第6話 王都の夕暮れ
「美味しぃーーーーーい!!」
木のジョッキを豪快に空にし、カウンターへ勢いよく叩きつける。
紫のドレスが印象的な魔法使い――レヴィは、鼻に抜けるアルコールの余韻を楽しみながら机に突っ伏した。
魔王討伐の旅も、もう半年が経つ。
馬車は壊れ、ひたすら歩き続けるだけの日々。
道中、宿屋などなく、硬い地面の上で眠ることを余儀なくされる。
そんな状態で回復などできず、疲労が積もる一方だった。
だが、今日ばかりは――
「やっぱり、一か月ぶりの酒は沁みるわねー!」
レヴィはからのジョッキを掲げ、マスターにもう一杯と注文した。
マスターは怪訝そうに眉をひそめる。無理もない。彼女の隣にはすでに、空になったジョッキの山が築かれていた。
この村は小さいが、珍しく大浴場がある。湧き出る温泉のおかげらしい。
良い場所を見つけたものだ――そう思いつつも、レヴィにとっては風呂より酒だった。 村に着くなり荷物を放り投げ、名物の温泉は烏の行水で済ませ、駆け込むように酒場のカウンターに腰を下ろしたのだ。
悪くない酒場だ。
村の住民が数組、静かに談笑している。空席も多く、落ち着いた空気が漂う。王都の酒場のような喧騒はなく、静寂の中で思う存分酔える。
「もー朝まで飲んじゃおっかなぁー」
「ね、ねぇ……もしかして、あなたレヴィ?」
「何? お断りよ? 今日は一人で――って! ああああああああ?! ウィン! ウィンじゃない!」
「やっぱり。久しぶり、地龍討伐以来ね」
ウィンと呼ばれた女性は、杖を置くとレヴィの隣に腰を下ろした。
若草色の長い髪が特徴的で、今見ても地味な自分の黒髪と比べると少し羨ましくなる。
彼女とは数年前、地龍討伐の際、同じ班で戦った仲だった。
風魔法の使い手として、彼女以上の存在をレヴィは知らない。全属性を操る自分でも、風魔法の純粋な威力では彼女に勝てない。
グラディア王国で活動していると聞いていたが、こうして辺境で肩を並べて話すのは久しぶりだった。
「飲み過ぎじゃない? またあの時みたいに介抱するのはごめんだよ?」
「大丈夫大丈夫、今回は二階の部屋に辿り着けさえすればいいから。……這ってならいける」
「這うほど飲まないでね……あの時だって家まで連れてったの私なんだよ?」
「え、嘘? 自分で帰ったと思ってた」
討伐後の宴会の翌日、レヴィは自室のベッドで突っ伏していたが、あれはウィンのおかげだったらしい。
「よかった、元気そうで。勇者との旅はどう?」
「大っ変。王宮の仕事であちこち回ってる時の方が楽だったぁー」
「そんなに?」
ウィンは微笑みながら、マスターに「私にも同じもの」と注文した。
勇者が旅立った日、グラディアでは大々的なパレードが開かれた。
国を挙げたお祝いのため、どの地域に行っても「勇者様!」と歓迎される。もちろん、仲間のレヴィもその対象だった。ウィンも、どこかでその噂を耳にしていたのだろう。
「大変よ。聞いて、あいつ、初級の魔法しか使えないの。何が無限の魔力よ。威力は確かに凄いけど、魔力の許容量があるじゃない? いいかげん中級くらいは使ってほしいのに、何度教えても……あいつは!」
「まぁまぁ、初級でも竜を一撃で倒したって話じゃない。今はそれで十分でしょ。それに、そんなすぐに使えるようになるのはレヴィだけだよ? 私だって……中級で三か月くらいかな」
「長くない? わっかんないわ……」
ここに来てからというもの、レヴィには他の魔法使いの成長速度が不思議でならなかった。
中級魔法など数日もあれば覚えられるだろうに。
「でも、普通の人は半年って言ってたっけ。三か月なら早い方か」
「レヴィの前だと、自慢にならないけどね」
そういう彼女を見て、レヴィは少し考えた。
自分に比べれば劣るが、ウィンは確かな実力者。
あの勇者の成長を見守る立場として、もしかしたら彼女から助言をもらえるかもしれない――と。
「……あんた前魔法教える仕事もしてたって言ってたわよね。教えるコツない? 魔力の操り方とか基礎的なことは教えてるんだけど」
「その……魔力の操り方ってなに? だって魔法って古代の言語を詠唱すれば出るものじゃない」
