また明日
結婚式から一年後、桜子が妊娠した、との連絡が来た。
その連絡を受け取ったとき、もう私の中では大きなショックもグチャグチャな感情も抱くことはなかった。ただ結婚したらそういうこともあるだろう、と覚悟しておいたからだろう、意外と冷静な自分に驚いてしまった。
しかし、冷静であるはずなのに、返信はこの言葉しか思い浮かばなかった。
【おめでとう。これで桜子もお母さんだね。がんばってね】
なんでこんな言葉しか浮かばないんだろう。まるで振られたことを根に持っているみたい、と自嘲する。
小さな動揺を自認して自嘲した私は、段々と不安に蝕まれていった。
つわりはひどくないだろうか、苦しんでいないだろうか。
そんな余計なことばかりだ。
その度、私は自分に言い聞かせた。
彼女には大壱がいる。
私は必要ない。
それは、メールすら送れなかった高校生の私とよく似ていた。
とうとう子供が生まれた、と連絡が来た。更には、よかったら会いに来てほしい、とも。
昔から私は桜子のお願いに弱い。これも惚れた弱みというやつだろうか。
小さな動揺を抱えながらも桜子に会えることに湧き上がる喜びを抑えようと、私は祈るように携帯を握りしめた。
桜子たちは今まで住んでいたアパートからずいぶんと離れた場所のマンションに引っ越していた。
事前に聞いていた来客用の駐車場に車を停め、彼女たちの新居を見上げる。
緊張する。
何故だが気分がざわついて、歩きながら何度も深呼吸を繰り返してしまう。足元の感覚が覚束なくて浮いている感覚。吐き気がしてきた。
『大沢』のプレートが付いた扉に着くまでにずいぶんと時間がかかった気がした。
いざ扉の前に立てば、足が震えている。
私はそれを無視して、震える指でインターホンを押した。
ピンポーン。
と明るく無機質な音が響く。
胸がドキドキして、体全体が鼓動で揺れている気がする。
もうすぐ、桜子が出迎えてくれる。
そんな淡い期待を抱いてじっと扉を見つめていると、とうとうドアノブが回った。
そしてそっと開けられた扉の先に立っていたのは・・・
大壱だった。
期待していたものと違って、思わず思いっきり顔をしかめてしまう。
てめーじゃねぇよ!と内心突っ込みながら、改めてなんとか笑顔を作ろうとした。
そんな私に、彼は相変わらずだなと、眉尻を下げて笑った。
「久しぶり」
「・・・お久しぶりです」
そっけない挨拶。だが、私から彼にかける言葉はそう多くない。
「あと、おめでとうございます」
と少し頭を下げる。
すると、彼は途端に嬉しそうに笑った。
「どうぞ、入って」
と招かれるままに、私は彼女たちの家に入った。
柵に囲まれたとても小さなベッドに、彼女は身を寄せていた。柵の中の存在に手を差し伸ばし、部屋の前に立った私に気づかないほど夢中になっているようだ。
光が差し込む部屋の、この上ない穏やかで幸せな光景は、まるで一枚の絵のようだった。
光が溢れる、幸せな絵。誰もが夢見る幸せな光景。
そこに入り込もうとする私は、暗い影なのかもしれない。
足がすくんだ。
「桜子」
小さく呼びかけてみる。
彼女はいつの間にかショートボブにした、相変わらず綺麗な絹髪を揺らし、振り返った。
「奈々ちゃん!」
中身は相変わらずのようで、無意識に安堵のため息を吐いて彼女に笑いかけた。
「おめでとう」
先ほどまでの緊張も解れて、彼女とその柵の中の存在に近づく。
「ありがとう」
「見ていい?」
「いいよ、見て見て」
笑顔の彼女に促されて、ベビーベッド(確かそんな名前だったはずだ)の中を覗き込んだ。
そこには、パッチリとした目に潤いを乗せてこちらを見上げている、とても小さな生き物が横たわっていた。
無作為に動く腕はかまってほしいばかりで、ギュッと握られた手は驚くほど小さい。
私はその存在から目が逸らせないまま、彼女に尋ねた。
「名前・・・空くん、だっけ?」
「そう。空のように、海のように、大きい人に育ってほしいって意味なんだけど」
「大壱君が決めたの?」
「うん。本当は海にしようとも考えたんだけど、桜には空の方が似合うって言われて・・・」
「・・・新婚だねぇ、甘い甘い」
と苦笑いを零せば、彼女は若干顔を赤くして反論する。
その様子も相変わらずで、私は安心していた。
私と桜子と大壱の三人で、赤ん坊が生まれてから生活がどう変わったとか、大変なことを話した。
私はひたすら相槌を打つだけだったが、二人が幸せであることが十分に伝わってきた。
そして帰る時になると、わざわざ空くんも抱いて三人で見送りに来てくれた
嬉しいような恥ずかしいような心地で、なんとなく、大壱に抱かれた空くんに「ばいばい」と手を振ってみる。すると彼は突如泣きだした。
あまりに突然のことに訳が分からないまま驚き慄き、後さずってしまう。
桜子と大壱が慰めるのを見ているしかない自分に情けなくなりながらも、慣れた様子の二人に疎外感を感じずにはいられなかった。
だって、その姿は立派な“家族”で。
私が思った通りに、私はいらない。
私がいなくても、彼女は何も困らない。
それを寂しいだなんて、思っちゃいけないのだ。
桜子が慌てながらも、こちらに振り向いた。
「ご、ごめんねぇ。空、いきなり泣き出しちゃって、きっと奈々ちゃんと離れるのが寂しかったのねぇ」
とグスグス泣く赤ん坊の涙を拭きとる。
「な、なんかごめんね」
「ううん。大丈夫。そら~、だいじょうぶ、奈々お姉ちゃんまた来てくれるからね~」
と勝手に約束されたことに、私は苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、空くんがこれ以上泣かないよう、退散します。今日はありがとうね。桜子も空くんも、元気でね」
すかさず「俺は?」と苦笑いを零す大壱に、桜子も私も笑ってしまう。
そんな私達に空くんは泣くのを止め、きょとんとした。
「じゃあね」
手を振って、彼女たちに別れを告げる。
最後まで笑顔で。桜子も大壱も笑顔で。
マンションの間から見える夕日はとても綺麗で。
見送ってくれる彼女たちはとても幸せな家族で。
夕日色の空に在りし日を思い出す。
私たちが中学生のときの、桜子との帰り道。手を振る二人。
『じゃあね、また明日!』
『うん!また明日ね』
また明日、なんてもう言えない。
だって、
もう二度と会わないと決意したのだから。




