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第二話二部

「ご苦労だったな源内殿。それで、どうだった?」

吉原から帰ってきた俺を出迎えてくれたのは、相変わらず部品の散らかった俺の店と信長の髭面だった。さっきまで綺麗なものに囲まれていただけに、その落差に溜め息を吐く。向こうに居たときは居心地が悪いと愚痴を溢して居たことは、棚に上げてしまいこんだ。

「どうもこうも、断って来やしたよ。まぁ今から思えば勿体無かったかもしれやせんが……」

「何を言っておるのだ?儂は、蒸気機関があったかどうかを訊いておるのだ」

「あぁ……」

うっかり忘れていた。俺が巴の依頼をすんなり受け、吉原に行ったのには理由があった。

あの、ヒヒイロカネで出来ていると言う蒸気機関が吉原に、しかも寿太夫が持っていると言う話があったのだ。話の出所は、信長小飼の間者らしいが、徳川に負けた今もそんなのが居ると言うのだからさすがと言うべきか。

しかし、そうは言ってもどうすることも出来ないと言うのが現状だった。吉原の出入りは厳しく監視されていて忍び込む事は不可能に近い。入るには客として入るしかない。だが、そこは貧乏人の俺達には厳しいところがある。

蒸気機関を持っていると言うのは、他でもない一番人気と名高い寿太夫なのだ。そんな女郎を買う金などありはしない。

さてどうするか、と考えあぐねていたところに、巴からの依頼があった。話が出来過ぎているが、渡りに船だった。

そして俺は、客としてでも、侵入者としてでも無く、職人として吉原に入る事が出来たのだった。

「あぁではない。それで、どうだったのだ」

「えぇと、ちょっと待って下せぇ。今、思い出しやすから」

言いながら、俺はつい一時間程前の事を思い出していた。


「姉さん、源内殿。床の用意が出来んした。では、おしげりなんし」

言ったまま頭を上げないお鈴と、奥に敷かれた蒲団と、悠然と微笑んでいる寿太夫を順に見て、溜め息を一つ吐いた。

「これは一体どう言う事でさ」

「花魁はお銭を持っておざんせん。勝手に出ていかないようされておりんす。だから、わっちは身体で払う、と、そう言っておざんすよ」

それとも、足りんかえ?と甘い声が耳を擽る。それだけで背筋をぞくぞくとした快感が走り抜けた。

「充分過ぎる程足りるよ。あんたを買おうとしたら、俺が死ぬまで働いてもまだ足りねェくらいだ」

「なら何も問題はありんせん。さ、先に床へ行きなんし」

「問題大有りだ。俺の仕事じゃ、あんたの値段に釣り合わねェんだよ」

そう言う俺の口を、寿太夫はその白く細長い指でもって塞いだ。唇にひんやりとした指を感じる。

「それは主さんが客としてわっちを買う時の話でありんす。でも今はわっちが客、主さんの仕事をわっちが買う時の話でありんす」

言って、指で俺の唇をすっと撫でる。

「わっちは主さんの仕事に見合うと思った対価を払うと言っているだけでおざんす。それのどこに問題がありんすか?」

「そっちは良くても、こっちは良くねェんだよ。金が無いってんなら何か代わりになるもんをくれよ」

「だから、わっちを……」

「だから、それは受け取らねぇ、って言ってんだ。俺は家に持って帰れるもんしか貰わねェんだよ」

嘘だった。今までも食事を奢って貰ったり、風呂に入れて貰ったりすることで金の代わりにした事はある。だが、そんな事を言う必要はない。

「そうで……おざんすか」

「そうだよ」

「……分かりんした。なら、この部屋から好きな物を持って行っておくんなんし」

「この部屋から、って……」

見回してみるが、どれも高価そうだ。恐らく、さりげなく置いてある花瓶や掛けてある掛軸。下手をすると煙管の一本でさえも、売れば家が建てられるくらいの値がするのだろう。