「え――」
ウィンの表情は真剣だった。冗談を言っているようには見えない。
口を開けてまま固まっているレヴィに対し、彼女は続けた。
「その言葉が何を意味するのか理解して、どう発動するかを考え、何度も試行錯誤して頭に覚えさせる――それが魔法だよ」
「ち、ちがうでしょ! 魔力がどう作用するのかを覚えて、『コントロール』……じゃなくて、『操って』現象として発現させるのが魔法じゃないの? 詠唱なんて、覚えた操作をすぐ使えるようにするための――」
「あ、思い出した。あの時、飲みの席でも同じこと言ってたね。あの後気になってちょっと調べたりしたけど……そんな方法についてどんな文献にも書かれてなかった」
ウィンは空になったジョッキを置いた。
「――多分この世界で、誰もそんな方法で魔法使ってないよ」
レヴィは愕然とした。
王宮魔法使いとなった日から、魔法を教えてほしいと願う者は絶えなかった。自分の知識を惜しみなく伝えようとしたが、次第に志願者は減っていった。皆、説明を聞くうちに不思議そうな顔をしていたのを思い出す。
幼い頃、師に教わった魔法の使い方。
必死で勉強し、魔力の作用についてあらゆる文献を読み漁り、吸収して鍛錬を積んできた。
しかしここでは、その全てが否定される。
何かがおかしいことは、心の奥で感じていた。ウィンの言葉が、それを確信に変えてしまった。
きっとこれ以上、熱弁したとしても、ウィンは信じてくれることはない。
レヴィは目を伏せ、息を吐いた。
「……ごめん、変な話して。今の無し、飲み直しましょ!」
「……うん」
「レヴィー! ちょっとレヴィー!」
誰かが呼ぶ声に、レヴィは顔を上げた。
二階の廊下の手すりから、銀髪の少女が身を乗り出してこちらを呼んでいる。その腰には、金髪褐色の女性が必死にしがみつき、何やら抗議していた。二人とも寝巻き姿だ。
「私と部屋変わってー!」
「そんな!? ダメだ! アリスお願いだ! あれは何かの間違いで」
「私の下着がお姉ちゃんの荷物から出てきて何が間違いなのか言える?」
「それは違うんだ! あ、後から、渡そうと!」
「一番奥に入ってたのに?」
「うぐっ」
銀髪の女性は呻き、それ以上の抗議はせずに項垂れた。
「そういうわけだからー、おねがーい」
「はいはーい」とレヴィは手を振る。
少女は泣き崩れる女性を置き、廊下を走り去っていった。
女性は背を向けたまま、「アリスぅ……」と声を漏らし、しばらく泣き続けていた。
「えっと……あれはいいの?」
「うん。あれはそろそろ反省した方がいいわ」
「相当、妹ちゃんのこと好きなんだね」
「大好きにしては方向性おかしい気がするんだけど……そもそも下着泥棒はやりすぎ」
とぼとぼと去っていく女性を、レヴィは静かに眺めた。
旅の仲間である彼女――クリスは、最初からあんな感じだが、旅が終わる頃には少しはマシになっているだろうか。いや、たぶん変わらない。
するとボソッと「いいなぁ……」とウィンがつぶやいた。
レヴィは咄嗟に酒を吹き出しそうになるのを堪えた。
「ゲホッ……どこが!?」
「好きな人と一緒にいれること」
ウィンの髪の隙間から、青色の耳飾りがちらりと覗く。
菱形を半分に割ったような形状。レヴィはそれに見覚えがあった。
思い合う二人が互いの関係の証として、一つの宝石を二つに分け、一つずつ持ち合うものだ。
「その髪飾り……も、もしかして?!」
「そう。私の婚約者と対になってるの」
レヴィは驚いて、ジョッキを溢しそうになった。
「おめでとう!! 相手は!? 式は?!」
「幼馴染。式はまだだよ。グラディアに戻って落ち着いたらしようねって決めた」
「そっかぁ……帰れないの?」
「うん。魔物の討伐依頼が次から次へとね。この村の依頼は今日で終わりなんだけど、明日からは別の村で護衛、その後も色々……なんか、グラディアからどんどん離れてる気がする。いつ帰れるのかな」
ウィンは天井を見ていた。
きっとその向こうの、恋人を思っているのだろう。
雄矢を連れての旅路では、立ち寄る村や街の魔物は討伐できる。しかし、魔物の侵攻全体は止められない。
