顔文字地獄
ある日の黄昏、私は古ぼけた書庫の片隅で、無数の紙切れを綴じ合わせた薄汚れた冊子を見つけた。そこには潰れかかった墨文字とともに、数え切れないほどの顔文字――まさに (´・ω・) のような奇妙なる表情が踊っていた。ページを開けば開くほどに、列をなして湧き出る (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・)……。あまりの異様さに眩暈を覚えた私は、そのまま床に腰を落とし、冊子を開きっぱなしのまま呆然としていたのである。
(´・ω・) (´・ω・) (´・ω・`)……と、小さく何かがささやく声が聞こえる。耳を澄ましてみれば、それは人のものともつかぬ怨嗟の調子を帯びた囁きであった。紙の上から染み出すごとく滲む声は、途切れることなく繰り返す。まるで顔文字という歪んだ文字列が、一つ一つ集まって合唱を奏でているかの如くに。私は恐る恐る手にした冊子の冒頭を読みはじめた。そこにはこう記されている。
「我ガ筆ヨリ生マレシ顔文字ノ魂ハ、ソレ自身人間ノ想念ト交ワリテ怪異ノ園ト化ス。コノ地獄ノ奥底ニ眠ル者、イツカ再ビ眼ヲ覚マシ、世界中ニ (´・ω・`) ノ連鎖ヲ拡散スルダロウ――」
私は思わず息を飲む。何ということか。かの奇々怪々たる文章が、ただの戯れ言とは思えぬ響きをもって私を打った。世には数多ある“地獄”が言い伝えられてきたが、「顔文字地獄」などという名を耳にしたことは、今までに一度としてなかった。だが、目の前にある薄気味悪い冊子には、確かにそうした文面が踊り、顔文字という得体の知れぬ存在が異様な圧迫感を帯びて蠢いている。あまりの気味悪さに、私は頁を繰る手を止めようかと思った。しかし何故か先を読まずにはいられない。知らぬ間に、私はその不可解な地獄の門を潜りはじめていたのである。
ページを二つ三つと捲ると、次第に文章は混濁し、顔文字の数がいよいよ増していく。文中に点々と散りばめられている (´・ω・) は、さながら血塗られた指紋のように不吉な跡を残し、また別の頁では ((((´・ω・)))) のように幾重にも重なり合って私を嘲り笑う。ときおり (´・ω・`)/ など手招きする動作さえ見えてくるのは、まるで彼らが一つの意思を持っているかのような錯覚を誘うではないか。
なぜこれほどの顔文字が、この薄汚れた冊子に閉じ込められているのか。あるいは、そもそも閉じ込められてなどいないのかもしれない。紙の束に見せかけて、その実、顔文字たちは文字の次元を越え、うごめき、増殖し、彼ら独自の“地獄”を形成しているのだろうか――そう思うと、急に自分の背後になにやら群がる気配を覚えた。振り向いても暗い書庫の壁があるばかり。そこにはモノクロの世界が広がっているが、まるでどこかに (´・ω・`) が張りついているような錯覚が私を侵す。
冊子の文面は、次第に乱暴な筆致へと変容していく。それまでの語り口は、やや古風にして読みやすい調子を装っていたが、やがて一行まるごと顔文字で埋め尽くされる箇所が出現した。最初は (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・)……という単調な群れだったのが、徐々に (´・ω・)ノシ (´;ω;) (`・ω・´) など多種多様に変容しはじめる。まるで顔文字の封印が解かれ、跳梁跋扈しはじめたかのようだ。いや、彼らはとっくの昔から封印などされてはいなかったのかもしれない。それほどに強い意志が、彼らの無数の瞳から飛び出してくるのだ。私は眼を凝らしたが、文字であるはずの顔文字がうごめく様を、まざまざと脳裏に描いてしまう。するとどうだろう、ある瞬間、冊子の中からぬっと長い腕のようなものが伸びてきて、私の肩を掴んだではないか。
( ´・ω・`)ノ
