水の柱
自ら輝き物語を動かすすごい主人公を、彼女の隷属者として書かされたいなと思いました。よろしくお願いします。
物語は2030年という設定です。
ボール遊びをしながら、花の園を無邪気に踏み荒らす。
二人の親友と、小さな弟とともに。まあ私たちも小さかったのだけれど。空が茜に染まるまで。
地獄とは無縁の、楽しく、平和な日だった。
「そろそろ時間よ。帰りましょ」「えー」
従姉の呼びかけに、みこちゃんが口を尖らせる。弟も、エルシアも不満顔を隠さなかった。私だけが素直に言うことを聞いた。真っ先に駆け寄った。
だから。スマホの画面を凝視して、みるみる絶望に染まっていく従姉の顔を、間近で見る羽目になった。
彼女の父が。彼女の母が。
私の父が。私の母が。
優しかったあの人たちが。
あの時、あの瞬間から、心のバランスを取ることが、日に日に難しくなっていっている。奥底の怪物が、「私を出せ」と、ずっと、ずっと暴れている。
◇◇◇
あの子が、もっと早くに立ち上がっていれば。
もっと早くに、力に目覚めてくれさえいれば。
すでに過去。どうしようもないことを願いつつも、薄れゆく意識の中で、彼女はそう願わざるを得なかった。やがて命は絶える。永遠の闇に呑み込まれる。
痛みもなくなる。消えていく、はずだった。
しかし彼女は再び目覚めた。
整理整頓された、少女の小さな部屋で。
◇◇◇
「行ってきまーす」
「いってらっしゃい。小太郎も早く支度してね」「ウィース」
いつもの通学路を歩く。学校前の坂道を登る。
「でさー、回復アイテム買い忘れてて」「ドジだなぁ」
下駄箱から上靴を取り出す。教室に到着する。八時十五分。
「ゆっちー、はよ五百円返せしー」「えー。借りてたっけ?」
「ったくもー。そーいうんから友情って壊れるんよー」
カバンから教材を取り出す。数学のノートを携えた友人が、「おはよー」と近づいてきた。
「だから、列が一つも揃わない確率は7/12となるわけ」
捲れたシールが少しベタつく、みこちゃんのシャープペンシルを手放す。今時珍しい、アナログ文房具。時計を見た。八時二十分。もうすぐホームルームが始まる。
「ありがとねー。ここだけ分かんなくってさ」
「いいのよ。むしろ、みこちゃんの助けになれて嬉しいくらい」
「えへへ。おっと。天使の笑みに騙されるところだった。このくらいキリちゃんには朝飯前でしょ。数学オリンピック金メダル。弱冠十歳でとーけー検定一級合格の才女。えっと。とーけーなんてなんの役に立つのさ」
「収穫した数字を扱うのに統計学が使えないなんて話にならないわ。それに」
「それに?」「法知識と合わせて、バレない不正がしやすくなる」
「悪魔だ」
「あはっ。数字がウソかホントかなんて、まさしく悪魔の証明よ。測定誤差か、怠惰か悪意ゆえの人為的なミスか。ちょっとヴェールで覆えば誰にも判別出来なくなる。そのデータは間違ってると、噛み付く奴らは裁判で滅多撃ち。司法側には、せいぜい関係者の証言を聞いたり、コンピュータのログを洗ったりするのが関の山。そんなものは最初から織り込み済みなのよ。よほど杜撰にしなきゃ不正は発覚しないわ」
「悪魔だー。でもちょっと憧れる。キリちゃんくらい頭良かったらなー。ねえ、数学、特に確率って難しくない?」
「面白いじゃない、確率。不確かなものに、確かな数字を割り振れる。あやふやのあやふやさを数学で以って管理出来る。これほど頼りになるもの、他にそうそう思いつかない」
「いいじゃないかよー。あやふやならあやふやで」「ふふ。かもね」
そういう風に済ませてくれる人間が多くて楽。みこちゃんに笑みを返す。怖がられた。
ガラリと、教室の扉が開いた。先生が入ってくる。私たちの方、正確にはみこちゃんを見て、感心したように呟いた。
「良かった。上手くやれてるようで」「キリちゃんのおかげですな」
「私たち、小学校で一番の親友だったんです」「そうだったんだ」
親友、もう一人いたんだけれど。イギリスに帰ってしまった。彼女は元気だろうか。
キーン、コーン、カーン、コーン。
チャイムが鳴る。彼は頷き、教壇の上に赴く。
自席に戻るみこちゃんの背中には、デフォルメされた猫の顔がプリントされていた。未だに信じられない。
年の離れた従姉の都合でここに引っ越してきてから、彼女との楽しい日常がまた戻ってくるなんて、思ってもみなかった。