勇者の手の届かない地域では、ウィンのような実力者たちがその地へ出向いて戦い、侵攻を食い止める必要がある。
ウィンはレヴィに視線を戻すと、フッと口角を上げた。
「だからさ、レヴィは早く魔王倒してね」
「私を誰だと思ってんの? 王宮魔法使いよ」
「それは心強い」
「でしょ? 任せといて!」
二人はそう言うと、ジョッキをぶつけ合った。
思えば、あの惨劇は、この日の次の夜だったか。
――世界が、赤く滲んでいた。木々は燃え、風が呻く。
煙の中、僅かに血の匂いが混じっている。空気に触れているだけで痛みを感じる。
地面に倒れたまま、レヴィはぼんやりと空を見上げていた。
頭の奥で鈍い音が響く。何かが焼ける音と、誰かの悲鳴が重なっていた。
立ち上がらなければ――そう思っても、直前に起きた爆発を受けた全身が悲鳴をあげていて、言うことを聞かない。
視界の端で、黒い影がゆらりと揺れた。
炎の中から、ゆっくりと立ち上がる人影。
それが誰かを、レヴィは知っていた。
「……雄矢……」
声は掠れ、息と一緒に消えた。
彼は何も答えない。ただ、立っていた。
その瞳だけが、炎よりも冷たく、濁りのない狂気を宿している。
「どうして……こんなことを……」
震える声が漏れる。
返事の代わりに、雄矢はゆっくりと視線を落とした。
足元には、横たわる金髪の少女――アリス。
虚ろな目には光がなく、空の黒と火の赤だけを反射して、もう動かない。
「五月蠅ぇよ、モブが」
その声は静かだった。淡々とした口調なのに、胸を刺すほど重かった。
「俺が何しようが問題ねぇだろ」
レヴィは言葉を失った。
目の前の現実が、理解の外にある。
少女の首に赤い痕がある。
雄矢がその手で締めたのだと気づくのは簡単だった。
理解できても、心だけが追いついてこない。
どうして、なぜ?
『問題ねぇだろ』
あの言葉が、何一つ理解できない。
自分の頬を伝う血と涙が混ざり合い、視界が赤に溶ける。
彼女は這うように手を伸ばしたが、雄矢は一歩だけ下がった。
「また一から始めるか。俺の異世界生活を。あ……ゼロからの方がいいな。流行りそうだ」
炎に照らされたその顔に、薄い笑みが浮かぶ。
その手は、ゆっくりとレヴィの方へ伸びた。
瞬間、圧倒的な魔力の濁流が彼女を飲み込む。
「――?!」
声が出ない。
脳内はかき乱され、視界は歪む。
魔力を操作する技術はあっても、この暴力的な物量を押し返す術はなかった。
抗うこともできないまま、意識が遠のいていく。
「雄矢……」
途切れかけた声で、手を伸ばす。
「あんたは……何を……」
その手の先で、彼は何も答えなかった。
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「答えて。この国で何をするつもりなのか」
将斗は自分の手を見た。震えている。
なぜなら目の前の女性――レヴィは、雄矢の仲間だった。
そんな彼女に、自分の本当の目的――雄矢のスキル『無限魔力』を奪うつもりだとは、死んでも悟られてはならない。
バレたら終わり。
雄矢にとって、あのスキルは王であるための『核』だ。
奪われると知れれば、どんな手を使ってでも阻止してくるはずだ。
そして、その魔の手が最初に向かうのは間違いなく――将斗の方だ。
将斗は嫌な汗の感覚に顔を顰めながら、周りを確認した。
馬車の外では、検問の列が進んでいる。
幌で覆われた荷台からは外の様子は見えない。
助けを求めるにも、後方の馬車とは距離があり、運転手たちは皆、俯いたままだ。
「助けてもらおうなんて、無駄よ」
「……と言うと……?」
「私の催眠魔法で、私たちのことは気にならないようにしてるから」
レヴィの声は穏やかだった。
なのに、その一言が冷たく喉を締めつけた。
「……便利なことで」
皮肉のつもりで口にしたが、声が掠れた。
さっきの戦闘でも痛感したが、彼女はこちらの行動の先に読んで手を打っている。
この沈黙の間に、すでに逃げ道のない盤面を完成させていたのだ。
「そこまでするなら。初めからその魔法で好きに吐かせればよかっただろ」
会話を繋げて時間を稼ぐ。
その隙に、策を探すしかない。
「言ったでしょ。この魔法、嫌いだって」
