響と肝試し
よーつくよーつくまおーまおー、おわおわごーへむえんむえん。
夜の静寂に鳴り渡る鳥の声。
石段を見上げる先には煌々とした月の姿。
鎮守の森に投げかけられた月光が、薄暗闇の石段に不気味な影を投げかけていた。
何とも長い階段だ。今からこれを登るのかと思うと、ゲンナリとした気分となる響であった。
傍らには楽し気な妃が一刻も早く登りたそうにウズウズしている。
オドオドした様子の遼の手を握り、環も準備万端と言った様子だ。
先に神社に赴いた連中が下りてくるまでの待機時間。
いい加減、今宵の肝試しにも飽きてきた響が欠伸をしようとした、まさにその時。
夜の帳を引き裂くような少女の悲鳴が神社に響く。
それを耳にした少女達は、慌てて石段を駆け上がっていった。
青空にチャイムが鳴り響く。
此処は堅洲高校。頭か金に問題を抱えていない者は入学しないと専ら噂の高校だ。
事実、この学び舎を選ばざるを得なかった者達の大半は、自身の境遇を早々と嘆くことだろう。
町全体が怪奇スポットと言っても過言ではない堅洲町に居を構えるこの高校。
此処では高校デビューで調子に乗った問題児達も、日々を侵食する怪異に分からされて、すぐさま身の振り方を改めるのだ。
校内で発生する怪異が七不思議どころじゃとても足りない堅洲高校であっても、休み時間は等しくやってくる。
今は昼食時。
黒髪を乱雑に纏めた少女、宮辺響が弁当箱を開けた。
「おおう……要らん手間暇を……」
箱の中を彩る色鮮やかなおかず達。
その彩を忘れさせる程に目を引くのは黒猫が見事に描かれた御飯という名のキャンバス。
まさかのキャラ弁だった。
雇ってからまだ一か月程度しか経っていないというのに、使い魔である燈子の俗世への染まりっぷりに驚きを感じざるを得ない。
「わ~! かわいいね、ハルちゃん!」
「う、うん。ちょっと恥ずかしいけど……」
高校生としては余りにも幼い見た目の少女、加藤環はその見た目通り、小学生のように燥ぐ。
くすんだ金髪に緑の目、垢抜けない印象の少女である来栖遼も、若干羞恥心で顔を赤くしながら、それでも自分達の為に腕を振るってくれた響の使い魔であるメイドに対して感謝の念を感じているようだ。
「あいつ、そんなに暇なのか? まあ、館から出られないんじゃ気晴らしは必要かもしれんが……」
「ふふ。嬉しい心遣いじゃないですか。響さんは良いメイドさんを雇いましたわね」
幼児向けの絵柄の黒猫を前にしても、恥ずかしがりもせず堂々としているのは滋野妃
金糸の如き艶やかな髪と、青空のように澄んだ蒼眸。女神のような美貌の財閥令嬢である。
入学してから校内中で話題を搔っ攫い、数々の異性を虜にしてきた麗しの人。
今も、昼食に誘おうとするも響に先手を打たれた男達が、恨めし気な視線を向けている。
「しかし、何っつうかな。私としてはあの館の怪異を始末してもらえればそれで十分なんだよな。日常の余計な手間を掛けさせるってのも、どうにも悪い気がしてさ」
「確かに燈子さんには甘えっぱなしですわね……。何か恩返しでもした方が宜しいでしょうか?」
他愛のない日常会話。昼食時間中の穏やかな一時。今日も何時ものようにこのままランチタイムが進むかと思われたが……。
教室のドアが大きな音を立てて荒々しく開く。
開かれたドアの前には、黒い長髪をツインテールにした勝気な印象の美少女が一人。
注目する生徒達を気にもせず、ズカズカと響達の前にやってくる。
「あ~ら妃。随分と可愛い昼食なのだわ。とても名門の食事とは思えないのだわ」
開口一番、皮肉たっぷりな表情を浮かべて妃を煽ってくる。
「ええ。とっても可愛いですわ。作った方の込めた愛情が伝わってきて、私も嬉しいです」
妃には皮肉が通じていない様子だ。
燈子に作ってもらった弁当を少女に見せて御満悦である。
「それにしても随分と人気者なのだわ。無駄に肥えたその身体、庶民の下卑た男共にはさぞ魅力的に映るのでしょうね!」
小柄な少女はツインテールを苛立たしげに揺らしながら、尚も妃に突っかかる。
ツインテールの少女の容姿は……言ってしまえば幼児体系だった。環程ではないにしても、あまり高校生には見えない発育の悪さである。
「体力を付けなければ、御爺様のような立派な探検家にはなれませんからね。身体は資本、しっかり食事はとらなくてはなりません。一華さんもしっかり食べないと大きくなりませんよ?」
「な! 余計なお世話なのだわ!」
少女は激昂して地団駄を踏む。若干涙目だ。
妃の豊かな双丘を恨めし気に見つめている。
