第一話一部
「なに呆けてるんだい源の字」
はすっぱな口調で言いながら、桔梗がひんやりとした手で俺の頭を軽く叩いた。
桔梗は近所の食事処で給仕をしている女だ。休憩時間に抜け出してきたのか、店から支給された制服を着たままだ。丈の短い裾から、ぬるりとした鱗に覆われた足が覗いている。
――転変病。空が蒸気で覆われるようになってから表れた病と言われている。この病に罹ると身体に“何か”が混ざる。それは犬であったり、鳥であったり、虫であったり、人によって様々だ。
目の前にいる桔梗は蛇が混ざっていて、手足に鱗が、口には牙と、おまけに先が二股に分かれた舌も生えている。
それだけだと蛇と言うよりは蜥蜴に近いと思うのだが、桔梗の話によると顎が外せるらしい。まだお目にかかったことはないが、見ないで済むならそれにこしたことはない。
「いくら空を眺めててもお天道様は顔を出しちゃくれないよ」
桔梗の言葉に、空に意識を向ける。どんよりと蒸気で曇った、いつもと変わらない空だ。
そう、いつもこうだ。俺達の生活を支える生命線である蒸気機関。それが排出する蒸気が空を常に覆っているのだ。
桔梗の言う「お天道様」――太陽は見たこともない。俺に限らず江戸に生きる人、全員が、だ。
それでも十年前くらいまでは、蒸気の薄いところから太陽の光のようなものを感じる事もあった。だが、今ではそんなことも滅多にない。
「……なんだい、せっかくあたしが話し掛けてるって言うのにまたぼーっとしてさ」
言って、桔梗は壁に立て掛けてある折り畳み椅子を引っ張り出して俺の目の前に座った。
ふわり、と甘い香りが漂う。何故だか、無性に厭わしいものに思えた。
「……なんでぇその匂いは」
「お、気づいたかい源の字。舶来物の香水だよ香水。ま、淑女の嗜み、ってやつさね」
ほら、どうだいと嬉しそうに言いながら袖をぱたぱたと振った。その度に甘い香りが鼻を擽る。
「ふん、何が淑女の嗜みだ。いくら香水なんてつけたって、お前ェの小便臭ぇのは隠せねぇよ。それより鼻がむずむずすらぁ、あんま近寄んな」
「なんだいなんだい、口を開いたと思ったら減らず口かい。あんたの口は減らないだけでまったく何の役にもたたないねぇ」
ぷう、と頬を膨らませた。
「はん、役立たず上等。俺は口じゃなくて手で仕事してんだ。で、その淑女サマが一体何の用だ」
「そうだったそうだった、その仕事を頼みに来たんだよ。時計が止まっちまったからね、修理してもらいたいのさ」
言って桔梗は懐から懐中時計を取り出して机の上に置いた。ちら、と見てみたが確かに歯車が動いていない。
手にとってぜんまいを巻いてみると空回りしている。
「……こりゃぜんまいが伸びちまってるな。修理にはちょいと時間がかかるぜ」
俺が言うと桔梗は眉をしかめた。
「時間がかかる、ってどれくらいだい?時計がないと困るねぇ、仕事の時間に遅れると馘になっちまうよ」
「安心しろ。そこまで長くはかからねぇよ。そうだな……お前ェの仕事が終わるまでには直しとくさ。取りにきな」
「そうかい、ふふ、相変わらず早いねぇ。江戸一のからくり師の名は伊達じゃない、ってことかい?」
「ふん、減らず口はどっちだよ。俺は一度も自分から江戸一なんて名乗った事ぁねぇよ」
むしろ、そう言いふらしているのは目の前にいる桔梗だと俺は知っている。当の本人はそれに気付いているのかいないのか、そしらぬ顔をして「へぇ、そうなのかい?」などと嘯いている。
「ったく……で、お前ェいつ仕事に戻るんだよ。遅れると馘なんだろ?」
「おっと、そうだねぇ。三時には戻らないといけないんだけど、今、何時だい?」
俺は黙って壁を指差した。そこには蒸気機関式自動時計が掛かっている。わざわざぜんまいを巻かなくても止まることがないもの優れ物だが、それだけに少々値が張る。
俺も、前に仕事の代金として貰った中古品を直して使っているだけで、新しいのを買おうとしたら数ヶ月は毎食の副菜が一品少なくなることは間違いない。
「おや、もう二時半かい。そろそろ行かなきゃねぇ」
「そうかいそうかい、なら早く行きやがれ」
しっしっ、と手を振る。それを見た桔梗はまた頬を膨らませた
「なんだい人を犬みたいにあしらってさ。そんなことやってるといつか罰があたるよ」
桔梗は言いながらまた俺の頭を軽く叩いて、立ち上がった。本当に遅れる訳にはいかないのだろう。
「源の字、あんたもうちょっと愛想良くしたら色男なのにねぇ」
「その言葉そっくりそのまま返すぜ」
俺の言葉に、舌を出して応えた桔梗はくるりと回転して背を向け、歩き出そうと足を踏み出して―――ぴたり、とその踏み出しかけた足を止めた。
何かと思って動きを止めたその背中を見ていると、ぽつりと桔梗が口を開いた。
「源の字、源の字。雨が降りそうだよ」
そう言って、またくるりと回転して俺の方を向いた。その顔にはまさに、獲物を前にした蛇さながらの嫌な笑いが貼り付いている。
さっきまで膨れっ面を見せていたと思ったらもう笑っている。まったく、ころころ表情を変えて、桔梗に混ざっているのは蛇じゃなくて猫なんじゃないのか?