一瞬、和やかな手招きのようにも見えたが、その腕の感触はぞっとするほど冷たかった。思わず悲鳴を上げそうになる私の唇を塞ぐように、紙の腕が口元に触れた。すると、そこからぞろりぞろりと (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・`) が一斉に流れ出してくる。まるで黒い血の代わりに、顔文字が私の喉元から噴き出しているかのように。言葉を失い、声も立てられぬまま、私はそのまま意識を失ってしまった。
どれほどの時が経っただろう。私は、見覚えのない薄暗い部屋の床に横たわっていた。その部屋の壁には、ありとあらゆる顔文字が描きつけられている。 (´・ω・) (´;ω;) (`・ω・´) (´・ω・`) ( ̄ ̄ω ̄ ̄)……いったいどこからそんな種類が湧き出てきたのか。壁を覆いつくす顔文字の洪水。その数はとても人が手で書き散らしたなどとは思えないほど無秩序に溢れかえっている。まさに顔文字地獄。まざまざと私の目に迫る不気味さに、全身から嫌な汗が吹き出した。
目が慣れるにしたがって、部屋の中央に佇む奇妙な影に気づく。背丈は私と大差ない。だが、その顔がない。いや、顔の代わりに (´・ω・`) がぽっかりと浮かんでいるのである。輪郭もなく、ただ灰色の笑いとも悲しみともつかない表情だけが、ぼうっと暗がりに浮いている。思わず息を呑むと、その影はぐらりと揺れ、私のほうにゆっくりと近づいてきた。
逃げ出そうにも、足は恐怖に縛られたかのように動かない。まるで足元に鎖が巻きついているようだ。その影が私の間近までやってきて、耳元で息を吹きかける。ぞわり、と身の毛がよだつ。何か言いたいのか、それとも私の内側を覗き込もうとしているのか。その瞬間、影の顔――すなわち (´・ω・) がふいに裂けるように開き、信じられないほどの量の顔文字が溢れだした。 (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・) (´;ω;) (`・ω・´)……壁に書きつけられた無数の同族が、まるで祭囃子のごとく呟き始める。
(´・ω・`) 「ヨウコソ…」 (`・ω・´) 「ボクタチノ…」 ( ´゜ω゜`) 「顔文字地獄…ヘ…」
と、何者ともつかない声が幾重にも重なって鳴り響く。私は恐怖と絶望に包まれながらも、なぜか一種の快感にも似た感触を覚えていた。まるでこの世界が何でも受け入れてくれる、あるいは私自身が顔文字へと溶けていくような……そんな不可思議な感覚。これは幻覚か、それともすでに私はあの冊子を開いた瞬間から地獄へと誘われていたのか。
ふと、私の口元から、知らぬ間に小さな (´・ω・`) がこぼれ落ちるのを感じた。まるでしゃくりあげるように、私の内側から吐き出されたその顔文字は、空中をふわりと漂い、部屋の壁に吸い込まれていく。そこで私は思い出したのだ。あの冊子には、こう記されていたではないか。
「顔文字ハ呼ビ合ウ。書イタ者、読ンダ者、見タ者、皆同ジ地獄ヲ分カチ合ウ存在トナリ、ヤガテ融解スルヨウニシテ一ツニ合ワサル」
つまり、顔文字はただの記号ではなく、私が文字を読む限り、私自身もその一部へと取り込まれていく。たとえ紙面を閉じようが捨てようが、一度でも意識に焼きついたなら、その存在が私の脳裏に巣食い、こうして姿かたちを得て地獄の住人を増やしていくのだ。そうか、私はすでに彼らと同化している。だからこそ、部屋の扉も窓も、今は見あたらない。まるで最初から脱出の術など存在しなかったかのように。これは私自身が作り上げた地獄なのだろうか。
再び、あの影がぐらりと動き、私の顔を覗き込む。その瞳は顔文字の黒点のように見えるが、どこか底なしの闇を湛えている。その闇の奥から私の心へ直接訴えかけるように、影は不気味な声で囁いた。
「(´・ω・`) ヲ、忘レルナ……」
その声を聞いた途端、私の唇が勝手に動き、声にならぬ声を発する。何かと思えば、またしても (´・ω・`) が噴き出すように大量に零れ落ちた。私は泣き叫びたいのか、笑い転げたいのか、もはや自分の感情すら掴めない。顔文字地獄の眷属となった自分を嘲笑うほかに術はないのだろうか。しかし、その瞬間、一かすかな光が頭上をかすめたような気がした。