「……国の脅威がどうとか言う癖に、あ――」
『甘くね』と言おうとしたのに、言えなかった。
この言葉を吐けば、完全に敵同士になる気がしたからだ。
だが、レヴィは顔色一つ変えない。
馬車が小さく揺れる。
前方の検問が、もうすぐそこに迫っていた。
「もう時間がない。検問は厳しいよ。ひたすら箱を開けて検品する。こういう荷台だって国指定のものじゃないと突っぱねられるくらい」
「隠れられない、と」
「逃げるのも当然無理。うちの兵は優秀だから『超強化』で足を速くしようが逃げられないわ」
「……」
「拷問はキツいらしいわ。最悪、すぐに処刑も今ならあり得る」
聞きたくもないワードに、思わず唾を飲む。
手が思いつかない。
最後の手と考えていた逃走すら無理。
早く、なんとかしなければ終わる。
念願の異世界転生が、こんな検問所で終わる。
「でも答えによっては、私の催眠魔法で助けてあげなくもない」
「……なんで?」
「知り合いを拷問にかけたくはないから」
視線を前に向ける。
一つ前の馬車が検問を受けていた。
統一された鎧を纏う衛兵たちが荷台を開け、木箱を一つひとつ開梱していく。
――レヴィの言うとおり前の馬車の荷台は、指定のものだからか、今将斗たちのいる荷台と『全く同じ作り』だった。
「嘘はすぐバレるから素直に答えて」
「気に入らない答えだったらどうなる」
「衛兵に引き渡して、それでおしまい」
「おしまいか……」
前の馬車が検問を終え、城門をくぐる。
隊列が動き出し、将斗の馬車も誘導され始めた。
もう――時間がない。
「俺は――」
正直に告白するわけにもいかない。
なら、彼女の発想を上回らなければ。
「異世界に行きたいってずっと思ってた」
「……何を言ってるの?」
レヴィの目がわずかに細まる。
気づかれたか?
いや、まだ――いや、もう遅い。どっちにしてもやるしかない。
「こんな序盤で終わりなんて、冗談じゃないね」
「やめて。おとなしくしていれば――」
「どうせなら雄矢と戦うとこまでは行きたいんだよ!」
将斗は叫ぶように言い放ち、荷台の床に片手を叩きつけた。
前方では、前の馬車が城門をくぐろうとしている。
衛兵の視線が、こちらに向きかけた瞬間――
「『交換』」
空間が、ねじれた。
視界が白く弾け、次の瞬間には景色が一変していた。
城門前の舗装路は消え、足元には石畳。
周囲には建物が立ち並び、人々の喧騒が押し寄せる。
――既に、馬車は街の中に入っていた。
「馬車ごと入れ替わった……?!」
レヴィが驚愕に目を見開く。
「指定の荷台ならサイズも同じだもんな! 言われた通り、自分のスキルと向き合った結果だ。それじゃあまた――」
将斗はその時、少しの間でも仲良く話した相手だからか、彼女に対して少し寂しさを感じた。
けど、もう彼女からは離れなければ。
彼女は手を伸ばしてきた
「待って!」
「『交換』」
「あっ……」
レヴィの目の前には、剣を携えた見知らぬ男が立っていた。
その男が驚きに目を見開くより早く、レヴィは歯を食いしばる。
「――やられたっ!」
彼女は馬車の前方、運転手の隣から顔を出した。
街路を駆け抜けていく人影がある。
もう、追っても間に合わない。
「なぁ姉ちゃん、ボケちまったかな。今から検問だった気がしたんだが」
「……もう終わった」
「そうかぁ、歳だな俺も」
肩を落とす運転手を尻目に、レヴィは遠ざかる影を見送った。
彼女はそのまま運転手に催眠魔法をかけ、自分の存在をぼやかすと、――右手を耳に当てて、低く呟いた。
「ごめん。逃げられた」
『……聞けたのか?』
頭の奥に、声が響く。
わずかに眉を寄せながら、レヴィは短く答えた。
「……それも、ごめん」
『なら今すぐ――』
「大丈夫、だと思う……」
一瞬、沈黙。
通信の向こうで、息を呑む気配があった。
『根拠は』
「……私の勘」
その言葉に、声は途絶えた。
静寂の中で、レヴィは小さく息を吐く。
荷台に戻ろうとすると、見知らぬ男はまだそこにいた。
「あの、俺……なんでここに?」
そう言えばいたなと、レヴィは面倒そうに息を吐いた。
「知らない。歳なんじゃない?」
男はポカンとした顔をしたあと、「そっかぁ」と首を傾げながら荷台から飛び降りていった。
