第1章 2
「初さんがいて助かりましたね」
そう言いながら丸山はコーヒーを差し出した。
現場の写真を見ていた円香は、顔を上げた。コーヒーを受け取りながら、再び手元に散らばる写真を見渡す。
あの後、すぐに倉田なつめに調書を取り、円香と丸山はそのまま自部署に戻ってきた。
初木はまだ彼と一緒にいる。
「彼をほおっておけないだろう。これも何かの縁だ」と、そう笑って。
すぐに葬儀関係者や役所の人間、保険会社の人間があわただしく出入りし、その対応を少年がやっている。初木はそのそばで保護者のようについていた。
こちらは事件の調査のため、やらなければならないことはまだまだ山積みだったので初木のその申し出には、正直助かっていた。一足先に部屋を出れたのも初木がいたからだ。
先ほど、ほぼ落ち着いたところで、倉田なつめは家に帰っていった。
母の遺体を連れて……
それにも初木は同行をしている。倉田なつめは、最初それを断っていたが、初木が無理やり付いていった。彼がついてなければ、円香がついていかなければ、と思っていたところだった。
―また初さんに甘えてしまった…
そう思いながら、コーヒーに口をつけたとき、丸山が感慨深げに言葉を吐いた。
「しかし、あいつすごいっすね。本当、中坊とは思えないですよ」
倉田なつめのことだ……
先ほどから丸山はずっと彼のことをしゃべっている。いつの間にか彼からあいつに呼称が変わっている。
丸山の人見知りしない、人懐っこい性格を垣間見せる言動だ。
「学校に迎えにいったときも、まったく表情変えないんですよ。むしろ周りにいた先生たちのほうが動揺しちゃって、あいつが諌めたくらいなんですから」
「まあ、母一人、子一人だからでしょう?」
「だからって、あの落ち着き方は大人以上ですよ。あんな遺体確認は初めて見ました。凄みすら感じましたもん」
丸山もあの空気を感じ取ったのか。
確かに……そのとおりだった。
「だって中2ですよ。俺の中学のころとはエライ違うっていうか…」
丸山も自分と同じことを思っていたのかと思うと、おかくしなった。
「なんすか?」
笑った円香に呼びかけてくる丸山。
「あんたの場合、さぞかしやんちゃな中坊だったんだろうなあって思ってね」
「ええ、野球部でバリバリでしたよ。丸坊主でね」
と笑みを向けてくる。すぐに想像できた。
「まあ、とにかくあんたとは違うわね……でも、確かにしっかりしすぎてるわね」
「ですよねえ~」
「でもね……」
そういうと、丸山は視線を向けた。
「……なんていうか、ぽきっと折れちゃいそうな、そんな危うげな感じがあるのよね。…しっかりしてるんだけど」
「あ、初さんもまったく同じこと言ってましたよ。誰かついててやらないと駄目だって」
―やはり同じことを思ったか…
確かにそういう危うげな感じが常につきまとった。
―不思議な子だ
妙な威圧感を放つ、中学2年生。
大人でもそうそういないだろうという雰囲気を持っている。
そしてその瞳の奥に悲しみがあふれいて感染しそうになる。彼はいたって冷静な態度なのに…。伝わってくる悲しみで、一緒にいるのが辛くなる。
-そして初さんに任せてしまった…
ついつい……いつもこうして甘えてしまう自分がいる。
包み込んでくれる温かさが心地よくて…
そんな自分に苦笑する。
男なんかに負けないと、肩肘張って生きているのに……なぜか、初木の前だとその気持ちが揺らぐ。困ったものだと、わかっていながら……
「男のほうも身元確認できたし、この事件は結構早く片付きますね……」
丸山は検視結果を見ながらつぶやいた。
―確かに…
あの後、男の身元もすぐに割れた。
近くの公園にいる浮浪者だった。
浮浪者の仲間内の証言も取れ、身元確認も済んだ。日ごろから、喧嘩っ早い性格をしていたらしい。酒乱の気もある。男の体内からは大量のアルコールが見つかっていた。さまざまな結果から容疑者死亡の事件として片付けられ、死因は事故として処理されていく。
「一瞬まだ屋上に誰かいたと思ったんだが。気のせいだったかな」
円香は、そうつぶやいた初木の言葉をなんとなく思い出していた。
しかし、現場の証拠はどれも、その言葉を否定する事実しか見つからなかった。
他の者がいた痕跡はない。
目撃者は初木だけ。
そしてあくまでも落ちる瞬間を見ているだけで、その前の争った場面、詳細を見ているわけではない。
―何か見落としたか…
「丸山……」
「はい?」
「あとでもう一度現場に行くから」
「まだ気になることでも?」
「ちょっとね…」
脅されてあんなところに上ったのだろうか?倉田香織は。
抵抗はしなかったのか?
