第二話 穏やかな暮らし
父亡き後、兄の仲成は精力的に出仕して、まもなく従五位下の官位を受けた。齢二十一。任官には早い部類だった。これは、父種継亡きあとの式家を取り仕切っていく兄に対する早めの昇進人事だったと思われる。帝の御配慮であろう。兄の顔にはここから先の式家を背負うのだという覚悟が見てとれた。
その頃までに、父の事件に関わったとされた者たちは宮廷から一掃されていた。早良親王様の亡骸は都に戻されることなく、淡路の地に埋葬されたという。先帝であらせられる光仁天皇のお子であり、今上帝の実弟でもあるお方の埋葬先としてはあまりにも哀れだった。が、薬子はそれ以上考えることはやめた。あの夜のことが思い出される物事は、たとえ一片であっても頭の中から追い出したかった。親王様が無実だったのかそうではなかったのかはわからない。父上が亡くなられたということだけが事実だった。
夫となった縄主のことは幼い頃から知っていた。彼は兄仲成より四つ年上の物静かな人だった。惣領に生まれたからなのか、これまで競争というものをしたことがないのかと思うほど穏やかで欲のない人に見えた。父上やその血を色濃く継ぐ兄上は野望と計画がないまぜになったまま、口に出したことは全て行動に移していくような人だ。しかし縄主はその真逆にあるように見えた。その静けさが薬子には救いだった。
薬子と縄主との結婚生活は平穏に過ぎていった。薬子は結婚後間もなく息子を、そして娘を授かった。縄主はこの娘を大層可愛がった。父君のようにいずれこの姫を入内させようとするのだろうか。そうだとしてもまだまだ先の話。無事に育ってくれるだけでよい。子を持って以来、薬子の心は落ち着きを取り戻しつつあった。守るべきものが出来たことで薬子は強くなった。そして名実ともに式家・藤原縄主の奥方となっていった。
父が亡くなって三年が経った。
十一歳で立太子された安殿親王様がご元服あそばされた。と同時に藤原帯子さまが東宮妃に入られた。帯子さまは私より少し遅いお生まれのはずだから、お年は十九におなりだろうか。帯子様の御姉君は今上帝の夫人で、男皇子をお生みまいらせている。男皇子を持つ母はお力が強い。国母となられる可能性が高くなるからだ。
亡き父の心の内を思う。同じく今上帝に入内した東子お姉様が帝の男皇子をお生みになることがあれば、その時は妃としての地位が強固になる。そこで満を持して、私が安殿親王に入内する計画を立てておられたのかも知れない。実のところ、旅子様のお生みになった親王の外戚となられた藤原百川様は、今、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
父はどれほどの先を見据えておられたのだろうか。この年齢になって世の中がうっすら見えてくると、父の偉大さがよくわかる。それゆえ、父の躍進を快く思わない者に、その未来を断ち切られた父上の無念さはいかばかりだったろう。そう思うと、薬子の唇から長く封じ込めていた大きな溜息が漏れた。
いや、考えるのはよそう。余計な考えは腹の子に障る。夫 縄主はゆっくりと順調に出世を続けている。式家の当主としていずれ高い地位につくだろう。それは貴族には当たり前に決まっていることだ。子供たちも健やかに成長している。それで十分だ。これ以上望むべくはない。
この頃、今上帝の周りでは不幸ごとが続いていた。
皇太子元服の翌年の暮れ、帝の御母君・新笠様が身罷られた。その年が明けてまだ間もない閏三月、あろうことか皇后の藤原乙牟漏さまが薨去された。九月になると今度は東宮安殿親王様のお身体が優れず臥せられることが増え、その不調は年が明けても続いた。帝は殊の外ご心配になられ、伊勢大神宮に禱られた。しかし皇太子の容体ははかばかしくなかった。あまりにも続く不幸に帝が僧侶に祈祷を行わせたところ、僧侶はこれらの災厄は早良親王様の祟りであると応えたという。帝は早速、僧侶を淡路島の墓に参らせて法要を行わせた。縄主は言っていた。御不幸が続くのも皇太子の具合がいつまでもよくならないのも、親王禅師様の怨念によるのではないか。