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#001 業火


 

 突然の平和条約が主要国の間で結ばれたあの日から3年の月日が経った。

 

 それだというのに世界は未だに固く閉ざされ、同盟国以外との外交はほとんどなされず、軍部の権力は依然として強大なままだった。

 

 そんな閉ざされた島国の、さらに閉ざされた島の山奥。

 

 苔むした参道の石段を黄色いバックパックを背負った幸裂仰生(こうさきぎょうぶ)が黙々と歩いている。

 

 身に着けた学生服からして齢十七ほどといったところだろうか。

 

 しかしその顔つきは険しく、同年代の少年達と比べても大人びて見えた。

 

 熊蝉の合唱は僧侶達の読経の響きよろしく五感を狂わせ、夏の日差しがそれに拍車をかけたが、幸裂の足は止まらない。

 

 黒曜石の瞳に決意を滲ませ、額に伝う汗を拭いながら頂きに見える寺を見据えてただ黙々と歩き続ける。

 

 途中、パイプから溢れる湧き水に屋根を設けただけの手水舎(ちょうずや)で、幸裂は手に嵌めた黒革の手袋を外した。

 

 右手で柄杓を持ち左手を清め、同様に右手を清めると、再び右手に持ち替えた柄杓で左手に水を注ぎ、それを口に含んで口を清める。

 

 もう一度左手を清めてから、幸裂は柄杓をそっと元の位置に戻し一礼した。

 

 夏であろうと手袋は外さない。外すことは許されない。

 

 襲い掛かる灼熱に顔を歪めながらも、少年は再び手袋を身に着け上へ上へと進んでいった。

 

 六花(りっか)……もうすぐ……もうすぐだ……やっとお前に……

 

 その時まるでその想いに応える様に、首から下げた紫と銀の糸で編まれたお守りが差し込む斜陽に照らされ、そっと光って見せた。

 

 石段を上り切った頃には、空は濃紺と淡いスミレの色が混沌と入り混じる夕闇に変わっていて、西の果てに沈む太陽が最後の残火を一際強く輝かせていた。

 

 辺りを埋め尽くしていた蝉の声はジージーと鳴く虫の聲に取って代わられ、儀式が次の段階へと移り変わったことを暗示している。

 

 篝火に照らされた寺社の境内に目を凝らすと、袈裟を纏った人影が立ち竦んでおり、少年に向かって静かな言葉を投げて寄越した。

 

「よう来たな仰生。して、逆打ち(・・・)の首尾は……?」

 

 幸裂はその場で学生服の上着を脱いでタンクトップから覗く肌を露わにした。

 

 そこには刺青と思しき梵字の羅列が彫られている。

 

「ああ。やっと八十八種揃えたよ……爺ちゃん」

 

「ようやったな……本堂に来なさい。これより呪破離(しゅはり)の義を執り行う。あ奴はどうじゃ……?」

 

「限界まで腹を空かせてる……飢餓状態だ」


「影に気い付けえよ……?」


「わかってる」

 

 取り囲むように焚かれた篝火で影は足元にしか伸びない。それでも互いの影が触れ合わない距離を保ちながら、本堂へと向かう二人の顔は険しかった。

 

 幸裂は大きな不動明王像の前に正座し、服を脱ぐ。

 

 その背後では指で印を結んだ僧侶が金剛呪を唱えながら少年に手をかざしていた。

 

 熱さによらない脂汗が、苦痛と共に幸裂の肌に滲みだす。

 

 それはまるで身体の内に巣食う獣が、身を捩っているかの如く容赦なく内臓を締め上げていく。

 

 思わず苦悶の声を漏らすと「耐えい……!」と爺の喝が飛んだ。

 

 僧侶は結跏趺坐で座り込むと、錫杖をを手に取りそれで床を打ちながら低い声で抑揚豊かに言葉を紡いでいく。

 

「我が一族の罪業」

 

 ドッ……シャリン……

 

 錫杖の先で遊環が触れ合った。

 

「悪しき先祖代々の因果」

 

 ドッ……シャリィン……

 

 先ほどよりも澄んだ音が空気を揺らす。

 

「我らは今を以て、その呪いを断ち切らんと欲す……! 姿を現せい……!」

 

 パリィィン……

 

 地面を錫杖が打つよりも先に遊環が甲高い音を立てて砕け散った。

 

「爺ちゃん……⁉」

 

「動くな……! 今動けばこれまでの苦労が水の泡じゃ……!」

 

 勇ましい言葉とは裏腹に、僧侶の表情は動揺が隠しきれていなかった。

 

 それでも独鈷杵(どっこしょ)を手に取り、爺は不動明王呪を唱えながら空を切る。

 

「わしの孫から出ていけ……わしの孫から出ていけ……わしの孫から、出ていけぇえええええ……!」

 

 怒号に呼応するように、幸裂の身体が激しく痙攣を始めた。

 

 天井を仰ぎ白目を剥き、その口からは白い泡がぶくぶくと溢れ出す。

 

「頑張れ……仰生……負けるんじゃあない……! 不動明王よ……悪しき獣を憤怒の火で焼き尽くしたまえ……ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」

 

 並んだ蠟燭の火が激しく燃え上がる。

 

 それを横目で確認し、僧侶はひと際力を込めた声で叫びながら独鈷杵を孫の方に向けた。

 

「汚れた狗神よ……わしの孫から出て行けぇええええ……! 不動明王尊の劫火に焼かれよぉおおお……!」

 

 その時、ぐるりと孫の首が廻った。

 

 白く濁った眼で爺を見据え、だらりと長い舌を垂らした口元は耳まで裂けて笑みを浮かべている。

 

 虫の音も、蛙の声も、あたりを埋め尽くしていた全ての生ある者の声が途絶え、静寂の中に皺枯れた声がただ一つだけ浮かび上がる。

 

「いいや……焼かれるのはお前の方だ……」

 

 立てかけていた蝋燭がさらに激しく燃え上がり、本堂の天井に燃え移った。

 

 瞬く間にその炎は燃え広がり、僧侶と本堂を呑み込んだ。

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