その背を見送りながら、レヴィは肩を落とした。
ふと耳を澄ますと、後方の検問が騒がしくなっている。
「検問ならさっきやったろ!」という怒号が、城門前に響いていた。
************************************
夕暮れの光が王都の石畳を柔らかく染めていた。
将斗は人の多い大通りは避け、細い路地をいくつも曲がりながらゆっくりと進んだ。街の喧騒はまだ残るが、どことなく華やぐ声や木箱の軋む音が混ざる。どうやら、何かの催し――祭りなのかもしれないが、確証はない。
「流石にもういいか」
かなり歩いた。
ここまで逃げれば追ってこないだろうと判断し、将斗は細い路地を抜け出した。
「すっげぇ異世界っぽい……!」
木造の家々が軒を連ね、暗くなり始めた屋根の上には小さな燈籠が置かれ、空に淡い光を投げている。
ふと見上げると、薄い靄のようなものが漂っていた。
あれも魔力なのだろう。
「やっぱ異世界は魔法ありきで発展するんだな」
電線一つ見当たらない。電気と共に発展してきた元の世界とは、文明の根幹が違うようだ。
まだ見ていないが、魔力を使った車とかあるかも――などという期待を胸に、将斗は歩いた。
香辛料や焼きたてのパンの匂いが漂い、遠くからは人々のざわめきが届く。
やがて視界が開け、夕暮れの影が街全体を包む中、王城の尖塔が空に聳え立っていた。
「高っけぇ……スカイツリー……は言い過ぎか」
中央の主塔は他を圧倒する高さで、雲に届きそうな存在感を放つ。
その周囲には見張り塔がいくつも並び、城全体が巨大な槍の森のように空を突き刺し、見る者を拒絶する威圧感を放っていた。
四隅の小塔は控えめながら、城壁の影から街を睨む鋭い目のように立っている。塔の先端に掲げられた旗が、夕風に揺れ、かすかに音を立てている。
「多分、鈴木雄矢がいるのは真ん中の塔だよな……」
腕を組み、少し考える。
「『超強化』あるし、あの石の壁登って忍び込んでこっそりスキル奪えば終わりじゃね? ……まぁ、そんな上手くいかないか」
『超強化』の身体能力なら、壁を垂直に登るのは難しくないはずだ。
しかし、従えている仲間の一人に、あのレヴィがいる。
初めて会った時の戦闘を思い出すと、今でも身震いが止まらない。
今逃げ切れているのも、運が良かっただけだ。
『交換』が、馬車を荷台ごと同じサイズと判定してくれなければ、今ここにはいなかっただろう。
入れ替えの代償として『二回目の検問を受けるであろうおじさん』のことも、心の中でそっと謝った。
「にしても、レヴィがあれだと……あと二人は何なんだ……」
神からの情報で、雄矢には三人の仲間がいる。
レヴィ以外の、まだ見ぬ二人の存在に寒気が走る。
もし王城への侵入がバレれば、邂逅は避けられないだろう。
「大地とかひっくり返すんじゃねぇだろうな……」
悪寒を感じながら、将斗は開けた場所に出た。
王城からまっすぐ伸びる道の先にある、広々とした中央広場だ。
広場の中央には舞台のようなものが作られ、十数人が資材を運び込むなど慌ただしく動いている。
出店の設営を行う人、石畳に何か塗っている人もいて、準備が進んでいることが伝わる。やはり、祭りなのか何かの催しがあるのだろう。
「……なんだあれ」
広場の中心には、石畳を覆い隠すように巨大な仮設舞台が組まれていた。
奇妙なのは、舞台の足元――その床下から左右へ逃がすように、太い木製の樋が伸びていたことだ。中は豊かな水が勢いよく流れている。
視線を辿ると、王城の方角から真っ直ぐに綺麗な水路が伸びてきており、その終着点がちょうどこの舞台の真下になっていた。
本来そこには泉か噴水でもあったのだろうか。水は木枠のコースを通って、広場の外へと流されている。わざわざ迂回させているのだ。
そこまでして、用意したい舞台とは一体どんなもので、何に使うのか――将斗の興味が、自然と舞台に向かう。
しかしその時、城壁の影が将斗の顔を暗くしたことで、一番の問題を思い出した。
「夜どこで過ごすか……?」
日が落ち始め、街の影が長く伸びる。
どこに身を潜めればいいのか――知らない街の深夜を歩く勇気はない。
