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第4話 異世界はこわい

 足元の草が蹴られるたびに、柔らかくざわめいた。

 視界の先には草原が果てしなく広がり、遠くには小さな丘や木々が点在するだけ。人影など微塵もない。


「うっ……つ、疲れた……!」


 息は荒く、肩が勝手に上下する。

『超強化』のスキルのおかげで身体能力は跳ね上がっているはずだが、全力で駆け抜けていれば流石に限界がある。

 脚の筋肉はじんわりと痛み。肩も腕も振るたびに筋肉が軋む。

 『超強化』の効果は『無限インフィニティ』ではないらしい。


 しかし、休んでいる暇はない。

 草原の向こう、地平線近くに、城壁らしき構造物が見えていた。

 光の加減で最初は錯覚かと思ったが、近づくにつれぼんやりと高い石の壁や塔が連なっているのがわかる。


「もうちょいだな……!」


 胸の高鳴りが止まらない。孤独な草原、誰にも会えなかった時間の寂しさが、街を視界に捉えただけで和らぐ。

 だが、距離はまだ結構ある。城壁まで軽く数キロはあるだろう。

 疲れた脚に負担がかかるのを感じつつ、将斗は全速力で前進を続けた。


 息を荒げながらも、将斗は歯を食いしばって前へ――その時。

 地平線の向こうに、かすかに揺れる影があった。最初は蜃気楼かと思ったが、徐々に輪郭がはっきりしてくる。


 アーチ状の骨組みに張られた、日差しに焼けた白い布が風にはためいている。ゲームやアニメでよく見る、あの『幌馬車』だ。木製の車体、陽光に反射する金具、そしてその前で――馬を操る人物の影。砂煙を引きながら、確かに()()()()()


「馬車じゃん!」


 歓喜の声が勝手に漏れる。

 久々の人影に、全身の疲労が一瞬だけ吹き飛んだ。


「助かる〜!」


 お願いして馬車に乗せてもらえれば、楽に街まで近づけるはずだ。

 さらには、正確な現在地も教えてもらえるはず。

 疲労で脚が重いのを感じながらも、希望に胸を躍らせ、将斗は馬車に向かって駆け出した。


――その時、馬車の上空に『二つ目の太陽』が現れた。


 最初それを見た時、見間違いかと思った。しかし、本物の太陽は真上で暖かな光を送っている。

 見た目はただの光の玉。けれど、数百メートル離れたこちらまで熱風が届き、肌がチリチリと焼ける感覚が伝わってくる。


――そして警告のように、胸の奥がざわつく。

 

「もしかして……魔法か?」


 まだ確信は持てない。だが、本能が告げていた。

 この違和感は、ただの自然現象じゃない、と。

 目を凝らすと、馬車の荷台の上に人影が見えた。

 その人物の手が、こちらを指すように向けられていた。


「なんかこれ、やば――」


 そのとき、炎の玉が静かに浮かび上がり――空気を焼く音とともに飛来した。


――ゴォォォォッ!!


 一瞬で将斗の横を駆け抜ける。

 次の瞬間、背後の草原が爆ぜた。

 

