第1話 レポートは消えてくれ
「え……?」
将斗が目を開けた瞬間、世界は暴力的なまでに真っ白だった。
光源が見当たらない。けれど、周囲を包む光は柔らかく、境界線すら曖昧にどこまでも続いている。
手を伸ばしても、掴めるものは何もない。空気の質量すら感じられない虚無の空間。
「んん……?」
目がその白さに慣れてくると、ようやく違和感の正体に気づいた。
この空間には四隅がある。広さは八畳ほど。ワンルームマンションのような閉塞感。
しかし、家具が一切ない。
現実が受け入れられず、将斗は目を擦って、瞬きをした。
「えっ?」
――白一色の視界の中に、自分と同じくらいの背丈の女性がいた。
作り物めいた美しさだった。
柔らかな金色の髪は、陽の光を繊維の一本一本に閉じ込めたように輝き、深い青の瞳は、底の見えない湖のような透明感をたたえている。
頬は瑞々しく、陶器のように滑らかだ。人間特有の「生々しさ」が欠落しているようにさえ見えた。
女性は優雅に腰を折って一礼した。頭を下げた際に揺れる金髪が、残像のように白い光を弾く。
自然と、自分が彼女とは『解像度の違う』存在であると感じさせられた。
白い部屋に、人ならざる雰囲気を携えた存在。この展開はまるで――
「もう大体わかりますよね?」
「え?」
突然投げられた問いの答えを将斗は持っていない。
首を傾げていると、彼女は言った。
「異世界転生してもらいます」
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「レポート無理すぎる……」
渡将斗はシャーペンを投げると、スマホ片手にベッドへ倒れ込んだ。
親元を離れて一人暮らしを始めてもう三年。
大学生活には慣れたが、「友人」と呼べる深い仲の人間はいなかった。
おかしい。思い描いていた大学生生活は、朝まで仲間と飲み明かし、ナイトプールでパーリナイのはず。
一方現実は、バイトと退屈な講義、そして締め切り間近のレポートと格闘する日々。
思わず滲みそうになった涙をグッと堪え、現実逃避のためにスマホを叩く。
しかし、こんなことをしている暇はない。
今日のレポートは本当に危ないからだ。期限は明日、教授の部屋前ポストまで。10時まで。期限厳守。交渉不可。必修科目。落とせば留年。
「ああーこんな生活クソだ……」
乱雑に積まれた教科書の隙間から、今にも雪崩を起こしそうな就活パンフレットが目に入る。世間一般的には、そろそろ「自分探し」とやらを終えて動き出さねばならない時期だ。
しかし、将斗はベッドの上でスマホの液晶を擦ってばかりいた。
来年もこうして空虚に過ぎていくのなら、卒業と就職は、ベルトコンベア式にやってくるだろう。ふと目を開けたら、そこには無表情な面接官がいるかもしれない。
『夢に向かって』。パンフレットに踊るそのキャッチコピーを、将斗は死んだ魚のような目で見つめた。
「やりたいことってなんだよ」
そもそも、何かに熱中したり、心から魂が震えるような感動を覚えた記憶がない。
喜びも悲しみも、どこか薄い膜越しに見ているような、他人事のような感覚。
だからこそ、就活の準備を始めるべきなのに、将斗の胸に広がるのは焦燥感ではなく、ただの「無」だった。
ずっと答えを求め続けている。
塾だって、スポーツだって、進学先だって、自分で決めたことはほとんどなかった。
親に言われたか、周りに合わせて「正解」を選んできたのだ。でも、それでいいと思っていた。
今は、その生き方を突きつけられている気がする。
今度は何に合わせればいい。
クラゲのように波に乗っている。そんな不安定で頼りない感覚を、ずっと味わっている。
「あー……やめやめ、休憩だ休憩」
思考放棄。
レポートは数時間後の未来の自分に託すとして、ひとまずは休憩だ。
検索フォームの打ちかけの『就k』をバックスペースで消し、小説投稿サイトを開く。
異世界転生タグをタップして、今日もまだ見ぬ新作の発掘に勤しむ。
将斗は異世界転生ものが好きだ。
ここではないどこか。現実よりも刺激的な物語の世界。勇者が魔王を倒す王道や、平凡な少年がスキル一つで成り上がるサクセスストーリー。
自分に特別な才能はないし、目標もない。
もしこの世界に行けたら。そんな空虚な希望に、ほんの少しだけ胸が弾む。
そうして将斗は、暗い部屋でひたすらにスクロールを続けていた。
『これが俺の生きる意味だ!』
とある物語の最新話。物語も佳境、クライマックス。主人公の魂の叫びに、ふと指が止まる。
「生きる意味――」
無意識のうちに呟いていた。
「生きる意味なんてあんのか?」
この呟きは誰に向けたものだったのか。
その時だった。
「――あ」
右手が空を掴む。
仰向け操作における最大の敵。手汗でスマホが滑り落ちた。