「キサキちゃん? この子おともだち?」
「はい。私と同じく月之宮中学校に通っていた龍王院一華さんです。月之宮では知らない方が居ないくらい凄い名門のお嬢様なんですよ」
「御友達じゃないのだわ~!」
ムキになって反論する一華に妃の優し気な微笑みが向けられる。
「ふふ。中学校での日々が懐かしいですわ。御爺様の功績に躊躇して誰も私に向き合ってくれなかった中、唯一語りかけてくれたのが一華さんでした。あなたの御蔭で三年間の中学生活、退屈を知らずに済みましたわ」
「は~な~し~を~聞~く~の~だ~わ~!」
何とかして妃に敵意を伝えたいのだろう、一華は必死になっている。
「止めとけ一華とやら。此奴にちっぽけな嫌味は通用しない」
「五月蠅いのだわ! 没落した宮辺の娘なんぞに忠告される言われはないのだわ!」
響は意外といった表情を浮かべる。
宮辺家も元々は如月市で名を馳せた名家である。
しかし、それも遥か昔の事。往年の名声を知る者等殆どいないと思っていたのだが。
今更になってそんな事実を持ち出されると、没落して尚名家の末裔である事に拘り続けた父親やかつての自分の振る舞いを思い出し、あまりの黒歴史っぷりに頭を抱えたくなる響であった。
「そんで、龍王院の御嬢様? あんたは何が言いたい?」
「要は自分より目立つなって言ってるっすよ、お嬢は」
「高貴な心は瞳を大地に投げかける……気高き心、努々天から堕ちぬよう……」
「うお! 何だお前ら?」
突如として現れたのは二人の少女。
短髪で元気そうな少女と、何処となく不気味な雰囲気を湛える根暗そうな少女の二人組だ。
「何て言うっすかね。名門のプライドって奴っす。古くからの名門である龍王院家に生まれたお嬢にとって、一代で成り上がった滋野財閥の御令嬢ばかりがチヤホヤされるのが我慢ならないんっすね。要するにただの嫉妬っす。お子様っすね~」
「喧しいのだわ獅堂!」
「わ~! お嬢が怒ったっす~!」
獅堂二葉は一華を茶化しながら教室の外へ逃げ出した。
「ちょっと待つのだわ! あなた私の侍女ではなくて?」
「奔放に……放埓に……野生の血は自由を求める……枷は無意味……」
「蔵馬。相変わらず何を言ってるのか分からないのだわ。会話はもっと分かりやすく!」
「御意……」
「あ~もう! 私の侍女ってこんなのばっかり! って、私を無視して何始めているのだわ?」
頭を搔き毟る一華を後目に、食事を終えた響達はトランプで遊びだしていた。
「何だ。まだ用事があったのか?」
最早響は視線を向ける事すらしない。ただ只管にトランプのスートを注視している。
「用事! そう、用事なのだわ! 滋野妃! あなたに勝負を申し込むのだわ! 今度こそギャフンと言わせて、成り上がり者の滋野財閥なんて龍王院家に比べたら取るに足らない存在だって証明してやるのだわ!」
「まあ。中学校以来ですわね! 今回は何で勝負するのでしょう?」
「何で嬉しそうなのだわ?」
喜色満面。妃の表情は勝敗に係わらず楽しもうという喜びに満たされていた。
「まあ、いいのだわ。今回の勝負は夜の肝試し! 折角堅洲町と言う怪奇スポットに進学したのだわ。相応しい勝負だと思わない?」
「良いですね、肝試し! ワクワクしますわ~!」
「ふん。お気楽そうなその表情、すぐに曇らせてあげるのだわ! 漏らしてもいいようにオムツでも用意しておくのだわ~!」
勝負内容の確認を行う二人の御嬢様。
そんなじゃれ合いを眺めつつ、響は何時の間にか妃からトランプを引き継いだ蔵馬三樹に問う。
「何時もあんな感じなのか?」
「変わらぬ……何も変わらぬ……不変こそが運命……」
「龍王院さん、今度こそって言ってたけど、妃ちゃんとの戦績はどうなの?」
「足搔き……それでも諦めぬ……例え必敗の運命に挑もうとも……」
「キサキちゃんつよい! 一度も負けたことないんだね!」
「諦め悪いな、あの御嬢様。明らかに負け越してんのに恥ずかしくないのかね」
「えと……ほら、心が屈しなければ負けにはならないとも言いますし……」
「其処の庶民共! 聞こえているのだわ! あと何で蔵馬と意思疎通できてるのだわ?」
話し合いが終わった一華がプリプリと怒りながら響達に語り掛ける。
「丁度良かったのだわ! 何時も私と侍女二人を相手にしていて流石に妃が不憫だと思っていたのだわ! あなた達も参加なさいな! 三対四で勝ったら流石の妃でも言い訳できないのだわ!」
「勝手に巻き込むなよ。てか、何時もは三対一で負けてたのか……」