 轟音とともに、熱波が背中を叩く。砂と土が舞い上がり、衝撃で呼吸が止まりそうになる。


「っは?! はぁぁ?!」


 振り返れば、地面が抉られ、赤く燃え上がる裂け目から火の粉が舞い上がっていた。

 まるで小規模な火山の噴火口だ。

 直撃していたら、骨も残らなかっただろう。


 これは紛れもなく魔法だ。

 初めて見る異世界の『魔法』だった。


「す、すげぇ…………じゃねぇ!」


 感動している場合ではない。将斗はすぐさま馬車の方へ視線を戻す。

 そこにあった光景に、目を疑った。

 馬車の上には既に、六〜七個の火球が展開されていた。


――考える間もなく、駆け出していた。


 あの威力を持った火球が複数。

 すぐに背後で、空気を裂くような轟音が連続して響く。


 さっきまで自分が立っていたあたりが、爆ぜた炎と煙に呑まれていく。

 もし立ち止まったままだったら……そんなことを考えている余裕などない。

 火球は、意思を持つかのように次々と将斗を狙って飛来した。


 着弾と共に間隔を置かず、草原を縫うように迫る光と熱。

 走り抜けた地面が数秒のラグを経て爆発し、爆風に乗せられた細かな塵が肌に刺さる。


「っはっ、しぬっ、死ぬっ、死ぬ!」


 肌をかすめる熱に体が跳ね、恐怖で心臓が締め付けられるように痛む。

 将斗は全力で草原を駆ける。


 スキルを得てから全力で走ったのが、ここで牙を剥いてくるなど予想できるわけもないが、将斗はひどく後悔した。

 足を止めてしまいたい。だが、視界の端に映る炎の軌跡が恐怖を増幅させ、止まることを許さない。


「死ぬ死ぬ死ぬ! まじで死ぬ!」


 逃げながら解決策を考える。

 なぜ攻撃されているのか。全く心当たりがない。

 叫んで弁明しようにも、爆音で声など届かない。


――その時、草に足を取られた。


 緑の絨毯が眼前に迫る。

 だが間一髪、眼前まで迫っていた地面を殴りつける。

 『超強化』による馬鹿力が功を奏して、将斗の体は止まることなく前方に吹き飛んだ。

 そしてそのまま、勢い任せに体を転がす。


 「あぁっあっぶねぇ!!」


 生死がかかった状況で己から勝手に発せられた緊張感のないセリフに、将斗は引きつった笑みを浮かべた。

 転がりながら、直前に躓いた理由が、地面が緩い下り坂になっていたことだと気づく。

 ならばと、その傾斜を利用してスライディング――そのまま速度を落とさず腰の角度を絶妙に調整し、次の瞬間には前傾姿勢のまま、脚を蹴り出して再び走りのフォームに復帰する。


「ハッ……ハハハよっしゃ! 『超強化』様様ァァ!」


 どうして叫んでいるのかわからない。

 恐怖でテンションがおかしくなっている。

 

 神様が言っていた「チート能力を持つ転生者を倒せ」よりも、ずっと今の理不尽の方がリアルに死を感じさせた。


 息が荒くなっている。

 いつまでも逃げていられない。

 だが、突然――視界がふっと暗くなる。


 何かが、頭上に影を落としている。

 見上げれば、空の一角が鈍く光っていた。そこには太陽を遮る巨大なガラスの塊。

 次の瞬間、凶器が落ちてきた。


「つめたっ?!」


 轟音とともに地面がえぐれ、破片が頬を切り裂く。

 ガラスではない、氷だ。

 人一人は簡単に押し潰せそうな氷柱が、突き刺さっている。

 凍りついた草の匂いが鼻を刺し、将斗は息を呑んだ。


「殺しに来てるじゃん……」


 身の毛がよだつ感覚に将斗はすぐさま地面を蹴った。


 立て続けに空から影が落ちてくる。大小さまざまな氷柱が、雨のように降り注いでいた。

 体勢を崩した将斗は必死に転がり、回避を試みる。地面に手や肩を打ちつけて小さな痛みが走る。

 回避した後の地面に氷柱が連続して突き刺さり、土の塊と草が跳ね上がる。

 少しでも遅れていたら串刺しだ。将斗の恐怖など知らないようで、氷の塊は容赦なく降り注ぐ。

 地面には突き刺さったままの氷柱が無数に残り、壁のようになっていた。


「だったら――っ」


 残っていた氷の残骸を盾にするように隠れた。

 隠れながら、馬車の方へ視線を向ける。

 

 一旦休憩。状況を把握しなければ。

 そのまま体勢を立て直そうとした瞬間――頭上で氷柱が鈍い音とともに弾けた。

 新たな氷柱が、壁にした氷柱を直接砕いてきたのだ。


「ダメかよっ!」


 将斗はすぐさま駆け出した。

 隠れる場所も作らせてはくれない。

 明確な殺意を持って、将斗を仕留めにきている。


 もう隠れる手は使えそうにもない。

 将斗を狙う氷柱とは別に、その手は使わせまいと、まばらに刺さっていた氷柱が次々に、丁寧に破壊されていた。

 

