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★オススメ短編集★

刀を差した悋十郎殿

作者: 尾妻 和宥

「まったく……。小坂さんったら、よりによってこんな日に限って出てくれないんだから!」と、奈良市で民生委員を務める祖母の憲子のりこは言った。こたつの上のスマホはずっとコールが鳴っているものの、相手は受話器を取る様子もない。「平地でも雪がちらついてんだから、きっと三峰山みうねやまは積もるわよ。まったく世話が焼けるったら、ありゃしない」


「やれやれ……。それで私の出番ってわけね。せっかくの貴重な休みがフイになりそ」


 と、手塚てづか ひかるは欠伸まじりに洩らした。

 正午近くまでベッドでゴロゴロしていたのに、祖母に金切り声で呼びつけられたのだ。

 案の定、嫌な予感は的中した。


「これだから、ポツンと一軒家に暮らす独居老人の安否確認は割に合わない。そりゃ、ボランティアで報酬も出ないんじゃ、いくら市の地方公務員だからって、人員不足にもなるわ。私なんか300軒もの老人の見守り、抱えてんのよ」


 68歳になる憲子は、民生委員活動を10年以上続けていた。もっぱら75歳以上の高齢者の見守りを任されていたのだ。

 民生委員は高齢者宅を定期的に巡回し、困ったことがないか耳を傾け、必要に応じて行政や福祉のサービスにつなぐ潤滑油的な社会奉仕者である。どこの自治体も慢性的な担い手不足に頭を悩ませていた。


「ね、お願い」と、憲子は手を合わせ、燿を拝んだ。「私に代わって小坂さんが無事か、見にいってくれない? ただし今回は、あんた一人で。こんな天気だから、運転が心配だけど。私は私で、大勢の老人宅を回らなくちゃいけないのよ」


「きっと、昼間からお酒飲んで、寝てるだけよ。毎度のこと」


「万が一、頭の血管切れて、家で倒れていないとも限らないでしょ」


「これで何度目やら。道順はしっかりおぼえてるから、ナビ開くまでもない」


 どうせ逆らっても、ゴリ押しの祖母にはかないっこないのだ。

 観念した燿はダウンジャケットに腕を通した。スマホと車のキーを手にする。


「助かる。あんたの四駆、こんなときは便利だわ。腕も確かだし」


「まったく……。小坂のじいちゃんのせいで、せっかくの休みが台無し!」


◆◆◆◆◆


 標高1,235メートルある三峰山の山頂近くに住む老人の身を案ずるなら、奈良県警に連絡して、署員に様子を見にいってもらうべきなのだ。

 なぜ21歳になるうら若き娘が、ジムニーを駆って雪の降る山道を上らねばならないのか。無茶な依頼だった。


 燿は過去にも憲子を同乗させ、三峰山の一軒家に足を運んだことがあった。

 折しも今は1月上旬。気温は冷え込み、本格的な雪山になることが予想された。

 小坂家までは道路が整備されているとはいえ、せっかく山を上ったはいいが、道中、もしくは帰路に身動きがとれなくなる恐れがあった。危険にさらさせる憲子も憲子だ。


 因果なことに、燿も祖母の血か。

 あの気難しい独居老人の安否が気になると、矢も楯もたまらず走らずにはいられなかった。




 小坂は三峰山、北側尾根の山小屋で一人住む変人として知られていた。84歳になる。

 今のところこれといった持病はないとはいえ、屋内外で転倒したり、あるいは突発的な病気に見舞われていたりしたら大変なことになる。

 燿はジムニーを飛ばした。


 憲子は小坂を毛嫌いしていた。人間嫌いなうえ言動が粗野で、訪れるたびに手を焼いていたのだ。

 見守りに行くにせよ誰かを連れていったり、燿さえ体が空いていればタクシー代わりに同行させ、小坂と1対1にならないよう気を付けていた。

 今回は小坂が無事であろうとなかろうと、二人きりになってしまう状況なのだ。あまりにも身内に対しては思慮に欠けた安否確認となるにちがいない。


 山中の一軒家という利便性の悪さから、街で暮らすなり、老人施設に入居するなり勧めてきたが、本人は一歩たりとも山小屋から出ようともしない。そのくせ、街に下りての買い物は民生委員に依存していた。

