そんなのはありえない
【圭くんとの結婚に合わせて、引っ越すことになったの】
遠くに行くことを匂わせれば、返信はすぐに来て、
【え~!!どこに引っ越すの?】
絵文字の無い言葉が彼女の焦りを表しているようだった。
【●●。今までみたいになかなか会えなくなっちゃう。でも実家帰るときは絶対寄るから】
嘘だ。大嘘だ。
例え実家に帰ることがあっても、桜子の家には行かない。
引っ越す場所も嘘。引っ越すことは本当だけれど、そんなに遠くに行かない。
嘘。嘘。嘘。
私と桜子の間に嘘の壁が作られていく。
そうして彼女の前から私は姿を隠して、桜子は幸せになった私のことを罪悪感と共に忘れるのだ。
そうすれば幸せになれるのだ。
そう信じていた。
しかし現実がいつだって思い通りにならないことを教えてくれたのは、思わぬ存在だった。
――――――――――
桜子と会わなくなって5年が経った。
高橋との生活も慣れて、ルームメイトのような関係を築き上げている。
大壱からの連絡も来ない。これは桜子と無事平穏に過ごしているということだろう。
呆気なく過ぎていく日々の中、次第にそう思っていた。
午前中の買い物から帰ってきて、パンプスを脱ぐ。
一緒に脱げてしまった靴下を直そうと手を伸ばしたところで、携帯が震えた。
誰からだろうと、靴下を諦めて携帯を手に取れば、そこには『母』と着信が来ていた。
たまに母からは電話がかかってくる。
その内容はあってないようなもので、圭君と仲良くやっているかとか、子供はまだかという内容ばかりでおせっかいだ。
またかと思いつつ、しゃがみこんで靴下を直しながら通話ボタンを押す。
「もしもし、なにお母さん、いきなりどうしたの」
『奈々?あのねぇ、ちょっと困ったことがあるんだけど』
いつもと違う歯切れの悪い母に、違和感を覚える。
「どうしたの?改まって」
『それがねぇ、あんたに会いたいって言う子供が家に来てて、あんた、知ってる子?』
「知らないよ。いくつぐらいの子?」
思わぬ展開に本腰を入れて話を聞く。
途端に声が遠くなって、あんたいくつ?と尋ねる声を拾う。
『このあいだ7つになったんだって。小学一年生ぐらいの子がなんであんたに会いに来るの?」
責められるように問われるが、肝心の私は全く知らないため答えようがなく、理不尽にも肩身の狭い思いをする。
「名前は?」
『それが教えてくれないのよ。『奈々ちゃんが来るまで帰らない!』の一点張りで。とりあえず、今からこっちに来れない?』
思わぬフレーズに息をのむ。
奈々ちゃん。この響きに懐かしさと嫌な予感を覚える。
まさか。
「…うん、わかった。これから向かう」
行かなきゃいけないという思いと、行きたくないという思いが私の中でせめぎ合う。
それはまるでこれから裁かれる罪人のような心地だった。
しかし同時に強い否定が、頭の中で喚き始める。
でも、だって、そんなのはありえない。
だって彼は、私のことを覚えていないはずだ。
―――――
実家の狭い駐車場になんとか車を停め、慌てて家のチャイムを押す。
すると母親がすぐに出てきて、年末ぶりのその顔には、あまり見たことがない困惑が張り付いていた。
私は強張った顔でなんとか「ただいま」と言う。
そして、母が私を家に招き入れるより先に、身元不明の小学生は、母の後ろに立っていて、私を見つめていた。
「おねえちゃんが『奈々ちゃん』?」
パッチリした目。
その目に面影があった。
それで私は確信してしまった。
「もしかして君は…空くん?」
彼は丸い目をますます丸くさせて驚いて、頷いた。
それだけで、私は奈落の淵に立たされた気持ちだった。
しかし彼がそれを知るはずがなく、私はぎごちない笑みを浮かべ、問いかける。
「どうしたの?お母さんは一緒じゃないの?一人で来たの?」
「僕を知ってるんですか?」
「あんた、やっぱりこの子知ってるの?」
空くんと母からほぼ同時に質問をされる。
「だって、目がそっくり。ほら、私の中学の同級生の、桜子の・・・」
そこまで言うと、母は思い出したとばかりに大きな声で納得する。
「ああ!柏木さんとこの!あら~、大きくなったわねぇ」
と空くんの顔をしみじみと見る。
空くんは母と私をきょろきょろと見比べた後、私に視点を定め、キッと睨み付けるように見上げた。
「今日は『奈々ちゃん』に用事があって来ました!」
「・・・なんの用?」
ぎごちない笑みを浮かべたまま、問いかける。
余裕なんてどこにもない。混乱だけがあった。
彼の目が真剣で、とても、とても怖かった。
「『奈々ちゃん』、お母さんに会ってください!」
「・・・なんで?」
理由が本当に分からなくて、問い返す。
「『奈々ちゃん』のせいで、お母さんが泣いてるからです!!」