「お見通しかよ……っ!」


 走りながら、将斗は考えた。

 この連続攻撃、逃げているだけではジリ貧だ。


「行くしかない」


 覚悟を決めて、馬車の方へ進路を取る。

 降り注ぐ氷柱の軌道を見定める。よく見れば避けられる。

 あれは的確に自分を狙っているのだから、逆に言えば軌道は読める。


 右方向へ避けた。地を蹴った瞬間、氷柱が地面に突き刺さり、土の破片と白い粉塵が舞い上がる。


 将斗は迫り来る氷柱の隙間を縫うように駆け抜けた。

 『超強化』された動体視力が全てを捉え、得られた情報から生存ルートを必死に選び取る。

 この氷塊の雨の中、ほんの一瞬の判断ミスは命取りになる。


――あと少し!


 距離は100メートル以上はあるだろう。だが、今の将斗の走力ならきっと十秒もかからない。

 馬車の上の人影が見える。黒いローブを被っている。顔は見えない。


 右手をこちらに向けている。

 あれが将斗に攻撃してきているいわゆる『魔法使い』というやつなのだろう。

 その魔法使いと目が合った気がした。

 すると魔法使いが今度は左手を将斗の方へ向ける。


――その瞬間、目の前の地面が裂けた。

 

 地割れだ。今度は火、氷と来て、今度は地面タイプの魔法だろうか。

 その裂け目は将斗目掛けて徐々に迫り来る。

 ジャンプして飛び越えてやろうと考えて――やけにその裂け目が、綺麗なことに気づいた。


「これっ……?!」


 反射的に右方向へ身を投げ、目に見えない()()を避けた。

 大地へ綺麗な裂け目を残しながら、何かが通り抜けていった。

 その軌跡を後ろ目に追う。後ろに刺さっていた氷柱が、縦に真っ二つに割れていた。


「風の刃的な……?」


 さらに大地を裂きながら、無色の――風の刃が再び迫る。

 縦に三本。

 それらの間隔は広い、その間を縫えば――。


 ヒュン!


