第25話 信用証書、流通開始
最初に動いたのは、噂ではなく手だった。
「……これで、支払いは済むのか?」
市場の裏手。
商人同士が向かい合い、片方が紙片を差し出す。
紙は、薄い。
だが、刻印は重い。
【グラウフェルト信用証書】
【発行元:辺境伯領監査局】
【額面:銀貨二十枚相当】
【用途:加盟商会間の取引に限る】
受け取った商人は、紙を指でなぞり――
一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「……受ける」
その瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。
貨幣は、触れれば冷たい。
だが、信用は温度がない。
それでも人は、紙を受け取った。
---
役所では、ユーリが報告書を抱えて走ってきた。
「……実際に、使われました」
「何件?」
「二件です。どちらも小口」
私は、頷いた。
(十分だ)
最初から大きく動かせば、壊れる。
信用は、膨らませるものではなく積み上げるものだ。
「流通の確認は?」
「双方の署名、取引内容、期限、照合済みです」
「では、予定通り次へ」
ユーリは、少しだけ息を整えた。
「……本当に、紙が金の代わりになるんですね」
「代わりではありません」
私は、即座に訂正する。
「紙が価値を持つのではない」
「守られた約束が、価値になる」
ユーリは、ゆっくり頷いた。
---
午後。
フェリクス・ノートンが、応接室で笑った。
「商人は、早い」
「商人だからです」
私は、淡々と返す。
「利益より先に、安心を嗅ぐ」
フェリクスは指を鳴らす。
「王都では逆だ」
「安心がないから、利益に群がる」
「だから、壊れます」
「……その通りだ」
彼の表情から、軽さが消えていた。
ここで起きていることが、ただの取引ではないと理解している。
「この証書、面白いのは――」
フェリクスが言いかける。
「“返せ”と言う権力がないことだ」
私は、頷いた。
「強制ではありません」
「選択です」
「選ばれる限り、流通する」
「選ばれなければ、消えます」
「潔いな」
「制度ですから」
---
夕方。
イザベル・ノックスは、窓の外を見ながら言った。
「最初の流通が起きた時点で、勝ちです」
「早すぎませんか」
私が尋ねると、彼女は淡々と答えた。
「国家が貨幣を作るのは、簡単です」
「だが、信用を作るのは難しい」
「信用が動いた瞬間、国家は“後追い”になる」
私は、少しだけ息を吐いた。
(王都は、気づくだろうか)
気づいたとしても、遅い。
信用は命令では動かないからだ。
---
夜。
執務室で、私は小さな帳簿を開く。
信用証書の発行履歴。
流通経路。
償還期限。
数字は、まだ小さい。
笑ってしまうほど小さい。
だが――
(最初の一歩は、いつも小さい)
私はペンを走らせ、欄外に一行書き足した。
「――流通は、始まった」
外では、街の灯りが揺れている。
誰も歓声を上げない。
革命の音もしない。
それでも世界は、確実に変わった。
貨幣の外側で、信用が動き始めた。
その事実に気づく者はまだ少ない。
だが、気づいた者から順に――
もう、戻れなくなる。