 結婚したことがなく、親類縁者もおらず、寂しい人であるのは同情を憶えるが……。


 小坂は猟師だった。今でこそ銃はやめたが、くくわなは現役だった。

 なかでも猿に手をかけたと噂されていた。第一産業に甚大な被害をもたらす一方、人に近い種だけに手を出すのははばかられるニホンザルまで撃ったというのだ。その猿の(、、)祟り(、、)で、不幸続きの人生を送ってきたのだと、同世代の人たちは陰口を叩いたものだ。




 御杖村みつえむらから旧伊勢参宮街道の宿場町である神末こうづえを経て川沿いをさかのぼり、三峰山へ続くつづら折りの道を上ること2時間。

 さすがの雪の量にスピードを出すのは控えたので、時間がかかりすぎた。

 進むにつれ、スノータイヤが半分埋もれるほどの降雪量になった。


 くわえて逆巻く突風と、猛烈な吹雪。憲子を恨めしく思った。

 なんとか事故らずに山小屋までたどり着けたのは、燿の運転技術もさることながら、大胆さと慎重さを揃えていたおかげもあるだろう。


 肝心の小坂老人はというと――しっかり家にいた。

 玄関の戸をノックすると、悪びれた顔もせず姿を見せたのだ。

 むしろ夕方16時に、なにしに来たんだと怪訝な顔をされる始末。




「何度も電話かけたのに、どうして出てくれないんですか。おかげで無駄足ですよ!」


 風に負けじと燿は大声を出した。

 腹が立つったらありゃしない。こうなったら、小坂を無理やり老人施設にねじ込むべきだと思った。


「出たら時折、一声ひとこえしか言葉、発しよらん奴がいるからや。気味が悪ぃからや」


 ふてぶてしい顔つきの老人は、短く刈った白髪頭をかいた。


「なんですか、それ。詐欺の一種ですかね?」


 燿は敷地でジムニーを切り替えそうとした。

 ふだん、高台からの見晴らしは絶景なのだが、崖下はひたすら白い世界が広がっているだけで、どこまでが庭なのかわからず、怖気おぞけをふるった。


 粒の大きな雪が、たちまちフロントガラスを覆う。

 ワイパーで払えど払えど、視界を遮る。なにもかも白一色に塗りつぶそうとする。

 戸口にたたずむ小坂が、大声を張りあげた。


「こんな悪天候の中、戻ろうってか!」


「帰りに事故ったら、小坂さんのせいですよ!」


「なら、ひと晩泊まってけ! 明日、天気がよう(、、)なるまで待つべきや。訴訟問題になったら、おれも困る!」


「そうするしかなさそ……」と、燿は苦々しく呟き、祖母を恨めしく思った。車を家のそばに横付けした。車外に出る。「なら、お言葉に甘えます!」


◆◆◆◆◆


 山小屋はしっかりした造りであり、所狭しと調度品や電化製品も揃っていた。

 電気は来ているようだし、水道もあった。ただしテレビは壊れ、ラジオもない。Wi-Fiの回線すらない環境なので、情報収集のしようがなかった。


 自宅の電話を借り、まずは小坂と、燿自身の無事を伝えた。

 そしてひと晩ここに泊まる羽目になったことを、当てつけ半分報告したのだった。憲子は平謝りしていた。


 室内にひとつだけある窓から、吹雪いている景色が見える。

 小坂はカーテンを引いて見えなくした。

 部屋の中央には、今どきめずらしい囲炉裏いろりがあった。まきの焼ける匂いが鼻をさす。


 昔の家らしく、天井は高い。上部に排煙口が設けられ、換気扇の回る音がした。天井の羽目板は煙でいぶされ、真っ黒にすすけている。

 小坂は台所に立ち、手早く野菜を切りはじめた。


 鍋をご馳走しようと言う。