これは痛い。
脳が未来の痛覚を予期して身構える。
角から落ちてくるか、画面から落ちてくるか。
――最悪
そんな二文字を浮かべた頭の上から、金属とガラスの塊は重力に従って真っ直ぐに落下し、無防備な顔面へ――
グチャリ。
嫌な音が内側で響いた気がした。
しかし、痛みは訪れなかった。
痛みを感じるはずの回路ごと、スイッチが切れたように。
「あれ?」
次に目を開けると、そこには白い空間が広がっていた。
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――ここまでは覚えている。
「びっくりするほど手掛かりがない…………」
将斗は歯噛みした。
異世界転生などと言われ、あまりに現実離れした状況に眩暈を覚えたため、過去を振り返ったのだが、特にこれと言って伏線めいたものは見つからなかったからだ。
「あの、ドッキリか何かだったり……?」
そう言うと、彼女は先ほどまでの所作からは想像もつかない、大きなため息をついた。
「白い部屋、どう見ても神様。異世界転生好きなんですよね? 説明しなくても散々読んでたんですから、流石にスッと受け入れてくださいますか?」
神様を見たことはないため、どう見てもという点については納得しかねる。
しかし、状況だけ見れば確かに、念願の異世界転生ではある。
胸が少しずつ高鳴ってきたが、すぐに冷静さを取り戻し、首を振った。
「い、いやいやいやいや。あり得なさすぎますよ。あるわけがない」
「ハァ……時間もないので、単刀直入に申し上げさせていただきます」
「なんで俺が怒られてる感じなの?」
「これからあなたには異世界へ、おつかいに行ってもらいます」
将斗は、念の為に頬を強く抓った。
痛い。ちゃんと痛みがある。
これが現実だということは確かだ。
となると残された可能性は、彼女がかなり力の入ったコスプレイヤーというものか、本当に神様のどちらか。
「コスプレイヤーとかではないので、とりあえず信じていただけますか? 本当に急いでいるので」
神様の瞳が、一瞬だけ冷たく細められた気がした。
まるで、実験動物を見るような、あるいは未熟な子供を憐れむような目。
女性経験が乏しく、将斗は突然不機嫌になる彼女に慌て、大人しく黙って話を聞くことにした。
「今回ちょっと私では手に負えない案件があり、急遽あなたにお願いすることにしました。しばらくの間、よろしくお願いいたします」
神様は事務的に言った。
「よ、よろしくお願いいたします」
思い描いていた展開とはかなり違うが、彼女を信じるのであれば、異世界転生ができるということになる。
せっかくのチャンスを逃すわけもいかないので、将斗は律儀に挨拶を返した。
「あ、あの」
「なんですか?」
「いつ帰れますか……?」
全貌は明かされていないが、数日は違う土地で過ごすことになる。
そのままその世界で暮らすというのも手だが、問題はもし帰れた場合だ。
明日期限のレポートを出せないとなると、戻ってきた時に留年が確定しているのは避けたい。
ましてや、他の世界に行っていました、など言えるわけもない。
「留年の件は心配いりませんよ?」
「あ、もしかして、元の世界の時間はゆっくり流れてる系のやつですか?」
「あなたは、もう死んでいますから」
将斗は一瞬、頭の中がホワイトアウトした。
神様は嘘を言っているように見えない。事実確認をする役人のような口調で淡々と告げていた。
「え、じゃあ今の俺は幽霊……?」
「んー、まぁ……部分的にはそう……ですね」
「な、なんでそっちがよく分かってない風なんですか。神様なんですよね。というか死んだって何なんですか」
実感がない。この体には温かさもある。死んでいるとは思えない。
大体、死因は一体なんなのか。
将斗は最後の記憶をもう一度掘り起こした。
この部屋で気が付く前の――そうだ。あの一瞬の衝撃。
あれしかない。
「お、俺、スマホに殺されたってことですか……?」
「う……まあそれは置いておいて」
「今なんかめっちゃ動揺してませんでした?」
「してません」
神様は事務的に続けた。
しかしながら、何か彼女にとって聞かれたくなかった部分だったのか、汗が彼女のこめかみを伝っているのが見えた。
「そんなあなたにお願いするおつかいですが――」
「あの、するならするで、少しくらい異世界転生っぽくして欲しいんですけど?」
神様は将斗のツッコミも華麗に無視して言い放つ。
「転生者からスキルを返してもらうこと、です」
「……なんて?」
この時の将斗はまだ知らなかった。
それが、理不尽な世界への第一歩であることを。
5年前くらいに書いてたやつをちょっと書き直してみました。
覚えている方がもし万が一いたら、またよろしくお願いいたします