「お黙り没落令嬢! あなた方に拒否権は無いのだわ! もっとそこのちびっ子みたいにやる気出すのだわ!」
「き~も試し、肝試し~! 楽しみだね、ハルちゃん!」
「え、え? 私は遠慮したいんだけど……響ちゃん、如何しよう?」
「……残念だが諦めろ。この手の輩は話を聞かん。それに妃を夜中に一人で行かせる訳にもいかないしな」
「決まりなのだわ。蔵馬!」
「如何に」
「放課後、獅堂と一緒に肝試しのセッティングに赴くのだわ! 寄り道せずに!」
「……我が聖典……今、積まれし時……」
「だ~か~ら~! 何言っているのか分からないのだわ!」
「ファウスト先生の新刊、今日が発売日なので本屋に寄ってからで良いですか?」
「……初めからそう言うのだわ」
「逃げもせずよく集まったと褒めてやるのだわ!」
真夜中の堅洲町。
静まり返った五道商店街に、一華の勝気な声が木霊する。
昼間は人でごった返すこの商店街も、今の時間はシャッターを下ろした店が立ち並び、寂しげな雰囲気が漂っていた。
そんな夜の商店街に集まった少女達。
この勝負に乗り気でないのは響と遼の二人のみ。
残りの面々は如何にもやる気十分といった面持ちである。
「さあ、蔵馬! 早速怪奇スポットに案内するのだわ!」
「……御意」
龍王院陣営にありながら、環とヘレン・ファウストの著作、黒騎士シリーズの話題で盛り上がっていた蔵馬は、会話を遮られてやや不満顔で一同を案内する。
やがて辿り着いたのは、店舗と店舗の間に広がる裏路地であった。
天に輝く白い月。それが投げかける月光も、建物に遮られて届かない薄暗い小道である。
「此処こそ決戦の地」
「……普通の裏路地に見えるな。不気味と言えば不気味だが」
「一華さん? 此処はどのような怪奇スポットですの?」
妃の言葉に一華は目を泳がせる。
「さ、さあ? 怪奇スポットの選別は獅堂と蔵馬に任せたから、よく分からないのだわ」
「丸投げかよ」
「え~と……蔵馬?」
主の助けを求める視線を受け、頷く従者の少女。
「此処は永遠の迷宮……魂彷徨う迷い家の庭……」
「だ~か~ら~! もっと分かりやすく説明なさい!」
「ここは稲田怪道って呼ばれている怪奇スポットだよ! 元々は田んぼに囲まれた小道だったらしいんだけど、その頃から不思議なことが起こっていたんだって。何でも、そんなに長い道じゃないのに迷い込むとなかなか出られなくなるとか」
流石は地元民。環はこの裏路地の事をよく知っているようだった。
元気な解説の声に、蔵馬はうんうんと頷いている。
「其れこそ真実……流石は黒き聖典の同胞……」
「もういいのだわ。早速だけど、勝負を始めるのだわ。この道の奥……でよかったのよね?」
「小さき聖堂……名も無き神をまつる祠……」
「この先の行き止まりに小っちゃい祠があるっす。其処にメダルを置いてきたっすよ!」
「そう! 其処にメダルが置いてあるのだわ! 恐怖に負けてメダルを持って帰ってくる事が出来なかった方の負け! 先陣は私達が切るのだわ!」
意気揚々と裏路地に入っていく龍王院一行を丸い月が見下していた。
「お、戻ってきたか」
「一華さん、どうでした? 何か不思議なことは起こりましたか?」
好奇心に支配された妃の青い瞳が一華達を出迎える。
「ふっふーん! 見るのだわ!」
自信満々に掲げられたのはゲームセンターで入手したと思わしきメダル。
「随分時間がかかったな。かれこれ三十分程度か。タマ、この道ってそんなに長くないんだろ?」
「うん。片道五分もかからないよ」
「と、言う事は! やはり怪奇現象に遭遇したんですのね!」
鼻息荒く詰め寄る妃を、一華は鬱陶し気に引き離す。
「べ、別に何も起こらなかったのだわ!」
「そうっすよ! ちょっと今後の仕掛けについて……もが」
「ななな何でもないのだわ! 蔵馬が月を眺めながら変なポエムを読む事を止めなかったせいで遅れただけなのだわ!」
獅堂の口を塞ぎながら、慌てて弁明する一華。
蔵馬は時間が掛った理由を押し付けられて、解せぬと言った面持ちである。
「とにかく! 次は妃、あなた達の番なのだわ! とっととメダルを取ってくるのだわ!」
漸く出番が来たとばかりに盛り上がる妃と環。
環は顔を蒼褪めながら震える遼の手を取って、裏路地の奥に消えていく。
それを追うように響と妃も暗闇の中へ。
残ったのは一華と二人の侍女のみ。
「蔵馬、仕込みはしっかりしたのだわ?」
「仰せのまま」
「ふふふ……妃、とっとと路地裏から出てくるのだわ。恐怖に歪んだその顔を、思いっきり扱下ろしてやるのだわ!」