 意外だった。

 憲子が顔を出すたび、塩対応ばかりされていたのに、燿だとこうも待遇が異なるとは……。

 しばらくすると、囲炉裏にかけられた鍋の具材は煮え、いい香りが漂ってきた。

 二人は鍋を挟む形で向き合い、箸を取った。




「ん……おいひ(、、、)。それにしても、おっきなお肉ですね」


猪肉ししにくや。秋に獲ったのを冷凍保存しとるんや。冷蔵庫には唸るほど詰まっとる。よかったら帰りに分けたるわ」


 野趣あふれる味なのかと思いきや、癖のないうまさが燿の口に広がる。

 以前、ご近所からいただいたジビエは臭みがあったり、剛毛までついていた。鴨肉など噛むと散弾が混じっていたことさえある。


「コツは、うまいこと血抜きしとるからや」


 小坂は、白菜と春菊を口にしながら言った。

 まんざら変人ではないのではないか。それとも吹雪が、かえって人を温かくするのかもしれない。

 こうして鍋をつついていると、さっきまでの怒りもしぼんでいった。


 それにしても――老人の二の腕についた無数の傷痕きずあとが気になった。

 古い傷痕だから、醜く皮膚が引き連れているだけで、今は痛みもあるまい。刃物のついた機械を扱っていて、怪我でもした痕なのだろうか?

 それを聞こうとしたら、あぐらをかいた小坂が、


「おればっか、やるのも悪ぃ。どや、一杯?」と、熱燗にした徳利を差し出した。「酔わしてどうこうするつもり、あらへん。ここまで駆けつけてくれたんや。詫びの印に」


 一瞬、尻込みした。悪意があれば、顔つきや眼、あるいは言葉の端々に表れるものだ。

 この老人は人間嫌いなうえ偏屈なだけで、根は悪くないと思った。


「じゃあ、いただきます。こう見えて、呑兵衛の父に似て、けっこう行けるクチなんです」


 さかずきで受けた。


「そりゃ頼もしい」




 ひとしきり飲み、鍋をつつきながら会話を交わした。他愛もない世間話だった。

 食べ終わり、酒がなくなっても、しゃべり続ける。

 小坂は久しぶりの人間相手の対話らしく、ぶっきらぼうな口調ながら淀みなく言葉を発した。

 とても民生委員代理と独居老人の間柄とは思えない。孫娘と祖父のような砕けた仲になっていた。


 いつしか強風がやんでいたことに気づいた。

 燿はカーテンをめくり、窓の外をのぞいてみた。

 闇の中、雪だけがしんしんと降っている。

 時計は、22時にさしかかろうとしていた。




 不意に、ドン、と音がした。

 二人は同時に口をつぐみ、玄関の引き戸を見た。

 戸の向こうで鳴ったのだ。

 硬いなにかで叩いたような音が一度だけ。

 風の仕業にしては……。


「もし」と、しゃがれた声が戸の向こうでした。「開けてくれんかね」


 燿は小坂を見た。

 小坂の知り合いかなにかではないか。

 老人は反射的に首をふった。


 もとより22時前に、こんな山へ遊びにくる酔狂な知り合いはいないという否定の仕方だった。ましてやかなりの積雪の中だからなおさらだ。

 なかば腰を浮かせた燿に対し、小坂は手のひらを下に向けて制止させた。


「もし……誰かおらんかね?」なおも、はっきり聞こえた。老人が女の声音こわねをまねたような裏返った声だった。「かたじけない。ちょっくら中に入れていただければ、ありがたいんじゃが。それがしは凍えておるのじゃ」新雪の上で、足踏みするかのような音がくり返される。今どき一人称を()と呼ぶとは風変わりな人物だった。極めつけは、「小坂、いるんじゃろ」


