0-3 孤高の女魔道士(ナスターシャ)
聞き慣れたソーニャの声。
緑に茂った葉の隙間から青い空が見える。霞む目を凝らすと、真上で太陽が輝いていた。
ゴブリンに追われていたことを鮮明に思い出し、勢いよく身体を起こした。
「村は?」
目の前に居たソーニャはこちらを見て、暗い表情で黙って首を横に振った。
間に会わなかった。
母のように温かい笑みを浮かべるシスター。村のみんなの笑顔。思い出すみんなの顔は笑っていた。
思考が停止していた。
感情が整理できない。
「ナスターシャ。大丈夫よ。あなたが落ちて来てから、そんなに時間は経っていないわ」
声をかけてくれたのは、綺麗で、凛とした女性だった。
「えっ」
「ぷっくくく」
ソーニャの方を見ると目をそらして肩を震わせ笑っている。
騙された。
いくらなんでも、そんな嘘をつくとは思っていなかった。ソーニャに対して怒りを覚えながらも、安堵したためか身体から力が抜けた。
景色が歪み、後ろに倒れそうになる。
「ちょっと、大丈夫?」
気付くと身体を支えられていた。
「ありがとう。えーっと」
「クレアよ」
クレアが手を差し伸べる。少し戸惑い握手をした。
「ありがとう。クレア。私はナスターシャ」
「ええ。よろしく」
クレアが微笑む。綺麗な顔に可愛さが浮かぶ。
かっこいい。そして…
「はいはい。ばか面を笑顔で緩ませてないで早くドゥーニャのところに行くわよ」
拗ねたようなソーニャの口調。相手にしてもらえないのが寂しかったようだ。
「ばか面って…」
顔のことはともかく、ソーニャの言うことはもっともだった。村のことが心配になった私は、立ち上がろうとした。
「痛っ」
左足首に激痛が走った。見ると黒い布が巻かれている。
「応急処置はしたけど、後でちゃんとした治療をしなくてはいけないわね。私は回復系の魔法はさっぱりだから」
そう言うと、クレアは立ち上がり馬を呼んだ。近くで草を食んでいた馬がこちらへ駆けてくる。
「乗りなさい。その足じゃ歩くのは無理でしょ。年老いているけど、大人しい馬だから」
クレアが、差し出した手を握り、起き上った。馬は横まで来て大人しくしている。優しい目をした馬だった。
「よろしく」
首を撫でながら挨拶をし、背中によじ登った。
「えへへ」
馬に乗るのは初めてだった。背の上から見る景色はいつもの視点より高く新鮮だ。クレアの綺麗な顔を見下ろす形になる。
クレアはこちらを見ると、整った口元を綻ばせた。どこか可笑しな所があったのだろうか。
「もう。早いとこ行かないと陽が落ちるまでに間に合わないわよ。暗くなってからだとヤツに分があるんだから」
ソーニャが馬の頭の上に飛んでくると手足をじたばたさせながら話をしている。
「それに早くしないと、ドゥーニャが一人で戦い始めかねないわよ」
「戦うって、あのゴブリンたちと戦うっていうの?」
追って来たのは三匹だったが、他にも数えきれないほどのゴブリンがいた。彼らに見つからない様に森を迂回して村に戻り、皆を逃がすということ以外は考えていなかった。
「あなたが眠っている間にソーニャから聞いたのだけど、村にいるドゥーニャは凄く強いらしいじゃない。ゴブリン程度では何匹いようと相手にならないのでしょ?」
クレアは馬の手綱を掴みながら言った。
「えっ。そうなの?ソーニャ」
「う、うん。ドゥーニャならヒトリデモダイジョウブジャナイカナ」
ソーニャは返事をし、馬の頭にうつ伏せに寝ると脚をぶらぶらさせている。
「待って。ドゥーニャって、どんな人なの?」
「えlっと、人と言うか…あまり見たこと無いんだけど、ソーニャと同じくらいの大きさで、あ、でも、ソーニャと違って、あまりしゃべらないの」
「もう、いいわ…」
クレアは黙って立ちつくしている。ソーニャのいい加減な話しに怒ったのだろうか。
「あ、あの…」
クレアはこちらを見上げると、少し困ったような顔をした後、微笑んだ。
