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第1章 1

 倉田香織くらた かおり、33歳、BW商事勤務、会社員。

 息子、なつめ、13歳。公立豊光中学校2年生。

 住所 電話番号を読み飛ばす。備考欄を見ると、母子家庭。父親不明。と書いてあった。

 部下の丸山から提示された身分照会をざっくりと見て、佐伯円香さえき まどかはため息をついた。


「私と同い年……か」


 警察の慰安室。線香の香りが立ち込める。

 目の前にある白い布をかぶった物体。

 昼前に起こった事件の被害者、倉田香織である。司法解剖はすぐに終わり、そこにきれいにされて眠っていた。

 とてもきれいな顔をしていた。


―まだ若いのに……しかもシングルマザーか


 同年だと知ると、やはり複雑な気持ちになるのは否めない。

 円香はまだ結婚もしていなければ、子供もいない……

 それどころか今は彼氏もいないのだが…。


 佐伯円香は豊光署の捜査一課に勤める捜査員だった。

 警部という地位に就いている。

 この部署に配属されてから5年、その前は本庁の第一線にいた。

 足掛け10年。すでにベテランの域に入っている。


-今日は平和でありますように……


 毎日そう願いながら署に詰めている。そんな矢先にやはりいつものように緊急連絡が入った。

 ちょうど昼前のこと。

 ビルから人が落ちたとの通報が入ったのだ。


 指示された現場に向かう。事故かと思っていたが…、現場に駆けつけ、その願いは一蹴された。

 そこにあった遺体は二体。男と女だった。男の手には、女の財布とハンドバックが握られていた。散乱した数枚の紙幣…、その状況だけでも、事件の全容が伺える。ビルの屋上で、男ともみ合いになり、そのまま共に転落。


 事件から、事故へ…か


 円香の予想通り、その争った現場とみられる屋上には男の右靴と、壊れたフェンス……ご丁寧にそこに男の服が引っかかっていた。そして、争ったらしい形跡、ナイフも落ちている。2人の指紋もそこかしこにくっきりと残されていた。


 表通りに面する雑居ビルだが、転落したのは裏手になり、その時の目撃者は1人だけ。

 その証言によると、悲鳴が聞こえ、そのまま人が落ちてきたという。

 男のほうは落ち方が悪かった。遺体の状況がとにかく悪い。傷の状態から見てほぼ即死だったはずだ。女のほうはしばらく息があったようだが…すぐに息を引き取った。

 死因は頭部強打による頭蓋骨骨折、その他複雑骨折に内臓破裂。

 男のほうの身元はまだ割れていない。だが、服装、所持品等々から察するに浮浪者であることはほぼ間違いないだろう。

 女のほうには、身元を明らかにする所持品がいくつもあった。社員証、免許証、健康保険証……それを元に新人の丸山に身元照会を行わせた。

 その結果の資料が手元にある。

 一人で家庭をしっかりと支えていた証拠だった。服装もそういった感じだった。


―物取りの犯行か……

 何もお金で、命を落とすことも無いのに……


 いささか不謹慎なことを思ってしまう。しかし彼女の環境を考えるとやはりそれは否めない。

 残された子ども……親族がいないと、この資料に記載がある。


「母子家庭か…」


 資料を覗き込んできた男。

 今回の事件の唯一の目撃者。通報をした初木崇志はつき たかしだった。


―こんな偶然もあるのね……


 初木は元刑事で、円香の恩師である。

 まだ初木が刑事であった頃、円香はとてもよく世話になった。そして今でもその付き合いは続いていた。初木は今は、自宅で合気道道場を開いている。

 初木の人となりのせいだろう。

 当時世話になった刑事たち、そして、その部下達が今でもよく初木の道場に足を運んでいた。

 もちろん公にはしていないが…


 円香もそのうちの1人だった。


-この人がいなかったら、私は刑事を辞めていたな…。


 初木の横顔を見ながらふと思う。


 還暦に近い年齢のはずだが初木は、まだまだ若々しい。合気道の師範をしているだけあって、貫禄もあるが、40代といってもわからないくらいだった。

 初木は、孫娘との二人暮し。身内はその子だけだった。昔、妻を亡くし、そして、娘夫婦を飛行機事故で亡くしていた。


 愛しいものを亡くす痛みはきっと誰よりも分かっているはずだ。

 だから初木の表情は暗い。


「なつめ……なるほどな、息子さんだったのか……」


 沈痛な声を上げて、初木は脇に用意されたソファーに腰掛けた。

 その隣に円香も座る。

 本来であれば、事情聴取後に初木は解放される身だが、そのままここに残っていた。


「中2か…。さぞ心残りだろうな。身寄りがないとあるが…」

「ええ。でも、もしかしたら遠くても縁者はいるかもしれません。もうすぐ本人も来ますし、確認します。今丸山が学校に迎えに行ってますから」


 唯一の身内である彼女の息子を身元確認のために呼んでいる。

 考えただけでも暗い気持ちになる。

 彼はまだ13歳だというのだから…


「嫌な場面になるな……」


 同じことを思ったのだろう。初木は顔をしかめた。


「なんなら、お帰りになってもいいんですよ。はつさん……」


 そういうと、初木は苦笑して見せた。


「最期の言葉を彼に伝えないと……彼女に頼まれたからな……」


 そう言って、初木は倉田香織を見つめた。

 初木は、彼女が落ちた瞬間を見ていた。 そして、その彼女を看取ったのも初木だった。


「損な役回りですね」

「どうも、そういうめぐり合わせらしい」


 そう言って柔和な笑顔を見せる。

 この笑顔に、円香は何度となく救われてきた。


 男女平等を高らかに掲げる現在であっても、警察機構はやはり男社会でできている。円香は当時その才能と手腕で、ノンキャリアながら、異例の速さと若さで警部にまでなった注目の的だった。

