第二話三部
――あの後、俺は寿太夫を抱いた。そして、彼女が寝たのを見計らって俺は荷物を纏め、吉原の外に出た。
外に出ると、街並みはすっかり暗い。煌々と照らされていた燭台は全て消され、あんなに賑やかだった吉原も今は静まっている。
これが地上なら、建て付けが悪い戸の隙間から光や人の声が漏れてくるのだろう。きっちりした街と言うのは寂しいものだ。
少し離れるところに、原っぱのように開けた場所と、大きな池があった。俺は背負子を下ろすと、池を覗き込んだ。黒い水面の下で、何かが泳いでいるのが微か見えた。鯉だろうか。
ふと空を――いや天井、か――を見上げる。暗さで言えば、地上も地下も大差ない。だがやはり、地下の空は味気ないような気がする。
視線を降ろし、辺りを見回す。誰もいない。犬や鳥などの動物すらいない。野良の動物等は居ないのだろう。
襲うには絶好の場所、そして同時に、迎え撃つのにも絶好の場所だ。
さて、鬼が出るか蛇が出るか……
初めて吉原に行った帰り、信長から聞いた不穏な噂。
――寿太夫は人を喰う
ここ数年、寿太夫を買った客が死んでいると言う事らしい。
客の全員が、と言う話ではないからあくまで噂の域を脱しない。だが、確実にその噂は真しやかに囁かれている。
しかしそんな噂がありながらも、寿太夫を買う人間は跡を絶たない。それどころか前より増えているらしい。女郎を買って死ぬのだ、まさに極楽を味わえると考えての事らしい。馬鹿だと思う。
その所為で、また死人の数が増えているようだ。本当に、馬鹿だと思う。
しかし、裏を返せば、そんな噂を誰も信じていないと言うことになるだろう。確かに、人を喰うなんて噂を信じる方がおかしい。
だが、信長は信じた。寿太夫が命と言った、あの箱の中身が蒸気機関であるならば、あり得ることだと言うのだ。
他人の命を吸い、自分の命にものとする。信長がまだ人の上に立っていた頃、そんな蒸気機械を見た事があるらしい。
寿太夫はその機械を使って、客の命を吸い、自らの美しさの糧としているのではないか、信長はそう仮説を立てた。勿論、可能性は低い。死んだ客は全員、ただの腹上死であって、あの箱は子どもの頃、母親に貰った思い出の品であるかも知れない。
だが、もし信長の仮説が正しかったのならば――
止めなくてはと、そう思った。
そして俺は、寿太夫を抱いた。もし寿太夫が客の中の誰かから命を吸っているのなら、若い俺を狙わない手はないだろう。そう思い、襲いやすいよう俺は人気の無い場所に来た。
池の前で佇んでから三十分程経った時。音が聞こえてきた。しゃんしゃんと軽い音が。
この音は……寿太夫が持っていた猿の玩具?
そう思うと同時に、ぼう、と闇に灯りが浮かび上がる。
その光を便りに周りを伺うと、囲まれていた。
寿太夫の部屋にあった花瓶に、掛軸に、燭台に、壺に、そしてあの古ぼけた箱に、囲まれていた。
「これは……?」
俺が混乱していると、またしゃんしゃんと音がした。いつの間にか目の前に、あの猿の玩具が居た。
猿は俺をじっと見詰めながら楽器を鳴らす。命が無い筈なのに、命が無いから、怖い。
と、猿は楽器を鳴らす手を止め、俺を見て――にやりと笑った
「ッ!」
猿はまたけたたましく楽器を鳴らすと、ふわりと宙に浮いた。いや、猿だけじゃない。花瓶も、掛軸も、燭台も、壺も、古ぼけた箱も、どれもが浮いている。
そして次第に、古ぼけた箱を中心にして、一ヶ所に集まり、一つの形を作った。
猿の玩具が顔に、花瓶が頭に、掛軸が腕に、燭台が脚に、壺が腹に、古ぼけた箱が心臓に。
全ての器物が一つになった頃、それは音を立て始めた。かちかちと歯車が噛み合う音を、きりきりとぜんまいを巻き付ける音を、しゅうしゅうと蒸気機関を燃やす音を。
「蒸気式――自動人形」
器物は、歪んだ形の人間を成していた。顔に当たる部分では、あの猿がまた楽器を鳴らしている。
どうやら人を襲っていたのはこいつだったみたいだな。しかし――
「結局また、荒事になっちまうのかよ」
一人ごちる。所詮、女郎が相手と自分一人で来たが、こんな事なら信長を連れてくれば良かった。
