#003 遺言
五感の外に揺蕩う者どもを、知覚する領域が存在する。
それは二つの大脳半球の狭間、第三脳室の上壁、人間の脳の奥深くに位置する松果体の領域。
第六感や霊感と呼ばれる———祝いと呪い、霊と幽とに触れる術。
鳥居白州と名乗った男から発される穢れを、幸裂もまた鋭く嗅ぎつける。
それは憔悴しきって鈍る少年の心臓に、確かな鼓動を蘇らせるのに十分な死を孕んだものだった。
それでも心は肉体と乖離して、幸裂の目に精気は無い。
死人のように淀んだ瞳の少年は何も答えずに祖父の亡骸を抱き上げ歩き出す。
鳥居はその様子ただ黙って見つめていた。
少年は瓦礫の山を越え、石畳の上に降り立つとそのまま石段に向かおうと歩み続ける。
俯いたままの幸裂が、男とすれ違いざまに口を開いた。
「鳥居さん……あなたが何者か知りませんが俺とは関わらない方がいいです……すでにあなたも呪われてるなら、分かるでしょう……」
「ああ。わかる。ついでにお前の末路もな」
「そうですか……」
それだけ言って幸裂は再び歩き出した。
そんな幸裂の方を鳥居は振り向かず、ただ焼け跡を見つめたまま大声でこう続けた。
「お前は自分に絶望して自ら命を絶つ。だがその前に、未練が断てずにもっと大事な人を失うだろう。例えばお前が大事そうに首から下げてる、そのお守りを渡した人物がそうだ。そうして何もかも自分のせいで失って、お前は自分が空っぽになったと絶望しながら自らの命を絶つんだ。だが……人間は空っぽじゃない。魂がある。それは肉体を失ってもなお、確かに存在し、己の罪に苦しみ続ける。それに耐えきれなくなったお前はやがて怨霊になり、さらに多くの人から大切な人を奪うだろう」
その時背後から立ち昇る凶悪な気配に気づき、鳥居は地面を蹴って距離をとりながら振り向いた。
そこには祖父の亡骸を抱え、目から血のような涙を流す呪われた依代の姿があった。
「あんたに何が理解る……? 三年前、政府が平和条約を結んだあの日、突然一族の呪いが復活して俺は大事な人を傷つけた。両足が動かなくなったのに……俺のせいじゃないって笑って赦してくれた六花。呪いを祓う為に……俺のせいで死んだ爺ちゃん。これ以上優しい誰かを不幸にするくらいなら、俺は今すぐこの首を掻き切って死ぬ」
禍々しい気配に真っすぐ向き合い、目を細めながら鳥居は言う。
「お前の言う通りだ幸裂仰生。三年前のあの日、世界の理が変わった。世界は未だ平和じゃない。兵器の代わりに依代を使った代理戦争が行われている」
「それと俺に何の関係が……」
「ある。依代の人権は認められていない。つまりお前に拒否権は存在しない。しかしお前にも利がある。依代は国から莫大な恩給を与えられる。そして何より、戦勝国の依代は呪いを放棄することが出来る」
その言葉で再び幸裂の心臓がどくん……と強く脈打った。
それは脅威からくる防衛反応ではなく、血の通った命の鼓動だった。
「選べ幸裂仰生。今死んで依代の席を他人に譲るか、この血みどろの代理戦争を生き残り、呪いを捨てて大事な人のもとに向かうか……まあ、仮にお前が今死んだとしても、日本が負ければその後国民がどうなるかは分からないが……」
俯く幸裂の顔は影に覆われて見えない。
少年は口を開き、感情を殺した声で問いかけた。
「依代になったら、敵国の人間を殺すのか……?」
「そうだ。敵国の依代すべて、あるいは旗持ちと呼ばれる要人のすべて、または定められた国主、このどれかを殺す。それが依代の使命だ」
「本当に呪いが消えるのか……?」
「ルールは超越者と呼ばれる神が定めたものらしい。少なくとも三年前の状態には戻れるだろう」
じっと鳥居が見つめる中、幸裂の肩が小さく震え始めた。
やがて暗い影の中に、光る雫が滴るのが見える。
「無理だ……出来ない……自分の幸せの為に……誰かを殺していいはずがない……」
「幸裂……お前……」
鳥居は静かに歩み寄り、震える少年の肩に手を置いてその前に屈みこんだ。
「これが慰めになるかは分からないが……これは戦争だ。やらなければ、この国に住む人間全てが犠牲になるだろう。その重責の先に、果たしてお前の幸せがあるかは分からないが……お前のような奴には、幸せになってほしいと思う……」
『お前は幸せになって、その手で大事な人を幸せにすることだけ考えたらええ』
死に際に残した爺の言葉が、少年の頭に蘇った。
腕の中では、安らかな顔で微笑む爺が眠っている。
「ぐぅぅ……おぉぉお……」
言葉にならない嗚咽を漏らしながら、幸裂仰生が膝をつく。
それからしばらく経ち、少年は顔を上げると、黒曜石の瞳に涙を溜めて噛みしめるように言った。
「鳥居さんやるよ……俺は……依代になって戦って勝って……六花のところに帰る……爺ちゃんから奪った命を無駄にしたくない」
「ああ……そうだな」
熊蝉がまた啼き始めた。
まるでこの寺の主を悼むように、その声は夏の蒼天に響き、少年の嗚咽をかき消していった。




