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喉笛の塔はダミ声で歌う  作者: 翁まひろ
第二章 ふたつの公爵家
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第十五話 大公宮の舞踏会

「あ、電気ついた。なんだろう、強風のせいかな?」

 読書灯がふたたび明かりを灯し、ざわめきは安堵の吐息に変わる。

「職場体験学習が休止になっていなかったらなあ。復旧のプロセスを見せてもらえたかもしれないのに」

 コルティスが悔しげにオースターを振りかえり、ふと顔を曇らせる。

「オースター、大丈夫?」

 オースターは小さくうなずく。

「悲しいよね。友達にあんな風に言われるなんてさ」

「……ルピィは友達じゃない。少なくとも、彼はそう思っていない」

 コルティスは「そっか」と思いやりに満ちた声で答え、オースターの背中をさすった。

「最近、顔色がよくないよ。このあいだは一週間も休学してたし、今日は自習もやめて部屋にいたら? うまいこと言っておくからさ」

 オースターはうなずき、「ありがとう、コルティス」と無理やり笑顔をつくった。



 いよいよ強まった雨を避けながら、オースターは足早に学寮に戻る。拳を握りしめ、体の震えを必死になってこらえながら。

 卑怯者――。

 前にも言われた。

 春の乗馬大会で、あの従者に。


 あの日、オースターは後ろを振りかえらず、ひたすら馬と呼吸を合わせて疾駆した。一位でゴールしてからようやく観客のどよめきに気づいた。振りかえると、いくつか手前の障害物のそばに、人だかりができているのが見えた。

 急いで駆けつけたら、ルピィが地面に転げて右足を押さえてうめいていた。

 とっさに手を伸ばした。そのとき、横合いからその手を払いのけたのがルピィの従者だった。


「ルピィ様に触るな、卑怯者……!」


 従者が公爵家の嫡子を卑怯者呼ばわりするという異常な事態に、空気が張りつめた。居合わせたシェール侯爵家の従者がとりなしたが、駆けつけたラジェと一触即発になりかけたのは、生々しい記憶となって残っている。

(卑怯者ってなんだよ)

 自分は正々堂々戦った。その結果、片方は落馬し、片方は優勝した。

 それだけのことだったはずだ。

(僕を下水道に送りこんだルピィのほうがよほど卑怯者じゃないか)

 卑怯者のルピィ・ドファール! それでもオースターは、ルピィの嫌がらせに応じて下水道に行った。小細工に屈することなく、立派に働き、大公殿下も認める優良なレポートを書くことで、彼の鼻を明かしてやるつもりだった。

(けれど、そうやってルピィを見返して、僕はその先になにを期待していたのだろう)

 たとえいがみあう形であっても、そうして競いあっていれば、いつかルピィに認めてもらえるとでも思っていたのだろうか。

 ルピィの言葉が胸を刺す。

 これまでだって、ひどい言葉を投げつけられてきた。悲しくはあったけれど、今のようなむなしさを感じたことはなかった。だって、少なくとも相手にはされていたのだから。

 もう、興味はない――。

 オースターはルピィの言葉を思いかえし、ぐっと唇を噛みしめた。

 