そう巷でもささやかれ始めたと。幼いころから仏門で修業してこられた親王様が謀反など起こすことなどあろうか。還俗なさったのは先帝のたっての願いだったからだと伺っている。東大寺と強い関係をお持ちの親王禅師様だからこそ、還俗して東大寺との橋渡し役をお命じになったのだろう。早良親王様ご自身が強く望まれて皇太弟になられたわけではないのだ。あの徳の高い禅師様はあの日長岡京におられたが、あくまでも早く都を造るようにと仰る帝の御ためにご尽力されていただけだろう。まして帝が御姫君のお見送りで平城京に戻られているのだから、早良様が長岡におられるのは不思議でも何でもない。禅師様が謀反に加担するなどありえない。誰もがそう思っていたのだ。だから帝の周りで不幸ごとが続くのは、つまりは咎なくして身罷られたご無念の表れだと。
そのような重い空気のなかでも、長岡京は徐々に都としての整備を続けていた。しかしながら、疫病の蔓延や川の氾濫など天災は続き、多大な税負担で造成を始めたこの京は僅か十年で捨てられる運びとなった。新たな宮は長安の都に倣い、平城の宮よりも長岡の宮よりもずっと大きく造られることとなった。
延暦二年(794)新たな都が誕生した。平安京である。
遷都すれば、敵対勢力も強大になり過ぎた寺社の力も削がれて、続いたご不幸も一掃されるかと思われた。が、、、
平安の都にお住まいを移されるにあたり、東宮妃帯子様は平城の都をご出立になった。とはいえ平城京から平安京までは長い距離がある。途中、長岡の仮宮に入られることとなったのだが、帯子様はその道中で不意の病に罹られ、長岡の宮でその若いお命を失くされてしまった。次期皇后の座を約束されていたにもかかわらず、平安の新しい御殿に入られることもなく。御年僅か二十歳だった。
今上帝とその御一家にまつわる災厄は、皇太子妃の薨去という悲劇をもってしてもそれで終わりとはならなかった。そしてその難儀は帝のご一家だけにとどまらなかった。皇太子傳を務めておられた藤原繼繩さまに続き、同職に就かれた紀古左美さままで亡くなられてしまったのだ。帝はふたたび淡路の早良親王墓に僧侶を派遣しご祈祷をされた。
坂上田村麻呂様の懇願にもかかわらず阿弖流為と母禮を処刑したこと。それが再び蝦夷反乱の火種となったこと。天変地異は天からその地位を戴いた天子の不徳によるものとも言われる。非常に強引な政ごとをなさる帝に天は怒りを示し続けておられるのだろうか。
・・・いや、滅多なことを考えるものではない。思っていることはやがて口をついて出る。振る舞いに出る。奥を統べる女人は表立ってはいけない。女人は奥で全てに漏れのないよう常に気を配っていないといけない。殊に今この身は御産を控えている。余計な事を思い煩ってはいけない。余計なことを見聞きすれば心が乱れる。腹の子に災いがあっては困る。これまでのお産が無事だったとはいえ、だからこそ油断をしてはならない。お産はそのたびに違うのだから。
薬子が縄主と結婚してから既に八年の年月が経っていた。三歳までの幼児は神の子と言われ、いつ天に召されるかわからないほど弱々しいく脆いものだが、これまで薬子の子はみな丈夫に育っていた。腹の子が無事に生まれたら五人目。その赤子が生まれるころに薬子は二十八歳になる。もう中年にさしかかる年齢だ。これが最後のお産になるだろう。遷都以来夫は順調に昇進していたし、平安京の新しい屋敷も落ち着いた。子供たちは健やかに成長している。そう、余計なことは考えまい。繰り返し湧き上がってくる様々な思考を押さえるように、薬子は腹帯の上にそっと手を当てた。
都は大きくなり、役人たちも増えたようだ。律令というのは一体どれ程の人手が必要な制度なのだろうか。縄主の仕事はますます増えているようだった。日々忙しく、共に過ごす時間もあまりなくなっていた。従五位下に昇進したのは二十七歳と、一般的な任官年齢からすると遅かった縄主ではあったが、そのあとの昇進は順調というより早かった。縄主が三十代の半ばを過ぎて、いよいよ四十を前にする頃には公卿に任じられる道筋が見えてきた。