「……ん。なぁ、あそこに置いてある襤褸っちい箱はなんなんだ?」

部屋を見回していると、隅の方に古ぼけた箱があるのが目に入った。他にある煌びやかな調度品の中で、一つだけぽつんと目立っている。

大きさは一抱えくらいだろうか、黒く塗られたのが所々剥がれて、木の地肌が見えている。手前には観音開きの扉があり、取っ手も金属が擦れて鈍い光を放っている。

「あぁ、あれは駄目でありんす。他の物なら何を持って行ってくれても構いんせん。でも、あれだけは駄目でありんす」

俺はただ、あの箱が何なのかを聞きたかったのだが、寿太夫の言葉からは強い拒絶を感じた。

しかし、他の物なら何を持って行っても良いと言われても、何を持って行っても俺の仕事とは釣り合わない事も確かだ。ここは――

「……何もいりやせんよ。あんたは初めての客だ、今回は代金は受け取らないことにしやす」

「でも……」

何か言いたげな寿太夫を手で制す

「悪いと思うんなら、また仕事の依頼をして下せぇ。それじゃあ、まあ」

今後ともご贔屓に、と気取って言って立ち上がった。懐中時計を取り出し、見ると五時を指している。案外長居したようだ。

「……お待ちなんし」

「なんだよ、まだ何かあるんで?」

うんざりして寿太夫を見ると、彼女はにこりと笑いながら言った。

「野暮な事は言いんせん。でも、せめて案内くらいはつけさせて下さんし」


そして俺は案内――お鈴に連れられて吉原を歩いていた。

来る時もそうだったが、お鈴はあまり喋る方では無いようで、ただちりんちりんと鈴の音が俺を導く。

二人とも無言のまま、吉原の入り口へと着いた。

「……案内ありがとな。じゃあな」

「待ちなんし」

「ぁン?」

帰ろうとする俺を、お鈴が引き留めた。

「源内殿は何故……姉さんを拒んだんでありんすか?」

「ガキが何言ってんだよ」

「わっちはもう振袖新造。子どもではありんせん」

そうやって、むきになるのが子どもだって事だ、と言う言葉を飲み込んだ。わざわざ言う事でもない。

「そうかい、なら教えてやるよ。答えは単純だ、その気にならなかったからだよ」

俺の答えに少しだけ、眉をひそめるお鈴。その、何か言いたげな顔を見ながら、続ける。

「おっと、それが何故か、なんて野暮な事訊くなよ?男と女ってのはそう言うもんだ」

子どもじゃねぇってんなら分かるよな?と言う言葉も、飲み込んだ。これが例えば、桔梗相手なら絶対に言っていた言葉だが、年下の、さらに初対面の少女に言う事もない。

「ああ、そうだ。一つだけ、俺の質問にも答えてくれるか?」

俺の問いに、無言で頷く事で応えるお鈴。この少女、どうも感情に乏しい印象を受ける。笑う時の顔も妙に似合わない妖艶なものであるし、些か作り物めいて見える。

「あの古ぼけた箱。あれは一体何なんだ?」

と、作り物のようだった顔に、ふと血が通うように見えた。だがそれもすぐに作り物のそれに戻った。今の表情は……動揺か、それとも敵愾心か。

「……あれは、姉さんの命でありんす」

「何だって?」

「前にそう、聞きんした。姉さんの、命だと」

命、ね。そんなに大切なものなのか。

「ですから源内殿」

「ぁン?」

「源内殿があれを欲すると言うのなら、源内殿も」

命をお賭けになって、下さんし

お鈴はそう結んだ。


「ふむ。命、であるか」

吉原で見聞きした事を話し終わった後、信長はそう溢した。

「ええ、そんなに大切にしてるんなら、ヒヒイロカネであってもおかしくないかと思いやしてね」

「……源内殿。そなたは頭が良いのか悪いのか、はっきりしてくれ」

「な、何を?」

信長は一つ長い溜め息を吐いた。

「相手は吉原の遊女だぞ。あれがヒヒイロカネだとなんだろうと、蒸気機関など大切なものであると思うか?」

「あ……」

言われてみれば、確かにそうだ。ヒヒイロカネの蒸気機関を有り難がるのは俺みたいなからくり屋が精々だ。

「だが、今回に限れば恐らくそれが正解であろう」

「そ、それはどう言う事で?」

「うむ、実はな、蒸気機関の情報を集めているのと同時に、一つ不穏な噂を聞いたのだ」


数日後――

俺はまた、吉原へ来ていた。今度も寿太夫の依頼でだ。

巴に呼ばれててぐす屋に行くと、彼女から一枚の手紙を見せられた。寿太夫からの手紙だ。

