俺は気持ちよくざまぁしたいだけだったんだ!
必ずやあの聖女を貶めてやる。
その決意が、今の俺の始まりだった。
聖女アノニマ。
それは帝国の全ての民が知る、奇跡の担い手の名前だ。
あらゆる病を祓い、手足を失った者達に新たなそれを与える。そんな神の領域とされる治癒の奇跡を行える聖人の名前。
ああ、その慈母の笑みなどと言われる顔、その奥の眼球を俺の手で抉り、引き攣った絶望の表情に変えてやりたい。
奇跡の手と言われる両の腕を切断し、獣のように無様に這いつくばらせてやりたい。
残酷すぎる仕打ち? いいや、とんでもない。
そうされるに足るだけの仕打ちを、俺は奴から既に受けている。
俺を突き動かす復讐の念は、そうしてなお、まだ足りぬと叫んでいる。
だから俺は胸を張って告げよう。
これは、俺たちの正当なる逆襲であると。
「ねえ、ハンス。あなたはなぜ復讐するのですか?」
「ああ、お前にはもう何度も言っただろうに。それが俺の生きる意味だからだ」
女の問いが聞こえ、俺はそれに当たり前の答えを返した。
女さおそらく俺の座る場所、その正面を避ける形でいつものように俺の右手に控えているのだろう。
俺にそれを確かめる術はないが。
なぜなら俺は両目が見えない。
俺の両目はかつて、忌まわしい「聖女の奇跡」の代価として生贄の供物にされたからだ。
「リズ。お前はよく付き合ってくれた。幼い時から一緒にいたお前だけが俺の唯一の支えだった」
俺は足も動かない。
聖女に傅く者達に暗殺されそうになり、牢に入れられる際に猛毒を飲まされたからだ。
「俺の目となり、足となり、ここまで支えてくれたことに感謝する。さあ、いよいよ明日だ! 明日、俺たちの願いは成就する!」
目も見えず、自力で動けもしなかった俺だが、万人に誇れる努力の結晶がある。
それが俺たちのいるこの建物であり、そこで働く数万の部下達だ。
俺とリズ、二人で無一文から立ち上げた商隊を、血の滲むような思いで育て上げた、俺たちの愛しき商業ギルドの本部である。
「ねえハンス、貴方はとても立派な人だわ。一代でここまでの財を築き、絶対の不可侵と思われていた帝国にも経済という剣で一撃を入れた。今や貴方を知らない国民は帝国にはいないでしょう」
もともと、俺とリズは孤児だった。
帝国最高峰の家具が設えられたこの部屋に、ギルド長と秘書長として君臨することなど夢のまた夢と思っていたような、無邪気な二人の子供だったのだ。
そんな俺たちは、聖女の家、と言われる帝国の孤児院で何も知らず育てられた。
その院の正体が「聖女の奇跡」と言われる国家機密の儀式を行うための生贄の飼育場であること。
それを知ることができたのは、目から血を流し、芋虫のような姿で脱獄した俺を連れて逃げてくれたリズのおかげだった
「ああ、そうだ! そしてその力を使い今、俺たちは正しく万民を救済している。生贄を要する偽りの奇跡などに頼らぬ、真の救済だ!」
気持ちが昂る。
顔がひきつるようないつもの痛みがやってくるが、無視だ。
俺の顔は醜い。
目を生贄として捧げられる際、肌に直接、醜い魔術の紋様を刻み込まれたからだ。
その醜さは、人前では顔の全てを仮面で覆い隠し、リズ達代行人を建てなければ、商会を運営することなどままならないほどだった。
「ああ、一体誰が想像した!? 民が飢えることのない国! 誰もが屋根のある家に住める国! 金を持つ者は喜んで公共の福祉に投資し、病める者たちのために病院の門戸が分け隔てなく開く! 俺を除いて誰がこのような国を導き得た!」
元出もなく、目も足も動かず、顔も醜い。
そのような俺が、死ぬ思いでここまで来られたのは。
偽りの聖女を貶めるという強い目的があったからだ。
「聖女にはできなかった! 帝国の聖女の奇跡ではなし得なかった! 俺だけだ! 俺だけがこれを成せたのだ!」
他者の犠牲なしでは奇跡をなし得ない聖女ではなく、このハンスが多くの人を救ったのだと。
そう誰にもわかる形で示さねば聖女を貶めることなぞできない。
それを知っていたから歯を食いしばって進み続けることができた。
「聖女のペテンでは、百を救うために十の犠牲を要した! 薄汚い貴族どもの命のために、多くの子供達の光や音、命が失われた!」
それら「聖女の奇跡」という名の残虐なる儀式を、明日になれば白日のものにすることができる。
いよいよ明日、「帝国の聖人」と称されるようになったこの俺と、千年の歴史を持つ「帝国の聖女」との記念すべき会談が行われるのだ。