息が上がる。
心臓が跳ねる。
脚は棒となったかのように疲労で感覚が失われていた。
少年は走り続ける。裏路地から抜け出そうと必死になって暗闇を駆ける。
やがて辿り着いた先には裏路地の小さな祠。
何時から建っているのだろうか分らないその祠の下に、メダルが鈍い光を放っている。
獅堂が供えた団子とお茶が、何者かによって平らげられていた。
また此処だ。
少年は後悔していた。
軽い気持ちでこんな依頼を受けるべきではなかったと。
彼は堅洲高校の生徒。妃達にとびっきりの恐怖を与えよう、一華から依頼を受けて此処に潜んでいた。要するに脅かし役である。
つい先程まで、合流した依頼主の一華達との打ち合わせを行い、獅堂から海外のSFドラマに出てくる船長の顔を模したマスクと玩具の包丁を手渡された。
ホラー映画に出てくる殺人鬼のコスプレだ。
ノリノリで仮装を行い、去っていく一華達を見送ってしばらく。
もうそろそろ、妃達がこの裏路地にやってくるだろう。そう思って様子を見に祠を後にしたのだが。
何故か引き返した道は祠に繋がっていた。
マスクの奥で困惑の表情を浮かべつつ、再び祠を後にする……その先にはまた祠。
何度来た道を引き返しても、辿り着くのは常に此処。
もう幾度目なのだろう。
疲れた脚を休めて蹲る。
よもや一生此処から出られないのでは。嫌な予感が胸中を支配した。
こんな筈ではなかった。もっと簡単な仕事だったはずだ。
一華から提示された魅力的な報酬に目が眩み、あわよくば事故に見せかけて学園一の高嶺の花である妃に抱き着こうかな、等と下心を抱いていた先程までの自分が恨めしい。
休憩を挟んで僅かに感覚が戻ってきた脚に力を入れ、よろよろと祠を後にする少年。
今度こそ、この路地裏から出られる事を祈って……。
そんな疲れ果てた少年の姿を見て、物陰からほくそ笑むのは狐達。人を化かすのが楽しくて仕方ないといった様子である。
此処は狐の修業場所。未熟な妖狐が人を化かして経験を積む為、代々受け継がれてきた鍛錬スポットの一つなのだ。
幼き化け狐達の修練は夜を通して行われる。より上手く化ける為に、新たなやり方を何度も試しながら。
結局。少年は朝が来るまで迷宮と化した裏路地を彷徨い続ける事になるのだった。
「おかしいのだわ……そろそろ妃の悲鳴が聞こえてきてもいい頃なのだわ?」
「煌々と……ただ煌々と……我がくらやむ心を癒す月……」
「まさかサボっているんじゃないのだわ? それとも脅かし役と入れ違いになった?」
「欝々たる心臓……星空に解き放て……」
「それは難しいっすよ。裏路地が狭いのはお嬢も確認したでしょう? サボるにしても隠れるにしても、滋野の御令嬢と擦れ違う事なんて考えられないっす」
「我が瞳映す流星雨……しとしと涙が地に堕ちて……」
「そうだったのだわ……それにしては静かなまま……よもや妃の奴、あまりの恐怖に失神して倒れていたりするのだわ?」
「母なる星に水鏡……我が涙の水鏡……波紋を広げて水鏡……」
「う~ん。気絶っすか? 無さそうな気がするっすけど……」
「歪む面影何の為……涙……波紋……それとも月明かり……」
「まあ、もう少し待っていても来なかったら獅堂、様子を見に行きなさい。失神していたら私に伝えるのだわ! 写真に撮って思いっきり馬鹿にしてやるのだわ!」
「ラジャっす!」
「あと、蔵馬。さっき時間が掛った理由を捏造した事は謝るのだわ。だからいい加減その謎ポエム止めて」
「御意」
「あ、戻ってきたっす」
彼是数分間にわたる蔵馬の嫌がらせクソポエム朗読会から解放された一華。
獅堂の言葉に視線を移すと、裏路地からぞろぞろと出てくるのは確かに妃御一行。
どうやら無事に帰還したようだ。
はてさて、どんな恐怖に満ちた表情をしているのかと、一華が確認してみると。
「一華さ~ん!」
満面の笑みを湛えた妃の姿。
その手が掲げているのは、紛れもなく件のメダルである。
暗闇の恐怖も脅かし役の仕掛けも、まるで効いていないと言わんばかりの妃の姿に、一華は歯噛みした。
「や、やるじゃない。恐怖に屈しないというその空元気だけは買ってやるのだわ」
「恐怖に屈しないって言ってもな。ただ暗いだけの裏路地なんざ大して怖くはないだろ……」
「そ、そんな事無いよう。十分怖かったよう。何も無くてよかったよう」
涙目の遼の言葉に、一華は困惑の表情を浮かべる。
「何も無かったのだわ?」
「ええ。怪異に出会えなくて少々残念ですわ。雰囲気はとても良かったのですが……」