 と、名を言ったので、当の小坂は顔をしかめ、身を硬くした。

 燿の視線にいたたまれなくなったか、下を向く。

 燿は訝しんだ。――やはり戸の向こうの男は、小坂が懇意にしている誰かで、なんらかの理由があり、この荒天をおして伝えにきたのではないか。


 小坂は人差し指を唇に当て、だんまりを決め込んでいる。ほふく前進するかのように、身体を低くしていた。

 先ほどまで酒に酔い、朗らかな表情からは一転、厳しい顔つきはただごとではない。

 思わず燿も、同じ姿勢を保った。


 向こうは小坂のことを親友だと思っているようだが、小坂はそうは思っていないらしい。

 二人は息を殺し、相手が帰ってくれることを祈った。

 外で舌打ちがした。


「もし……」


 と、三度みたびくり返された。

 山小屋の中は、焚き火が燃える音と、頭上の換気扇の回転音だけ。

 外の男は痺れを切らせたのか、


「ふざけやがって」


 と言い、八つ当たりでもしたらしく、引き戸がガツ!と、甲高い音を放った。

 硬い物体で殴りつけたようなそれだった。

 正面突破はあきらめたらしい。サクサクサクと、新雪を踏み散らし、家の側面に回り込む気配。


 窓のところに来たようだ。カーテンを引いてあったので助かった。

 窓の向こうで、ひとしきり低い唸り声がした。

 やがてそれもあきらめ、サクサクサクと足音は遠ざかって行く。

 二人は身じろぎせず、固唾を飲んで我慢していた。

 先に口を利いたのは小坂だった。深いため息をつき、


「……行ってくれたようや。やれ、助かった」


 小声で言い、額に浮かんだ汗を拭った。


「今のは?」


 と、燿。


「昔から山ではな」老人はあぐらをかき、囲炉裏に新たなまきを足しながら言った。「一声ひとこえ()びには、相手をしてはならん言い伝えがあるんや。奴は物の怪の類やろう」




 日本人は電話での最初の応対が、「もしもし」である。この語源は、「申します、申します」の「申し申し」であるのは言うまでもあるまい。

 「もしもし」と変遷へんせんし、電話のはじめの挨拶として定着した。


 ところでなぜ、「申します、申します」、「もしもし」と二度くり返すのか?

 古来、日本人は一声呼びを忌み嫌う考えがあるという。「申し」、「もし」と一節だけの言葉かけは不吉だとされたのだ。


 夕方や夜は、この世ならざる怪異が起こりがちな時間帯だといい、人を呼んだり、すれ違うときに、「もし」、「おーい」などと、一声だけ発するのは忌避された。


 仮に、どこからともなく一声のみで話しかけられたら、返事をしてはならない。

 それは物の怪や悪霊の誘惑に他ならず、憑りつかれてしまうと恐れられた。

 したがって、こちらから他人に話しかけるときは、「もしもし」と二声(ふたこえ)をかけ、正真正銘の人間であることを信用させるべきなのだという。


 この習俗の根底には、二声と比べたときの一声の不安定さ、さみしさ、そこはかとなく感じる不気味さがあると信じられていた。

 ドアをノックするときでも、一度だけだと、なにごとかと不審に思ってしまう。このように一声呼びは異界、あの世を表現するものとされた。




 二人は玄関の明かりを煌々(こうこう)と照らし、屋外へ出てみた。

 空はぶ厚い雲で覆われ、月や星すら見えない暗い夜だった。チラチラと細かい雪が降っていた。

 外には誰もいなかった。

 かわりに、


「小坂さん、見て」と、ひかるが戸口付近の青白い地面を指さした。60センチほど新雪が積もり、いくつもの小さな足跡がついていた。五本の指からして人の素足に近いが、そのわりには小さすぎた。とすれば、相手は靴を履いていない子どもだったことになる。「ひょっとして、なにか動物の仕業だったの?」


「まちがいない……。悋十郎りんじゅうろう殿や」


「え」と、燿は一瞬、聞きそびれた。「りんじゅ……、誰?」


「嫉妬を意味する、悋気りんきの『悋』と書き、『十郎』で悋十郎や」小坂はしゃがみ、雪の上に漢字を書いた。「あまり声を大きゅうして言いたないが……、奴は、いわゆる得手吉えてきちや」