 帰りついた学寮は静まりかえっていた。職場体験学習が休止になった二学年はともかく、ほかの学年は校舎で真面目に勉学に励んでいる時間帯なのだ。

 東棟の最上階にある自室に戻ると、ラジェがスツールに腰かけ、ぼんやりと床を見つめていた。いつも几帳面になでつけた頭髪が、少し乱れている。

 オースターに気づくと、ラジェは驚いて立ち上がった。ほつれた前髪をあわてて手ぐしで整える。

「授業はどうしたのですか、オースター様」

「ラジェ。舞踏会で僕が踊るご令嬢の件だけど、その方のお名前は」

「は……」

「まさか、ルピィの元婚約者ではないでしょう?」

 ラジェは首をかしげ、「ああ」と相好を崩した。

「私としたことが、お伝えするのを失念しておりましたか。フィーリ・アイラダ嬢です。春の乗馬大会でオースター様の勇姿をごらんになったとか」

 オースターは安堵し、目を伏せる。

「ならいいんだ」

「なにが『いい』のです?」

「もしルピィの元婚約者だったら、彼に対してあまりにひどいと思っただけだよ」

「ひどい? 我々がルピィ・ドファールに真摯である必要などないのでは」

 重たい疲労感がどっと押しよせてきた。オースターはラジェに背を向ける。

「すこし疲れたから寝るよ。一時間したら起こして。教室に戻る」

 ラジェは寝室に入ろうとするオースターを呼び止めた。

「オースター様。お困りのことがあったら、なんでもお話しくださいね。このラジェは、あなたの忠実なるしもべなのですから」

 オースターはラジェの陰気な顔を見つめた。

 彼は本心からそう思っているだろうか。

 昨日からラジェとうまく話せていない。ラジェとの間に深い溝ができてしまったようだった。

「わかっている」


 寝室に入り、制服姿のままベッドに寝ころがる。

(うじうじするな、オースター。トマや、ホロロ族のことや、レポートのことだけを考えるんだ)

 でも、と頭のなかで誰かが言う。立派なレポートを仕上げても、ルピィよりも優秀な成績を修めても、もうルピィが自分を認めてくれることは二度とない。なのにそれでもまだ、あの汚くて臭い下水道に足を運ぶのか、と。

 空っぽな心の闇に、白い花がちらつく。

 オースターは頭から毛布をかぶり、シーツを握りしめた。


 翌日も雨だった。朝届いた衛生局からの電報は、二日連続の職場体験学習休止を告げていた。昨日に比べると小雨で、斜行トラム線は運休することなく、下水道掃除以外の職場体験学習は通常通りに行われることになった。

 午後の自習もさしたる成果をあげぬまま、翌日、クラリーズ学園は週末休暇を迎える。

 舞踏会の日である。




 パリッと糊の効いたシャツの上に臙脂色のチョッキ、同色の裾の長い上着をまとい、深緑色のタイでシャツの襟を飾る。ラジェがわずかな埃をブラシで取りのぞき、全身をくまなくチェックする。

 オースターは姿見で身長を高く見せるための厚底ブーツの見栄えを確認し、「よし!」と拳を振りあげた。

「気合いを入れていくぞ、ラジェ!」

 ラジェは、主人のはねっかえりな癖毛を神経質に直しながら、顔をしかめた。

「やる気十分ですね。不気味なほどです」

「失礼な。大公家筋のご令嬢を踊りに誘うのだから、万が一にも失礼のないよう気を引き締めていかなくちゃ」

「けっこうな心がけです。雨がやんでよかったですね」

 ラジェは「よかった」など露とも思っていなさそうな顔つきで、窓の外に目をやった。

 曇り空だ。明け方にはまだ小雨が降っていたが、出発を前に、空は明るくなりつつあった。舞踏会が開かれる午後には、きっと雫がきらきらと輝く、美しい秋晴れとなっているだろう。



 大公宮――。

 かつて西の科学大国フラジアの皇帝より、未開拓地ランファルドの統治を任された初代大公が築いた開拓要塞。ランファルド市の中心にある断崖をくりぬいて築かれた多層式の宮殿だ。

 崖のふもとで馬車をおりたオースターは、大公宮の各階層に向かうための昇降機に乗った。

「それにしても、フィーリ・アイラダ嬢の写真を手に入れられなかっただなんて、君らしくないな。僕はどうやってご令嬢を見つければいいんだか」

 軋んだ金属音をたてて、崖の内部をのぼっていく昇降機。小さな箱のなかにはオースターとラジェだけだ。爵位を凍結されているとはいえ、アラングリモ家がほかの貴族と同乗させられることはない。