 女性だということでマスコミにも注目を浴び、警察の旧体質に一石を投じる人物だと、周囲から騒がれた。


 だが、出る杭は打たれる。


 すぐに大きな壁にぶつかった。権力という名の大きな壁…

 長いものに巻かれることに慣れていない円香はすぐに衝突した。


 そして…


 一度は見えたキャリアの道だったか、今ではすっかりエリート街道をはずれ、現場第一線で走り回っている。

 そういう道もあると示してくれたのが、この初木だった。


「いや、爺の我儘を聞いてくれて、感謝してるよ。円香ちゃん」


 そう言って笑を見せた。

 自分のことを名前で呼ぶのは初木だけだ。

 昔からこの呼び方は変わらない。


「初さんは特別ですよ。本当はいけないんですからね」


 わかってるよ、といわんばかりに笑を見せる初木。


 関係部外者はシャットアウトしなければいけないのが、決まりだ。それを敢えて目をつぶったのは初木だからこそ。回りの関係者も初木に世話になっているものは多い。

 そのため自然と、それが暗黙の了解のような状況ができていた。


 と、慰安室のドアがノックされた。


―きたか…


 初木と自然と目を合わせる。


「どうぞ」


 声をかけると、汗にまみれた丸山が顔を見せた。4月に円香の下についたばかりの新人刑事だ。新人らしく熱血で、スポーツ刈りがよく似合う25歳。まだまだひよっこ刑事だ。その彼の顔が珍しく曇っていた。


「倉田なつめ君を連れてきました」


 その丸山の表情を見て、ちょっと気にかかった。連れているのは子どもだ。やはり動揺を隠せないか…

 丸山に一応確認をする。


「入ってもらって大丈夫?」

「ええ」


 複雑な表情をしながらそう言って背後を振り返る丸山。

 

 すると…


 その背後から現れた…少年。


―う…


 彼を見た瞬間、円香は思わず心の中でうめいた。


―なんだろう…この子のこの空気。


 少年というには、はばかれるほど大人びていて、かといって青年と言うにはまだ幼さの残る。

 そんな微妙な年頃の男の子がそこに立っていた。


 中学生の夏服らしい清涼感のある白いシャツに黒いズボン。少し長めの前髪をたらし、その髪の間からは強い意志を示す眉が覗く。健康的な肌の色をした、目鼻立ちの整った子だった。

 確実に美少年の部類に入る。


…しかし、その双眸が…


 とても印象的な雰囲気を醸し出していた。

 人を圧倒する双眸…それが正しい表現なのか、とにかく中学2年生とは思えない。

 大人びた感じを受けたのは確かだった。


-最近の中学生って……


 思わずその雰囲気に感嘆する。


 自分の中学生の頃を思い出して、目の前にいる中学生と思わず比べてしまう。無表情ともいえる冷たいまなざし。喜怒哀楽が一切感じられない。

 なのにこの感じる不思議な威圧感。


 少年の瞳は、さきほどから、まっすぐに台の上に注がれていた。


-いけない……


 思わず見とれていた自分を叱咤する。少年の心情はそれどころではないはずだ。


「倉田なつめ君?」


 円香が聞くと、少年は、わずかに視線だけを動かした。

 円香を見る。


―……なんて目をしてるんだろう。


 思わずそう思ってしまう。

 まっすぐにその視線を向けられ、少なからず円香はたじろいだ。


-本当に中学生なの?


 妙な威圧感…


-いやね……


 その筋の無骨な男達を何人と前にしてさえ、円香はこんな気持ちになったことはないのに。


「はい」


 少年は無機質にそうつぶやいた。変声期中独特の声音。少年から青年への脱皮中の証拠だった。

 気を取り直して、いつものペースを取り戻す。胸から手帳を出して彼に見せた。


「はじめまして。私は、豊光署の佐伯です。事件の詳細は聞いているかしら?」


 そう聞くと、少年は静かにうなづく。

 丸山が「話しました」というように目配せを送ってきた。


「そう……。あのね、失礼にあたったらごめんなさい。とても聞きづらい質問なんだけどもいいかしら?」

「はい」


 相変わらずの無機質な声だった。円香はそのまま続ける。


「少し調べさせてもらいました。あの、お父様がいないということですが、あなたの他にお身内の方、親戚の方とかはいらっしゃる?もしくは、お父様と連絡が取れたりとかしない?」