「問題無いわ。ゴブリンの二百くらいなら、私一人でもなんとかなるわ。相手の虚をつければだけど」
「そうそう。なんとかなる。なんとかなる」
ソーニャは手を振りながらそう言うと、欠伸をして眠り始めてしまった。眠っているから早く移動しろということだろう。
「それでは、行きましょうか?」
クレアは手綱を引きながら歩きだす。腰まである長い黒髪が歩くたびに揺れる。
その後ろ姿を見ながら、私は落ちないように馬の背にしがみ付いていた。
移動している間、クレアには聞きたいことが色々あった。しかし、いつゴブリンに襲われるか分からない状態の中、クレアは常に周囲に警戒していた。とても話しかけられるような雰囲気ではなかった。
乾いた風。
森を抜けて草原へ出ていた。
ここから北へ行くとガサの街、北東へ進むとストの村だ。
そしてゴブリンたちは、北東へ進む道の途中にいた。まだ、離れているが、ここから先は隠れる場所がない。
「まずいわね。思ったより数が多い。五百は超えている。どうやら、この辺りの有力な巣が合流しているようね。それに、武装までしている。これだけの数…ゴブリン達の中に指導者がいるみたいね。街を襲う前にここで体制を整えるつもりなのかも」
クレアの言うとおり、ゴブリン達はそれぞれ武器を持っている。
槍、剣、弓。
村を囲うように前列は槍を構えている。その後ろには、剣を持った集団がいくつかの四角い集団を作っている。さらにその後ろには、横長に弓を持ったゴブリンが並んでいる。
「あんな小さな村を襲う布陣じゃない。やはり、ガサの街を襲うつもりなんだ。村は残念だけど、訓練のために襲われたというところかしら」
「そんな。みんな…」
村のみんなはゴブリンたちに気づいているだろうか。村から死角になるぎりぎりのところでゴブリンたちは待機している。そして、今にも村へ襲いかかろうという気配がゴブリンたちから感じられる。
しかし、何か様子がおかしい。
「これ以上は、近付くと危ないわね。ゴブリンの百や二百なら魔法で蹴散らせると思っていたけど、後方は盾を持ったやつらが備えている。遠くからの魔法では防がれるわね。それに、こんな何もない場所じゃ、気付かれないで近づくことさえできない。ゴブリンのくせに背後からの奇襲まで考えているなんて…」
クレアの声から緊張が伝わってくる。
「でも、なぜ動かないのかしら?村を攻めるのなら迅速に動くべき。あそこまで準備しているなら…」
「動けないのよ」
ようやく目を覚ましたソーニャは、まだ、眠り足りないという感じで目を擦っている。
「どういうことなの?」
「ドゥーニャの罠に掛かっているはずよ。雑魚が何匹いようと、アレに捕まったら終わりよ。さて、私たちを追っていた奴らは戻っているかな」
ソーニャは手で陽を遮りながら、ゴブリンたちを見回すと、右端のゴブリンを見つけて顔を止めた。
集まっているゴブリンたちと少し離れたところに三匹。それぞれの背中に植物の蔓で『1』、『2』、『3』と番号が書かれている。
「ぬふふふ。ちゃんと、戻って来てるじゃない。偉い。偉い」
目の前にいる大勢のゴブリンたちにまったく動揺していないのか、ソーニャの声は明るい。恐怖するどころか、これから起こること楽しみにしているようだ。
「クレア。あのゴブリンたち。もらっちゃうわよ」
クレアは黙っている。その表情を見てソーニャがニヤリと笑う。
ソーニャはゴブリンたちの真中を向くと、何かを確認するように頭を少し動かす。合わせて触角の様な癖毛が風に揺れた。
「あー、あー、ドゥーニャ。ここまではロジャーの言った通りに進んでいるわ。ゴミ掃除開始よ」
ロジャー?
ソーニャが口にした名が心のどこかにひっかかった。
「待って、不用意に攻めたりしたら」
クレアがソーニャを止めようとする。
「もう、心配症なんだから。大丈夫。クレアはゆっくりと見ていてよ。本番はゴミ掃除のあとだから」