けれど、一週間前、今度は彼女が私の高校に移ってきた。
素直な気持ち、嬉しい。私は恵まれている。
電源を切っておくため、スマホを取り出した。そうだ、SNS通知の有無だけ確認しておくか。後ろから、みこちゃんに覗き込まれる。
「ごめんごめん、シャーペン忘れてて」「ああこれ? はい」
「ありがと。ホーム画面の猫ちゃん、かわいいね。いとかわゆし」
「ウチで飼ってる猫。マサコって言うの」「マサコ?」「マサコ」
「ふーん。猫飼ってたんだ」「言ってなかったっけ?」
「初耳。今度見に行ってもいいかな?」
「もちろん。メロメロになっちゃうよ。猫のヌマにハマるよ」
「キリちゃん。メロメロって言葉、なんかおぢさんくさいなー」
ショックな指摘だった。
苦手な音楽含む授業を終えて、帰路に着く。一人で。残念ながらみこちゃんとは、家の方向はまったく違う。道中、スマホの電源を入れた。
たくさんのメールのほか、メッセージやりとり用アプリ「WorkHorse」に三件の通知が来ている。一件はお従姉ちゃん、一件は弟から。「仕事で遅くなります」「友達の家で泊まるね」。今日も夕食は一人か。
ウチの保護者は従姉だ。お父さんもお母さんも、お従姉ちゃんの両親も、八年前、アメリカ西海岸、ロサンゼルスの近くで起きたテロに巻き込まれて死んだ。テロリストは未だに捕まっていない。
話し相手はマサコだけ。最近多い。少し寂しい。ディナーに誘ってやろうか。天久保とか。首をブンブン振る。そんなんじゃないったら。
通知のもう一件は、よく分からない。差出人「ユニ」。今月に入って三件目。スマホでSNSを使い始めてからだと百件を超える。「君は力を持っている」だの「目覚めよ」だの「時は来た」だの、胡散臭くて、イマイチ要領を得ない。
今回は、「奴らがやってくる」。
「『WorkHorse』の売りは、アカウント情報の機密性じゃなかったの?」
実害があるわけでもなし、放っておいているけれど。
マンション入り口の、セキュリティロックを解除した。エレベータに乗る。314号室、つまり自宅に入った。
洗面所で顔を洗う。短めの髪も少し濡れてしまった。拭う。鏡に映るその色は、真っ黒だ。しかし、なぜかは知らないけれど、十五センチと八ミリ弱より長く伸びた部分は、青みのかかった銀色になる。
お従姉ちゃんも弟も、綺麗な色だと言ってくれる。命にしか出せない青銀色だって。私も自分でそう思う。でも目立つから切っている。小学生だった時と比べて、染髪に対する世間の許容度はだいぶ緩くなった。とはいえ、奇特の目で見られるのは変わりない。
毛先を弄る。
「ニャー」「ただいま、マサコ。今日もかわいいでちゅね〜」
「ニャハッ」「最近よく笑うなあ。このこの。猫って笑うのかしら?」
夢中であやしていると、制服ポケットの中でスマホが揺れた。興が削がれる。
立ち上がる。取り出し、画面を見た。また「ユニ」からだ。
「『奴らがそこまで、やってきている』? なんなのよもう」
奴らって誰よ。無視だ無視。「WorkHorse」は、いつブロック機能を実装するのかしら。勝手に付けてやろうか。でも規約違反なんだよな、それ。
ありものでスパゲッティを作り、夕食とした。うん、食べられないことはないけれど、あんまり美味しくない。
テレビを点けた。面白いのか、イマイチ判断のつかないバラエティが流れている。「あはは」と乾いた笑いをあげた。あの芸人さん、初めて見たな。
食器を洗った。緩い学校の宿題でもしようと、自分の部屋に向かう。
外で、音が轟いた。重く、低く、空気が揺れた。
何事かとベランダに向かう。
海の方角に、巨大な水柱が立っていた。ビルでも象っているかの如く。
呆然としていると、肩に重みを感じた。マサコが乗っかってきたらしい。
「ちょ、こんな時に……」
そしてそのまま、マサコはベランダから飛び降りた。
手すりに飛びつき、下を眺める。マサコは無事に着地していた。脇目も振らず、水柱の方向に走っていく。
どうして。不安に駆られる。水柱を睨みつけた。ハッとなる。
そういえばあそこって、お従姉ちゃんが働いてるホテルの、近く。
奴らがやってくる。奴らがそこまで、やってきている。
ユニのメッセージが、後味悪く頭に響く。
「もう……っ。もう!」
いても立ってもいられずに、私もマンションの外に出た。
何かしらの形で読んだというシグナルを発していただければ、作者は泣いて喜びます。