 そう言うと、少年は視線を上げた。


「わかりません。父はいませんし、誰だかも知りません。親族は誰もいないと、母から聞いています」


 少年はしっかりとした口調で淡々とそう言った。

 悲しい事実。さも当然のように…


「…そう」


―やはり…身寄りがないのか…


 次の言葉を言うのがためらわれた。彼にしてもらうしかない…遺体の確認を。


「わかりました、それじゃあ、辛いでしょうけど。お母様の確認をお願いしたいのですがよろしいですか」


 その言葉に少年はうなずいた。

 手招きする。

 少年は、ゆっくりと前に進む。台の上、白い布の前で立ち止まった。

 一度円香のほうを見て、そしてゆっくりと布に手を伸ばす。


 嫌な場面だ…

 つい先ほどまで生きて、笑っていた近しいものが物体になってしまったことを確認する瞬間。

 嘘だと思いこみたいものを現実なのだと無理やり認識させられる瞬間。

 この瞬間、人は凍りつく。


 そして、泣き出すもの、怒り出すもの、気を失うもの、

 ただただ涙を流すもの…


 反応は様々だが、胸が締め付けられる思いにさいなまれる。

 このときばかりは刑事だということ後悔する。

 自分は幸いにまだ両親兄弟ともに健在だったから、その気持ちは計り知れないのだが…


 死化粧を施した倉田香織の顔がのぞいた。

 こんな年の子供がいるとは思えないほど、まだ若くてそして、きれいな女性だった。


 …確かに少年と似ている。親子なのだと感じた。


 彼は静かに見下ろしていた。

 いたって冷静に見えたのは、円香の気のせいなのか……

 印象的な瞳は長いまつげに隠れて見えない。


「倉田香織さんに間違いありませんか?」


 自然に口調が慎重になる。

 少年はこくりとうなずいた。

 そして、そのまま固まってしまったかのように、少年は母を見つめたまま動かなかった。


「お悔やみ申し上げます」


 月並みな言葉を吐いて頭を下げた。

 それに倣って、初木と丸山が頭を下げるのが見えた。

 少年は、動かない。いや動けないのか…


「母は…」


 ふいに口を開いた。


「殺されたんですか?」


 単調な口調……だが、重みのある言葉だった。

 息を整えて、その問いに答える。


「捜査中です。まだ、確証は取れていませんので…容疑者も一緒に死亡していますので、今はなんとも言えません」


 故意によるものではないだろう…と円香は思っている。

 状況がそう言っていた。悲しいまでの事故。きっと彼女も男も死を望んではいなかったはずだ。


「そうですか」


 ふと視線を上げる少年。その瞳に怒気がこもっているように見えた。


-こんな表現もあるのか……


 そう思ってしまうほどの静か過ぎる表情。

 静かな怒り、静かな悲しみ。確かに伝わってはくるのに…

 しかし、少年が憎むべき相手はすでに死亡している。


 少年はこちらに向きかえり、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございました。いろいろお手数をおかけしました」


 あまりに毅然とした態度で礼を述べる少年に圧倒される。


「いえ……」


 こちらも頭を下げる。


 彼はそっと、母の頬に手を伸ばした。


 つと、触れて…そしてその手を引っ込めた。


 一瞬見えた憂いの瞳。彼の握られた拳が軽く震えていた。


 悲しくないわけがないのだ…

 表情に出ないだけで…


-たまらない…


 泣き叫んでくれたほうが、まだマシな気がした。子供らしく、取り乱してくれたほうが、まだ救いがある。こんな悲しみはないと思った。


 初木がつと前に出た。

 確認するように私に目配せを送ってくるのでうなづく。

 初木がいてくれて助かった……と思った。

 彼の柔和な人となりが、少年の悲しみを少しでも消化してくれることを願う。


「私は初木崇志といいます。縁あって、お母さんの最期を看取らせていただきました」


 静かに、そして丁寧に初木は言った。

 低く、優しい声だ。

 少年は初木に顔を向ける。静か過ぎるまなざしのまま。


「私はお母さんからなつめ君宛てのメッセージを言付かってるんだ。聞いてくれるかい?」


 わずかに瞳が大きくなる。

 初木はその顔を見て、柔和な笑顔を向けた。


「大丈夫かい?」

「はい。母は…なんて?」


 少年の声が掠れた。

 静かにうなづいて、初木は少年に近づく。

 そして、その堅く握った拳を手に取った。


「生きて、生き抜いて。お願い……と」


 少年の目がさらに大きくなった。しっかりと初木を捕らえている。


「それから、なつめ、ごめん。そして、愛してる……」


 初木はそこで言葉を切る。


「私の手を堅く握って……そう伝えてくれと」


 力強くなつめの手を握る初木。

 少年の瞳が……潤んだように見えた。


 そして、彼はそのまま頭を下げる。


「ありがとうございます」


 と、しっかりとした口調で礼を述べた。


 こんなときまで。取り乱さない。

 その少年の肩に初木はそっと手を置いた。


「がんばれな」


 うなずく少年。


―たまらない…


 円香は、少年から視線をそらした。

 そして、身寄りのなくなった彼の行く末を思い、円香はさらに暗い気持ちになった。

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