「舞踏会がはじまりましたら、カルデ伯爵夫人がご令嬢と引きあわせてくださいます。伯爵夫人に従ってください」

 ジプシールの母親だ。親戚関係にあたるカルデ伯爵家は、アラングリモ家の強力な支援者でもある。

 昇降機がベルを鳴らす。舞踏会の会場はまだ上だが、ラジェが従者控室のあるこの階層で下りるのだ。

「オースター様」

 扉が開く。ラジェが出しなに足を止めて、オースターを振りかえる。

「いえ……、本日の舞踏会が楽しい時間となりますよう」

 ラジェの暗い顔が扉の向こうに消え、昇降機はさらに上昇して、オースターはひとり上の階層へと向かう。

 階層表示の針が「9」を指した。

 扉が開いたとたん、まぶしい光が目を焼く。

 金輝石の敷きつめられた大広間は、南側の壁一面がガラス張りとなっており、雲の隙間から顔をのぞかせた太陽が、室内に鋭い日差しを投げかけていた。眼下に見えるのは、鉄鋼づくりの街並みと、豊かな緑、そして赤錆色の工場群だ。

「オースター様。ご立派になられましたな」

「乗馬大会を観覧した娘が、オースター様の勇姿に頬を染めておりましたよ」

 広間に集まった参列者が次々と声をかけてくる。学生の身分で出られる式典は限られており、アラングリモ家の次期当主とまみえる機会は少ない。貴重な機会にと挨拶にやってくる者に丁寧に応じながら、オースターは集まった面々を観察した。

 いつもながら、どの家よりも人を集めているのはドファール公爵家だ。広間の中央を陣どり、ドファールの当主――ルピィの父親が笑顔で歓談している。

 一方のルピィは父親からすこし距離を置いた場所で、別の貴族たちの相手をしていた。こちらも社交的な笑顔を浮かべており、いつもながらに如才ない。

 ドファール家のもとに集まった人の数は、オースターの、アラングリモ家のそれとは比較にならなかった。

 ランファルド大公国の双頭、ふたつの公爵家。

 過去、拮抗していたアラングリモ家とドファール家の力関係は、いまや「双頭」とは呼べぬほどにドファール家に傾いている。

(あ……局長だ)

 オースターの視線が、ドファール家の一団の奥に吸い寄せられた。

 人気のない壁ぎわに、衛生局局長フォルボス・マクロイがぽつんと立っている。

 フォルボスは、名門マクロイ家の血筋だ。立ち姿も凛として、目を惹く偉丈夫だが、今はひとりきりだった。というより、ほかの参列者があからさまに避けている風である。局長はほかの参列者に素通りされるたび、苦々しげに顔をゆがめ、手にした葡萄酒をあおっていた。

「マクロイも出席を遠慮すればいいものを」

「下水の匂いがご令嬢方に移っては失礼だ」

 近くにいた貴族がフォルボスの姿を見て、くっくっと笑いあう。

(ああ、そういうことか)