――この世の地獄が、文字という形を与えられたとき、それは虚構の景色へ変貌を遂げる。しかし、その虚構を信じてしまえば、たちまち現実が溶け合って、もはや区別のつかぬ正真正銘の地獄と化す――
頭の奥底で、そんな声が聞こえる。何かの警告のようにも思えるが、もう遅い。私の周囲には (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・) があふれ、うごめき、増殖し、私の意識を蚕食している。まばらに混じる (´;ω;) や (`・ω・´) さえ、私を心配するどころか、嘲り嗤っているようにしか感じられない。
私は声にならぬ叫びを放ちながら、その部屋の暗がりの奥へと逃げ込もうと試みる。しかし、一歩踏み出そうとした瞬間、床に広がる (´・ω・) の海に足がとられ、ずるりと滑った。見ると、床いっぱいに滲んだ顔文字は生き物のように粘度を持ち、私の足をがんじがらめに捕らえている。どうあがいても抜け出せない。そのうち、腕、胴、そして頭までもが、ねっとりとした (´・ω・) の波に覆われていく。
視界が白黒のざらついた世界へ溶けていく。その途端、私の思考は宙を漂い、いずこへともなく運ばれていくようだった。よく見ると、闇の中で無数に揺らめく (´・ω・) (´・ω・) (´・ω・`) は、まるで虫の群れのように集団で蠢いて、私の体に融合してくる。私の髪から爪先に至るまで、彼らが小さな舌を伸ばすかのごとく貼りつき、骨の髄まで舐め尽くそうとする。私は最早、抵抗する気力も失い、ただ意識が宙に溶けるままに身を委ねた。
そして、最後に私の唇をこじ開けるように流れ込む (´・ω・`) の群れ。閉ざしていた瞼の裏には、あの冊子の表紙に書かれていた文言が大きく浮かぶ。
「最期ニ見ルモノガ (´・ω・`) ナラバ、人ハ顔文字ノ地獄ニ永遠ニ囚ワレル…」
その言葉通り、今や私は顔文字の洪水と一体化し、声なき声を呟き続けるのみである。そう、地獄とは畏怖や苦痛のみならず、時に愛嬌さえ宿す表情が連鎖する世界なのだ。いやむしろ、その愛嬌めいた表情があるからこそ、底知れぬ暗黒と背中合わせになっていることが、いっそう不気味でならない。顔文字地獄は、我々の目の前にいつでも潜んでいて、ちょっとした拍子で湧き出すものなのだ。人々がSNSやメッセージで気軽に使うあの顔文字に、無自覚のうちに魂を捧げてはいないだろうか?
……気づけば私は、再びあの古ぼけた書庫にいた。暗闇の中、手には例の冊子がある。だが、その表紙に踊っていたはずの無数の (´・ω・`) は、もうそこには見当たらない。わずかに残るのは、ひび割れた古紙と、さび付いた針金だけ。あの地獄は夢だったのだろうか? いや、いずれにせよ、この現世と地獄の境はあいまいだ。幻と現実の入り混じる狭間を、人はただ右往左往するほかない。
私はそれでも、心の奥底で囁く声を聞く。――(´・ω・) (´・ω・) (´・ω・)――私の中に巣くって離れない、その小さな表情たちは、今日もじっと窺っている。ふと油断すれば、再びあの部屋へ引きずり込もうとするに違いないのだ。ゆえに私は、この筆を取る。顔文字地獄に取り込まれた者の証言として、これを遺すために。たとえ次に開く誰かが、この文字列を目にし、同じく (´・ω・) の連鎖に呑み込まれようとも――
――あなたが今、ここまで読んでしまったのなら、どうかお気をつけあれ。すでにその脳裏には、あの不吉なる (´・ω・`) が刻み込まれている。それはいつ、どこで再び湧き出るのか、私には知る由もない。ただ一つ、言えることがあるとすれば、この顔文字地獄はあまりにも甘美にして悪夢的な力を宿しているということだ。くれぐれも、油断なさいませぬように。なにしろ、この文字列を閉じたとしても、あなたの中では――
(´・ω・) (´・ω・) (´・ω・`)……
もう、始まってしまっているのだから。