 すると、目の前で空気が鳴った。

 全身が大音量で警鐘を鳴らす。


「かっ――」


 舌を噛み切りそうになりつつも、将斗は反射的に上体をそらした。

 風を切る音と共に、見えない刃が頭上をかすめ、前髪を数本切り裂いていった。

 背後で氷柱が切断される音がする。

 心臓が爆発しそうだった。


「見えないのはズルだろうが……!」


 地面と平行な向きの刃だった。

 大地を裂く縦の刃を見せたのは、いわばブラフ。

 地面の裂け方に注意すれば避けられると油断させ、本命の「見えない横薙ぎ」を混ぜてきたのだ。

 空気の音が無ければ、気づかない間に将斗の体は上下二つになっていただろう。


「マジで殺す気じゃねぇかよ!」


 叫んだ瞬間、視界の端で氷がきらめいた。

 放たれた氷柱が、斜めに滑り込むように地面へ突き刺さる。続けざまに、風の刃がその氷柱を断ち、砕けた破片が散弾のように飛び散った。

 氷柱と風の刃、攻撃が二段構えで襲ってくる。

 風の音が氷柱で遮られ、次にどこから刃が来るのか予想できない。


 将斗は必死に身を捻り、転がり、わずかな隙を縫って前へ進もうとする。

 しかし、また氷柱に行手を阻まれる。その氷柱が裂け始めた瞬間、将斗は身を投げ、見えない刃から逃げる。

 氷柱の裂け方を見て一瞬で判断しなければならない。

 今までの人生で一番と言っていいほど、将斗は全神経を眼球へ集中させた。見逃したら終わりだ。


「はぁっ……はぁっ……」


 肌を掠める氷の破片が血を引いていく。

 氷の破片が頬を裂き、風が肌を剥ぐ。小さな痛みの連続が、恐怖と焦燥を混ぜて意識を塗り潰していく。

 思考が焼き切れそうだった。

 ただ本能だけが叫んでいた――動け、止まるな、と。

 前に進むためにはまず、この氷と風の攻撃から逃げなければ。


――そうして必死に目の前のことに気を取られていたのが、不味かった。


 ドンッという衝撃があった。


 風の刃を避けた将斗の背中が、何か硬いものにぶつかったのだ。

 振り返ると、目の前には、無数の氷柱が組み合わさってできた壁があった。

 目を疑う。そんなものあるはずがない。さっき自分はここを通ってきたはずだ。人が通れないほど連なった氷柱の壁なんてなかった。


 しかし、実際にある。

 隙間風すら通さないほど、縫い目のように連なった氷が淡く光を反射したまま、逃げ道を塞いでいる。

 そこで気づいた。右も左も同じように壁ができている。

 囲まれていた――そう悟った瞬間、将斗の胸に冷たい絶望が広がった。


「そうだ、逃げないと……?」


 攻撃の手が止まっている。

 理由はわからない。わかりたくはない。

 将斗は息を飲み、呆然と立ち尽くした。


 そのとき、肌を焼くような熱気が頬を撫でた。

 視線を上げると、火球が自分――ではなく、地面に突き刺さった氷柱の一つに向かって飛来していた。

 着弾の瞬間、爆ぜるような音とともに蒸気が立ち上る。

 水の音と熱が混ざり、世界が白く塗り潰されていく。


「終わった……」


 視界が、光と水蒸気に飲み込まれた。

 将斗は膝をついた。


 詰みだ。

 

 戦闘経験の差というものを、見せつけられた。


 将斗が回避ばかりに気を取られていた間に、魔法使いは冷静に氷の壁を作り上げていたのだ。

 氷の壁の向こうから来る風の刃は、神経こそ使うが、『超強化』で強化された肉体があれば避けられると、油断していたのが敗因だろう。

 

 あとは氷で囲み、火で蒸気を撒く。物理的に塞ぎ、視界を奪う。

 丁寧に逃げ場を潰された。


 草を踏む音が近づいてくる。

 ぼんやりと浮かぶ人影。あのローブの魔法使いだ。

 きっと、トドメを刺しに来たのだろう。

 距離のアドバンテージを向こうから潰してきたのは意外だったが。


「……くそっ」


 将斗は慌てつつも、しっかりと立てた指で空に二度、円を描いた。

 ――薄紫の四角い板が、空中に現れる。

 素早くスキル画面を確認。


「これしかない」


 唯一残された最後の手段を確認する。


交換チェンジ:触れている物、または自分を、視界内の同サイズのものと入れ替える 詠唱時発動』


 ランダムで獲得したもう一つのスキル。

 どこか適当なところで練習してから使うつもりだったが、贅沢言ってる暇ではない。


 入れ替え条件として書かれた『同サイズ』。周りにあるモノといえば氷柱だ。だが論外。

 サイズはバラバラだが、どれも将斗と比べ大きすぎる。壁の一つと入れ替わることができれば、すぐに逃げられるというのに。


――じゃあもう無いだろ……


 将斗は顔を上げ、蒸気の向こうを見据えた。

 すると、一つ手が浮かんだ。


「……いや、あるな」

「――観念しなよ。この距離なら、あんたがいくら早く駆け出しても簡単に打ち抜けるわ」


  向こうから近づいてきた影が口を開いた。

 