 オースターは内心で呆れながら、フォルボス局長のほうへと歩いていく。

「フォルボス局長。職場体験学習では、お世話になっています」

「これはこれは。お声かけいただけるとは光栄の極みです、オースター様」

 フォルボスと言葉を交わしたのは職場体験学習の初日以来だ。あいかわらず愛想のひとつもなく、いっそ慇懃無礼ともとれる態度である。

「降雨のせいで職場体験学習が休止となり、申し訳ないことです」

「いえ。掃除夫の安全が第一ですから」

「週明けには再開できるでしょう。せいぜいお励みください」

 フォルボスは赤くなった鼻をふんと鳴らした。どうも酔っているようだ、ややろれつが怪しい。

「地下の町は大丈夫ですか?」

「なんですって?」

「掃除夫たちが暮らしている町です。雨で水浸しなんていうことはありませんか」

 フォルボスはじっとオースターを見つめ、グラスの柄を指で回す。

「さあ。居住環境維持は当人たちに任せていますから」

「そうですか……」

「ところで、教育係の件では行き違いがあったようで失礼しました。下水道には電話のひとつも敷設されておらず、こうした手違いがよく起きるのです」

「いえ、こちらこそ。用意していただいた教育係を断ったりして、局長には失礼なことを」

「私ごときにお気遣いは不要です。好きになさればよろしい」

 フォルボスは吐き捨てるように言って、また葡萄酒に口をつける。

 沈黙がおりる。フォルボスは積極的に会話を楽しむつもりはないようだ。

 オースターは背後のドファール家に注意を向ける。ルピィは気づいていないようだが、当主のほうがこちらに意識を向けているのがわかった。ドファール家と懇意の関係にあるフォルボスが、アラングリモ家の嫡子となにを話しているのか気になるのだろうか。

「下水道掃除の奥深さには、日々、驚かされています。ランファルド市の地下に、あれほど立派な下水道がはりめぐらされていたとは、不勉強ながらはじめて知りました。素晴らしい設備ですね」

 フォルボスは眉を持ちあげた。近くを通った給仕を指で呼びつけ、新しい葡萄酒を用意させる。もうひとつ柑橘の飲み物を用意させ、手ずからオースターに差しだした。オースターはびっくりしつつ、礼を言って受けとる。

「あの老朽化著しい下水道が『素晴らしい設備』とは、とても思えませんね」

「たしかに老朽化が目立つ個所もありますが、日々、掃除夫たちが適切な修繕を行っているようですから」

「適切? 稚拙の間違いでは」

「僕の教育係をしてくれているトマという掃除夫は、たしかな技術を持っています。丁寧な仕事ぶりで、僕などは感心するばかりです」

「トマ?」

 フォルボスはすこし考え、眉をしかめた。

「ああ……208が教育係でしたね。懲罰労働の常習者だ」

 懲罰労働はアキとロフの嫌がらせのせいです。そう言いたくなったが、告げ口するような真似をして双子を変にあおっては、トマに迷惑がかかりそうだ。

「掃除夫を番号で呼んでいるのですね」

「名前を覚える気にはなれませんね」

「僕は数字が苦手で。番号のほうが覚えにくいです」

 フォルボスは答えず、ふいに鋭い眼光を左方に向けた。ひそひそと囁きあっていた男たちがあわてて顔をそむける。

 フォルボスは憎らしげに頬の肉を引きつらせた。

「……いったい誰が〈鼻つまみの三か月〉からランファルドを救ってやったと思っている。私の下水道がなければ、今なお市中は、汚物と悪臭、害虫でひしめいていたというのに……」

 ぶつぶつと垂れた文句はひとりごとのようだったが、オースターは「私の下水道」という言葉に感心した。フォルボスはどうやら下水道に対して、誇りと愛着を持っているようだ。

「フォルボス局長は〈鼻つまみの三か月〉を解決した功労者なのですね」

「無論。当時、下水道の拡張を命じ、設計・施工管理・指導を行ったのは私ですから」

「外からやってきた異民族に、的確な指導をされたわけですね」

 フォルボスがホロロ族をどう思っているのか、探りを入れてみる。フォルボスは気にした風もなく、グラスを回して赤い液体が揺れるさまを眺める。

「不本意ながら。あの大戦で、国内の優秀な下水道職員の多くを失ったものでね」

 そこでまた彼はいらだった様子でひとりごちた。

「……元老院が下水道の価値を認め、年間予算を増額してさえくれれば、あの狂った九官鳥の言いなりになどならず、有能な国産の技師を育成できるというのに」

「狂った九官鳥……ですか?」

「バクレイユ・アルバスですよ」

 嫌悪をあらわに、フォルボスが答えた。

「あの薄気味悪い科学者のせいで、芸術的建造物であった私の下水道は、ただの家畜小屋と化した。〈喉笛の塔〉の改築だと? 落雷でも受けて、根元から折れてしまえ」

 強い口調で毒づき、フォルボスはそばを通った給仕のトレイに空のグラスを叩き置くと、オースターに背を向けた。あっけにとられるうちに、その姿は参列者のなかにまぎれて見えなくなる。

(バクレイユ博士の言いなり?)