そこにはこの間の礼と、約束通りまた仕事の依頼をする事、そして今度こそ代金を受け取ってもらう事の三点が書かれていた。

「どうやら寿太夫はお前さんに御執心のようだねェ。この間何をやったんだい?惚れられたかい?」

「何もやっちゃいねぇし、惚れられたなんてある訳ねぇよ」

言いながら考える。何故、寿太夫はこんなに短い間に俺をまた呼ぶのか。まさか本当に惚れられたと言う事もあるまい。

疑問は残るが、こっちも寿太夫に用がある。そして俺はまた、吉原に足を運んでいた。

入り口に立っていると、また周りの女郎達からの注目を集めた。前回は囃し立てられたが、今回は遠巻きに、だがじろじろと好奇の目を向けられた。

しかも何やらひそひそと話をしている。前回とは違った居心地の悪さを感じる。

「源内殿、御迎えにあがりんした」

そんな居心地の悪さに辟易した頃、お鈴がやってきた。この間と変わらず髪から着物からきっちりと整えられている。

そしてまた、ちりんちりんと言う鈴の音に連れられて、俺は寿太夫に会いに行った。

「ようお出でなんした。どうぞごゆるりとおくつろぎ下さんし」

音も無く優雅に頭を下げる寿太夫。この間より頭に飾られた簪が多い気がする。重くないのだろうかと変な心配をする。

「こないだも言ったが、ゆっくりするつもりはねぇよ。で、今回は何が壊れたんで?時計ですかい、それともまた玩具ですかい」

すると、寿太夫はゆっくりと、細く白い手でもって自らの胸を示した。

「ここがおかしくなってしまいんした」

「はァ?」

「胸が……痛ゥおざんす」

「それはからくり屋の仕事じゃねぇ、医者坊の出番だろ」

俺には関係ねぇじゃねぇかよ、と言いながら立ち上がる。だが、そんな俺を寿太夫は引き留めた。

「お待ちなんし。この痛みは御医者様でも消せは出来なんし」

言って、ちらりと上目遣いで俺を覗き込む。一瞬、胸が高鳴った。

「御医者様でも、草津の湯でも……惚れた病は治りんせん」

「何だって?」

「ですから源内殿。わっちは主さんに、惚れてしまいんした」

背筋が、ぞくぞくした。

「……女郎が何言ってんでぇ。拍子木まで嘘を言う、ってのが吉原だろ?」

女郎の言う事を信じるな、と言うのは地上の俺達でさえ知っている。口車に乗せられて身を滅ぼした男の話なんてのが笑い話として流布しているのだ。

だが、寿太夫は哀しそうな表情を浮かべた。

「いいえ、違いんす。わっち達は嘘を言いんせん。わっち達、花魁は客に惚れるんでおざんす。惚れて、恋して、一夜の夢を見せる。それが花魁、それが吉原でありんす」

言いながら立ち上がる。そう言えば寿太夫が立った姿は初めて見る。案外背が高い。

「身を滅ぼすのは、それを勘違いして本当に惚れられたと思い込む野暮天でおざんす」

言って、一歩近付く。

「でも、わっちのこの胸の痛み、わっちのこの恋は真実でありんす」

また、一歩近付く。

「お鈴から聞きんした。主さんはこの間、気が乗らなかったからわっちを抱かなかった、と」

さらに、一歩近付く

「だから今日は着飾りんした。簪も、着物も、化粧も、何もかも、主さんに気に入られる為にやった事でおざんす」

遂に、俺の目の前に立った。

「これでも駄目だと言うのなら、せめて話だけでもしてくんなんし。せめて仮初めの夫婦のように、わっちと過ごしてくんなんし」

だからわっちの恋を、拒まないでくんなんし、と甘い吐息と共に俺に囁きかけた。

こちらを見つめている濡れた瞳も、ぎゅっと握りしめた震える手も、その全てが、寿太夫の言葉が真実だと語っている。不安げにこちらを見つめくる彼女に対して俺は――

手を、取った。

驚き、何かを言いかけたその口を塞ぐように、口付けをした。

口を離すと、寿太夫は一層濡れた瞳でこちらを見つめる。俺は一つ深呼吸をすると、心を決めて言った。

「分かったよ。俺も、あんたに惚れることにする。だから俺にも見せてくれよ、一夜の夢ってやつをよ」

「……あい、おありがとうござんす」

涙を溢しながら笑う彼女の顔は、太夫として、仕事として浮かべるものでなく、年相応の少女のものに見えた。

その笑顔を俺は――とても愛おしいものだと、そう感じた。

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