我を手当てされましたね? 服ははだけられましたか。あなたが女であることが知られた可能性はありますか」

 知られている。ラクト、少なくとも、あの老人には。

「手当てをした人間を教えてください。手を回します」

「手を回すって……」

「口を封じます」

 オースターは愕然とした。ラジェはなにくわぬ顔で言う。

「掃除夫のひとりやふたり消えたところで、困る人間はいないでしょう。ですが、あなたを失うわけにはいきません」

「アラングリモ家の存続のために?」

「答える必要はございますか?」

「……ラジェ、教えてほしい。これまでに君が”手を回した”人間は何人いるの?」

 答えないラジェの顔を、オースターは悲痛な思いで見つめた。

 母はオースターを男にするために多くの者を頼った。心の片隅で疑問に思ってきた。その者たちから秘密が漏れたらどうするつもりなのだろう、と。だがそもそも、彼らは今も生きているのだろうか?

「母上にお会いしたい」

「奥様はお加減が悪く、伏せっておられます。ご承知のはず」

 ラジェは言って、枕元に黒檀でできた小さな箱を置いた。

「これを預かっております」

 オースターは顔をひきつらせた。

 箱の中身は、いやというほどわかっていた。

「調合の割合を変えたそうです。これまでの薬よりも副作用が軽く、逆に得られる効果は大きいだろうとのことでした」


 ああ――。

 オースターは目をそむけたくなるのを必死にこらえた。

 もう、見ないふりはできない。気づかないふりはできない。

 どれだけつらくても、現実を直視しなくては。

 世界はすっかり変わってしまった。なのに、自分だけが変わらぬままでいるなんて許されない。


「僕はその薬の副作用で死にかけたんでしょう? 運よく死はまぬがれたけど、後遺症は残った。なのに母上は、薬をつづけろとお命じになる。無事でよかったと労わりの言葉を向けるよりも先に。母上にとって、僕はその程度の存在なんだね。男になれない僕にはなんの価値もないから……女の体のままで生きながらえるぐらいなら、いっそ死んでくれてかまわないと、そう思っていらっしゃるんだね」


 母の頭にあるのは執念だけ。アラングリモ家を自分の代で絶やしたくないという、貴族としての矜持。「アラングリモ家を廃絶させた女」という汚名をかぶりたくないがための意地。

 いいや、それ以上の妄執を母は抱いている。「皇太子の母」となり、いずれは「大公の母」となって、これ以上ない名誉をその身に受けたいのだ。子を生めぬ石女うまずめめと蔑んできたアラングリモ家の親類縁者を、亡き夫を、見かえしてやるために。

 オースターはそのための道具にすぎない。

 そして、母は道具に愛情を注ぐようなひとではなかった。


(母が、僕を認めてくださることはない)


 たとえ男になれたとしても、母が認めるのは「オースター」という男の形をした器だけ。

 器の中身――彼女オースター自身の価値を認めることは、けっしてない。

 気づいていた。気づいていたのに、気づいていないふりをしてきた。ルピィを裏切ってなお、オースターは母の関心を欲した。

 弟という役を見事に演じきってみせた「私」の価値を、母上はきっといつか認めてくださる……そうやって自分をだまし、事実から目をそむけつづけてきた。

 事実を受け入れるには勇気が必要で、その勇気を臆病な自分は持っていなかったから。

 けれど、もう十分だ。


「そんなことはありません。奥様は……調合を見直してくださった。オースター様のお体を思いやってのことです」

「母上は一度でも死にかけの僕を見舞ってくださった?」

 ラジェはわずかにためらってから、「もちろんです」と言った。

 オースターは顔をゆがめた。今にも泣きだしてしまいそうだった。唇を噛んで、かろうじてこらえる。

「嘘はつかなくていい、ラジェ。母上は一度も来ていないのでしょう? 意識のない僕の手を握ってくださることもなく、ただ意識が戻ったという報告を聞いて、君に薬を手渡しただけ。……もういいんだ。僕はただ、事実を確認したかっただけだから。今まで受け入れることができなかったことを、受け入れようとしているだけ。それだけだから」

 言葉に詰まるラジェから視線をそらしたオースターは、枕もとのランプシェイドの下に、トマがくれた飾り紐が置かれていることに気づいた。

「薬はそこに置いておいて。職場体験学習の件もわかった。すこし休みたいから、一時間後にまた来てくれ。……それから、今回のことでは誰の口も封じる必要はないよ。僕が女である可能性に気づいたひとはいないから」

 ラジェはしばらく立ち尽くしていた。

 彼のほうがよほど心細げで、傷ついた瞳をしていた。雨天に捨てられた子犬のように。




 テラスから小さな庭に出る。

 庭師を雇っていないため、最低限にしか手入れが行き届いていない庭には、枯れた葉がつもっていた。裸足のままテラスをおりると、乾いた感触が足裏をくすぐる。

 肩掛けを一枚はおっただけでは寒い。眠っているあいだに、季節はすっかり秋を深めていた。取り残されたような心もとなさを覚えながら、庭の先に立って、高台からの眺めを見下ろす。