 会話ができるようだ。

 未だ立ち込める蒸気ではっきりとした風貌は確認できない。

 その上頭から被ったローブのせいで声がくぐもっていた。性別も年齢も分からない。

 異世界だから言葉は通じないかと思っていたが、はっきりと認識できた。

 魔法使いは手のひらをこちらへ向け、ゆっくりと言葉を重ねる。


「聞こえてる? 通じない? じゃあ…………これならどう? 通じる?」

「……」

「あれ? あーじゃあ……これは?」

「………………か、変わってませんけど?」


 沈黙が耐えられないので将斗は返事をした。

 口ぶりからして何かを変えたようだが、話し方だろうか。変化があったようには感じられなかった。


「なんだ標準語じゃない。ならこの辺の出身? 盗賊にしては綺麗な格好して……」


 一拍の沈黙。


「ねぇその格好、もしかして――」


 言葉が終わる前に将斗は叫んだ。


「『交換チェンジ』!」


 将斗の作戦は単純明快だった――『交換チェンジ』で魔法使いと場所を入れ替えること。

 一瞬の隙が生まれるはずだ。体勢や向きがどうなるかは分からない。

 だが、どんな結果になろうとも、すぐに魔法使いが歩いてきた方を向いて走ればいい。

 それならなんとかなる。

 一瞬の隙に全力で逃げる――それが将斗のプランだった。


「……」

「……」


 入れ替えが成功すれば、の話だ。


「あれ……?」


 何も起きない。魔法使いと向かい合ったまま。後ろを見たが、壁がある。入れ替えができていない。

 不発だ。どうして。


「ふーん、『交換チェンジ』かぁ。久々に見た。でももう少し、自分のスキルと向き合った方がいいんじゃない?」


 まるで将斗の頭の中を覗いたかのように、魔法使いが言った。


「私ちょっと前に、そういうスキルを持った奴に手間取ったから、普段から対策するようにしてるの」


 そう言って、魔法使いはローブの端を摘み、ひらひらさせた。


「大きさが同じなら入れ替えできるのがそのスキルの強みでしょ?」

「な、知って……」

「私のこの格好、外套込みで私があんたと同じ大きさって判断できる?」

「それは……」


 できない。

 背の高さなどから、ぱっと見で同じくらいだと判断した。

 ――だが、確かにそのローブの下がどうなっているのかを、将斗ははっきりとは知らない。


「なんと、実は二枚重ねでした〜」


 彼女はそう言って、ローブ二枚をパタパタとはためかせる。

 確かに、その下がどうなっているか、外からは完全に隠蔽されていた。 つまり、『視界内の対象のサイズ把握できていない』ため、スキルの発動条件を満たせなかったということだ。


 魔法使い――口ぶりからして女性だ。彼女はを知っている。


「壁にした『氷弾フリグス・サギッタ』も入れ替え防止に、そこそこ大きめにしてたしね」


『フリグス・サギッタ』何語かはわからないが、氷柱のことを指していると見て間違いない。


「なんで……俺が『交換チェンジ』を持ってるって知ってるんですか」

「知らないわ。似た条件のスキルがいくつかあるから、たまたま対策してたのが上手くはまっただけ」


 将斗は肩を落とした。運がない。

 スキルの知識があり、それらの対策をとりつつ、対象を誘い込んでみせる実力の高さも併せ持った彼女に出会うなど、本当に運がない。


「相手を間違えたわね」


 外套の奥、黄色い瞳が将斗を捉える。口元は見えないが、確かに笑んでいるように見えた。

 彼女の言う通りだ。

 将斗は、運がなかったと嘆いた。

 しかし、頭の片隅では、冷徹な計算が走っていた。

 この女は、初見のスキルにも即座に対応できる知能と、圧倒的な火力を持っている今の将斗じゃ勝てない。


 ならば――手は一つ。


 将斗は次の行動に打って出た。


「申し訳ございませんでした!!!」

「え?!」


――将斗は、土下座していた。


 額を地面すれすれに下げ、背筋をぴんと伸ばす。

 本人としては誠意の最大出力のつもりだ。

 第三者から見れば完全に命乞いフォームである。

 手のひらはじっとりと汗ばみ、土の匂いが鼻を刺した。


 心臓がやたらうるさい。どう思われているのか、と将斗の頭の中は不安でぐるぐる回っていた。

 返事はない。ただ沈黙だけが、重くのしかかる。


「えっと……」


 将斗は再び、そっと頭を下げた。


「それは……なんかの儀式なの?」

 