おかしい。雇った脅かし役達は本当に何処に姿を晦ませたのか。
あのような狭い通路、隠れる場所など見当たらなかったのだが。
先程獅堂が述べた通り、脅かし役と擦れ違う事無く妃達が通過できるとは到底思えない。何処かで必ず鉢合わせるはずなのだ。
ともあれ。仕事を完遂できなかった以上、報酬を渡す必要はなくなった。
脅かし役達の行方は確かに気になるが、今は勝負が先決事項と一華は気持ちを切り替える。
「ええい、次、次に行くのだわ!」
「墓場っす! 墓場っすよお嬢! やっぱり肝試しと言ったら墓場は外せないっす!」
獅堂が案内した怪奇スポットは宝嶺寺の墓地であった。
幾度となく幽霊が目撃される有名な場所で、真夏ともなれば近所の悪餓鬼達が集まる肝試しスポットに早変わり。
そして本当に怪奇現象に遭遇し、試していた肝が潰れて再起不能になる悪童が多い場所であった。
「あのう……勝手にお寺の敷地に入って肝試しって、良くないと思うんだけど……」
オドオドした様子で意見する遼。この意見を受け入れた一同が此処で解散する事を望んでの事だったが。
「大丈夫っす! ちゃんと住職さんには許可貰ったっすよ! メダルを置かせてもらったお地蔵様にもお供え物を置いたっす!」
「あうう……」
望みが断たれて項垂れる遼。適当に生きているように見えて、意外としっかりしている獅堂の手際を只管に呪う。
「住職さんに幽霊は何処に居るかって聞いたら、そりゃ墓場だから其処ら中に居るってお墨付きを貰ったっす!」
「お墨付きですの? これは期待できますわ!」
震えだす遼の隣で、輝かんばかりの笑みを浮かべる滋野財閥の御令嬢。
微塵も恐怖を感じていないその様子を、一華は苦虫を潰したような表情で眺めている。
「ふっふ~ん。さっきの裏路地は小手調べ。本命はこの墓場っすよ」
「で、メダルが置かれた地蔵は何処にあるんだ? 結構広いぞこの墓場」
「それは教えられないっすよ。お地蔵様を探すのも肝試しの一環っす」
「お前……不公平だろそれ。メダル置いた本人ならば地蔵の場所も把握しているだろうが」
「大丈夫っす。此処のセッティングは私一人でやったっすから、お嬢も蔵馬も地蔵の場所は把握してないっす! 勿論、私は二人についていくだけでお地蔵様の場所は教えないっすよ! 信用して欲しいっす!」
「本当か~?」
「ほんとーっす! さあお嬢! 先行は私達が頂くっすよ! レッツゴー肝試しっす!」
「ちょ、ちょっと獅堂?」
響の疑惑の瞳を適当に受け流し、獅堂は一華の手を引いて墓場へと駆け出した。
追いかけてくる蔵馬を確認し、妃達の姿が見えなくなった所で、獅堂は漸く足を止める。
「ささ、お嬢。お地蔵様はあっちっすよ」
「早速約束破るのだわ?」
「ああ言った方が時間稼げるっすよ。今後の仕込みについて、脅かし役と話し合うんっすよね? 時間が掛っても、お地蔵様を探すのに手間取ったって言い訳すれば信じてもらえるっす」
「結構考えているのね。普段からそうして欲しいのだわ」
「え~? 勘弁っすよ~。頭がオーバーヒートしちゃうっす」
「……まあいいのだわ。さっさと案内して頂戴」
「ラジャっす!」
さてどうしたものか。
獅堂から手渡されたホッケーマスクと玩具の鉈を手にして、墓石に腰掛けた少年は一人思案する。
彼もまた、一華からの報酬に目が眩んで脅かし役に立候補した堅洲高校の生徒だった。
しかし、である。
手元にあるこれらを身に着け、ホラー映画の殺人鬼に化けろと言う意図は理解したのだが、和風の墓場には余りにも不釣り合いな姿だ。
日本の墓場をシチュエーションにするならば、もっと相応しい仮装があったのではないか。
とは言え、仕事は仕事。きっちり完遂しなければ報酬は貰えない。
早速仮装に取り掛かろうとした少年だったが、不意にそれと目が合った。
有り得ない。
腰掛けた墓石を見下ろして少年は冷や汗を流す。
少女の頭が見える。
少年を非難するような視線を向ける其れは、鼻から下が墓石に埋まって見えない。
非現実的な光景に固まる少年。
ゆっくりと墓石から這い出してきた少女はの手が、少年の頬に触れる。
冷や汗が凍り付くような冷たい感触。
迫りくる少女の顔。
やがて、額に凄まじい衝撃を受けて少年の意識は闇の中に溶けていった。
「まったく……うら若き乙女のお墓に腰掛けるなんて、マナーがなっていないわね」
おでこを擦りながら、大地に仰向けになって伸びている少年を見下ろす白いワンピースの少女。
強烈な頭突きで昏倒させたものの、まだ物申したい連中は残っていた。