 途方に暮れていると、背後から肩を叩かれた。

「やあ、オースター。今日はなんだか背が高いみたいだね」

 コルティスだ。

 オースターは笑顔になって、両足を広げて靴を見せびらかした。

「かっこつけたい男子の必需品、シークレットブーツでございますよ」

 コルティスはくっくっと笑い、目線でオースターの注意を広間の隅にうながした。

「父を紹介するよ。さっき、ぼくも改めてホロロ族のことを聞いてみたんだけど、かなり興味深い話が聞けたよ」

 首をかしげると、コルティスはにやりと笑った。

「オースター。君、魔法って興味ある?」



 コルティスの父、グランス・モーテン男爵は、中流階級出身の民俗学者で、異文化研究の第一人者だ。

 長年の功績を認められて男爵位を得て、上流階級の仲間入りを果たしたが、息子と同様、ずいぶんくだけた人物だった。

「やあ、君がオースター君か。息子と仲良くしてくれてありがとう。このとおりの成り上がりですので、こいつがクラリーズ学園に入学したばかりのときは、誰にも相手にされずに毎日泣き寝入りしてるんじゃないかとハラハラしたもんです。それがある日、ぶ厚い手紙をくれましてねえ。アラングリモ家のご子息が友達になってくれた、ちょっとばかだけど大変ながんばり屋で、尊敬できる友人なんだ、とあなたのことばかり」

「……ちょっとばか……」

「父さん、余計なことはいいから! 殿下が来ちゃうよ」

 大公殿下がお出ましし、舞踏会の開会を宣言したら、各家のご令嬢方やご婦人方が登場するという流れだ。それまでは男だけの歓談の時間である。舞踏会のあとには晩餐会が待っているが、オースターやコルティスは寮の門限もあるので、晩餐会前には退室しなければならない。こうして話をできるのは大公殿下が現れるまでなのである。

「わかってるとも。ホロロ族の話でしたね」

 コルティスと同じくぶ厚い眼鏡をかけたモーテン男爵はにこりとした。

「あれは戦後まもなくのことです。〈北の防衛柵〉の第三駐屯地に滞在していた機甲師団から、私のもとに連絡が入りましてね。柵の向こう側――つまり〈汚染地帯〉から、奇妙な風体の人間たちが現れた。『自分たちはホロロ族だ』と言っているが、どう対応したらいいかわからない、話をしてみてくれないか、と」



 連絡を受けたモーテン男爵はすぐに馬車を手配し、〈北の防衛柵〉第三駐屯地まで駆けつけた。

 黒く爛れた〈汚染地帯〉から、一定の距離を置いて設けられた長大な柵。その中途にある木造の監視所にのぼって望遠鏡を覗くと、柵のあちら側、〈汚染地帯〉の中にぽつんと残された緑の草地に、たくさんの枯れ木が並んでいるのが見えた。

 望遠鏡の感度をあげ、よくよく目をこらして、ぞっとする。

 枯れ木に見えたのは、不気味なほど痩せた、浅黒い肌の人間たちだった。

 柵の近くまで寄ってきていた男が、モーテン男爵を見上げて、こう言った。

「私は、ラクト。ホロロ族です。うしろにいるのは、みな仲間です」

 機甲師団から武器を向けられながらも、それに気づかぬほど疲れきった様子で、男はそう言った。



「ホロロ族という民族について、残念ながら私はなにも知識を持っていなかった。機甲師団が警戒しきっているので、ひとまず私が柵の向こう側に行き、ラクト氏と話をすることにしました。すると……」

