プロローグ②
桜が目を覚ましたとき、初めに映ったのは小さな部屋だった。あるいは、そこは小屋なのかもしれない。窓には暗幕がかかり、部屋を照らすかすかな光は、天井からこぼれた月の光だけだった。
「よく来たねえ、異界の巫女」
月光の中心に、1人の老婆が座っている。
頬は痩せこけ、顔色も悪い。声はしゃがれていて、突風が吹けば今にも折れてしまいそうなほど細い体だ。
「アタシは北の魔女セレス。死にかけていたアンタをここに召喚した者だよ。まあ、今死にかけてるのはアタシだけどねえ。けっけっけ」
北の魔女セレス。
謎の声が言っていた人物と同じ名前だ。
後継ぎを探していると言っていたが、なるほど確かに。彼女は今すぐ絶えてしまいそうなほど、体の機能が弱っているように見えた。
「南の賢者にはもう会ったろう。なんせ異界から人間を召喚するときゃあ、必ずやつの検疫を通過しなきゃいけないからねえ。面倒だが、こうしてアンタがここにいるってぇことは、その検疫を突破して、やつの中途半端な説明も終わってるってぇことだ。違うかい?」
「はい」
声を発したときに、違和感に気づいた。
とても幼い声だ。
変声期の直後のような、高くあどけない声。
「……すなまいとは思っているんだ。アンタのように平和な世界で生きてきた人間を、こんな世界に呼び込んじまったこと。ただ、聞けばアンタは願いがあるそうな。大切な人にお別れを言いたいんだって? 健気な願いだ。それに漬け込むようで心は痛むが、ワシらのような種族は、そうでもしなければ存続できなくてなあ。どうかアンタの二週目の命、その健気な願いと、アタシらのために使ってほしい」
ネジが錆びた人形のような動きで、セレスは前かがみになった。
どうやら頭を下げているらしい。
そんな老婆に、桜は声をかける。
「頭を上げてください。私にできることであれば、やらせてください」
「……ああ。後継ぎがアンタでよかった。なんて素直で、優しい子なんだい。最後に、名を聞かせておくれ」
「サクラ。カリン・サクラです」
「そうか。カリン……アンタにこれを授ける」
セレスは懐から何かを取り出した。
それは、禍々しい紅色に光った丸い水晶だった。
震えながらもサクラにそれを渡して、セレスは言った。
「そいつは魔玉。百年生きたアタシの魔法の力を、すべて凝縮した魔力の結晶さ。アンタが魔法を知り、扱えるようになったとき。きっと……役に立って、くれる……」
言い終わる前に、セレスは大きく咳をした。
血を吐くほどに大きく咳込み、その体力が限界にあることを暗に示唆していた。
とっさに桜が肩に手を差し出す。さすっても、さすっても、その咳は止まない。
床に吐かれた血は月光を浴びてぬらりと輝き、その生々しさが桜の目を焼いた。
「異界の健気な娘さんよ。どうかエルフを……アタシの大事な家族を……子供たちを……。どうか、どうか……救ってやっておくれ」
やがてセレスの体からガクッと力が抜ける。
すると、彼女の体をピキピキと氷の膜が覆いはじめた。
足先の指から次々と凍っていき、桜が握っていたセレスの右手と、そこに握られていた魔玉を残して全てが凍り付いた。そこに命の鼓動も、体温も、もうなにも感じない。
死んでしまったのだと、桜は実感した。
初対面の老人だった。
何の思い出も思いれもない、ただのおばあちゃんだった。
なのにどうしてこんなに、涙が出るほど悲しいのだろう。
人の死に直面したのは、桜にとってこれが初めてのことだった。