と、自動人形がその器物を寄せ集めた腕を振るう。こないだの窮奇と違って早くはないが、振る時の、ぶぅんと言う重い音は恐れを感じずにはいられない。
どうやら動きは鈍いようだ。そう判断して俺は一旦距離を取る。自動人形はぎしぎしと身体を軋ませながら俺に向かって走りより、鈍器と変わらないその腕を振り下ろす。だが、遅い。
俺は慌てる事なく、背負子を自動人形に向け、その天辺を思いっきり叩いた。
破裂音と共に、背負子から網が飛び出して自動人形を絡めとる。
背負子の中身は前回、窮奇に使ったものを改良したものだ。糸ではなく、網を発射する。信長から念の為持って行けと言われた時はさすがに使わないと思ったが、まさか使う羽目になるとは思わなかった。本当に、信長の読みは鋭い。
勿論、これだけでは自動人形は止まらない。俺は自動人形に近付くと、その身体を解体し始めた。元々器物の寄せ集め、解体すべきは、あの箱だ。
胸の中央に据えられた、古ぼけた箱に工具を突き立てる。と――
「やめ……やめておくんなんし!」
女の悲痛な叫びが、聞こえてきた。いや、声だけじゃない。闇の中から一つの人影が飛び出して、俺に抱き着いてきた。
「それは姉さんの命でありんす……それが無いと姉さんは……」
死んでしまいます、と叫ぶその女は、お鈴だった。
「どう言う事だよ。何でお前が。寿太夫が自分の美しさの為に人を襲っていたんじゃねぇのか」
「何を……言って……姉さんはもう死んでいるの!それで命を吹き込まないと、また動かなくなっちゃう!」
いつしか廓言葉をやめた少女は、俺の服を握りしめながら言う。
「寿太夫が、もう死んでる?おい、そりゃあ……」
「四年前に流行り病で死んだ……だから私は姉さんを生き返らせようとして、人に頼んでこれを作って貰った。これは命を持たないものに、命を吹き込む事が出来る、って……だから、だから私は……」
「寿太夫を買った客の命を奪って、それを寿太夫にやってたってのか……」
確かに、寿太夫は人を喰うと言う噂は本当だった。だが、食べさせられていたのだ、自分を慕う少女によって。
「だからやめて……私から二度も姉さんを奪わないで!」
遂には泣き崩れるお鈴。作り物めいた少女の、初めて見た感情が慟哭とは笑えない。
俺がお鈴に、何と声をかけるか考えあぐねていると。背後に、気配を感じた。慌てて振り向くと、女が立っていた。暗くてもなお分かるきめ細やかな白い肌、鮮やかな着物、煌めく簪。それは――
「寿……太夫……」
「え?」
俺の呟きに、お鈴が顔を上げる。大きく目を見開いたその表情は驚愕か、恐怖か。
「なんで……この箱が近くに無いと姉さんは動かない筈なのに……なんでここまで……」
まるで夢を見ているかのように、誰にともなく呟くお鈴と、それを見下ろす寿太夫。
「…………」
寿太夫は、お鈴に向かって微笑むと、僅かに首を横に振った。そして次に、俺に顔を向けると深々と、頭を下げるのだった。いや、頭を下げたのじゃない、俺に向かって、倒れてきた。
慌てて抱き止めたその身体は、糸の切れた人形のように動く事はなく、ただ冷たい感触がした。
「姉さん……?姉さん、姉さん!」
動かない寿太夫を見るや否や、お鈴は取り乱し、絡まった網ごと、あの箱を近付けてきた。
「姉さん、ほら、命です。姉さんの命です。だから、だから動いて……私に微笑んで、私に話し掛けて!」
「……やめろ」
「黙ってて!これは私と姉さんの事、口を出さないで!」
「やめろって言ってンだろ!」
声を荒げ、お鈴を見据える。
「お前はさっきの寿太夫を見てなかったのか?さっきの寿太夫の言葉が聞こえなかったのか?あれはお前ェに、もうこんな事はやめれって言ってたんじゃねぇのかよ!」
「ッ!」
震えるお鈴。
「今も、寿太夫は言ってるじゃねぇかよ。もう他人の命なんて要らない、もう休ませろって……聞こえねぇのかよ!お前は今まで何を聞いてたんだ!」
「あ……あぁ……」
がしゃん、と。お鈴の小さな手から箱が滑り落ちる。そしてそれを追うように、お鈴も地面に崩れ落ちるように膝をついた。
