プロローグ①
男はソファーに座りながら、トイレのドアを頻りに見てはそわそわとしていた。
彼の心配そうな表情から察するに、どうやら尿意によるものではなさそうだ。
やがて水を流す音が聞こえ、彼は飛びのくようにソファーから立ち上がった。
中から現れた女性を見るやいなや、彼はおそるおそる声をかける。
「どっ……どうだった?」
女性はお腹をさすりながら、ふっと笑った。
申し訳なさそうで、どこか自虐的な笑みだった。
「ごめん。またダメだったみたい」
「……そっか」
男は苦笑すると、緊張が抜けたのか倒れこむようにソファーに座った。
女性も彼に寄り添うように隣に座り、彼の肩に頭をもたれかけた。
「なかなか来てくれないね。コウノトリ」
「いつか来てくれるよ。だから桜、それまで頑張ろう。一緒に」
「……ありがとう。咲久くん」
女性は――桜は、ぬくもりを確かめるように咲久の手をぎゅっと握った。
やがて、どこかからカラスの鳴き声と、五時を知らせる市の鐘が鳴った。
窓からは夕日が差し込んで、もうすぐ日が暮れようとしている。
桜は立ち上がり、うんと伸びをして咲久の方を見た。
「晩御飯、なにがいい?」
「うーん……。じゃあ、たまには味が濃いものが食べたいな」
「そうだね。最近控えてたし……今日くらい、気にしなくていいよね」
桜の視線が自身の下半身へ向く。いつからだろう。気分が沈んだとき、お腹を摩るのが癖になっていた。咲久もそれに気づき、止めさせるように大きな声で言った。
「豚肉の生姜焼きがいいな。なるべく大きくて、食べ応えのあるやつ」
「うん、わかった。買い物行ってくるね」
桜は自室に戻って、部屋着から外着に着替える。
ポケットには鍵と携帯、手元にはエコバックだけ持って外へ出た。
夏のむわっとした空気が、夕方のなまるい風で中和されるのを肌で感じながら歩く。
ワンピースの上にカーディガン一枚という軽装で外をうろつける夏は嫌いじゃない。
逆に冬は何着も厚着しなくてはいけないから、動きづらくて嫌いだ。
スーパーに着くと、冷房でガンガンに冷やされた空気が桜を出迎える。
食品を扱っているから仕方のないことではあるが、もう少し外との寒暖差を抑えてほしいとは毎回思う。
「えーっと……豚肉豚肉っと」
スーパーの中でも精肉コーナーは一段と寒い。
要望通りなるべく肉が厚いものを選んでかごに入れる。生姜は確か、使いかけのものが家にあったはずだ。あとは添え物と、みそだけ買っておこうか。そうして必要最低限の軽いカゴのままレジに並ぶ。すると後ろに、子供ずれの母親が並んだ。
「おかーさん、これ今あけていい?」
「ダメに決まってるでしょ。レジを通してからよ」
「えーっ。早くあけたいよぉ」
幼稚園児くらいだろうか、鼻水を垂らした男の子だった。
どうやら食玩の箱を開けたくてしかたがないらしい。
桜はすっと列から離れた。
「よろしければ、先にどうぞ」
「ええ、いいいんですか?」
「もちろん」
「すみません、ありがとうございます。ほら、ちゃんとアンタもお礼言いなさい」
「おねえさん、ありがとーございます」
「ふふ。どういたしまして」
桜は咲久と結婚して五年目のもうすうぐ三十二歳。
……もしもすぐに子供ができていたら、彼くらいの年齢だろうか。
考えたってどうしようもない「たられば」をいつも考えてしまう。
「お会計千三百四十円になります」
「カードで」
二人分の食材をエコバックに詰め込み、桜はスーパーの外へ出た。
むわっとした暑い空気にセミの鳴き声。
大きな入道雲に夕焼けた橙色の空。
悲鳴。
「〇〇―ッ!」
見ると、さっきの子供が赤信号にかかわらず車道に飛び出している。
手には金ぴかのおもちゃが握られていた。欲しかったのが当たったのだろう、興奮して飛び出してしまったのかもしれない。間が悪くトラックが走っている。小さな男の子の体は死角に入り込み、ドライバーは気づかず徐行しようとしていない。
気づけば桜は走っていた。
悲鳴を上げる母親を置き去りにして、桜は自分でも驚くほどの瞬発力で駆けた。
追いついた男の子の小さな背中を目いっぱいに押した。
「生きて」
ゴンッ!と固いもの同士がぶつかる音が車道に響いた。
桜には、それが自分の命が砕ける音に聞こえた。暗転する前の視界には空が見えた。人生のなかで一番綺麗な夕焼け空が、そこには広がっていた。
◇
ごめん、咲久くん。
私、死んじゃったかもしれない。
朦朧とする意識のなかで、映ったのは夫の顔だった。
桜が不安そうな顔をすると、いつも優しく慰めてくれた。子どもができないことに対する焦燥も、苦悩も、その全部を分かち合った人。共に分かち合いたいと思った人。
――会いたい。
最後に、お別れを言いたい。
『言わせてあげるよ』
直接頭に響くような声が、桜の頭をよぎった。
『きみにチャンスをあげる。きみは今から、魔族として異世界で生まれ変わる。そこでは四つの勢力が常に争い、人々は先の見えない不安と戦いながら日々を過ごしている。きみには今から、そんな戦禍の世界に身を投じてもらう。そして魔族として魔法を学び、知識を得て、力を蓄えたなら、僕のもとへ来るといい。きみが生まれ、育ったこの世界に帰る方法を教えてあげよう』
謎の声は桜を案じることなく、楽し気に語る。
『僕は南の賢者アーレス。北の魔女セレスが跡継ぎを探している。きみがそれになれ、花梨桜。そしていつか世界の大書庫――僕の城までたどり着き、僕を殺してほしい。これはゲームだ』
魔族?魔法?魔女?
それは創作でしか聞いたことのないような言葉だった。
走馬灯と呼ぶにはあまりに滑稽で、興味も心当たりもないセリフの応酬。
それでも、万が一。
もしかしたら。
私はもう一度、咲久くんに会えるのかもしれない。
この声の主が、彼と私を繋ぎとめてくれるかもしれない。
その淡い希望が。
その確信の欠片もない直感が。
花梨桜の命を、再び燃やした。
「行きます。その世界へ」
『奮闘を期待する』
再び世界は暗転する。
桜は意識を手放した。