繁華街の裏とはいえ、ビルに入るには人目につくはずだが、目撃者はいない。
備えられたエレベーター内部の防犯カメラはかなり前から故障していて使い物にならなかった。
―浮浪者がわざわざ屋上で…?
気になることばかり。
でも気にしなければ、すべての辻褄があう事件だった。
きれいすぎるほど、証拠がある。
―気のせいかしら
でも、何かがひっかかる。勘でしかないのだが…
息子であるなつめに聞いたところ、倉田香織は朝はいつもどおりだったという。
少し口論したらしいが、多感な思春期の年頃を持つ家庭では日常茶飯事の範疇だろう。
いずれにしろ、倉田香織と男の足取りを確認しなくてはならない。
「しかし、あいつ……この先どうなるのかな?」
丸山はまだ倉田なつめにとらわれている。
「親戚とか本当にいないんすかね。父親も知らないっていってたし、戸籍を見る限りだと本当に親類いないんですもん」
倉田なつめは完全なる私生児だった。
そして倉田香織には兄弟がおらず、両親はすでに死去している。
その両親の親戚に当たる人でもいればまだいいのだが……戸籍上ではまだわからない。
「このままだと施設ですよね?」
「そういうことになるわね…でも、ない話じゃないし、そういう話も少なくないわ」
「冷たいなあ、佐伯さん」
「現実を言ったまでよ」
「せっかく家持ってんのに……」
そう、倉田香織には持ち家があった。一人身できちんと生計を立て、息子を育ててきている。立派な母親だ。
―でも…
「仕方がないわ。未成年だもの」
そう、仕方がないのだ。
今回の事件は、きれいに片付いても後味の悪いものになりそうだ……
わかっていても、つらく感じてしまう。
倉田なつめの顔がちらついた。感情の表れない表情。なのにあの、圧倒される雰囲気、そこから伝わる悲しみ…
吹っ切るように、円香は立ち上がった。
「いくよ、丸山!」
「あ、はい!」
「帰りに初さんところに挨拶に行かなきゃね。いろいろと世話になったから……」
「俺も行きます!」
うれしそうに笑みを浮かべる丸山。
彼のこの微笑の魂胆はわかっていた。
「あんたのお目当ては、お礼じゃなくて、夢ちゃんでしょ」
「そんなことないっすよ。ちゃんとお礼もしますよ。でも、まあ、半分あたりです」
にんまりと笑みを見せる。
初木には10歳になる孫がいた。名前を夢というかわいらしい女の子だ。
奥手でなかなか人前に出てこない。重度の人見知りらしく、顔を見せてもほとんどしゃべらない。
―あの初木の孫とは思えないほどだ。
円香ですら、長い付き合いになるのに会話をしたのは数えるほどしかない。
そして何年も足を運んでいるのに、夢に会えることは、ままだった。
それくらい、彼女は人前にはでない。変わった少女だった。
だからなのか…
初木のところに通う門下生の中では、滅多に顔を見せない夢に会えることが一種の「幸運の出来事」のようになっていた。朝の占いと同じような感覚……
まあ、無理もない。初木の孫は儚げで確かにかわいらしい。密かなアイドル的存在になっている。
「この間、夢ちゃんが初めて俺に微笑んでくれたんですよ~」
と、蕩けんばかりの笑顔して丸山が言った。
半年かけてやっと反応してくれたと、この間も大喜びしていたばかりだ。
多分、行っても夢には会えないだろう。会えることの方がまれなのだ。
「馬鹿いってないで、いくわよ」
そんな丸山をおいて、先に円香は部屋を出た。