 静寂を裂いたその質問に、将斗は誠意を込めて答える。


「違います! 土下座と言います! 俺の故郷では最も反省している姿であり、最も謝罪の気持ちを伝えるポーズと言いますかなんというか」

「ふーん……やっぱ伝わってこないわね」

「やっぱ……?」


 前にも聞いたような口ぶりに将斗は違和感を覚えたが、追求する時ではない。今は全力で許してもらう時だ。

 余計なことを言えば、神様のように追加の仕打ちを受けるだけだと学習済みだった。


 将斗は目を瞑り、相手の許しを待った。


「……あんた名前は?」

「え?」


 突然の問いに答えるべきかどうか迷った。

 答えない方がいいかもしれない――いや、それでは余計な誤解を生むかもしれない

 しかし、素直に答えていいものでもないだろう。この世界では外国人のような名前が主流だったとしたら、『渡将斗』なんて名前は珍しく、怪しまれる。


「えっと……」


 偽名でも言おうか。ゲームで使っていたあの名前でもいいか。

 そう考えた次の瞬間、体にぞわりとした感覚が走った。力が勝手に口を動かすような、妙な感覚。


「渡将斗と言います…………ぅ?」


 口にするつもりはなかったはずなのに、言っていた。

 喉が、舌が、勝手に動いた。


「えっ、なんで――」

「そう……珍しい名前ね。私はレヴィ・ウィンダリア」

 

 そう言ってレヴィと名乗る女性はフードを外した。

 頭を振って長い髪を靡かせる。

 長い黒髪が光を受けて艶やかに輝き、風に靡くたびに柔らかな波紋のように揺れた。

 普段だったら目を奪われそうだが、将斗はそれどころではない。

 

「え? え?」

「よろしく」

「よろしく?!」


 驚く将斗をよそに彼女はローブを脱ぎ始める。

 中には深い紫のロングドレスが現れた。

 布地は滑らかで、揺れるたびに影が薄紫の霧のように漂う。その優雅な動きは美しいが、どこか触れてはいけないものを感じさせ、将斗は思わず身を強張らせた。


「何驚いてんの?」

「いや、よろしくって何? さっきまでのこれは?!」


 将斗は後ろの氷柱を指差し抗議をする。殺されそうだったんですけどなどとは言えない。

 さっきまで命のやり取りをしていたはずなのに、なぜよろしくしているのか。


「な、どういう、なん……何?」


 謎の展開に言葉が上手く出ない。


「それはあんたがすごい速さで、こっちに近づいてくるからでしょ。馬車の進路に入ってくるし。盗賊かと思っちゃったわ。ごめんね」

「軽っ……い、今はいいんですか」

「何が?」


 黄色の瞳が将斗の目をまっすぐ捉えてくる。

 吸い込まれそうな感覚に、胸がざわつく。

 綺麗な女性に目を合わすのは慣れていないため、思わず逸らす。手に力が入り、肩がわずかに震えた。


「敵かと思わないんですか? だってこの格好とか、怪しいじゃないですか」


 我ながら変な質問だと、将斗は思った。

 その質問に、彼女は目を丸くした。


「変なこと聞くわね。……怪しいと言えばそうだけど。別に脅威じゃないからいいわ」


 彼女は振り返り、馬車の方へゆったりと歩き出した。

 その手が軽く、埃でも払うように振られる。

 瞬間、聳え立っていた氷柱も、立ち込めていた水蒸気も一瞬のうちに消え去った。

 光の靄のようなものが上空に消えていくのがかすかに見えた。


「あ、じゃあ――」

 

 彼女は思いついたかのように後ろで手を組み、腰を軽く曲げてお辞儀の要領で上体を曲げ、じっと将斗を上目で見つめてきた。


「信じられないなら……右手、あげて」

「え?」


――勝手に右手が上がっていた。

 

 上げたつもりはなかった。

 さっきの名前を言ってしまった件といい、まるで操られたかのようだ。

 こめかみを冷たい汗が伝う。

 胸の奥で、小さな警告音が鳴ったような気がした。


「ほら、脅威じゃない」


 魔法使いはそれを見て、口元にわずかに不敵な笑みを浮かべた。


「目的地は?」

「グラディア王国です……――?!」


 両手で口を押さえたが遅かった。

 まただ、逆らえない。


「じゃあ一緒だね。乗りなよ」


 ゆっくりと、将斗は立ち上がった。

 これは自分の意思だ。間違いない。


 ……本当にそうだろうか。


 この行動は本当に自分のものだと言えるのだろうか。

 

 悩む将斗を、黄色い瞳が捉え、改めて静かに告げる。


「よろしく」


 一つわかったことがある。

 異世界はこわい。

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