「……分かったよ。雨宿りしてけ」
俺の言葉に、今度は心底嬉しそうな満面の笑顔を浮かべ、「そうかい、ならお言葉に甘えようかね」と言ってまた俺の目の前に座った。
――ふわり
香水の甘い香りが、また俺の鼻を擽った。
ざあざあと雨が降っている。仕事に戻ろうとした桔梗が「雨が降りそうだ」と言った後、すぐに降りだした。最初はぽつぽつと黒い小さな染みを作るだけだった雨足も、今では地面全部を黒く染め上げる程強くなっている。
「嫌だねぇ、雨は憂鬱だよ」桔梗が不満を漏らす。黒い雨は人を外に居られなくするのだ、好きな人は居ないだろう。
「まったく、あんなのが建っちまったからだよ」
言って、桔梗は右手の方を見やる。
つられて俺もそちらに視線をやる。そこには壁があるだけだが、勿論それを指している訳ではない。そっちの方向に、十数年前に建てられた都市資源供給用大型蒸気機関『日光・陸拾』がある。そいつがこの黒い雨をもたらしている。
江戸に住まう全ての人が好き勝手に使っても、なお余りある蒸気資源を供給し、豊かな生活を提供する夢の蒸気機関。『日光・陸拾』はそんな文言と共に建設された。確かに、安定した大量の資源供給は俺や桔梗みたいな町人にも快適な環境を与えてくれた。
しかし『日光・陸拾』は、それと同時に大量の蒸気を俺達に与えた。『日光・陸拾』が吐き出す蒸気は瞬く間に空を覆い、俺達から完全に太陽を奪い、代わりに転変病患者を増加させた。
蒸気の濃さに比例するのか、転変病患者の混ざり具合や患者数は以前に比べてぐっと増えている。
さらに、空を覆う蒸気は雨を黒く染め上げた。黒い雨に濡れると身体が痺れ、頭痛、熱、関節痛、様々な症状が出る。特に妊婦が濡れると、産まれてくる子どもは必ず転変病を患う。しかも、人間の割合は極端に少ない状態でだ。
こんな風に目に見えて被害が出ていても、一旦便利な生活に慣れた俺達は『日光・陸拾』を停止することも、改善すらも望むことをせず、そのまま放置している。
「まぁ雨が降ったら店も休みになるから、あんま文句も言えないんだけどね」
そう、人々は黒い雨に濡れないようにするため、雨が降ると外に出ないようになった。その為、雨の降る日はどの店も臨時休業になるのだ。
なんの解決にもなっていない、場当たり的な対応だが、それでも江戸中の人がそう行動している。例外は武家や公家なんかの、身分の高い連中だけだ。
黒い雨が降るようになって、身分の高い連中は地下に潜った。地上にいても常に曇っているのだ、どうせ蒸気式灯台で照らすのなら、雨が降る心配のない地下で生活した方がましと考えたらしい。今では地上で侍を見ることも少なくなった。
「……源の字、さっきから何黙ってるんだい。あたしばっか喋って馬鹿みたいじゃないか」
険のある桔梗の言葉に、俺は手に持っていた工具を置いて溜め息を一つ吐いた。
「俺が今、お前ェの時計を直してるのが見えねぇのか?それに、お前ェが馬鹿みたいにくっちゃべるのはいつものことじゃねぇか」
「やっと反応してくれたと思ったら相変わらずの減らず口。その口はちょっとくらい誉めるとか出来ないのかい?」
「誉めるゥ?何を誉めりゃ良いんだよ。伸びるくらいぜんまいを巻くだなんて良い巻きっぷりですね、とでも言やぁ良いのか」
「どこが誉めてんだい、そりゃ。そうさねぇ、あたしと話していて楽しい、とかこんな可愛いあたしと居られて幸せだとか……」
まだまだ続きそうな桔梗の言葉を、手をかざして止める。
