マッチ売りの少女①「マッチは要りませんか?」
御伽街。所々に八百屋や鮮魚店などの商店が並び、地元の人間が行き交う。
下町の風景がいまだに残るこの地には、ある特殊な文化が根付いていた。
“絵本を大切にすると、いつか自分の元へ恩返しに来る”
一見すると、子どもが本を粗末に扱わないための常套句である。
しかし、それが大人の優しい嘘などではなく、現実に起きているというのが特殊な文化と言われる所以である。
あるところでは、年老いた女性に寄り添って生活する赤鬼が。
またあるところでは、子どもたちと遊ぶ兎と亀が。
これらは持ち主に大切にされた絵本たちが、恩返しに来て願いを叶えに来た図である。
こうして人間は絵本を大切に、絵本は人間を大切に。お互いを思いやることが、この街の特長である。
そんな御伽街の中心には、1軒の古い書店がある。2階建ての木造建築が、両隣の建物に挟まれるように建っており、この街を特に懐かしい雰囲気にさせている。
入口前にいくつか置かれたワゴンには、格安の文庫が並び、薄暗く狭い店内には、足の踏み場以外は棚も壁も本で埋め尽くされている。
店内奥のカウンターには、ボサボサの髪を肩まで伸ばした、目つきの悪い男が座っている。
ここ、「烏屋書店」の店主、烏屋真浩である。
真浩は溜息を吐きながら、面倒くさそうにカウンターの向こうへと視線を落とす。
「……で、何の用だって?」
カウンターの向こうには、赤いフードとセーター、スカートに身を包んだ少女がバツが悪そうに立っていた。
「その……マッチ、要りませんか……?」
左腕にはバスケットを提げ、中には大量のマッチ箱が入っている。
どういうわけか、真浩の元に「マッチ売りの少女」を名乗る少女がマッチの訪問販売に来ていた。
「要らん」
「ひっ……そ、そうですよね……すみませんでした!」
身長差もあってか、真浩の冷たい視線は少女に重圧としてのしかかった。
カウンターの上に1箱だけ置かれたマッチ箱をバスケットに戻し、マッチ売りの少女は深々とお辞儀をする。
そしてそのまま踵を返そうとしたところで、再度真浩の低い声が少女の耳にのしかかる。
「誰が帰って良いって言った?」
「ひぇ……ご、ごめんなさい……」
訳も分からず怯え謝ることしかできない少女は、次に何を言われるか想像もつかないまま、肩を震わせて必死に涙をこらえていた。
「とりあえず、何でマッチ売りの少女がわざわざ人ん家まで出向いてマッチ売ってんだ」
「それは、その……いくら歩いている人にマッチを売ろうとしても、誰にも見向きもしてもらえないって、わかっているので……」
縮こまった肩に、少し力が入る。少女の表情は、どこか寂しげだった。
マッチ売りの少女というものの境遇を、真浩も知らないわけではない。それを察してか、真浩もひとつ溜息を吐いて、面倒くさいという感情を少し抑えた。
「お前、【住人】だろ?」
「【住人】……?」
「何だ、知らないのか?」
少し驚いたような表情を見せると、真浩はカウンター横から店内へと入り、少女の真横に立った。
真浩が立ってからの身長差は更に開き、人相の悪い大男に迫られた少女は石像よろしく全身に力を入れて固まった。
「ほれ」
真浩が少女の頭に手をぽん、と置く。
「んっ……」
すると、少女の前に1冊の本が半透明になって浮かび上がる。表紙には、「マッチ売りの少女」と書かれている。
驚いたように目を見開いて、少女は本と真浩を交互に眺める。
「これがお前の本体だ。マッチ売りの少女という絵本から、お前が具現化されてここにいる。そういうお前みたいなのを、【住人】というんだ」
「そ、それは分かります……私は、マッチ売りの少女で……マッチを売るように言われて、でも売れなくて……」
「最後に死ぬ」
「……はい」
自身の一生を思い返して、少女は俯いた。しかし、真浩はいたって冷静に話を続ける。
「だがそんなことは今重要じゃない」
「えっ」
「この街では、持ち主に大切にされてきた絵本が恩返しのために持ち主の元へとやってきて、願いを1つ叶える文化がある」
「は、はぁ……」
その場でしゃがみ、少女と目線を合わせる。真浩の真剣な眼差しに、少女はたじろいだ。
「お前の持ち主は誰だ?」
「……分かりません」
「分からない?」
しばらく沈黙が続き、本の匂いを鼻が思い出し始める。少女の言葉を待てど、少女は言葉を続けることができない。真浩の言葉を待てど、真浩の顔をしっかりと見ることはまだできない。
1分もないはずの長い沈黙を経て、口を開いたのは真浩だ。
「詳しく聞かせてもらおうか。お前がいつこの街で目覚めて、何を目的に歩き回っていたのか」
明確な答えが用意できる質問に安心したのか、少女は少しだけ肩の力を抜いて、呟くように語り始めた。
「目覚めたのは、多分数日前です。自分がマッチ売りの少女で、私が絵本になっていることまではわかっているんですが……それ以外のことは、全く記憶がないんです」
「記憶喪失か」
「はい……でも、私にできることはマッチを売ることくらいなので……売っているうちに、何かわかるかと思って……」
言葉を返さず、しばらく真浩は考えを巡らせる。少女も真浩の言葉を待ち、沈黙を続けた。
「持ち主に何かあったか、それとも本自体に何か問題が起きたか……無い話ではないが、ここまでの記憶喪失は珍しい……原因がわからねえな」
「そう、ですか……」
もうひとつ、大きなため息をついて、真浩は考えるのをやめた。立ち上がり、少女を見下ろし、目を合わせる。
「お前、しばらくうちで住み込みで働け」
「え……?」
きょとん、と目を丸くする少女に、真浩は続ける。
「うちはお前みたいな【住人】を手助けするためにある。面倒だが……これも代々やってきたことなんでね」
「良いんですか……?」
「何度も言わせるな。とりあえず、何日も彷徨ってたんなら、風呂も入ってないだろ。沸かしてきてやるから、適当にその辺の本読んでろ」
「あ、はい……ありがとう、ございます……」
廊下の奥に消える真浩を、少女はしばらく眺めていた。