第20話 善意では、救えない
ミスは、善意から生まれた。
「……この支出、承認されています」
ユーリの声は、いつもより低かった。
机の上に置かれた帳簿には、確かに彼の署名がある。
「理由は?」
私は、感情を挟まずに尋ねる。
「倉庫の補修です。
現場の判断で、緊急性が高いと……」
「予算超過は?」
「……一割ほど」
私は、静かに帳簿を閉じた。
(想定内だが――)
問題は金額ではない。
手順だ。
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現場責任者は、恐縮した様子で頭を下げた。
「申し訳ありません。
崩落の危険があり、急ぎで……」
「判断は、間違っていません」
私は、そう前置きした。
彼の顔が、わずかに緩む。
「ですが」
その空気を、すぐに引き締める。
「制度上は、違反です」
沈黙。
「……罰を?」
ユーリが、恐る恐る聞く。
「罰ではありません」
私は、首を横に振った。
「修正です」
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結論は、シンプルだった。
- 予算超過分は、次月の別案件から差し引く
- 同様の緊急案件用に、事前枠を設ける
- 判断権限の範囲を、文書で明確化する
「つまり……」
ユーリが、理解し始めた声で言う。
「善意でも、手続きを省いてはいけない」
「はい」
私は、即答した。
「善意は、再現できません」
「制度は、できます」
現場責任者は、深く頭を下げた。
「……勉強になりました」
「二度と、同じ状況にならないようにしてください」
それが、私の答えだった。
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会議が終わった後。
ユーリが、少しだけ俯いて言う。
「僕が、止めるべきでした」
「止めなくていい」
私は、否定する。
「あなたがやるべきだったのは、
“止める”ことではなく、“持ち帰る”ことです」
ユーリは、顔を上げる。
「……違いは?」
「個人の判断を、制度に変えることです」
彼は、しばらく考え――
やがて、静かに頷いた。
「……分かりました」
その声には、逃げがなかった。
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夕方。
エドガー辺境伯が、報告を聞いて言った。
「冷たくは、ならなかったな」
「必要な温度です」
私は、そう答えた。
「冷たすぎれば、人が壊れます」
「温かすぎれば、制度が壊れます」
「難しい線だ」
「ええ」
私は、否定しない。
「だから、誰かが引き続ける必要があります」
エドガーは、少しだけ目を細めた。
「……それが、君か」
「今は、私です」
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夜。
執務室で、一人帳簿を見つめる。
(救えないケースは、出る)
それは、最初から分かっていた。
全てを拾う制度は、存在しない。
(だが、減らすことはできる)
私は、新しい規定案に線を引く。
「……緊急裁量枠」
善意を否定しない。
だが、善意に頼らない。
それが、制度だ。
窓の外、街は静かだった。
今日も、誰かが救われ、誰かが救われなかった。
私は、その両方を受け止める。
善意では、救えない。
だが、制度なら――
救える範囲を、広げられる。
それが、この仕事の現実だった。