俺はそこで聖女を糾弾する準備を整えた。
聖女のペテンの証拠は、既に新聞各社に。
邪悪な儀式の行使のために数年に一度だけ姿を表す聖女を捕らえるため、会談の会場はおろか、招待客である現国王ですら、俺の手の内にある。
「そんなペテンはもう終わりだ! 次代の聖女などこの国には不要! 忌まわしき今代の聖女の首が舞えば、それがぁ帝国の新たな歴史の1ページとなるぅ!」
興奮のあまり呂律が回らなくなってきた俺の背中を、優しい手が支える。
リズの手だ。
子供の頃から知っている、俺の頭に、肩に、背に、あらゆるところに優しく触れ、癒やしてくれる魔法の手だ。
「ハンス、もうそろそろ休みましょう。残りの仕事は私と部下で引き受けるわ。その状態じゃあ、お客様の相手もできないでしょう?」
「く、否定できぬな。ああ、明日は一世一代の晴れ舞台よ。奴の首をこの手で斬り落とすためにも、力を蓄えねば」
リズに手を引かれ、俺は移動式の椅子に乗り換えた。
ギルド長室の外に待機していた専任の助手がよばれ、部屋に入ってくる足音がする。
ふつふつと、胸の内に沸き続けるこれは高揚か。
それとも、喜びだろうか。
ああ、早く明日よ来い。私の前に、憎き聖女の首をもってこい。
会談会場への移動のため馬車に乗り込みながら、俺の心は猛り続けていた。
まるでいつまでも消えない火種だ。
胸を焦がし、気持ちを熱くし、かつての復讐心に再び赤熱しそうな温度を与える。
その心が鎮火し、心臓が狂ったように跳ね出したのは。
いよいよ会談当日、念願の聖女と対面した時のことだった。
「さあ、偉大なる聖人、ハンス殿と聖女アノニマ様のご対面です。両者手を伸ばし、握手をされるようです」
階段の司会者が、会場の者たちに声を上げていた。
目の光を失った代わりに耳が発達した俺は、その司会者が俺の手配した人間であることを把握していた。
その足取りに、若干の緊張のような張りさえも感じ取っていた。
彼はこの後の段取りを把握しているのだ。
聖女はもう、俺の目の前に来ていた。
帝国では通常、十年もしないうちに次代に引き継がれる聖女の称号だが、この40年は1人の女がずっとそれを持っていた。
それが目の前にいる女だ。
既に数十回の「聖女の奇跡」を行使して、その両手を血まみれにしている女だ。
かつて、痛みに叫ぶ俺の目を抉りとった女だ。
その首を掻っ切り、腕を切り落とし、目を抉り取ることを何年も何十年も願い、夢に見て来た女だ。
「ハンス様。お会いできて光栄です」
俺はその女の足音を知っていた。
近づく足取りはきびきびと、けれどどこか恭しさを感じさせる。
震える俺の手を優しく包むその両手の温もりを知っていた。
ああ、何故。
何故なのだ。
何故気づかなかったのだろう。
名無し(アノニマ)の名前を継いだ聖女の正体が、自分のよく知るリズという女であることに。
「ハンス様、実に良い日ですね」
聖女の正体は帝国から秘匿される。
それが、聖女が聖女の奇跡が行うための条件の一つであるからだそうだ。
正体隠しの御簾を顔に纏い、体型を隠す修道衣のようなローブを纏った聖女は、本来聖女としてある時、誰かと喋ることさえ基本的には許されない。
俺の耳に届く聖女の声は。
この会場で唯一、聖女の目の前にいる俺だけが聞くことができるものだ。
「ねえ、ハンス様。私、本当にこの日を心待ちにしておりました」
「君は……おまえは……」
正体を隠した聖女は、帝国の監視下でさえあれば自由に振る舞うことが許されていたらしい。
好きな暮らしをし、好きな人と共に暮らし、そんな暮らしができる国を愛するように。
それは、聖女が国を愛する心を失ってしまうと力が失われてしまうためとされていた。
帝国は、聖女に聖女としての役割を果たす対価として、自由を与える。
聖女としての仕事以外、聖女はなんでも好きなことを行うことが許さる。
それを使えば罪人ですら救い出すことができ、普通ならあり得ないような支援を受け、商売を成功に導くことだってできただろう。
パズルのピースがはまっていく。
今まで僅かに抱いていた疑問が氷解し、それらが全て、今ここにある現実が真実であることを指し示していた。
「さあ、お2人の邂逅をお祝いするため、この場には陛下もいらっしゃっています。お言葉を頂戴しましょう」
胸が掻きむしられるような焦燥感の中、それでも会合は予定通り進んでいく。
そして、来るべき最後に向けて。
俺自身が仕込んだ、破滅へのカウントダウンが進んでいく。進んでいってしまう!
