マッチ売りの少女③「マッチ売りの少女」
「私はアリスよ。さっきは驚かせてごめんなさいね。これ、私の服なんだけど、多分サイズ合うと思うから」
アリスは服を渡すと、カールした髪を手櫛で梳きながら苦笑した。
「あ、ありがとうございます……」
突如鏡の中から人が現れたという現象に、まだ心は追いついていなかったが、少女の中で見当はついていた。
服を着ながら、アリスの方を見る。見守るような微笑みで目の前に立っていることに、不安を覚えないではなかった。
「それにしても、珍しいわねえ……この家にお客さんが来るなんて」
ただ、よくよく考えれば怪しいのはお互い様、どころか素性も分からない女が他人の家で風呂に入っていた……所をその家の人に見られたという状況はよっぽどこちらの方が不審者だと、少女は気づいた。
そう思ってしまうと、不安は急速に襲ってきた。聞きたいことはたくさんあるが、相手も自分に聞きたいことはいくつもあるはず。どのように会話を始めるべきか、少女は悩んだ。
「えっと……今日からここで住み込みで働くことになりました。マッチ売りの少女です」
悩みに悩んで、まずは自分の素性を明かすのが先決だと考えた。
嘘は無い。これが事実。
少女が名乗ると、アリスは興味深そうに眺めながら頷いた。
「ええ、見て分かったわ。ただ依頼をしに来るでもなく助けを求めに来るでもなく、ただここで働くことになったというのが興味深いわ」
「えっと、それは……」
これまでの経緯を説明しようとしたところで、脱衣所の扉が開かれる。そこには、真浩が立っていた。
「急に叫び声が上がったから何かと思えば……まあ、お前だろうな。アリス」
「ふふ、ごめんごめん。お風呂入ろうとしたら、先客がいたものだから」
仲睦まじそうに話す、2人の表情が緩む。それを見た少女は、口を開けたままただ2人の会話を眺めていた。
「とりあえず全員居間へ来い。話が必要だろ」
「あ、はい……」
畳が床を埋める古風な和室。その中心のちゃぶ台を囲むように、3人が座った。
ニュースが流れていたテレビを消し、3人がお互いを見合う。
終始緊張気味の少女に、無表情の真浩。アリスだけが、笑顔を崩さずその場にいた。
「知っての通り、こいつはマッチ売りの少女だ。自分が【住人】であることを理解しているが、持ち主の記憶がさっぱりない」
「あら、そうなの?」
「はい……」
余裕を見せていたアリスが、話を聞いて驚き身を乗り出す。少女は気まずそうに、目を逸らした。
真浩の説明は、淡々と続く。
「このまま放置するわけにもいかん。かといって何か対処できるわけでもない。ひとまずうちでこき使ってやれば、大きな問題は起こらないだろう。その間に、アリスは情報収集を頼む」
「はいはい、分かったわ」
ウインクしながらのピースが、アリスから真浩に向けられる。そのままスルーされたアリスの様子を見る限り、このやりとりが定番なのだろうと、少女は察した。
「で、こいつはアリス。見ての通り【住人】だ」
「そして~、まひろの家族で~す♪」
ピースを2つ並べて、真浩の隣にもたれる。面倒くさそうにあしらわれるが、真浩がむりやりどけるようなことは無かった。
「家族……もしかして、ご夫婦、なんですか……?」
何気ない質問のつもりだった。緊張が解け始め、やっとのこと自分から言葉を持ちかけることに成功したと思っていた少女だったが。
真浩の表情が、これまでに見たことのない、嫌そうな表情をしていた。
隣のアリスはと言えば、お腹を抱えて机に突っ伏して笑っている。
「夫婦なわけねえだろ……なぁ」
「ひぃっ!? ごめんなさい、ごめんなさい! 気を悪くされましたか!?」
全力で手を振って降参の意を表す少女に、真浩も溜息で返す。
「大体、こいつは俺よりも相当年上だぞ」
「えっ!?」
「ちょっとぉ、そこまでじゃないわよ!」
アリスが膨らませた頬を、真浩が両手で押し込む。滑稽な音を出しながら、アリスの口から空気が漏れた。
「こいつ、俺が生まれるより前からここにいるぞ」
「そうなんですか!?」
「……もー、女の子の年齢をそんな簡単にバラそうとしないでくれる?」
「誤解されるよりマシだろ」
アリスがすっかり拗ねたところで、閑話休題。真浩が改めて少女に向き直る。
少女もアリスに対して聞きたいことはまだまだあったが、一度飲み込んで姿勢を正した。
「お前の記憶は俺が責任をもって取り戻してやる。仕事だからな」
「あ、ありがとうございます……」
「その代わり、しばらくはここで働いてもらう。明日の朝、起きたら早速取り掛かってもらう。先輩としてアリスも一緒に付き添ってやってくれ」
「はいは~い♪ 久々にこんなかわいい子と一緒にお仕事出来て、私も光栄よ~」
「か、かわいいだなんて、そんな……」
「だーって、いつもはそこの人相悪い男の子しかいないんだもん」
「悪かったな」
真浩に睨まれたアリスが、きゃーっと怖がる素振りを見せながら少女に抱きつく。その実まったく怖がっていないどころか、楽しそうな表情をしているのは、顔を見なくとも少女にはわかった。
人間性が分かってくると、緊張もすっかり綻ぶというもので。
「真浩さん、女の子には優しくしてくださいね」
「俺はなにもしてないんだが……」
少女にも、冗談を言える余裕が出来始めていた。
「そういえばまひろ。この子の名前は?」
「マッチ売りの少女だって言ったろ」
「もう、そうじゃないわよ。そのままだと呼ぶのに困るでしょう?」
「あ……そう、ですよね……」
マッチ売りの少女という作品には、少女の名前は一切登場しない。少女という呼称が、一貫して使用されている。
少女自身、自分の名前を思い出そうにも、設定されていないものを頭に浮かべることは不可能だった。
「まひろ。決めてあげたら?」
「俺がか?」
真浩が少女の方を向く。自分が決めるよりも、女子同士、あるいは自身で決めさせた方が良いのではないか。そう想っていたが、いささか少女は満更でもないようだった。
「お願いしても……いいですか?」
「まあ、構わんが、後悔するなよ」
「はい。大丈夫です」
他人に決めてもらうことに、意味があるから。少女は言葉を続けなかった。
「適当に名前つけたりしないでよね?」
「じゃあマッチ売りの少女だからマチ子な」
「言わんこっちゃない! そんな名前で女の子が喜ぶとでも……」
「はいっ、よろしくお願いします!」
「えぇ……」
マチ子は溢れんばかりの笑顔を、真浩に向けた。