「姉さん……」
ぽろぽろと涙が溢れ落ち、地面を濡らす。
俺は、受け止めたままの寿太夫の屍体を見る。最後の、倒れ込んできたあれは、やはり頭を下げたのかも知れない。
寿太夫と言う支えを失った為に歪んでしまった。そして、もう一度支えを失い折れてしまったこの、か弱い少女の事を頼む、と。そう言っていたのかも知れない。
――引き受けたぜ、その頼み
俺は心の中で呟いた。
その後――
俺はお鈴と二人で寿太夫の亡骸を埋めた。吉原には足抜けだと伝えておいた。それを何人の人間が信じたかは、分からない。
お鈴は吉原に置いておく訳にもいかず、俺が地上に連れていき巴に預けた。巴は何も聞かずに居てくれた。素直に、ありがたい。
俺はと言うと、お鈴からあの古ぼけた箱を貰い受け、無事三つ目の蒸気機関を手に入れた。箱の内側には瀬戸大将と墨で書かれていた。前回の窮奇と同じ癖がある字だった。自動人形を作ったのは同じ人間なのだろうか。
そして数日後――
俺はまたてぐす屋に来ていた。あの捕獲機械は使えるが、毎回大量の糸を使い捨てるのだけは使えない。出費が嵩む。
「おい姐御、またあの糸くれよ」
声をかけながらてぐす屋に入ると、巴とお鈴が楽しげに話していた。
吉原から出た日は泣き通しだったらしいが、今ではお鈴は良く笑うようになったようだ。これも巴のおかげだろう。
そう言えばお鈴に会うのはあの日から考えると、今日が初めてだ。
「あぁ、源内殿。いらっしゃいまし」
俺が来たことに気付いたお鈴があの軽やかな声で俺を迎えた。おう、と返事をしながら近寄る。
「あの節はどうも、ありがとうございました。今では巴姉さんに良くして貰っています。本当に感謝をしてもしきれません」
廓言葉は抜けたが、相変わらず鈴を丁寧な口調だった。と、若干違和感を覚えた。妙に、小さい。吉原で見たときは俺の胸くらいだったが、今見るとさらに小さい。
「お前ェ、縮んだか?更にガキっぽくなったぞ」
「吉原では底の厚い履き物を履いていましたから……でも、何度も言いましたが、私はもう子どもではありません」
むっとして言い返すお鈴。「どう見てもガキだろうが」
「ちょいとお前さん」
と、巴が口を挟んできた。
「お鈴ちゃんの言うことは本当だよゥ。どうやらその子、転変病にかかってるみたいなのさ」
「転変病ゥ?どう言う事だよ」
「お鈴ちゃんはね、山椒魚が混ざっているのさ」
「山椒魚って言うと……あの水の中に住んでる蜥蜴か?」
「そうだよ。山椒魚の中にはね、産まれた時から死ぬまで姿が変わらない種類も居るのさ」
「……するってェと何か?お鈴はその、山椒魚みてぇにずっとこの姿だってのか?」
「みたいさね」
驚いて、お鈴を見る。お鈴はと言うと、またあの容姿に似合わない笑みを浮かべた。
「私は十七です。来月には十八になりますが……これでもまだ子どもですか?」
「じゅっ……」
馬鹿な。あり得ない。
「おや、来月誕生日なのかい、お鈴ちゃん」
驚いたようにそう言う巴だったが、すぐにからかうような笑みを浮かべた。
「そうだ、花魁は十七になると初めて客をとるんでしょう?どうだい、一年遅いけど、来月の誕生日に、そこの源さんに抱いてもらったら。姉さん代わりの妾がお代は出すよ」
「なっ!」
「あぁ、それはおありがとうおざんす、巴姉さん。源内殿、どうかわっちを、高く下さんしね」
と、不意に廓言葉に戻ったお鈴が言う。その表情は、あの背伸びしたような妖艶な笑みでなく、容姿相応の柔らかな笑顔だった。
あの夜泣き崩れていた、歪んで折れた、か弱い少女は、もうどこにも居ないらしい。ここに居るのは、どこにでも居るような普通の、ごく普通の少女だ。
俺は一つ溜め息を吐いて、空を仰ぐ。
――寿太夫よ……やっぱりあの頼み、断っても良いかな
俺の心の呟きが、寿太夫に届いたかどうかは分からない。
第二話「瀬戸大将」如何だったでしょうか
実は一部を書き終わった段階で路線を変更した為、展開が急になったことお詫びします
流れとしては好きな話なだけにいつか書き直したいと思います
それでは第三話「丑の刻参り」にてまたお会いしましょう