 ふとモーテン男爵は、眼鏡の奥の慈愛のこもった眼差しをオースターに向けた。

「オースター君のお父さんは戦争で亡くなられたのでしたね?」

「あ……はい」

「これを聞いて、あまりショックを受けないといいのですが……ホロロ族は、東の魔道大国アモンの民なのだそうです」

 オースターは目を見開く。

 東の魔道大国アモン。それは先の大戦における敵国の名だ。

 正確に言えば、ランファルド大公国と同盟関係にあった、西の科学大国フラジアの敵国である。先の大戦はフラジアとアモンの戦争であり、その同盟国同士による代理戦争であったのだ。

(父上を死に至らしめた国の民ということか)

 ショックと言えばショックだが、男爵が心配するほどでもなかった。父が亡くなったのは五歳のときだし、オースターにとって先の大戦は教科書のなかでの出来事にすぎなかった。ランファルドが戦地になることもなかったから、「魔道大国アモン」の名を聞いて、怒りを覚えるほどには戦争を知らなかった。


 ただ、腑に落ちた。

 ホロロ族は、敵国の人間なのだ。

 だから、非人間的な扱いを受けているのか――。


「じゃあ、ホロロ族はアモンから逃げてきたのですか?」

「や、科学大国フラジアから逃げてきたそうです。戦争捕虜として、フラジアの地方都市に囚われていたとか」

 脳裏にラクトじいじの好々爺然とした笑顔が浮かぶ。

 彼が敵国の人間であるという事実、戦争捕虜であったという事実が、あの優しい顔と結びつかない。

「彼らの話は、ランファルドが〈汚染〉によって孤立したのち、同盟国フラジアがどうなったのかを知る、いい手がかりになりましたよ。……ある日、ランファルドとは比較にならぬ規模の〈汚染〉が襲ってきたそうです。火山から噴きだした土石流のように、あるいは海から押しよせる大津波のように。それはすさまじい力で町を呑みこんでいったとか」

 ラクトをはじめとするホロロ族の捕虜たちは、その日べつの収容地に移るため、縄でつながれ、徒歩で高台を移動中だったという。

 とつぜん視界のふちに現れた黒い波は、あっという間に眼下の町を呑みこんだ。そこにあった建物や人、動物、街路樹、すべてを黒く染め、一瞬で腐敗させた。

 ホロロ族を引き連れていたフラジア人は、彼らを置いて逃げだした。それを見てホロロ族もまた、なおも拡大をつづける〈汚染〉を背に逃げだしたという。

「それからは〈汚染〉が到達していない地域を縫って、南へ、南へと移動したそうです。そして幾日、幾十日をかけてようやくたどりついたのが、ここ、ランファルド大公国であった、と」

 モーテン男爵は、分厚い眼鏡を手で押しあげる。

「まったく興味深い種族だった。肌は浅黒く、頬にはなにかを象徴しているとおぼしき刺青をしていました。男女ともに頭髪の長い者が多く……いや、これは長い逃走生活のせいもあるでしょうが、ともかく変わっているのは、みな三つ編みにしていたということです。女性だけではなく、男たちもみな」

 オースターはうなずく。それはコルティスからあらかじめ聞いていた話だった。オースターはトマ以外の男性が三つ編みをしている姿を見ていないが、きっとまだ会っていない掃除夫のなかにいるのだろう。

「捕虜ということだったが、彼らが戦闘要員だったかどうかはわかりません。なにしろ、年端もいかぬ子供も多かったので。とはいえ、」

 と、モーテン男爵は口のはしっこをひん曲げる。

「魔道大国アモンの戦闘要員は、『魔法』なるものを操ります。見た目はほっそりしていても、子供であっても、『魔法』なる不可思議な力によって、途方もない怪力を発揮することもある。筋骨隆々のフラジア軍人よりもはるかに恐ろしいのが、アモンの『魔法使い』たちです」