「分かった分かった。楽しくて幸せだからちょっと黙っててくれ。気が散って仕方ねぇや」
「なんだい、邪険にして。雨が止むまで暇だから話でもと思ってやったってのに」
ぶぅたれる桔梗に「お前ェが時計がないと困るって言うから早く直してやろうとしてやってんのにそっちこそ、その言いぐさはなんだ」と文句の一つでも言ってやろうと、口を「お」の形に広げた、まさにその瞬間
がらりと戸が開いた。
「御免。暫しの間雨宿りをさせては頂けぬか」
開いた戸の隙間から這うように店の中に響くその声。見ると身体を覆うくらい大きな笠と首から足元まですっぽりと隠す外套を着た男が立っていた。
「……よござんすよ、ただ、見ての通りうちの店は広くねぇんで、その濡れた笠と外套は脱いでくれませんかね」
「入れてくれるのなら構わぬ。心遣い感謝する」
男はきびきびと頭を下げ、水滴が店を濡らさぬようそっと笠と外套を脱いだ。
外套もそうだったが、内から表れた着物も、ここらではちょっと見掛けないような上等な生地が使われていた。
「……桔梗、ちょっと俺の部屋ァ行って衣紋掛けをとってきてくれ」
「あいよ」
元より俺の店に二人の客は多い、どちらかを二階にある俺の住処にあげなければならない。それなら当然見知った桔梗を選ぶ。桔梗の方もそれが分かっているから素直に従った。
「……邪魔をしてしまったかな」
「ぁん?あぁ、いや旦那が来る前から手は止まっておりやした。気にする事ぁありやせん」
机の上に広がった部品や工具を示しながら言う。しかし、俺の言葉に男は苦笑いを浮かべ
「いや、あの女との時間を邪魔してしまったか、と聞いたのだが……まぁ今ので大体分かり申した」
と言った。
「そう言う……事ですかい」
「ところで、時計をばらしているようだが……ここは修理屋か?」
「修理もしやすし、一から作ることもありやす。ま、からくり屋ってとこですか」
「ふむ……」
男はそう言ったきり、口をつぐんだ。俺もあまり喋る方じゃないから、二人の間が静寂で満たされる。
「お待たせ、源の字……って何男二人で見つめあってんだい、気色悪い」
と、ばたばたと慌ただしい音をさせて桔梗が衣紋掛けを持ってきた。俺は桔梗からそれを受け取り男に差し出した。
「ほら旦那、使ってくだせぇ。衣紋掛け自体はそこの、壁に打ってある釘にでもお願いしやす」
しかし、男は動かなかった。何かに気をとられているようだ。
もう一度旦那、と呼び掛けるとはっとして、忝ないと言いながら受け取って外套を掛けて釘に吊るした。
「そうか……からくり屋、であるか。なら、一つ仕事を頼みたいのだが」
いきなり何を言い出すのかと呆気にとられていると、男は懐から握り拳くらいの大きさの何かを取り出した。
「それは……蒸気機関の心臓部ですかい?」
「さすがだな、そうだ。だが、少し特別でな。そなたにはこれを使って、人が乗れる空を飛ぶ蒸気機械を作ってもらいたいのだ」
「空を……?」
寡分にしてそんなものが存在するなどと言う話は聞いたことがない。
「そんなものは出来っこない、ってのが常識ですぜ。それに何だってまた俺になんか頼むんでさ」
俺が言うと、男はにやりと口を歪めた。
「これを使えば、出来るのだ。それに、そなたは適任だと思うがな」
男はそこで一旦言葉を切り、何かを思い出すように目線を上げた。
「あの竹とんぼと言う細工は良かったぞ。あれを大きくしたものを作ってくれ。平賀―――源内殿」