細い路地を探して、雑魚寝するしかないのだろうか。
宿屋を探しても、金がない。
「仕事するので泊めてください」と交渉するしかないが、人見知りの将斗に、交渉する勇気はない。
「その辺、神様がちゃんとサポートしてくれればな――」
ふと、視界の隅に違和感が映る。
広場の向こう、細い路地の入り口に、三人の男がぴたりと立っていた。
そして、その足元で二人の小さな子供が震えるように立っていた。
男たちは子供を見下ろし、路地の奥へと無理やり引っ張っていく。
「――――!! ――!」
子供は必死に手を伸ばし、声を上げているようだが、周囲の大人たちは作業に夢中なのか気づいていない。
「え、ちょ……嘘だろ……」
見間違いであってくれ、と願った。だが将斗の体は強張ったまま動かない。胸の奥にひりつく違和感は、紛れもない現実を告げていた。
連れて行かれる子供の絶望したような表情が将斗の心を締め付ける。
「い、行ったほうが……いやでもな」
しかし、助けに行ってどうするのか。
『超強化』を過信していいのだろうか。
レヴィは、衛兵なら対応できると言っていた。きっとその程度のスキルなのだ。
しかし、あんなチンピラ風情なら話は別だ。衛兵ほど鍛えられているようには見えない。
だが、もし騒ぎになれば、衛兵やレヴィに見つかる可能性は高まる。
「見なかったことに……はできないか……」
ここで動けば自分も危険にさらされる──それはわかっている。
あれを見捨てて、平穏に過ごすのが夢見た異世界生活か? 違う。
あんな顔を見て放っておくのは、自分の望んだ異世界転生じゃない。
「ああもう……」
将斗はしゃがんで、地面を見た。
見慣れない地面。
こんなところでもし返り討ちにあって死にでもしたらと考えると足が動く気がしない。
「……すぐ子供連れて逃げるか。それだ、それで行こう」
別案で心を落ち着かせた。
そうでもして行かなきゃいけない気がした。
こうしている間にも胸の奥がざわついて仕方ない。
少なくとも駆けつけるまでは無事であった欲しいと願った。
「あああ、めっちゃ怖ぇなぁ……くそっ!」
将斗は自分を奮い立たせるように呟くと、バッと立ち上がって路地に向かって駆け出した。
********************************
「やめろ! 俺たちは何も盗んでない!」
「じゃあなんで俺の財布をテメェが持ってんだアァ?!」
怒声が狭い路地に響き、石畳の上に少年が叩きつけられる。
倒れた拍子に手から革袋が転がり、チンピラの一人が靴で踏みつけた。
「おーおーこいつ泣いてるぜ。悪いのはテメェらなのによ」
もう1人のチンピラが年端もいかない弟の手を掴んでいた。
「やめろ! 弟だけは――ぐあっ!」
少年の顔に蹴りが入る。
「お兄ちゃん!」
弟の小さな声が震える。
少年は血の滲む口元を押さえながら、無理やり笑おうとした。
大丈夫だと、言うように。
だがその笑顔はすぐに崩れた。
チンピラたちは口の端を吊り上げ、ゆっくりと距離を詰めていく。
「へへぇ、久々にいいおもちゃが手に入ったなァ」
チンピラが金属棒を振り上げる。
月明かりが、鈍く反射している。
少年はわずかに顔を上げた。
「たす……」
助けを求めるように口を開くが、声にならない。
喉がひゅっと鳴る。
それでも、弟の小さな背中が視界に入るたび、拳を握りしめていた。
――次の瞬間、肺が震えた。
「誰か、助けて!」
その声は、路地を抜けることなく、夜風に溶けて消える。
足元が崩れるような感覚を少年は味わった。
――だが、そのとき。
「おい!」
低く響く声にチンピラ三人の動きが止まる。
振り向いた先、路地の入口に一人の男が立っていた。
「あぁ? なんだ、テメェは」
「俺? お、おお、俺は……」
目の前に広がる惨状を見て、思わず息を飲む。
リアルな暴力がそこにあった。
将斗はわずかに息を吸い、吐く息の中で、自分の恐怖を押し殺した。
そして、震えそうになる膝に力を込めて、言った。
「――正義の味方……だ……です」
もう少しビシッと決めたかったと、言ってから後悔した。
更新遅くなりました。
どうか、お許しを……