この少年と何かしらの打ち合わせをしていたと思しき三人の少女。
どうも、話の内容からすると、この少年は肝試しの脅かし役だったらしい。
という事は、この物静かな墓場で馬鹿騒ぎしようとしている連中がまだ居るはずだ。
全く、何処の馬鹿共なのだろう。夏のホラーシーズンでもないのに幽霊達の眠りを妨げよう等とは不届き千万だ。
ならば、御望み通り化けて出てやろうではないか。
インチキお化けしか出せない連中に、本物の幽霊を見せてやりますよと、少女は息を巻く。
倒れたままの少年を引き摺って見えない位置に放り出し、呑気な顔でやってくるであろう連中を待ち構える。
夜の静寂に微かに聞こえる、少女達の声。
待ちに待った瞬間。ターゲットを確認する為、こっそりと墓から身を乗り出した。
「来たわね……えっ?」
やってきたのは四人の少女。
何処となくつまらなさそうに仏頂面で先頭を歩く少女。
対称的に鼻歌交じりで楽し気な小学生と思しき少女。
蒼褪めた顔に涙を浮かべながら、必死になって一同に付いていこうとする少女。
そして……女神の如き美貌の気品のある少女の姿。
何て素敵な御姉様。麗しい金の髪に闇夜ですら輝きを隠せない蒼い瞳。抱き締められたい誘惑に駆られる豊満な肢体。それはまるで御伽噺の中から抜け出してきた御姫様のようで……。
少女の瞳は虜となっていた。耳の中を彼女の柔らかで心地のよい声色が反響する。
生まれて……否、死して此の方、このような胸の高鳴りを感じた事は無い。とっくに静止していた心の臓が、再び活力を得て脈打っている感覚にとらわれる。
生気の無かった青白い顔が真っ赤に染まっていくのを感じる。其れを誰にも悟らせない様に、落ちていたホッケーマスクで顔を覆い隠した。
少女は漸く自分の気持ちの正体に気が付く。
甘く、切ない胸のトキメキ。
ああ、これが一目惚れか。
和香鳥早苗、享年九歳。運命の人との邂逅であった。
「どうなっているのだわ?」
胡乱げな瞳で墓場から戻ってきた妃一同を眺める一華。
今回も何も無かった。
残念そうに、しかし楽し気にそう言い放つ妃に対し、一華は唯々困惑する。
しっかりと打ち合わせはした筈だ。脅かし役はいったい何をやっているのだ?
不甲斐ない脅かし役に恨みの言葉を呟く一華に、妃は輝かんばかりの笑顔で告げる。
「さあさあ、一華さん! 次なる場所は何処ですの?」
「えっと、その……獅堂! 蔵馬! 次なのだわ!」
「無いっすよ」
「此処が……終焉の地……」
「だわ?」
「もっと時間を貰えれば色々用意できたんすけどねえ。流石に放課後の自由時間じゃ、これが精いっぱいっすよ」
悪びれもなく言い放つ獅堂に妃は肩を落とす。
反面、遼の表情に笑顔が戻った。
「やった……これで終わり……何も無くてよかった……」
「むう……残念ですわ。でも仕方ありませんね。今回は何方もメダルを回収してきた事ですし、引き分けという事で……」
「お嬢! 引き分けっすよ引き分け! 私ら初めて負けなかったっす! 記念にパーティー開くっすよ!」
「感無量……小さな……しかし大いなる一歩……」
「納得いくかあああ!」
一華の叫びが境内に木霊する。
「何が引き分けなのだわ! 龍王院と滋野の間には勝利と敗北、その二つしかないのだわ! 引き分け何て中途半端な結果、私は認めないのだわあああ!」
「で、でもお嬢。これ以上は本当にネタが無いっす」
「ネタが無いなら探すのだわ! 早く!」
「無茶苦茶っす~!」
怒り心頭で言い寄ってくる一華の剣幕。絡まれた獅堂の視線が妃達に救援を求めている。
「おうおう、どうしたね嬢ちゃん達」
其処に掛かるは男の声。
綺麗に剃り上げられた坊主頭に立派な白髭。そして目元を覆い隠すサングラス。
この寺の住職、弁慶であった。
「べんけーさん、こんばんわ!」
「おう、タマキチか。何だ何だお嬢ちゃん、タマキチの知り合いだったか。なら肝試し程度で態々ワシに断りを入れんでも良かったろうに」
環の頭を撫でつつ、呵々と笑う老人。
てっきり夜中に奇声を上げた一華を注意しに現れたのかと思ったが、住職本人が境内に響く大きな笑い声をあげている。
「住職さん! ヘルプ、ヘルプっす!」
「まあまあ、落ち着かんかお嬢ちゃん。一体何があったんじゃ?」
「お嬢が新しい怪奇スポット今すぐ見つけて来いって無茶振りするっす! パワハラっすよパワハラ!」
「怪奇スポット……?」
獅堂が今迄の勝負事について住職に伝えると、しかと心得たとばかりに弁慶は頷いた。
「それなら、此処から遠くない場所にとっておきの奴があるぞい」
