蜘蛛の月患い
風に吹かれながら、蜘蛛は空を見上げていた。
随分と美しい月だった。
こんなに美しい月を見たの初めてだと思うような月であった。
辺りは月明かりに照らされ、木々がほんのりと地面に影を写している。
なかなかどうして風情のある夜だと蜘蛛は一人ごちた。
魔性の夜だ、と何かが囁いた。
けれどもとても小さな声だったので、風が揺らした木々の音に紛れ蜘蛛には届かなかった。
あの美しい月をもっと近くで見てみたいものだと思った。
今、蜘蛛が住処を張っている場所はそれ程高くない。
もっと高い場所へ行けば、あの月との距離も近くなる。
もっと高くへ。
その一念で蜘蛛は木を登り始めた。
八本の足を必死で動かして。
少しでも早く。
少しでも高くへ。
他のものよりも多い足の数が、いつもより更に誇らしく感じられた。
もっと、もっと。
逸る気持ちを宥めながら、必死で頂上を目指した。
―やっと
喜びを感じながら、蜘蛛は空を仰いだ。
しかし、少しも近づいてなどいなかった。
自分を見下ろす月は、前と少しも大きさは変わっていなかった。
月は未だ中天。
煌煌と輝きながら、蜘蛛を変わらず見下ろしていた。
どうしてなのだ。
蜘蛛は強く月を望んだ。
美しく、高い場所から見下ろす月を。
どうやれば近づくことができるのか、蜘蛛にはようとして想像することが出来なかった。
同じ音の名を冠するあの存在は、当たり前のようにかの存在に寄り添い、時折守るように覆い隠した。
何故人は私とあれに同じ名をつけたのか。
あれと同じ名など!
自分の愛していた名が突然憎たらしくなる。
名前などいらぬ!
同じ名をつけるなら、同じ存在にしてくれ!
胸を焦がす想いが自分を否定する。
ただあれになりたい、強く思った。。
―風に流され、かの存在に寄り添うことの出来る。
何が違う。
私とあれでは何が違う。
違う。
何もかもが違っている。
分かっている。
痛いほどよく分かっていた。 けれど、願わずにはいられなかった。
―私を見下ろすあなた。
私はその美しさに心奪われ、あなたのただ一人になりたいと願うのです。
違う存在になりたいと願うほどに。
蜘蛛はなぜこれほどに月に近づきたいと思ったのかよく分からなかった。
逸らす想いを抑えることが出来なかった。
まるで病のようだ。
手に届かぬものを、想い身を焦がす。
絶望的な想い。
理由の分からぬ想いを誰が説明できようか?
荒れ狂う想いが何故抑えられようか?
ある美しき月の夜。
一匹の蜘蛛が抱いた想い。
それは果たして恋情か。
はたまた、ただのまやかしか。
誰にも分からない。
―月が魅せた一夜の夢というのもまた一興。