どうすれば良い?
俺なら止められるか?
だが、止めてどうする。
目の前にいるのは間違いなく憎き聖女だ。
俺の一生をかけて貶めてやろうと誓った敵だ。
このまま会が進めば、俺のスピーチの番がやってくる。
そこで俺は己の過去を告白し、同時に帝国の聖女の真の姿を告発する手筈だ。
義憤にかられた貴族ーーということになっている者たちがそれを聞いて決起し、命の保証をされている王は彼らに取り押さえられる。
もう残された時はない。
決断をーー決断をしなければ!
「ハンス様。いえ、ハンス」
やめろ、何も言うな。
これ以上俺を惑わすな!
「私を」
やめろ! 黙れ!
「私を救ってくれて、ありがとう」
ーーーーーああ。
その言葉で、俺の手の震えが止まった。
聖女の立つ位置。
その、俺がとても見知った顔の位置で、小さな水滴が流れる音が聞こえる。
泣いているのだ。
喜びの涙を流しているのだ。
何故?
いや、決まっている。
今日この場は、俺たちが作り上げた最高の舞台だからだ。
偽りの聖女が死に、ざまあみろと、すべての国民が鬱憤を晴らして明日を向くための場だからだ。
その実現を、リズは心の底から喜んでいるのだ。
「救う、だと? 罰を受けたかったのか、お前は?」
その証拠にほら。
「いえ」
リズは間違いなくこう答える。
「共に築いたこの舞台こそが私の救いです。ええ、最高にざまあな舞台をありがとうございます、ハンス」
聖女に長く君臨したリズは、それ以降「聖女になるかも知れなかった者達」の罪を全て抱えた。
そして、1000年の長きにわたって罪を犯し続けた聖女という運命も、その運命が自分を選んだという呪わしい事態も、その全てに唾を吐きかけ、今終止符を打とうとしている。
「忌まわしき聖女を貶めて、汚して、徹底的に嬲りましょう、ハンス。私たち2人で」
王の祝辞が間も無く終わろうとしていた。
司会の男がこちらに歩いてくる音がする。
それを合図に、会場に潜んだ工作員達が動き出したことを耳で感じとる。
「王よ。祝福の言葉、大変嬉しく存じます」
さあ、始めよう。
「しかしーーその祝福の言葉には一つ、訂正をいただかねばならぬ事実がございます」
2人で始めた逆襲劇、その終幕を。
「そこな聖女殿、彼女は決してーー聖女などと呼ばれるべき者ではない!」
剣を握ろう。
その命を絶とう。
大丈夫だ。
これは俺だけの戦いではない。
2人でならきっとできる。
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帝歴1000年
帝国王政が崩壊した年であり、同時に現代に続く数々の文化の基礎というべき様々な思想が熟成した歴史上の転換点である。
この転換点で最も大きな役割を果たしたハンス氏を知らぬものはいないだろう。
しかし、彼の晩年に残る逸話はあまり知られていない。
彼は、土葬が常識であった当時の考えに反して死後の肉体の火葬を頼んだという。
当時、火葬された肉体には魂が帰ることができず、現世の縁者たちとの再会が叶わなくなるとされていた。
帝歴1000年の「帝国聖女」の遺体の盛大な火葬などが当時の常識を裏付けている。
帝国聖女の遺灰は決して彼女を崇める者らの手に渡らぬよう封印され、その行方はハンス氏のみが知るとされていた。
ハンス氏は多くの無私の精神を示した名高い聖人であるが、同時にそうした敵対者に容赦しない苛烈な一面があったとされる。
それが晩年の罪の意識に繋がったのかもしれない。
また、長く連れ添った秘書長を国の改革の折に失ったことで、現世への未練が薄れていたのかもしれない。
だからこそ、自らが葬ってきた敵と同じように、火葬という魂を野に放つような行いを成し、贖罪あるいは戒めとしたのだ。
彼の遺体の安置された棺には、小さな壺のような小物を除き、他に何も入っていなかったとされる。
焼かれる棺から立ち登る煙は、長く長く、天上の世界に昇るかのように高く伸びていったとされる
帝国2000年の歴史の転換点における重要人物、ハンス氏は死後、現世との縁を切り、いったい何処の誰に会いにいったのだろう。