「えてきち?」


「奴が去ったとはいえ、今は夜やし、山の中や。詳しゅうは言えん。とにかく中へ」


 老人が引き戸に手をかけたとき、燿はそこを見るともなしに見て眼をみはった。

 戸には斜めに、鋭い傷がついていたのだ。

 まるで刃物で斬りつけたみたいに、生々しい跡……。




 燿はふたたび山小屋に入った。

 老人は慌てて戸を閉め、錠をかけ、つっかえ棒までかませた。

 二人して先ほどの囲炉裏の定位置に座った。

 外気に触れたので、凍えるような寒さだ。


 小坂は、壁沿いの薪の山から粗朶そだをひとつかみし、焚き火に足した。

 薪に火が移り、パチパチとぜ、火花が散った。

 煙が頭上に立ちのぼり、排煙口に吸い込まれていく。


「さっきのあれ(、、)は、小坂さんの名前を知ってました。てっきりお知り合いかと思ったんですけど」


得手吉(、、、)にすぎへん。エテコウ(、、、、)のことや。みなまで説明するまでもあるまい」


「あ……。猿ですね?」


「しっ。声が大きい」




 古来より山で生業なりわいをする者――マタギをはじめとする猟師、杣人そまびとなどの林業従事者、炭焼き、はては土木工事関係者に至るまで――は、仕事はじめに『猿』と発言するのは禁句とした。

 山中に入ってからも直接言うのは控え、猿どころか、四本足の動物全般の名を口にするのを避けた。狩りなどで、どうしてもその獣の名を呼ぶ必要があれば、別の呼び名に変えることを常としたのだ。


 たとえばカモシカはケラナ、コシマケ(地域差あり)。兎はダンジリ、シガネ、ミミナガ。イタチはケス、ズイドオクグリ。熊はイタズ、クロゲ、ナビレと言いかえた。


 なかでも日本各地、多彩な隠語で呼んだのが猿であった。

 とりわけ猿は『去る』につながり、すなわち人が死ぬことに直結するため、タブー視された。

 猿の呼び名は多く、全国でも多岐にわたった。――オンツァマ、キムラサン、サネ、ホオタク、ムコオヤマ、若い衆、山の兄、山のオヤジ、山のジイサと、いずれも猿と言うまいとする苦心が見られる。

 このような山での隠語を、山言葉(、、、)という。山では隠語を使わないと、山の神の怒りを買うと信じられていたのだ。




「さっきも言うたやろ。あれは悋十郎殿だ。おれが忘れたころ、いつぞやの仕返しに時々山からおりてくる」


「仕返し?」


「若いころ、里の人に請われて仕方なしとはいえ、畑荒らす得手吉らを撃ったことあったんや。ふつう得手吉は、数頭から70頭くらいのメスと子どもの群れ作っとる。ところがオスは4、5歳になると、群れから離れよる。オスだけの少数になるか、ハナレザルになるんや。近親交配を避けるため、本能的に離れていくもんなんやろう。20年にわたり、かれこれ200頭近う、オスを仕留めたかもしれん。こんなん口裂けても、動物愛護団体の連中には言えんがな」


「農家さんは食べていかなければならないんですもの。死活問題だったんでしょう」


「そう言うてくれたら慰めになるがの。鉄砲持ちとして雇われ、支払うてもろた金額もたいしたものやった。おれも若いころ、食うのに困ってな。つい軽い気持ちで、得手吉どもに手ぇかけてしもた。昔から得手吉は殺すべきとちゃう(、、、)との暗黙のルールがあった。人間に近い種やさけ、殺した日には寝覚めも悪かろう」


「はい」


「いつしか、悋十郎と名乗る人の言葉、しゃべる得手吉が、おれのもとを訪ねてくるようになった。時折、電話までかけてくる。思たら、おれが山をおりんのも、奴らに対する罪滅ぼしのつもりなんかもしれん」


「人の言葉をしゃべる――」


「言葉しゃべるどころか、腰に刀まで差しよる得手吉や。人間の使う打刀うちがたなでは長すぎるさけ、ある人物(、、、、)から授かった脇差わきざしを、さも本差ほんざしのように身につけとる。だてに主から練習相手に鍛えられただけあって、どえらい使い手や」


「いったい誰から?」




 燿が問うと、小坂は口ごもった。

 それに触れてくれるなと言わんばかりに顔をそむける。


 そのときだった。

 ガツン!

