プロローグ① 髪の毛は大事にしましょう
昼休み後の大学の講義は、この上なく眠気を誘う。さらに、これは言い訳でしかないけれど、教員の声質が穏やかで心地好いものだとなおさらだ。
自分ではそこそこ真面目であるという認識をしている、俺こと伊豆野卓也も普段なら例外じゃないんだけど。
「えー、このユングという人物は、えー、皆さんもご存じの通り、えー」
『bababababa』
(うわあ……)
えー、が口癖の教員の頭に張り付いてただでさえ残り少ないその髪の毛をむさぼる謎の存在が見えれば、眠気も吹っ飛ぼうと言うものだ。
主に、笑いのせいで。
昔の偉い人によれば、個性というものは他人と比較したときのちょっとした量の違いらしい。全員が共通した特性を備えていて、それぞれの数値が少しだけでも人より突出あるいは陥没していれば、それが個性になるそうだ。
その点で言えば俺の個性も割りと大したことはないのかもしれない。
人よりちょっとだけ目がよくて、ちょっとだけ変なものが見えているだけなんだから。
ただまあ、この変な個性が今俺に多大なダメージを与えていることは確かだ。
「えー、彼は当初、えー、フロイトの熱心な信奉者だったわけですが、えー」
『baribaribaribari』
(ンブフォッ!)
教員が頭を振ると、口に髪の毛を咥えたままでブオンブオンと謎の存在、毛むくじゃらで嘴みたいなのがある見た目の、多分妖怪は揺れる。恐らく、教員の毛根には深刻なダメージが入り続けている。
「この、えー、個人的無意識と、えー、普遍的無意識と言う無意識の捉え方が、えー」
『pepepebe』
こらえろがんばれ、笑うな俺。声に出すわけにはいかない。たとえ、妖怪が教員の髪の毛を吐き出して床に振り落としていてもだ。
「えー、彼はですね、えー、普遍的無意識下におけるイメージをですね、えー」
妖怪は、なにかに気づいたようで怒ったように、教員の髪の毛を、めくった。
めくったのだ。ずりんって。
そう、教員は、ズラだったのだ。
『pehu-』
そして、妖怪はやり遂げたという風に深く頷いて、消えていく。
だめだ、さすがに耐えられない。口から声が漏れでる。
「「ふはっ!?」」
誰かの声と重なった。
(誰だ今の?)
同じタイミングで、声を漏らした間抜けがもう一人。
50人くらいが収容できる講義室で、沈没せずに起きているやつなんて限られる。
パッと教室を見渡せばすぐに特定できた。
俺の所から、右斜め前に座っている女子の背中が震えている。
確か、あの人の名前は。
(佐伯さん、だったか)
グループワークで何度か一緒になったことがあった。
あとで、ちょっと探りをいれてみようか。