 魔法。思いがけない言葉に、オースターは目を見張った。

 ランファルド大公国では、おとぎ話にしか登場しない事象だ。なんでも、道具も使わず、電力も必要とせずに、ただ指をひょいと振りまわすだけで風を起こしたり、火を熾したり、物を宙に浮かべたり、怪我したひとを癒したりするらしい。

 その事象を操る存在は、魔法使いや魔女、魔導士、魔術師――そんな呼び名で呼ばれている。

「我が国に伝わる魔法のおとぎ話は、多くが、東の魔道大国アモンから伝わった物語です。まあ、ランファルドではあくまでも子供だましの架空の存在でしかありませんがね」

 オースターは心が浮きたたせ、身をのりだした。

「じゃあ、ホロロ族も『魔法』を使うのですか?」

「そこですよ、オースター君! そこをまさにラクト氏に聞きたかったのに!」

 モーテン男爵はがっくりと肩を落とし、急に声をひそめた。

「詳しい話を聞くまえに、横やりが入ってねえ。とつぜん、バクレイユ博士がやってきたんです。私に『もういい。帰れ』と命じて、監視所の門を鼻先でぴしゃり。無礼千万な男だ」

「バクレイユ博士が――」

 まただ、とオースターは顔をしかめる。

〈喉笛の塔〉の開発者であり、塔の監視所の所長であるバクレイユ・アルバス。ホロロ族の話をしていると、いつもとつぜん彼の名が登場する。

 コルティスは、ラクトじいじが〈喉笛の塔〉の建設写真に写っていたのは、塔の下水道工事に参加していたからではないかと推測していたが、


(本当に、そうなのだろうか)


 考えこんでいると、モーテン男爵はオースターと息子とを神妙に見比べた。

「ホロロ族が下水道で働いているという話、息子から聞いてはじめて知りました。敵国の人間ならば、その扱いもわからんではない。だが、どうも気にかかる」

「男爵もですか」

「ええ……ここから先はまだ息子にも話していないんですが、実は監視所を追い出されたあと、高台に移動して、こっそり望遠鏡でホロロ族の様子を見てみたんですよ」

「ええ? 父さんってば、覗き見なんていい趣味してる」

「学者たる者、ちょっと追い出されたぐらいでへこたれてなるものかね。そうしたら……まったく奇妙な話なんだが、バクレイユ博士はとくにホロロ族を尋問もせず、あっさりと柵の内側に通してしまったんだ」

 オースターは目を丸くして、コルティスと顔を見合わせる。

「とくにラクト氏とは握手まで交わしていたよ。まるで、待ちわびた旧友がついにやってきた、と言わんばかりの対応だった。そのあとは監視所に入ってしまい、私も詮索をあきらめたのだが……」

 オースターはすっかり途方に暮れてしまった。

 予想外の話だった。モーテン男爵からホロロ族について詳しい話を聞ければとは思っていたが、いざ聞かされた話は想像の斜め上をいっていた。

「私が知っているのはこれだけです。……オースター君、ここまで話しておいてなんだが、この件にはあまり深入りせんほうがいい気がします。どうも嫌な感じがしてならんのです」

 そう言って、モーテン男爵は縮めていた体をすっくと伸ばした。

「さ、そろそろ大公殿下がいらっしゃるころかな?」

 ふと、オースターの耳に、ざらりとした枯れた声がよみがえった。

 トマのダミ声だ。

「男爵。もうひとつだけ伺いたいのですが、ホロロ族はとても特徴のある声をしていませんでしたか?」

 モーテン男爵は目をまたたかせ、ほほえんだ。

「ええ……そうでした」

 男爵はうっとりとした顔つきで、窓ガラスの向こうに見える清々しい秋空を見つめた。


「永遠に聞いていたいと思えるほど、それはそれは美しい声でした」

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