一.少女
エピローグ
あるところに一つの森がありました。昔は皆に愛され、それはそれは美しいと褒めそやされていました。時は流れ、その側にお屋敷が建てられました。その裏庭には、ひとりの少女が住んでいます。もし、この裏庭に誰か一人でも足を踏み入れていれば、この物語は始まらなかったことでしょう。
白い花が風に笑う昼下がり。少女は目をつぶって寝転んでいました。空は澄み切っていて、木々は柔らかな影を落としています。鳥のさえずりが耳に心地よく、土の匂いが全身に染み渡るような、草が全てを包み込むような、そんな世界に少女はささやかな喜びに満たされました。勢いよく吹いた風に、鳥たちが飛び立ちます。
「さよなら」。
少女は起き上がり、裏庭から森へ吹き抜ける木枯らしに身を任せます。
「そろそろかな」。
すると、貴婦人たちの声が聞こえてきました。石畳の冷たい壁を背に、じっと耳を澄ませます。
「本当に信じられないと思わない?あんな人とこれからも一緒に過ごさないといけないなんて、とてもじゃないですけど、耐えられないわ。」
「そうねえ。でも、お爺さまのおかげなんだから仕方ないのではなくて?」
「そんなこと言ってないで、さっさと縁を切ってしまえばいいのよ。」
「そうは言ってもねえ。いろいろあるのよ。」
華やかで刺々しいヒールの音がします。だんだんと大きくなる鼓動が耳に響きました。
「分かっっているのになあ…。」
少女は両手を胸に当ててしゃがみ込みました。
「こちらのテラスで少しお待ちになっていて。」
貴婦人のうちの一人がお屋敷に入ってくる音がします。お屋敷の中を通ってまっすぐにこちらに近づいて来ます。そして、裏庭に繋がっている勝手口の扉が勢いよく開きました。
「ここにいたのか、仕事はどうした?」
緑色のドレスを着た女性を見て、胸がつかえますが、心の中で精一杯に答えます。
『もう終わったよ。』
それから、片手で掴まれたと思えば、お屋敷の中に引きずり込まれました。もう片方の手には革紐が握りしめられていて、私を力一杯叩きました。メイドたちの笑い声が耳にこだまします。
「いいかい、人が来てるんだ。絶対に表に出るんじゃないよ。分かった?」
そう言い捨てると、その女性ー私の母ーは、メイドたちに貴婦人たちのもてなしを言付けました。
『ああ、いつもと同じ』
しかし、母がテラスに向かおうとしたところで電話のベルが鳴り響きました。
「ちっ、この忙しい時に。」
メイドたちは手際よくお茶とケーキを準備してテラスへと向かい、母はよそ行きの声で話し始めました。少女は疼く背中を庇いながらじっと佇んでいました。
「はい。…ああ、おばさま。どうされたの?またご病気?それはお気の毒に。…ええ、いますよ。すぐそちらへ向かわせますから。」
母の毒のある声にますます体がいうことを聞かなくなって、そっと目を閉じました。
「ったく、本当にどこまで私を縛り付けておけば気が済むんだろうね。」
母は乱暴に電話を切るとすぐ、また革紐をふるいあげました。
「やめて…」
私など目に入ってないかのように、ただ苛立ちに任せて叩き続けるその狂気に心の底から身震いがしました。それから、糸がが切れたかのように革紐を手放すと、キッチンへ行って支度を済ませると戻って来て言いました。
「ほら、持っていきな。婆さんがご病気だと。」
ふらつく足で、渡されたカゴを持ち、勝手口へと歩き出します。
「待ちな。そのまま行くつもり?もしかして、あの婆さんに助けを求める気じゃないでしょうねえ?」
母は薄ら笑いを浮かべると、すぐに不機嫌な顔になって、
「さっさと着替えて行って来な。こっちは客を待たせてるんだよ。」
テラスへ急ぐ母を目で見送り、カゴに目を落とします。被せてある布をのけると、ガラスに赤黒いぶどう酒が鈍く輝く瓶が丸々一本入っていました。それから、干しいちじくのケーキが1個入っています。
「よいしょ…」
メイドたちの話し声がキッチンから聞こえてきます。
「可哀想にネズミが鳴いてるわ。」
「野良ネズミね。」
クスクスと笑ってこちらを眺めています。着替えるためには屋根裏部屋までいかなければなりません。全身が痛みますが、大切なお土産にいたずらをされたら困るので、カゴを持ち直します。そして、屋根裏部屋へと続く螺旋階段へ一歩を踏み出しました。




