普通の子供
僕が生まれたのはH市という小さな町だった。僕の両親も共にこのH市の出身で、父はほんの数年間を除けばずっとこの町で暮らしてきたし、母に関して言えばこの町の外に住んだことは一度もなかったはずだ。
僕が生まれた頃に住んでいた家はボロボロの安アパートで、家の中はとても狭く、そして汚かった。今の僕が家に籠ることを好む傾向があるのはもしかしたら幼いころに過ごしたこの家が要因かもしれない。汚い家に住んだことのない人間には綺麗な家にいることがどれだけ快適かということがきっと実感できないのだろう。
H市には自動車部品メーカーの工場があり、僕の父親は高校卒業後そこでずっと働いていた。そこはとても大きな工場で、「友達のパパ」の四分の一くらいはそこに勤めていたかもしれない。ちょっとオーバーかもしれないが、まあそういう町なのだ。一方で母は、僕を妊娠したのをきっかけに、それまで保育士をしていた保育園を辞め、その後数年間は外には働きに出ずに、子育てをしながら内職をして家計を助けていた。「内職」という言葉にノスタルジーを感じてしまうのは僕だけだろうか。夜目を覚ました時に母親が小さな明かりの下で細かい作業をしているシーンだったり、内職があるために一緒に寝てもらえなかったことだったりが思い出される。
アパートの近所には小さな公園が二つあって、それらは「お山の公園」と「ロックの公園」と呼ばれていた。前者はその名の通り小さな山(当時の僕にとっては大きく見えた)があって、後者は六十九番地にあったが故にそんなアグレッシブな名前で呼ばれていた。近所には子供が多くて、僕はいつも近所のお兄ちゃん達にその公園で遊んでもらっていた。
こんなことがあった。近所の駄菓子屋に売っていたキーホルダーがどうしても欲しくて、母親からもらった小遣いを握り締めて僕はそれを買いに行った。すごくわくわくして。しかしそのキーホルダーは売り物ではなかった。くじの商品だったのだ。それを知った僕はどうしていいかわからなくて泣き出してしまった。そしてそこに偶然近所のお兄ちゃんが来て、そして僕のためにくじを当ててくれたのだった。その時手に入れたキーホルダーはその後しばらく持っていたのだけれど、いつかどこかでなくしてしまった。
つまり僕が言いたいことはそう、僕が悲しい時には泣く普通の子供だったということだ。
僕は三歳の時からI保育園という保育園に通っていた。非常に自然な流れではあるが、そこはそう、僕の母がかつて保育士をしていた場所だった。僕はバスで保育園まで通っていて、次のバス停で乗ってくる女の子をいつも待っていた。その女の子は長くて綺麗な髪をしていた(少年はどうして髪の長い女の子が好きなのだろうか)。今はもうなくなってしまった小僧寿司の裏に住んでいたその女の子が僕の初恋だった。だから僕の初恋は小僧寿司の味なのだ。「小僧寿司の味」という表現はなかなかに良い。子供と大人の側面を両方持っている感じがする。
ごく一般的な少年がそうであるように僕はこの髪の長い少女に恋をして、そしてごく一般的な少年がそうであるように僕はその少女をいじめていた。少年はただ一つの手段しか持たない。いやどうかな。もしかしたら男はと言ったほうが適切かもしれない。とにかくそんな風にごく一般的に僕は初恋を経験し、そしてごく一般的にその恋はいつの間にか終わった。そうして僕は保育園を卒園した。
僕が小学校に入学する少し前に、引越しをすることになった。家を建てたのだ。引越しによって彼女と同じ小学校に行けなくなってしまったことに多少の寂しさは感じたが、新しい家はそんな僕の悲しみを補って余りあるものだった。引越したその日、何もないリビングに置いた段ボール箱をテーブル代わりにして、僕はおやつにキットカットを食べた。だから僕は今でもキットカットが大好きで、そして僕にとってキットカットは新たな生活の象徴になった。
新しい家は市内にあって、アパートからは三キロ程度の距離しかなかった。今にして思えばすぐ近くだが、六歳の少年にとっては三キロというのはとてつもなく長い距離で、さらに小学校に入学したこともあって僕の生活環境は一変した。こうして、僕は初恋の彼女や近所のお兄ちゃん達とはもう二度と会えない遠い人間になった。
僕はI小学校に入学し、すぐに学校に慣れて楽しい小学校生活を送り始めた。明るい性格ですぐにたくさんの友達ができたし、先生にも好かれる子供だった。クラスに一人そんな子供がいるものだ。勉強もできて運動もできて、明るくて友達が多い、学級委員に指名されるような素直で良い子。僕は正にそういう子供だった。それはとても重要なことなのだ。その後数年間、僕は周りからすごく愛されたおかげで、模範的な子供であり続けた。もちろんその明朗さが調子に乗りすぎて先生に怒られるようなこともあったが、それはそれで子供らしいことには違いなくて、むしろ僕はそういったバランス感覚のおかげで一層どんなタイプの大人・子供にも好かれる子供だった。
話は変わるが僕にはいとこがいた。もちろんいとこなんて誰にでもいるだろうし、実際僕にも五人ほどいたのだが、一人だけ僕にとって特別ないとこがいた。和樹というそのいとこは僕にとって唯一の年下のいとこだった。母の弟の息子である彼は僕より二歳年下で、気さくなパパに似たのだろうか、僕と同じようにとても明るく元気な子供だった。他の四人のいとこはずっと歳が離れていたため一緒に遊ぶようなことはほとんどなかったが、和樹とは本当に仲の良い「友達」だった。
僕が小学校二年生の時、叔父の仕事の都合で和樹は引っ越すことになった。それまで市内での引越しのイメージしか持ち合わせていなかった僕は(人間は自分の経験に基づいた考えしか持つことができないのだ。たとえ大人でも)、ああ引越しというのは本来的に寂しいことなんだなと思ったのだった。とはいえもちろん親戚なのだからその後も正月や御盆にはH市に帰ってきて、二人でよく外で走り回って遊んだものだった。和樹は本当に元気な子供だった。
けれど僕が小学校四年の時の夏休みを最後に和樹が僕の家に来ることはなくなった。その半年後に和樹は亡くなった。白血病だった。
一つの側面にスポットを当てるならば、正義感の強い模範的な子供だった僕はこんな風に思ったかもしれない。和樹の分まで僕は精一杯生きなければいけない。そうそんな風に。
そして、学級委員的な僕は五年生になり、ごく一般的な少年がそうであるように、僕は思春期を迎えた。
僕は小五というごく平均的な年齢で思春期を迎えたわけだが、その内実は平均的なものではなかったと思う。一般的にはその年頃の少年は異性と話すのを極度に恥ずかしがったりするものだ。その意味から僕も完全に外れていたというわけではない。むしろ他のどんな子供よりもナイーブにそういった心理に影響を受けたとも言える。そして僕は女の子と積極的に話すようになった。僕にとっては女の子と話すことよりも、思春期という巨人になすがままにされることが何よりも恥ずかしかった。そう僕は、女の子にジェントルに接することが、巨人を倒す方法だと信じたのだった。
思春期の少年の自我は微妙なバランスを保っている。異性に対する羞恥心と、社会や大人に対する憎しみの間でだ。そして僕は、前者のもやもやを打ちのめしたことで、後にはナイフの刃先のように鋭利な、どうしようもない裸の憎悪だけが残った。