 オースターは手に握ったままの飾り紐に視線を落とした。

 多少、汚れてしまっているが、緑系統の糸を複雑に編みこんだ紐はなお美しく、繊細な色で彩られていた。

 そっと手首に巻く。触れた場所から、暖かく優しい風が体内に流れこんできた。こらえていた涙があふれ、オースターは声を殺して泣いた。


(トマの新しい〈喉笛〉は、きっともう摘出されてしまったろう)


 ごめん、と口のなかで繰りかえす。ごめん。助けてあげられなくてごめん。傷つけてしまって、ごめん。

 頼ってくれて、うれしかった。体のなかにある空洞が、力でみなぎるようだった。貴族嫌いのトマが「あんたなら信じられる」と言ってくれた。

 うれしかったのだ、たまらなく。

 トマの言うとおり、自分の空っぽを満たすためにトマを助けようとしたのは事実だ。身勝手だったのも言いわけのしようがない。

 けれど、トマを助けたいという気持ちは本物だった。

 不器用な優しさを向けてくれたトマに報いたかった。

 力になりたかった。

 そして、その気持ちは今なおオースターの心のなかにある。

 トマに拒絶されたあとでも。いいや、拒絶されたからこそ余計に。

 トマを闇の底に置き去りにしたりはしない。


(考えなくちゃ。僕はどうすべきなのか。なにができるのか)


 目尻に残った滴をぬぐい、街を見下ろす。

 トマは〈喉笛の塔〉にある〈喉笛〉を返してくれと言った。それがトマの望みだ。

 だが、トマ自身が言っていたとおり、トマの〈喉笛〉が、塔全体がつくりだす電力量のうちの大きな割合を占めているというなら、トマの望みをかなえることはすなわち、ランファルド市民に大きな負担を強いるということになる。

 それにもしトマに〈喉笛〉を返すことができたとしても、それはトマにとって本当に幸いなのだろうか。

 ラクトじいじは言った。勝手をしたトマは、ホロロ族という集団のなかにはいられなくなるだろう、と。トマはそれでもいいと言うだろう。けれど、ホロロ族からつまはじきにされたトマは、どこに行くのだろう。地上にトマの居場所はない。かといって、ランファルドの外は〈汚染〉されている。

 トマ以外のホロロ族もどうなる。あの偽りの楽園で、不満などないと嘘をつきながら生きていく……それで本当にいいのだろうか。

(そもそもこれは、トマやホロロ族だけの問題なんだろうか)

 このままいけば、いずれ〈喉笛〉は足りなくなる。それで困るのは、ランファルド人のほうなのではないか。

(ランファルドの民は、なにも知らぬままでいいのか)

 二十六人の民が死んだ。

 その二十六人は、トマの悲鳴ひとつで開いた穴に落ち、死んだのだ。

 今後、また同じことが起きないとはかぎらない。次に悲鳴をあげるのは、ルゥか、マシカか、アキとロフか、あるいはラクトじいじか。〈喉笛の塔〉の共鳴による破壊は、どこで起き、何人の命を奪うだろうか。

 ランファルドの繁栄は、そうした危ういもののうえに築かれている。

(二十六人が死んだのは、トマのせいだろうか)

 ふと思う。だが、オースターは即座に否定する。いいや、ちがう。そもそもトマが悲鳴をあげたのは誰のせいだ。こらえようとしてもこらえきれずに、ついに声を発してしまったのは、いったい誰のせいなのだ。


『あんただよ』


 トマの声が耳によみがえる。


『あんただろう? おれたちを必要とし、おれたちがいなくちゃ生きていけない、ランファルド人のあんたたちが、おれたちに首輪をつけ、地下に閉じこめ、使い勝手のいい家畜にしたんだ』


 オースターは飾り紐を握りしめ、拳を額に押しあてた。自分の思いの所在を探すように、目を閉じて、必死に頭をめぐらせる。

 ふと、顔をあげる。振りかえると、ラジェがテラスに立っていた。

 まだ一時間は経っていないはずだが、ラジェの悲壮感たっぷりの顔を見ると、オースターの様子が気になって、いてもたってもいられなかったのだろう。

 オースターは飾り紐を手首に巻き、言った。

「〈喉笛の塔〉監視所のバクレイユ氏に書状をしたためてくれ。職場体験学習の件でご相談がある、と」

 ラジェは物憂げに目を細め、消え入りそうな声で「すぐに手配します」と言った。



 

 部屋に戻ってから、もう一度、枕もとの新聞を確認する。

 オースターは眉を寄せた。

 それは、ほんの小さな記事だった。

 だが、ざらりとした不安を感じさせるものだった。



『〈汚染〉の進行が再加速か。〈北の防衛柵〉における機甲師団の増員を決定』。

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