「本当なのだわ?」
「祖師守神社と言ってな。随分昔に放棄された廃社なんじゃが、何でも人食いの化け物が棲み付いていると専らの噂じゃ」
「ナイスなのだわ住職! 妃! 延長戦なのだわ! 早速その神社に向かうのだわ~!」
「はい! 今から楽しみですわ~!」
「ええ……もう止めようよう……こりごりだよう」
「だいじょーぶだいじょーぶ! 私がついてるよ、ハルちゃん! じゃ~ね~べんけーさん!」
ぞろぞろと境内を後にする少女達を見送る住職。
その後ろに、一人の坊主が眠たげな瞳を擦りながら現れる。
「住職……夜中に大声を出すのは勘弁してもらえませんかね?」
「何じゃ運慶。大声ごときに眠りを妨げられるとは、修業が足らんぞ?」
「住職の声にはもう慣れたんですがね。それよりも良かったんですか?」
「何がじゃ?」
「祖師守神社ですよ。あそこ、食屍鬼達の溜まり場でしょう?」
「大丈夫じゃよ。あそこの連中はタマキチとは懇意の仲じゃしな」
「環ちゃん、交友関係広いですね……」
「少なくともお前よりは堅洲での生活が長いからな。さて、わしも寝るとしようか」
「ええ。お休みなさい住職」
一つ伸びを打ち、住職と運慶は寺の中へと姿を消す。
騒がしい一団が姿を消し、夜の宝嶺寺はようやっと普段の静けさを取り戻したのだった。
夜深く、新円を描く月が少女達を照らしていた。
長い長い石段の先、一華達のお目当てである祖師守神社が朽ち行くままに有るのだろう。
鳥の夜鳴きが響き渡る鎮守の森が、夜風に吹かれてさわさわと音を鳴らす。
「そんで、此処での勝負はどうやって判定つけるんだ? セッティングも無しに見切り発車できたんだろ?」
「此処に来るまでにちゃんと考えておいたのだわ! 私達がメダルを神社に置いてくるから、あなた達はそれを持って帰ってくるのだわ!」
「……またお前らが先行か。今度はどれだけ仕込みに時間が掛るんだ?」
「ななな何の事なのだわ? 仕込みなんてしてないのだわ?」
疑念に塗れた響の言葉に慌てて返す一華。
まさかこれまでの仕込みがバレている? 祠と寺、両方とも不発だったのに?
「……まあいいさ。ほれ、とっとと行ってこい。いい加減私は眠いんだ」
「言われなくても行ってやるのだわ! 獅堂! 蔵馬!」
二人の侍女を引き連れて、一華は石段を駆け上がっていく。
まるで疲れを知らないと言わんばかりの健脚だ。
あっという間に石段を踏破すると、件の廃社が姿を現した。
長年放置されていた割には、しっかりと往年の姿を保っている。
積る埃を取り払えば、すぐにでも再利用が可能なように思えた。
「それでお嬢、どうやって御令嬢を脅かすんすか? もう脅かし役はいないっすよ?」
「あ~ら。脅かし役なら目の前に居るじゃない。有能そうなのが二人も」
「え? 私らがやるんすか?」
「我ら……持たざる者……」
「そうっすよ! ネタも仮装用の衣装も打ち止めっす! いきなり言われても脅かし役何て出来ないっすよ!」
「アドリブで何とかするのだわ!」
「そんな無茶苦茶っす~! 蔵馬も何か言って……」
獅堂の台詞が途切れた。
一華が怪訝に思っていると、獅堂はだらだらと脂汗を掻き始める。
そんな獅堂の隣にいる蔵馬。
見てみると、何時もの飄々とした態度は鳴りを潜め、蒼褪めた様子で一点を見つめていた。
「どうしたのだわ?」
獅堂と蔵馬は何も答えない。
ただ、一華の後ろに指をさした。
一華は振り返る。
何時から其処にあったのだろう。何故気付かなかっただろう。
生気を感じない白い顔が其処にはあった。
闇夜に溶け込む黒髪が、周囲と其れとの境界を曖昧に感じさせる。
硝子球を思わせる双眸が、一華を捕らえていた。
小柄な少女を模した作り物。精巧なる等身大の和人形。
いったい誰がこんな場所に、一華達に気付かれずに人形を置き去ったのか。
跳ね上がる心臓の鼓動を抑えつつも、所詮は人形、何を驚く事があるものかと一華は気持ちを落ち着けようとする。
しかし……。
「もし?」
人形が動いた。
無機物が鈴音のような声で語りかけてくる。
この世に有り得はしない光景。
一華達の絶叫が境内に響き渡った。
「おい、どうした?」
「一華さん、大丈夫ですの?」
尋常じゃない叫び声を聞き、響達は息を切らしながら境内に駆け込んで来た。
「で、出たっす! お化けっす! 生人形っす~!」
「あわわ……あわわ……」
腰を抜かして這う這うの体で響達に助けを求める獅堂と蔵馬。
その後ろには目を回して気絶している一華の姿。そして響が見知った顔が其処にあった。