 天井が鳴った。


 燿たちは、思わず見あげた。

 屋根裏を、なにかが動き回る音がした。布を引きずるような擦過音さっかおんまでが続く。

 それは、屋根裏の板面に顔を密着したらしく、


「小坂。連れの娘」と、くぐもった声で言った。低い忍び笑いが続く。「それがしの秘密を暴こうとするでない」


 二人は顔を見合わせた。

 小坂の狼狽ぶりよ。家という安全地帯にいるとはいえ、山中で猿の話題をすべきではなかったのだ。悋十郎は去ったはずだったのに、またしても招き寄せてしまった……。


 老人は背後の押し入れのふすまを開け、鞘に入ったなにかをつかみ出した。柄の長さは80センチはある。

 鞘から抜くと、鮮烈な色をした刃が現れた。

 薪割り斧であった。


 ふたたび、屋根裏がガン! と音がした。

 その拍子に、羽目板の一枚に亀裂が入り、真ん中から細長いものが飛び出した。

 刃物の切っ先だった。

 グリグリと抜き差しし、ノコギリを挽く要領で、無理やりこじ破ろうと躍起になっている。


 歯と歯のすき間から洩れるような唸り声。

 力まかせに蹴りつけたのだろう。しまいには羽目板が大きく割れた。破片が真下に落ちてくる。

 大きな穴が開いた。屋根裏は墨をこぼしたように暗い。


 どうすることもできず、燿は見守るしかない。全国の民生委員は、こんな目に遭うこともめずらしくないのか。

 そして燿は見てしまった。――悋十郎なる猿の姿を。

 いかつい赤い顔はありふれたニホンザルながら、日本刀を両手に持ち、なんと渋い色合いの衣服を着ているのだ。


 いまだかつて、武士の正装であるかみしもはかまをつけた野生のニホンザルなど、お目にかかったことがあるだろうか。猿の体格に合わせたミニチュアサイズの裃には、ちゃんと家紋までついてあった。


 猿は股を開いたまま二本足で立ち、屋根裏から見おろしている。片方の眼はつぶれ、隻眼せきがんだった。見える方の眼は、熱されたコークスのように燃えている。

 猿は穴に手をかけ、眼下をのぞき込み、


「小坂、今日こそは同胞のかたきを取ってやる。某につけ狙われていることを疎ましく思うなら、正々堂々と勝負せんか。某を中に招き入れい」


 と、まくし立てた。まるでゲイの老人を思わせる裏返った声でありながら、決闘に命を燃やす凄味を感じさせた。


「断る」


 斧を手にした小坂が首をふった。


「命が惜しいか」と、歯ぎしりしながら悋十郎は下あごを突き出した。牙がずらりと並んでいた。「家人の断りがあってこそ、某は貴様の領土に入り、貴様と対等に勝負できる。お屋形様から受け継いだ新陰流しんかげりゅうの剣技、とくと味わわせてやりたいのに――」


「お嬢ちゃん、さっき、この腕についた傷、気にしてたやろ」と、小坂は言った。「ある日、山仕事してたら、不意討ち食ろうてな。なんべんも悋十郎殿はおれを狙うてきた。そのたんびに追い返してたが、おれも年や。こうして家の中におるかぎり、わがからは入ってこられんようやが――」


「言うな、小坂。ならば表に出い。表で某と立ち会え!」


「誘いには乗らへん」老人の口ぶりは、相手の激情をいなす(、、、)かのように落ち着いていた。「ね、悋十郎殿。いつまでも山に居続けるんとちゃう。おまえの好いた師匠がおるあの世へ、往ね」


 天井の穴から悋十郎は眼下をにらみつけていたが、小坂の許可がおりないと、室内に入り込めないらしく、ぎりぎりと歯ぎしりするだけであった。


 すると、穴から猿の姿が消えた。

 屋根裏を駆け抜ける気配。

 窓ガラスの割れる音がし、新雪の降り積もった地面に着地したらしい、ざくっという音が外で聞こえた。

 小坂は立ちあがり、窓にかかったカーテンを開けた。


 燿も、窓の向こうに眼をやった。

 手の届きそうなすぐ外で、裃姿のニホンザルが背を向けて立っていた。

 裃の背中と腰に、白い家紋が見えた。


 その家紋は特徴的だった。

 燿と小坂は門外漢なので知識がなかったが、吾亦紅われもこう雀紋すずめもんであった。半円を描いた細やかな歯の多い植物の中央に、眼の怒った小鳥が向かい合った左右対称の紋章である。