「……雅じゃねえか」
「あ~! みゃー君だ~! こんばんわ~!」
「環様、響様、今晩は。月が綺麗ですね」
「しぬにはいい日だ~!」
仮面のような整った顔に微笑を浮かべる和装の少年。
武藤雅。堅洲町の守り主である武藤家の魔王様であった。
「初めまして、雅さん。お話は予々、環さんから聞いておりました」
「は、初めまして……」
「貴女方も環様の御友人ですか?」
「そーだよ! キサキちゃんとハルちゃん!」
和気藹々とした自己紹介タイム。
それを見て、獅堂と蔵馬は漸く落ち着いた様子を取り戻した。
「そ、その女の子、知り合いっすか?」
「女の子じゃないよ~。みゃー君は男の子!」
「マジっすか? 男の娘っすか? 実在するもんなんっすね~」
「……驚愕」
獅堂はマジマジと雅を観察し始めた。
化け物ではないと分かった途端、先程までの恐怖は彼方へと追いやられたらしい。
「雅、お前こんな所で何してたんだ? 何か異変でもあったのか?」
「いえ。知り合いに呼ばれまして……」
「やっくんのところ?」
「はい。藤吉様……知り合いの長老様が新しい住人が入ったので挨拶したいとの事でして。ついつい話し込んでしまいました」
「あたらしい人? どんなどんな?」
「とても聡明な方々です。私も結構長く生きていますが、あの知識量には到底追い付ける気がしません」
「ふえ~。今度やっくんに紹介してもらおっと!」
「所で……この方、起こさなくてもよいのでしょうか? 驚かせた張本人が言うのも何ですけど……」
未だに気絶したままの一華。
忘れていたと言わんばかりに獅堂と蔵馬が起こしにかかる。
「お前、此奴に何したんだ?」
「この時間に何をしているのか気になって、声を掛けただけなのですが……」
「どうせ気配消して近付いたんだろ」
「すみません。どうも癖になってまして。意識していないと気配を断って行動してしまうんですよね」
「あのなあ。お前の容姿、夜出くわすと唯でさえホラーなんだから、せめて気配くらいは全面に出して歩けよ」
「う、うん。せめて足音くらいは立てた方がいいと思うよ……」
こうやって向き合って話しているのにも拘らず、雅の気配は希薄そのものだ。
僅かな動きに付随する筈の微かな音ですら、彼の所作からは聞こえてこない。
これでは相当近付かれても目視していない限りは気が付かないだろう。
作り物のような、無機質な美しさ。其れが知らぬ間に側に佇む姿を想像して、遼は怖気に震える。
真夜中に不気味な日本人形と目が合った時のような感覚。
写真越しとは言え、顔見知りでなければ遼も気を失うであろう確信があった。
「う~ん……獅堂?」
「あっ。起きたっす。大丈夫っすかお嬢?」
「……確か私、薄気味の悪い人形に声を掛けられて……ぴぎゃあああ!」
心配そうに見つめる面々の中に、件の人形が顔を覗かせているのを見て、一華は再び悲鳴を上げる。
「どうどう。大丈夫っすよ。この子、宮辺の御令嬢の知り合いらしいっす」
「な、何ですって? 卑怯なのだわ没落娘! こんな脅かし役、聞いてないのだわ!」
「ちげーよ。此奴が此処に居たのは唯の偶然だ」
「嘘おっしゃい! こんな悪趣味な脅し何かに、龍王院家は屈しな……あっ」
遭遇したのが化け物じゃないという安堵感がそれを招いたのだろうか。
一華の太腿に雫が伝う。
それは次第に勢いを増していき、彼女の下に水溜まりを形成していった。
一同無言。
呆然とした様子で自ら生み出した湯気立つ水溜まりを目にして、一華の顔が見る見る内に赤く染まっていく。涙目だ。
「き、今日の所はこれくらいで勘弁してやるのだわあああ! うわあああん!」
「ああ、お嬢! 待つっす!」
「強敵よ……去らば……」
捨て台詞を残しながら、凄まじい脚力を発揮して石段を下っていく一華を侍女達が追う。
残された一同を包む、微妙な空気。
「……申し訳ない事をしてしまいました……謝罪に赴くべきでしょうか?」
「知るか」
漂うアンモニア臭の中、響はぶっきら棒に答える。
負けず嫌いそうな御嬢様の事だ。今回の粗相の原因は響にあると因縁を付けてきかねない。
そうなれば、これからも目を付けられて妃共々絡まれるのは必至。下手をすれば、今度は名指しで勝負を挑まれるかもしれない。
傍迷惑な御嬢様に粘着されては面倒この上ない。妃のような広い度量を響は持ち合わせていなかった。
出来れば杞憂に終わって欲しい。
そんな彼女の願いも空しく。次の日、学校で当然の如く一華に絡まれる事になる響であった。