 吾亦紅はバラ科の多年生草本。日当たりのよい草原などに生える丈の短い草で、秋になると枝分かれした先端に穂に似た赤褐色の花をつける。この花の命名の際、「われもこうありたい」という思いから名付けられたという説があった。


 雪上の悋十郎はふり返り、二人をにらんだ。

 人差し指を突き付け、サーベル状の黄色い犬歯をむき出しにした。


「我らの領土で、猿、などと軽々しく愚弄する奴どもめ」と、鋭い口調でまくし立てた。「よいか、小坂。某は必ず、貴様に殺された同胞の仇を取りに、ふたたび舞い戻ってくる。貴様は老いで穏やかに死なせぬ。貴様にふさわしい死を与えてやる!」


 隻眼の猿は、刀の柄をつかんだまま言い放つと、着物の裾を翻した。

 二本足で雪を蹴散らしながら向こうへ走り、跳躍して木の枝につかまった。

 鉄棒の大車輪の要領で飛び移り、森の奥へと行ってしまった。

 小さな裃姿は、闇に消えた。




「あれは……結局、なんだったんでしょうか?」


 燿は窓の向こうに、釘付けになったまま言った。


「悋十郎殿は、その昔、柳生やぎゅう但馬守(たじまのかみ)戯言ざれごとに飼うてた得手吉やと聞く」


「え?」


「柳生 宗矩むねのりの時代から、ずっと生き永らえとる猿や。物の怪にはちがいない。なんで柳生の里を飛び出し、この山中に居ついとるのかは、おれにもようわからん」と、小坂は壁に手をつき、闇を見つめながら言った。「いつしか、群れから離れたオス猿を束ねるようになり、無惨にも殺された仲間のため、ああしてこの世にしがみついとるとしか思えん。おれもいつか、あいつに命、取られるかもな。それだけのことをしたんや。もしかしたら、山の神が遣わしたのかも――」




 言わずと知れた柳生 宗矩は、大和国やまとのくに柳生庄(やぎゅうのしょう)――現在の奈良市柳生町に生まれた(1571~1646年)。

 江戸時代初期の武将であり、大名、剣術家として名を馳せた。江戸初期の代表的な剣士として数えられる。


 家康に見出され、徳川将軍家の兵法指南役として長きにわたり務めた。同時に、将軍家御流儀としての柳生新陰流の地位を確立。最大の流派に育てあげた。

 これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は『天下一の柳生』と冠されるほどの隆盛を誇ったとされている。


 その柳生 宗矩であるが、自宅では猿を飼っていたという。

 この愛玩の猿こそ、見よう見まねで剣を憶えるようになっただの、これを相手に打ち太刀の稽古をしただのと逸話が残されている。

 いずれにせよ猿は手練てだれとなり、未熟な弟子ではかなわなかったとも言われている……。


 燿は今しがた見たものを、憲子にどう伝えようか、途方に暮れるしかなかった。





        了

※参考文献・参考サイト


『禁忌習俗事典 タブーの民俗学手帳』柳田国男 河出文庫


PDF ニホンザルとの出合いにおける動物観の比較民俗学的考察

https://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/publish/report/documents/report2-11.pdf

PDF 猿害から生成される「サルの祟り」の多層性 合原 織部 ★かなり興味深い論文ですぞ(^^)/

https://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication-new/item/nenpo12_06_gohara.pdf

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[良い点] 企画から参りました。はじめまして。 これは面白いですね。こういう化物に襲われるホラーは数多くありますが、それが訓練を受けた猿の物の怪とは。なんだか見た目に可愛らしさがあり、滑稽にも見えます…
[良い点] かなり読みごたえのあるホラー作品でした。 資料を駆使して、ストリーが上手に作られていると思いました。 特に、一声呼び。 この山の妖怪のことは知っていただけに、とてもおもしろく、この物語に上…
[良い点] 此のエテ公が霊なのか400年近く生きているのか分かりませんが、こんなのに狙われたら逃げようが無いように思いました。 主人公の女の子も他人事では無く、小阪の爺さんが呆気なくポックリ逝っち…
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